其之終 約義の証

 

 赤壁の戦いから三十年。魏の景初けいしょ二(二三八)年、九月半ば――――。

 遼東の反乱を平定し、玄武硯げんぶけんという神器を奪還した司馬懿は幽州刺史の毌丘倹かんきゅうけんと一軍を残して、帰還の途に就くことになった。

 司馬懿は難升米なそめ都市牛利たしごりの二人を伴って、城閣の上から帰還準備を整える軍の様子を見守っていた。難升米は出立を前に、司馬懿に火見から託されたものを贈った。

「実は昨年のことになりますが、火見様がご神託しんたくを授けられ、司馬懿様に御孫が誕生されたと知りました。此度我等が訪魏した目的の一つは司馬懿様にそのお祝いを申し上げるためでございます。これは火見様から預かったさかきの枝葉です。御孫様の無病息災を祈って、火見様自らが清められました」

 榊はその字体の通り、古代から神木とされる。難升米はそれを司馬懿に差し出した。それはまだ青々としており、鮮やかな緑色を葉の隅々にまでたたえている。

「おお、それは感謝する」

 それを聞いて司馬懿の顔がほころんだ。三十年前、倭国の一行が訪れた時に息子が生まれ、火見にそれを告げられたことも覚えている。

 司馬懿に待望の初孫ができたのは二年前のことである。

「孫には〝炎〟と名付けた」

 司馬懿の孫、司馬炎しばえんは後に魏を滅ぼし、司馬氏の王朝〝しん〟を打ち建てることになる人物である。

「炎とは珍しい名でございますな」

「赤壁の大火を忘れるなという火見の言葉が頭から離れなくてな……。あれは油断が失敗を招くといういましめの言葉だと思っていたが、いざ孫の名を考えていた時にまた思い出した。それから、私が初めて武帝に拝謁した時のことも思い出した。ちょうどあの時に火見やそなたと出会ったのだったな……」

 司馬懿はそう言って、また記憶を過去にさかのぼらせつつ、話を続けた。

「武帝はその心に火を宿しておられたそうだ。私は孫に武帝を超えるような大人物になってほしいとの願いを込め、火を二つ重ねた名を選んだ」

 孫の命名の由来を語りながら、司馬懿は自身の心にくすぶる野心の火を意識していた。

 司馬懿の言う〝武帝〟とは曹操の諡号しごうである。が、皇帝になったわけではない。

 曹操は劉備との約束通り、赤き宿命を全うして、ついに簒奪さんだつは行わなかった。

 曹操の死後、息子の曹丕が漢の献帝けんていから禅譲ぜんじょうを受けて魏を建国し、父の曹操に魏の皇帝として、改めておくりなしたのだ。

 遠い昔、熹平きへい四(一七五)年に曹操の故郷、はいしょう県に黄龍が現れたという報告があった。この時代は様々な天象と人間の行為は相応(天人相応)すると解釈されたが、これは黄龍――――黄色の徳を有した皇帝(曹丕)の誕生を預言したものだったのだ。

 赤の次には黄色の宿命が巡ってくる。そんな五行相生ごぎょうそうしょう説の考えを採って、魏は黄色をシンボル・カラーとし、元号を〝黄初こうしょ〝とした。方角では、黄色は中央に対応する。それゆえ、魏の都も国土の中央である洛陽へ戻した。

「なるほど。そんな意味があったのですか」

「武帝に聞かれたら、叱られてしまうかもしれないが。いや、武帝は初めて会った時から私の心を見抜かれていた。今頃、太陰の向こうで笑っておられることだろう」

 司馬懿は曹操という稀代きだいの英雄に魅了され、感化された。特に曹操が死去していなくなってしまった後、その思考を重ねてみたり、行動を真似まねてみたり、とにかく曹操を意識することが多くなった。

