暗雲立ち込めた空の下(19万5000年前〜)
原人は世界各地へ広がり、いくつかの場所で旧人へと進化した。旧人の時代が到来してから十五万年後のアフリカで、新人であるホモ・サピエンスが現れた。誕生したその瞬間から旧人との熾烈な生存競争に晒された我々の祖先、ホモ・サピエンス。
大きな試練も訪れて、一時は絶滅するかに思われた。しかし彼らは負けることなく、旧人との生存競争を勝ち抜いて行く。
・ただ少し先進的なだけの……
旧人の楽園に異端者が現れたのは、今から約十九万五千年ほど前だった。我らが祖先ホモ・サピエンス・サピエンス(賢い人の意)がアフリカに現れたのである。この学名は分類学の父ことカール=フォン=リンネによって名付けられたものだ。
なおホモ・サピエンスというとネアンデルタール人などの旧人も含むので、厳密にはサピエンス・サピエンスとするのが正しい(本作を含め普通はホモ・サピエンスと簡略化して記述してしまうが)サピエンスが増えるなんて違和感があるかもしれない。しかし、ニシローランドゴリラの学名なんてゴリラ・ゴリラ・ゴリラなんだから、それに比べれば大したことはない(中高生ならホモ・サピエンス・サピエンスはテストに出るから出来れば知っておこう)。
アフリカに生まれたばかりホモ・サピエンスは、他の人類と特別大きな差があるようには見えなかっただろう。
確かに原人と比べれば進んだ知能を持っていたものの、この時点ではまだ特出した種ではなかった。数ある人類の新種に過ぎなかったのである。変わった点といえばひたいがせり出さなくなったことと、やや細身な体躯くらいだった。
・ホモ・サピエンス絶滅の危機
ホモ・サピエンスは生息域をアフリカ全域に広げたが、思わぬ試練に襲われてた。『何らかの要因』で個体数が千人〜一万人まで減少してしまったのだ。
近年の遺伝子研究の発達によって、地球上の全人類はアフリカにいたひとつの系統の子孫であることが裏付けられた。と同時に、今日生きている人類の遺伝子配列はあまりにも多様性を欠いていることが判明した。大半の哺乳類の遺伝子配列は、人類より遺伝的多様性に富む。例えばチンパンジーは、私たちの十倍のバリエーションがある。
遺伝子はその名の通り遺伝情報を伝えるために存在しており、個体差を生み出す要因だ。遺伝的多様性がないということは、個体差が非常に小さいということを意味する。ホモ・サピエンスは何らかの要因によって一度個体数が激減した。結果として良く似た遺伝情報を共有するようになったのだろう。(注1)。
では何がホモ・サピエンスの個体数を減少させたのだろうか。そもそも個体数が減らなければボトルネック効果は小さく、遺伝的多様性はある程度維持されたはずである(注1)。
この謎は考古学者や科学者の探究心を駆り立ててやまない課題だ。
支持を集める一つの仮説として、七万五千年前にインドネシアのスマトラ島で起こったトバ火山の大噴火を挙げることができる(注2)。
この噴火が地球にもたらした最も驚くべき影響は寒冷化である。火山灰が空を覆い尽くし、わずか二、三年で気温は十〜十五度も低下した。これが初期のホモ・サピエンスに壊滅的な打撃を与え、個体数を激減させたのだろう。
同時にこの噴火は、今のところ地球最後の氷河期の引き金となったのだ。
・出アフリカしたら偶然にも親戚と出会えた件について
トバ火山の噴火から遡ること二万五千年前、今から約十万年前にホモ・サピエンスは一度アフリカを出ている。イスラエルのスフール遺跡やカフゼー遺跡など、中東に彼らが暮らしていた証拠が見つかったのだ。
この一団はトバ火山の噴火などを要因として絶滅してしまった。それでもわずか三万五千年後、今から六万五千年前に彼らはもう一度アフリカを出た。
一度激減しながらもホモ・サピエンスは勢力を持ち直し、再び旅に出るだけの力を蓄えたのだ。
今度は一万五千年をかけてアジアやオーストラリアへ到達し、旅は成功を収めた。この偉業を聖書にある出エジプトから取って、出アフリカと呼ぶ。
そして彼らは長い旅路の果てに、遠い親戚と遭遇するのだった。
出会いの相手はネアンデルタール人、変わらない大きさの脳と強靭な肉体を持った旧人である。
・ネアンデルタール人並みの知能
