第2話 回帰の先には

 歩き続けるおばあさんの先には橋がかかっている。

 欄干から下を覗くと、雨で水かさの増した川が、遥か下を流れているのが見える。欄干の隙間へベビーカーを押すおばあさん。


『僕は悪く無い。最初にいじめたあいつが悪いんだ!』

 彼は中3の夏休みからずっと、学校に行ってない。

 それまでは成績も良い方だった。もちろん高い月謝の塾の効果かもしれないが、彼は自分が優秀だから、と思っている。

 だからその気になればいつでも大検に通るし、仕事だってできるに決まってる。

 だがもうすぐ50歳になるのにまだ通信制高校すら卒業していないし、コンビニバイトもしたことは無い。

 家族や世界が寝静まった夜中3時~5時位が1番安心できる。

 だからこっそりと家を抜け出して願掛けに行った。

 いつまでもこのままで良いとは思っていない。

 が、どうしても抜け出せない迷路の中に居るようで脱出できない。

 いっそこのままでずっといたいと思う。だから彼の願ったことは

『幸せだった赤ちゃんに戻って、ずっとそのままで居ること』だった。

 赤ちゃんの頃は母親の愛情をただ受けるだけで、勉強しろとか仕事しろとか追いたてられることも無かった。

 毎日美味しいご飯やミルクを飲んで健康でいれば、母親も満足気にしていた。

 大人なんてつまらない。

 ずっと赤ちゃんのままでいたい!


 彼が50歳になる前日の夕刻に、彼の母もまた同じ神社に願掛けに来ていた。

『1人息子が中学からずっと引きこもったままで、将来が心配です。どうかよそ様の子供を傷つけたり事件を起こさないように、私の力でも制御できる弱さにしてください』


 彼が50歳になった日の朝、奇跡が起こった。

 いつものように母親が朝ごはんをお盆に載せて彼の部屋の前に置くと、ドアが開いていた。

 こんな事はこの55年間ほとんど無かったことだ。

 母親はとても驚いて部屋に入ってみた。

 するとそこには赤ちゃんがいた。

「○○!」

 すべてのパーツが赤ん坊なみに小さくなっていたが、その顔は紛れもなく昨日までの息子と同じだった。

 だから母には分かった。

「神様が願いを叶えてくれたんだわ」

 息子は顔つきは元のままなのに、言葉は赤ちゃん言葉しか話せないようだった。

 だから最初のうちは

「ふざけてないでちゃんと話しなさいよ!」と、母親は怒っていたが

「何食べるの?」と聞いた時に

「まんま」としか言えないのがわかり怒りは収まった。

 その日1日母親は幸せだった。

 まるで孫ができた気分だった。


「あらあら、シーシーしたのね。オムツしましょうね」

 この母親は何でも物を捨てられない人だったので、いつか使うかも、と物置にしまっておいたオムツが役にたった。

 また新生児用のベビーカーも発見した。


 無意識にお漏らしをしてしまった上に、無理やり服を脱がされ大事な部分を母親の目に晒し、彼はとても恥ずかしかった。

 それこそ顔から火が出るほどに。

「あらあら、暑いのかしら。お顔が真っ赤ね」

 しかし赤ちゃん言葉しか出ないし、母親は嬉々としてプレイを続けるし、よく考えたら自分は赤ちゃんなんだからお漏らしも何も当たり前だ、と彼は開き直ることにした。


 その日1日ずっと、平和で幸せな時間が続いた。

 母親は思った。

『クソババア! とか言うくらいなら、何も話せない赤ちゃんの方がずっといいわ』

「(ずっとお風呂にも入らないで匂いが気になってたから)今日はお風呂に入ってキレイキレイにしましょうね」

 彼も思っていた。

『風呂に入るの面倒だったし、何よりも服を脱いで裸になるのが嫌だったから(1番無抵抗に殺られるパターンだし)、ちょうど良かったな』

『どうせ赤ちゃんなんだから、何もかも任せっきりにして当然だしな。楽勝楽勝』


 幸せな時間は、夜にかかってきた1本の電話で恐怖に変わった。

「ああ、もしもし。お父さんだけど、明日の昼に帰るから。昼ご飯は

 軽い物でいいよ」

 母親は思った。

『なんと説明したら良いか?』

『これからどうしたら?』

『父親が帰ってくる前に決行しなければならない』

 電話を切ってから母親が息子の顔を見ると、彼は何もわからないようにケラケラと笑っていた。

『息子には鏡を見せてないから彼は気がついてないが、サイズが小さくなっただけで顔や皮膚の弛みは中年のそれだから、冷静に眺めてみたらとても怖い。父親に見せたらその場でバケモノ呼ばわりされてもおかしくない。なんとかしなくては』

 次の日も朝から雨が降っていた。幸い霧雨だったので、朝ごはんの後に母親は出かける事にした。

「ずっと室内に居て退屈だったでしょう。気晴らしにお散歩しましょうね」

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