 これだけ曹操を意識するのにはもちろん理由があって、それが曹操自身からたまわった評価である。それは琴線きんせんに触れて、ずっと司馬懿の心を震わせているのだ。

「――――オレは昔、ある人物に『乱世の奸雄かんゆう、治世の能臣のうしん』だと言われたが、お前もそのたぐいだな」

 曹操はそう言った。国がよく治まっていれば、有能な官僚として生涯を送ることになるだろうが、いざ国が乱れた時は自分が覇者となるべく野望に生きる――――。

 曹操は司馬懿の才能を認めると共にその野心を見抜いていたのだ。曹操はそれを知りながら司馬懿を重用ちょうようした。司馬懿もその恩義に応え、忠勤に励んだ。

 司馬懿はそれから過去を懐かしむかのように、赤壁の戦い後の経緯を語って聞かせた。


 曹操から赤火珠を託された劉備りゅうびは赤壁の戦いから時を置かずして荊南諸郡を攻略し、衡山こうざんにそれを封乾した。曹操も劉備との約義を守り、その後の十余年を漢王朝の維持に努めた。曹丕の代になり、漢が魏にとって代わられても、蜀漢しょっかん季漢きかん)という形でその命脈を保っているのは赤火珠せっかじゅ封乾ほうけんが未だ天運を与えているということなのだろう。

 蜀漢は初代皇帝の劉備がすでにこの世を去っており、二代目の劉禅りゅうぜんの時代になっている。その劉備であるが、赤壁の戦いの後、孫権そんけんの妹・孫尚香そんしょうこうと婚姻した。

 明らかな政略結婚ではあるが、魯粛ろしょくの頭にひらめいた孫劉同盟強化策が成ったのである。そして、これは司馬懿の知るところではないが、この婚姻で結納ゆいのうの品として、神器の一つである青龍爵せいりゅうしゃくが劉家側から孫家側に譲渡された。その見返りに孫権も妹婿むこを荊州牧(荊州長官)と認め、劉備はようやくここに基盤の地を得たのである。

 曹操はそれを聞いて、劉備に手渡した天運がもたらしたらしい相当な歳の差婚を笑ったものだが、孫劉同盟の強化には懸念けねんいだいて、自らのめい孫匡そんきょうに嫁がせる方策を採った。

 吉事もあれば、凶事もある。赤壁の戦いの後、戦に関わった数多くの人間が相次いで死んだ。劉備側では劉琦りゅうきが三十代で病に倒れ、急逝きゅうせいした。

 江東でも、大黒柱の周瑜しゅうゆが三十六という短い生涯を終え、孫匡もまた若くして死んだ。

 曹操側では曹純そうじゅん史渙しかんが相次いで世を去った。どれも陰陽の戦いで陰気に体を侵された者ばかりである。そして、何より曹操を悲しませたのは、愛息・曹沖そうちゅうの死だった。

 曹丕は曹操の政才を、曹彰そうしょうは武勇を、曹植そうしょくは詩文を、曹沖は知謀をそれぞれ受け継いだ。中でも、曹操は知謀の才を一番色濃く受け継いだ曹沖をこよなく愛した。

 曹沖の死も荊州での疫病が原因かもしれず、曹操は自分をのろうしかできなかった。逆に、天に愛された曹操はその後しばらく寿命を得た。胡公酒ここうしゅの効能なのか、本当に劉備が衡山で曹操の長寿を祈ってくれたのかはわからない。。

 赤壁の戦いの後、青龍爵を入手した孫権はしきりに合肥がっぴを攻めた。それはその北の龍亢りゅうこうを目指しての行動だった。龍亢は青龍爵の坤禅地である。合肥を抜かなければ、龍亢に辿り着けない。しかし、今のところ、それは叶っていない。

 一方、荊州の半分を支配した劉備は、続いて蜀を治め、孔明が理想とした天下三分の世界が現実となった。諸葛孔明は蜀の丞相となって、劉備に後事を託されて八面六臂はちめんろっぴ、その命運を一手に担った。孔明は劉備の遺命、蜀の存在意義である漢朝再興の大願を成就じょうじゅするために五度の北伐ほくばつを敢行し、魏を大いに悩ませた。