かつてのイメージでは、ネアンデルタール人は知能の低い野蛮人だった。しかし最近の研究によって彼らは私達のさして変わらない知能を持っていたことが判明している。
彼らには壁画を描く能力もあったとされ、文化と呼べるものもあったかもしれないのだ。
それどころかネアンデルタール人は我々と同じく言葉を話した可能性がある。(詳しくは補足で)
「ネアンデルタール人並みの知能」という、かつての罵倒が褒め言葉に変わる日も遠くはない……かもしれない。
ネアンデルタール人は我々に負けず劣らず賢かったのに、どうしてサピエンスとの生存競争に敗れたのだろうか。
答えは前頭葉(脳の前方部)の大きさにある。霊長類は前頭葉が大きいほど大きな群れを作ることが進化心理学者によって解明された。そしてホモ・サピエンスはネアンデルタール人よりも前頭葉が大きかった。
「ネアンデルタール人が百人の共同体を基本として暮らしていたなら、ホモ・サピエンスは百五十人の共同体は基本としており、さらに他の共同体との交易など社交性豊かに暮らしていた」とオックスフォード大学のある研究者は言う。コミュ力の差が両者の明暗を分けたのだ。
また既に北方に暮らして長かっただろうネアンデルタール人に、ホモ・サピエンスが熱帯から持ち込んだ新種の病原菌や寄生虫が感染してしまい、彼らの絶滅を早めたとする説もある。
こうして我々は、他のホモ属を吸収、又は駆逐して世界各地へ広がっていった。しかし今もネアンデルタール人は我々の中で生き続けている。別に比喩的な意味ではない。我々の遺伝情報にはホモ・サピエンスサピエンスの他に、ネアンデルタール人とデニソワ人の血が流れているのだ(注3)。詳細は次回へ回すとしよう。
【注訳】
1.ボトルネック効果。遺伝情報は、生物集団(遺伝子プール)が少数であればあるほど均質化しやすい。これは血液型を考えてもらうと良い。O型とO型の子は必ずO型になるといったことから、血液型は世代を継ぐごとにO型ばかりになっていく……いや、もちろん『遺伝子頻度』などの関係でそんなことはないのだが、細かいことを無視して考えるとO型が増える続けることになる。何故ならO型になる組み合わせが最も多いからだ。少数の集団だとすぐに全員がO型になってしまうだろう。ネイティブ・アメリカンは少数のO型の集団から増えたために、実際にO型の人が殆どになっている。
同じような理由で、遺伝子も少数の集団では均一化しやすくなるのだ。これをボトルネック効果と呼ぶ。少数の集団においてボトルネック効果が発揮された結果、現在の我々は遺伝的多様性が少ないのだ。
2.地学研究者によれば、トバ火山の噴火は火山爆発指数の最大値カテゴリー8の大噴火だった。このカテゴリーの噴火は、地下のマグマが一気に放出されることから破局的噴火という別名が付いている。Wikiによれば有珠山の大規模な噴火は火山爆発指数指数2、雲仙岳が3、桜島が4、富士山の宝永大噴火が4だ。この指数は1上がるごとに噴出物が十倍になるので、トバ火山の噴火は有珠山の百万倍の規模だったという事だ。
ちなみに現在でもインドのある地域には、トバ火山の火山灰が六メートルの深さまで積もっている。
3.ネアンデルタール人と話せたのか? ネアンデルタール人はFOXP2という遺伝子の配列が我々と同じだということが判明した。FOXP2とは言語の起源として近年注目されつつある遺伝子である(この遺伝子に変異がある家系では発話に障害が見られ、現生の霊長類で唯一ヒトのFOXP2だけが特別な配列を持っているため)。
よって彼らも我々と同じく会話ができたかもしれないのだ。
ちなみにネアンデルタール人が仮に言葉を話したとして、ホモ・サピエンスと意思疎通した可能性は低い。喉の大きさの違いから、ホモ・サピエンスと同じ言語体系にはならなかっただろうとも推測されているからだ。
補足・人間のミトコンドリアDNAが男性から遺伝されないことを利用して、女性のそれを遡っていくと、アフリカのイヴ(ミトコンドリア・イヴ)に行き着くとされる。人類アフリカ起源説の根拠の一つだ。
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