其之終 約義の証
赤壁の戦いから三十年。魏の
遼東の反乱を平定し、
司馬懿は
「実は昨年のことになりますが、火見様がご
榊はその字体の通り、古代から神木とされる。難升米はそれを司馬懿に差し出した。それはまだ青々としており、鮮やかな緑色を葉の隅々にまで
「おお、それは感謝する」
それを聞いて司馬懿の顔がほころんだ。三十年前、倭国の一行が訪れた時に息子が生まれ、火見にそれを告げられたことも覚えている。
司馬懿に待望の初孫ができたのは二年前のことである。
「孫には〝炎〟と名付けた」
司馬懿の孫、
「炎とは珍しい名でございますな」
「赤壁の大火を忘れるなという火見の言葉が頭から離れなくてな……。あれは油断が失敗を招くという
司馬懿はそう言って、また記憶を過去に
「武帝はその心に火を宿しておられたそうだ。私は孫に武帝を超えるような大人物になってほしいとの願いを込め、火を二つ重ねた名を選んだ」
孫の命名の由来を語りながら、司馬懿は自身の心に
司馬懿の言う〝武帝〟とは曹操の
曹操は劉備との約束通り、赤き宿命を全うして、ついに
曹操の死後、息子の曹丕が漢の
遠い昔、
赤の次には黄色の宿命が巡ってくる。そんな
「なるほど。そんな意味があったのですか」
「武帝に聞かれたら、叱られてしまうかもしれないが。いや、武帝は初めて会った時から私の心を見抜かれていた。今頃、太陰の向こうで笑っておられることだろう」
司馬懿は曹操という
これだけ曹操を意識するのにはもちろん理由があって、それが曹操自身から
「――――オレは昔、ある人物に『乱世の
曹操はそう言った。国がよく治まっていれば、有能な官僚として生涯を送ることになるだろうが、いざ国が乱れた時は自分が覇者となるべく野望に生きる――――。
曹操は司馬懿の才能を認めると共にその野心を見抜いていたのだ。曹操はそれを知りながら司馬懿を
司馬懿はそれから過去を懐かしむかのように、赤壁の戦い後の経緯を語って聞かせた。
曹操から赤火珠を託された
蜀漢は初代皇帝の劉備がすでにこの世を去っており、二代目の
明らかな政略結婚ではあるが、
曹操はそれを聞いて、劉備に手渡した天運がもたらしたらしい相当な歳の差婚を笑ったものだが、孫劉同盟の強化には
吉事もあれば、凶事もある。赤壁の戦いの後、戦に関わった数多くの人間が相次いで死んだ。劉備側では
江東でも、大黒柱の
曹操側では
曹丕は曹操の政才を、
曹沖の死も荊州での疫病が原因かもしれず、曹操は自分を
赤壁の戦いの後、青龍爵を入手した孫権は
一方、荊州の半分を支配した劉備は、続いて蜀を治め、孔明が理想とした天下三分の世界が現実となった。諸葛孔明は蜀の丞相となって、劉備に後事を託されて
この孔明の前に立ち
魏の明帝の期待を受け、司馬懿は直接的に、時には間接的に孔明の北伐を防いだ。
孔明の恐ろしさをよく知る司馬懿は防御を固め、積極的に戦うことを極力避けた。補給が困難な蜀軍の弱点を突く形で持久戦を採って、その度に蜀軍を撤退に追い込んだのである。そして、魏の青龍二(二三四)年、秋八月――――。
諸葛孔明は五度目の北伐で司馬懿と対陣中、
司馬懿は孔明が死んだと知って、好機到来とばかり蜀軍を追撃したが、そうなることを予期して孔明が
「――――まこと孔明は天下の奇才なり。我の及ぶところにあらず」
孔明という巨星が
「孔明を失って、武帝が劉備を生かした気持ちがよく分かる」
ライバルの存在は自身を発奮させる良い材料になる。司馬懿は孔明死後、互角に渡り合う相手を見出せず、消沈気味であった。
「生かした……ですか」
「昔話のついでにお尋ねしますが、三十年前の約義はまだ生きていますでしょうか?」
「約義?」
「実は三十年前、曹操様は倭のために特別な
曹操は赤壁の戦いから
金印を得て帰国する火見に曹操が告げた。
「――――十年の後にまた来るがよい。その時には金印に代わる宝を授けよう」
しかし、帰国後、
漢の後ろ盾を得たことを示す金印の効果は
「我等は火見様に代わる使者を遣わしたのですが、遼東の公孫氏に
「おお、思い出した。忘れられてはいない。武帝はずっとそのことを気に掛けられておられた。そして、
「それを聞いて安心致しました。我等も曹操様の下さる宝物がどんなものか見てみたかったのです。再び陛下から金印を賜わり、曹操様の仰っていた宝物を得ることができれば、きっと戦を鎮められましょう」