 この孔明の前に立ちふさがったのが司馬懿である。この頃、すでに魏の国内では、孔明に対抗できるのは司馬懿のみであると論調が極まっていた。

 魏の明帝の期待を受け、司馬懿は直接的に、時には間接的に孔明の北伐を防いだ。

 孔明の恐ろしさをよく知る司馬懿は防御を固め、積極的に戦うことを極力避けた。補給が困難な蜀軍の弱点を突く形で持久戦を採って、その度に蜀軍を撤退に追い込んだのである。そして、魏の青龍二(二三四)年、秋八月――――。

 諸葛孔明は五度目の北伐で司馬懿と対陣中、五丈原ごじょうげんの地に没した。享年五十四。

 司馬懿は孔明が死んだと知って、好機到来とばかり蜀軍を追撃したが、そうなることを予期して孔明がのこした伏兵策に敗れ、〝死せる孔明、生ける仲達を走らす〟の故事を生むことになる。蜀軍に逆襲されて、何とか生還した司馬懿は嘆息して言った。

「――――まこと孔明は天下の奇才なり。我の及ぶところにあらず」

 孔明という巨星がち、この後、蜀は急速に勢いを失う。魏は蜀の脅威がなくなって、ようやく目障めざわりこの上ない公孫淵こうそんえん討伐の軍を起こすことができたのである。

「孔明を失って、武帝が劉備を生かした気持ちがよく分かる」

 ライバルの存在は自身を発奮させる良い材料になる。司馬懿は孔明死後、互角に渡り合う相手を見出せず、消沈気味であった。

「生かした……ですか」

 はばかりながら難升米が過去に交わした約束について尋ねる。

「昔話のついでにお尋ねしますが、三十年前の約義はまだ生きていますでしょうか?」

「約義?」

「実は三十年前、曹操様は倭のために特別な宝物ほうぶつを下賜されることを約束してくださいました」

 曹操は赤壁の戦いから許都きょとに帰還した後、火見の功績をたたえると共に卑弥呼ひみこのために「親漢倭王」の金印を授けた。元々、倭の使節団は漢から倭王の公認を受けることを目的として来漢していたので、それで目的は達成されたわけである。

 金印を得て帰国する火見に曹操が告げた。

「――――十年の後にまた来るがよい。その時には金印に代わる宝を授けよう」

 しかし、帰国後、邪馬台国やまたいこくの重職に就いた火見が再び海を渡ることはなかった。

 漢の後ろ盾を得たことを示す金印の効果は覿面てきめんで、卑弥呼は倭国の女王として各国から承認された。これらの承認を取り付けるために奔走したのが難升米たちだった。彼らも倭の国々との調停に忙しく、あっという間に三十年の歳月が流れてしまった。

「我等は火見様に代わる使者を遣わしたのですが、遼東の公孫氏にはばまれ、ずっと上洛できずにおりました。もうあの時の約義が失われていても仕方のないことですが……」

「おお、思い出した。忘れられてはいない。武帝はずっとそのことを気に掛けられておられた。そして、遺言ゆいごんで文帝(曹丕)にそのことを託されたのだ。文帝も同じ様に陛下に託された。上洛して陛下に謁見すれば、おのずと分かるはずだ」

「それを聞いて安心致しました。我等も曹操様の下さる宝物がどんなものか見てみたかったのです。再び陛下から金印を賜わり、曹操様の仰っていた宝物を得ることができれば、きっと戦を鎮められましょう」

「倭の戦乱は収まっていないのか?」

「三十年前に漢の金印を得、一旦卑弥呼様のもとに収束致しました。ですが、漢が滅びて、金印の正当性がなくなってしまい、南の狗奴くぬ国が従わなくなりました。手を打たなければ、それに追従ついじゅうして離反する国が出るかもしれません」

