さらばシュメール人〜ウル第三王朝の終わり〜(紀元前2094年〜紀元前2004年)
都市国家を平定し、アッカドからエラム人を追い出してシュメール人による統一メソポタミアのが誕生した。新しい一大領域国家は法典を作って王の責務を拡大し、国家の権力をより強いものへと変えた。アッカドにおいて軍政を敷くなど理性的で実際的な統治は、長きに渡るウル第三王朝の繁栄を支えたであろう。
・シュメール人の栄華
紀元前二千九十四年に即位した二代目国王シュルギは、ウル第三王朝の最大版図と、最大国力を築き上げた古代メソポタミア屈指の名君だった。紀元前二千九十四年に王に就任したシュルギは、外征を繰り返しつつ諸制度の改革に努め、現代から見ても目を見張るほどの高度なシュメール社会を創り上げた。
シュルギはまず文書による行政を整備した。文書や度量衡の統一を行い、統治の方法も貢納制にして、統一会計システムも整備された。つまりバラバラだったものを統一し、統治効率を引き上げたということだ。コーカサス山脈のフルリ人などと戦うために、常備軍も作ったとされる。
シュルギのウル第三王朝はエラム人領域であった現フーゼスターンからイラク北部まで支配圏を拡大した。その領土にはエラムの中心都市スサも含まれている。
ウル第三王朝はシュメール・アッカド地方を中心地域として、アッカド王朝以前の都市国家の自治体制を残したまま、彼らに「バル義務」を課した。バル義務とは、ニップルにおいて最高神エンリルをはじめとする神々に奉仕することを指す。また王に対して貢納や穀物も負担した。封建体制に近い。
シュメール人の国家ではあったが、土壌の塩化著しいシュメール地方からアッカド地方に国家の中心は移りつつあった。その証拠に、バル義務が課せられた都市はアッカド地方の方が多い。
そしてウル第三王朝は周辺の諸国を貢納関係によって結びつけ、その領域はシリアからイラン中部にまで及んだ。西方に対しては寛容な条件での貢納が行われ、王朝建国時以来のライバルであるエラム人地域(東方)に対しては圧力をかけての貢納関係が結ばれた。
軍事的には拡大を続けていたものの、少しずつ外圧が激しくなりつつあった。北部、中部メソポタミアに移住したカナン語族の牧畜民族であるアムル人(聖書にはアモリ人、エモリ人)がやってきてウル第三王朝への侵入を繰り返したため、現代のバグダード北方八十キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁工事を開始した。マルトゥの壁である。経緯から考えて、これはシュメール版万里の長城と言えるかもしれない。
シュルギはアッカド王朝の最大領域を築いたナラムシンと同じく、自らを神と名乗った。王の神格化はこの後も継承されることになる。
またシュルギは長距離走が得意だったらしく、ニップルからウルまで百六十キロ以上の距離を走ったと言う。「ウル第三王朝のチャンピオン」でありながら、「長距離走チャンピオン」でもあったらしい。シュルギの治世は四十八年間続いた。
・混乱するウル第三王朝
シュルギが死ぬと、二人の息子が間で王位を巡って激しく対立した(親子説もある)。当初王位についていたのはアマル・スエンだったが八年後にクーデター、政変が起こり、王位はもう一人の息子シュ・シンに移った。とはいえこれを示す明確な証拠がなく、クーデター説は疑問視されている。
何はともあれ王位についたシュシンだが、偉大な父(祖父説もある)に対して、ほとんど功績は知られていない。彼の治世の間に北、西からの牧民アムル人の侵入が激しくなった。
西からのアムル人の脅威に加えて、建国以来のライバルである東方のエラム人も脅威だった。今のところ支配下にあるものの、いつ反乱を起こすか分からない。この危機的な状況は結局改善されることなく、イッビ・シンへと王権が移った。
・歴史の闇へ
イッビ・シン王の時代には、シュメール地方の塩化は一層ひどくなり、シュメール初期王朝時代と比べると半分以下にまで生産量が落ち込んでいた。農産物の減少は国力の減退に直結する。特に彼の治世六年目から始まったウルの飢饉は甚大な被害をもたらし、穀物価格は六十倍にまで跳ね上がったという。さまざまな要因からメソポタミア、特にシュメール地方の都市はもはや機能を失いかけており、ラガシュをはじめとして次々と廃墟になっていった。
またマルトゥの壁が存在していたにもかかわらず、西方からやってくるアムル人の移住を止めることはできなかった。メソポタミアはもはやシュメール人の土地ではなく、彼らと交じり合い、この後のシュメールは独自の言語を失っていく。シュメール人という区分そのものが言語、居住地に由来するものであるために、言語を失ったシュメール人はもはやシュメール人と見なされなくなった。後世において突然シュメール人が消えたように見えるのはこのためであり、決して彼らが宇宙人だとか、アヌンナキ神や惑星ニビルが云々とかいうことはないのである。きっと。
危機的な食糧不足とアムル人の侵入という二重苦を抱えたイッビ・シン王は、アムル人すら登用するようになった。現に彼の治世の十七年目はアムル人の年とされ、都市を知らぬ強力な蛮族たる彼らを、ウルの王イビシンは服属させたとされている。マリ(都市)出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をニップル南西の都市イシンへ派遣した。
しかしイシュビ将軍は落ち目のウル第三王朝を裏切った。紀元前二千十七年、イシュビ・エラはイシン独立を宣言し、イシン第一王朝が始まった。メソポタミア初のアムル人王朝である。
もはやウル第三王朝はボロボロであった。国家の中枢は飢饉と塩害で壊滅し、侵入してくるアムル人を抑えられず遂には都市を奪われてしまった。ウル第三王朝建国当初からのライバルが、これを見逃すはずがなかった。
ウル第三王朝に従属していたエラム人が、再び襲いかかってきたのである。紀元前二千四年、イッビ・シンは捕らえられ、行方不明になった。
・シュメールの物語は続く
ウル第三王朝の崩壊を目の当たりにしたイシン第一王朝のイシュビは、シュメール語の王碑文を残すなど、彼らの高度な文明の後継者を自認していた。しかし使われる言語はシュメール語からアッカド語へと移り変わり、シュメール人というアイデンティティは消失する運命にあった。
しかし彼らの残した技術と文化は世界各地へと広がり、現代までその偉大な名残を残している。また彼らの神話はギリシャやローマへと形を変えて受け継がれ、やがてはユダヤ教やキリスト教の元にすらなった。
それは別にシュメール文明でなくても起こりえたことなのかもしれないが、少なくとも現代社会で起こりうるほとんど全て、彼らの時代には起こっていたと言えるだろう。
さて、メソポタミアの四つの地方名のうちシュメールとアッカドは既に民族、国家の名称として登場した。
残りの二つもあと少しで登場するのだが、その前に他の人類文明にも触れておかねばなるまい。
エジプト、インダス、黄河の諸文明である。
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