「倭の戦乱は収まっていないのか?」
「三十年前に漢の金印を得、一旦卑弥呼様のもとに収束致しました。ですが、漢が滅びて、金印の正当性がなくなってしまい、南の
難升米が倭の実情を語った。狗奴国は邪馬台国の南方にあり、
「背後に呉の影響があるはずだ」
「よくご存じで。狗奴は呉と貿易を通じて武器を輸入しておりまして、我等にとって大きな脅威になりつつあります」
都市牛利が狗奴国と呉の関係性を司馬懿に話した。狗奴国は海路で呉と通じる。
「呉の孫権は我等の背後を脅かすために公孫淵に通じ、倭とも接触を図ろうとしている。狗奴はそれに乗ったのだろう。それに対抗するために、そなたたちは魏との連携を強めたいのだな?」
「お察しの通りでございます」
都市牛利が頭の回転が速い司馬懿に感服するように頭を下げた。難升米が言った。
「司馬懿様にはお伝えしておきましょう。実は我々は呉にも向かう予定なのです」
「何、呉へ?」
「はい。邪馬台こそが倭の正統な国家であることを主張し、狗奴と手を切るよう説き伏せるよう仰せつかっております」
「無事に務まるとは限らんぞ」
「あの戦いの折、火見様は呉の姫と会話を交わす機会がありました。全くの無関係というわけではありません。火見様の書簡を持ってきていますから、
「ふ~む。我等としても、呉のいいようにさせるつもりはない。公孫淵は敗れ、呉の奸計も破れた。この機会に使者を遣わして臣従を促してみるのもよかろう。早速上洛して、そのことも
司馬懿が言って、
景初二(二三八)年、十二月。司馬懿たちは
司馬懿は三日ほど休息を取るつもりでいたのだが、そこに急使がやってきて、司馬懿に
「陛下から? いったい何事だ?」
司馬懿はすぐさまそれを開いた。読んで色を失った。皇帝の
「何ということだ……」
現皇帝の
曹叡には子がいない。養子が二人いるが、どちらもまだ幼く、もし
「どうしたのですか?」
難升米が聞いたが、極秘事項である。司馬懿はそれに答えず、老体を走らせた。
難升米たちも走って続く。司馬懿は自分の馬車に乗り込もうとして、ふと足を止めた。振り返って、難升米に聞く。
「……そう言えば、そなたたちはあの後、泰山から倭に帰ったと聞いた」
「はい。我等は
火見と難升米たちは許都を後にして、再び曹彰の護衛を得て、泰山へ向かった。
かつて泰山で大きな霊能力を得たという母・
火見たちは命を
爺禾支は
曹彰は
「……聞いた。麒麟の力は火見に宿っていたのだな」
司馬懿は麒麟の行方がずっと気にかかっていた。一度は自分の中に宿った力である。神器を祀ることを使命とし、領土拡大の力としようとする孫権はどうやって知り得たかは分からないが、神器が倭にあると
「そなた、今、麒麟の神器を持っていないだろうな?」
司馬懿が
「申し訳ございません。あれからというもの、我等は一度として麒麟を見ておりません」
「……そうか」
司馬懿は小さな溜め息を吐くと、普通の馬車に乗り込んだ。窓から顔を出し、
「私は一足先に都へ戻る。難升米は同乗せよ。都市牛利らは後で上洛するがよい」
そして、司馬懿と難升米を乗せた馬車が勢いよく駆け出て、
司馬懿は昼夜兼行で洛陽へ急ぎ、三日余りで皇帝のもとへ駆けつけた。
「陛下、司馬懿が拝謁致します」
「仲達か。近くへ参れ……」
曹叡は弱弱しい声で司馬懿を病床へ呼び寄せた。顔は青ざめ、目元には深い
「はっ。無事に遼東を平定して参りました。もう陛下の御心を
司馬懿は
病は気から、という。不安や悩みなどから弱くなった気を強め、それを保つことができれば、病気を体から追い出すこともできる。今は亡き名医・
「そのことについては何も心配はなかった。そなたは
曹叡も曹操の司馬懿評も
「陛下、弱気なことを思うのはお
その司馬懿の言葉を曹叡がどう思ったか。しかし、司馬懿の心は決まっている。
司馬懿が
「……いや、天地は
「お気を強く。あと数日すれば、倭国の使者が朝貢品を
言いながら、司馬懿は己の失態に目を閉じた。朝貢品の屠蘇酒は他の朝貢品と一緒に都市牛利たちが運んでいる。自分が一緒に持ち帰っていれば……。
「……そうか」
曹叡が軽く息を吐き、目を
「陛下、その倭国の使者のことで、一つお教え頂きたいことがあるのですが……」
司馬懿はこの謁見で是非聞いておかねばと思っていたことを口にした。
