文明の勃興(紀元前5500年〜)

 古代文明の代名詞といえばシュメール人である。エジプト人はまた別でやる。シュメールとはもともと歴史的地域名だ。メソポタミアを南北に割ったとき、北部をアッシリア、南部をバビロニアと呼んだ。バビロニアはさらに南北に分かれており、北部をアッカド、南部をシュメールと呼んでいた。


・文明以前のメソポタミア


 シュメール人について語る前に、それまでのメソポタミアについて触れておこう。メソポタミアとはギリシャ語で二つの川の間の土地を意味する。具体的には、西アジアのチグリス川とユーフラテス川の流域地方、現在のイラクあたりのことを指す。

 紀元前五千五百年ごろから三千五百年ごろまで、メソポタミアにはウバイド人と呼ばれる民族が暮らしていた(その前にハラフ人というのもいたが割愛)。彼らは川から水を引っ張ってきて行う灌漑農業を行い、銅器や葦舟を作ったとされる。しかし文字の使用は無かった。

 メソポタミア南部はチグリス、ユーフラテス川の氾濫による湿地帯があり、鉱物資源は無かったものの、大変肥沃な土地だった(注1)。

 だからこそウバイド人は運河を造り、高機能な農具を開発し、灌漑も行なって都市を発展させた。シュメール王名表によれば人類最初の王権が存在した都市であるエリドゥもこの時代に生まれたとされる。

高機能な農具や家畜による農耕生まれた余剰農産物を輸出し、金属などメソポタミアでは取れない貴重な物資を輸入した。彼らの集落の中心には神殿があり、宗教的儀式も行なっていた。

 また彼らは土器を造る時に「ろくろ」を使用したと言われ、同様の原理で紀元前五千年前以前に車輪が発明されたとされる。車輪から水車が発明され、灌漑や粉ひきなどに使われた。粉にした小麦粉を水でとき、薄くのばして焼いて食べたとされる。これはアジムと呼ばれるピザ状の食べ物で、冷たくて硬い無発酵パンだ。ここから私たちのよく知るパンに発展していったのである。更に荷車の発明により物資の運搬が簡単になった。

 

 イラク南部のテル・アル・ウバイドというちでウバイト人の遺跡が発見されている。この地は遺丘と呼ばれ、同じ場所に何度も繰り返し集落や都市が築かれ、それが層になってて丘のように盛り上がった状態の遺跡となっている。

 彼らの文明は経済や文化などソフトパワーを通じて平和的に広まった。女系文化であったとも言われている。首長システムが確立されたのもこの時代である(明石茂生 2015)。

 紀元前三千五百年ごろから、海水面が低下しメソポタミアの気候が乾燥してきた。ウバイト人はこの地を捨てて何処かへ行ってしまった(ロイド 2012)。



・シヴィライゼーション


 ウバイト人が去った後、メソポタミアに住み着いたのがシュメール人だった。どこからどのようにして現れたかは不明だ。誤解されがちだが、シュメール人とはシュメール語を話す人々のことを言う。日本人やアメリカ人のようなある特定の民族というわけではない。だから突然どこかからやってきたというより、シュメール語を話すようになった人々が現れ始め、それを総称してシュメール人と呼ぶようになっただけかもしれない。


 さて、シュメール人はメソポタミアに現れるや否や、楔形文字の開発や六十進法、太陰暦をはじめとした多数の文化的、技術的、社会的功績を残した。


 発掘調査によって、楔形文字やそこから発展した文字を綴った石碑や粘土板が数多く出土している。それら古代文字が解読されることで、古代史や神話をより深く理解されるようになった。特にペルシアのザグロス山脈で発見されたぺヒストゥン碑文(時代は今解説中の時代よりだいぶ後の紀元前数百年ごろ)や、チグリス川上流にあるニネヴェ遺跡で発掘された粘土板が有名である。前者はギリシャの歴史家ヘロドトス(世界最古の歴史家?)の記述と一致しており、後者はシュメールの英雄ギルガメシュの冒険記としてよく知られるようになった。


 また彼らは数字の表記にも大きな痕跡を残している。六十進法だ。

 今日の私たちは一時間を六十分、一分を六十秒としている。これはそのまま六十進法の考え方だ。何故六十なのかといえば、数割り算をするのに最も便利だからである。百までの自然数だと、六十,七十二,八十四,九十,九十六 の五つが、約数(その数字を割り切れる数)12個で最大である。この中で区切りがよく、最も小さい数字が六十なのだ。

 

 シュメール人は二院制議会を持ち、学校や就活が存在したなど、文明があまりに高度であった。そのためか、シュメール人宇宙人説が真面目に議論されたことがある。その理由として考えられるのは、彼らの宗教観がもっぱら星に関するものであったことだろう。

 シュメールの神々は毎年一月一日に集まって、その年の運命を定める。干ばつや洪水といった災害から、豊作や軍事作戦の成功といった幸運まで、全てはこの日の神の決断によるもので、それ以外は全て「星」によって決められているとシュメール人は信じていた。だからこそ彼らは占星術や天文学に長けており、多くの遺産を現代まで残している(ロイド 2012)。まずは太陰暦だ。

 太陰暦とは月の満ち欠けを利用した暦のことで、新月の日を一日として、月の新月までを一月とする。新月から新月までを平均すると、29日12時間44分03秒のため、おおよそ三十日で一月が終わることになる。実際に月を見て決める場合と計算で求める場合があるが、シュメールの暦は後者だと思われる。というのもシュメールの暦は恐ろしく正確で、二万五千九百二十年かけて地球の地軸が円を描くという歳差運動の周期ですら知っていたとかいないとか。

 そして彼らは水星、金星、火星、木星、土星の存在を知っており、それらが幸運や悪運をもたらすと信じていた。例えば火星は戦争をもたらし(英語で軍神マーズと同名で呼ぶのはこれが理由)、金星は愛をもたらす(英語で金星を美の女神ヴィーナスと同名で呼ぶのは、ギリシャ神話が元。そしてその元がシュメールである)などといったふうだ。

 シュメール人は週の五日間をこの不規則に動く五つの星に捧げ、太陽と月を足して七日で一巡するようにした。これが今現在でも一週間が七日である元なのだ。英語だとSaturdayはSaturn(土星)に捧げられており、月や太陽も同じだ。火曜から金曜まではフランス語の方がわかりやすい(塩野七生1992)。


更に紀元前二千五百年ごろになると、周辺の都市国家と戦う必要性から、牛馬に引かせる荷車に人が乗れるようにした戦車チャリオットが造られた(注2)。戦車は後に世界各地で改良され、シュメール、ヒッタイト、イスラエル、アッシリア、エジプト、ペルシャ、ローマ、インド、中国まで広まった。ギリシャのファランクスが現れるまで、古代世界一強の兵器として軍事力の象徴とされた。


円を一周360度と定めたのはシュメールだであり、1フィートや1ダースの原型を作ったのもシュメール人だ。さらに今では当たり前となった『右から左に行く連れて一つ上の桁を表す数字の表記法』である位取り記数法を生み出したのもシュメールだ。もはや、彼らこそが文明を作り上げたといって過言ではない……かもしれない。


【注釈】


1.現代の中東を見れば分かる通り、メソポタミアは雨量が少ない。だからこそ短い草は短いスパンで生えて腐ってを繰り返す。すると土壌が肥沃になる。メソポタミアがかつて肥沃だった理由は、おそらくこれだったのではないだろうか。


2.チャリオットについては、拙作『軍事戦略の教科書』の、ファランクス以前やカデシュの戦いに詳しい(ステマ)。

 

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