「……申してみよ」
「はい。昔、武帝が倭国の使者のためにある宝物を用意されたそうでございます。三十年も前の話ではございますが、此度の使者はそれを
それを聞いた曹叡は
「……父に聞いた。
「ははっ」
司馬懿は畏まってその命を受け、退殿するとすぐにその雲台へと足を運んだ。
雲台はかつて漢の都であった洛陽の宮中に存在した楼閣である。宝物庫も兼ねていたが、旧洛陽は董卓の乱の時に焼失して、宮殿は全て
元々、洛陽があった盆地は山と河に囲まれ、地勢に優れていただけでなく、黄河と
独り地下宝物庫に潜った司馬懿はすぐに地気をたっぷりと吸い込んで、微かな霊気を放つそれを見つけた。
――――倭の国の火見の功績に
「畏まりました」
司馬懿は太陰の曹操に深い拱手で応えた。
翌日、倭国の使者・難升米が魏帝・曹叡に謁見を果たした。決して病状が回復したわけではなかったが、それでも曹叡は最後の帝務だと無理をして、
「遠路遥々の朝貢、大義である……」
曹叡はもう口を利くのもやっとであったので、司馬懿が傍らに立って代弁した。
そして、卑弥呼のために「親魏倭王」の金印
「親」の字を用いるのはかなりの好待遇を意味する。魏に朝貢する諸外国の中でも、この「親魏」を用いた
「さらに武帝から先の戦いにおける功労を評して、特別の恩賞がある」
司馬懿も火見のことを忘れたことはない。それは亡き曹操も同じであった。
赤壁の戦いにおける火見の功績に報いて武帝・曹操からの下賜品として授けられたのは、青銅の神獣鏡であった。
それは
ここに難升米は火見の予言通りに霊験を授かり、魏との関係を確かなものにしたのである。これだけの好待遇を受けたのは魏が戦略上倭国を重視したからなのはもちろんのこと、曹叡の祖父である曹操の時代から日見(卑弥呼)やその娘の火見、難升米ら倭人との
曹沖死後、曹操はその代わりとするように曹丕の子・曹叡を
年が明け、景初三(二三九)年、正月。曹叡は崩御した。
その夜。司馬懿の屋敷――――。
司馬懿は眠れずに
『……皆、太陰へ行った。私はいつまで……』
ふと、司馬懿の心に
『御孫ができたというのに、何を申されるのですか……』
どこからか声を聞いた。直接自分の頭に響くような女の声だ。
司馬懿は闇の中にその声の主を探した。ふと天から明かりが差し込み、年老いた司馬懿の顔を微かに照らした。
目元の
雲間に
『お久しぶりでございます……』
麒麟の車を御していた少女がそう言って、音も立てずに車から降り立った。
赤いラインの化粧を
「おお、火見ではないか……」
老人の司馬懿が夢幻の中に少女姿の火見を見た。火見の体がゆらめいて、時がないことを知らせた。火見は手を差し出してそれを告白した。
『お別れを告げに参りました……』
「別れ?」
『はい。人は宿命を背負ってこの世に生れて参ります。そして、その宿命に生き、その宿命に死ぬのです……』
最期の思念を霊獣に託し、それを司馬懿に届けた火見。彼女もまた使命を終え、新たな世界へと旅立つ。
『この世とあの世はまこと太陽と月、魏と倭の関係のようでございます。私も太陰へ行かなければなりません。司馬懿様、ごきげんよう……』
微かな輝きを放っていた火見の体からゆっくりと光が失われて、闇に溶け込んでいく。司馬懿の手にあった燭台の
「火見……!」
司馬懿が見守る中で火見の体も消えてなくなった。麒麟もまたその姿を分解し、その跡に
「宿命か。そうだな……」
嘆息はなかった。司馬懿は暗くなった庭を独り歩いて、火見が届けたそれを手に取った。ずっしりとした重みが手に伝わる。同時にまた曹操の言葉が
『――――お前はオレだ』
曹操がやり残した遺業――――天下を統一し、太陽界に平和と安定をもたらすこと。司馬懿はまだ生きて、それを継がねばならない。己の宿命を知った司馬懿は天を仰いで、火見との昔日の出逢いを回想した。
「昔、そなたと出逢い、良き占断をもらった。今の私があるのも、そなたのお陰だ。礼を言うぞ……」
三十年前、運命に導かれるように海の向こうからやってきて、今、夢幻の彼方へと去って行った
「また会おう」
司馬懿は最後に
完
三国夢幻演義 火見の赤壁 光月ユリシ @ulysse
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