 難升米が倭の実情を語った。狗奴国は邪馬台国の南方にあり、卑弥弓呼ひみきゅうこという男王が治める国である。

「背後に呉の影響があるはずだ」

「よくご存じで。狗奴は呉と貿易を通じて武器を輸入しておりまして、我等にとって大きな脅威になりつつあります」

 都市牛利が狗奴国と呉の関係性を司馬懿に話した。狗奴国は海路で呉と通じる。

「呉の孫権は我等の背後を脅かすために公孫淵に通じ、倭とも接触を図ろうとしている。狗奴はそれに乗ったのだろう。それに対抗するために、そなたたちは魏との連携を強めたいのだな?」

「お察しの通りでございます」

 都市牛利が頭の回転が速い司馬懿に感服するように頭を下げた。難升米が言った。

「司馬懿様にはお伝えしておきましょう。実は我々は呉にも向かう予定なのです」

「何、呉へ?」

「はい。邪馬台こそが倭の正統な国家であることを主張し、狗奴と手を切るよう説き伏せるよう仰せつかっております」

「無事に務まるとは限らんぞ」

「あの戦いの折、火見様は呉の姫と会話を交わす機会がありました。全くの無関係というわけではありません。火見様の書簡を持ってきていますから、無碍むげに扱われることもありますまい」

「ふ~む。我等としても、呉のいいようにさせるつもりはない。公孫淵は敗れ、呉の奸計も破れた。この機会に使者を遣わして臣従を促してみるのもよかろう。早速上洛して、そのこともあわせて陛下に申し上げよう」

 司馬懿が言って、馴染なじみの彼らのためにそれを約した。

 

 景初二(二三八)年、十二月。司馬懿たちはぎょうに入って軍を休め、休息を取った。難升米にとっては三十年ぶりの、都市牛利にとっては初めての大都市の光景である。

 司馬懿は三日ほど休息を取るつもりでいたのだが、そこに急使がやってきて、司馬懿に勅令ちょくれいを差し出した。

「陛下から? いったい何事だ?」

 司馬懿はすぐさまそれを開いた。読んで色を失った。皇帝の直筆じきひつで書かれたそれは、

 ちん病篤やまいあつし。司馬懿は急ぎ帰還し、上殿せよ――――という危急を知らせるものだった。

「何ということだ……」

 現皇帝の曹叡そうえいあざな元仲げんちゅうという。曹操の孫、曹丕の子で、まだ三十代の半ばである。司馬懿が洛陽を出立する前は壮健そうけんであったのに、この急変ぶりには驚かざるを得ない。

 曹叡には子がいない。養子が二人いるが、どちらもまだ幼く、もし崩御ほうぎょしたとなれば、魏の安定が急激に揺らぐことになりかねない。誰が皇帝を継ぐかによっては、お家騒動が勃発ぼっぱつする可能性だってある。そうなったら、倭国との関係がどうなるかも分からないし、たった今、難升米に語ったばかりの曹操の宝物の件も忘れ去られるかもしれない。曹叡はそういうものがあること自体、幼い息子たちに教えていないだろう。

「どうしたのですか?」

 難升米が聞いたが、極秘事項である。司馬懿はそれに答えず、老体を走らせた。

 難升米たちも走って続く。司馬懿は自分の馬車に乗り込もうとして、ふと足を止めた。振り返って、難升米に聞く。

「……そう言えば、そなたたちはあの後、泰山から倭に帰ったと聞いた」

「はい。我等は麒麟きりんに乗って海を渡ったのでございますよ」

 火見と難升米たちは許都を後にして、再び曹彰の護衛を得て、泰山へ向かった。

 かつて泰山で大きな霊能力を得たという母・日見ひみ足跡そくせきを辿ろうとしたのだ。

 火見たちは命をつかさどる山だとされる泰山の山頂に爺禾支やかし遺灰いはいいてその冥福を祈った。

 爺禾支は徐福じょふくの子孫と公言していたから、祖先の地にほうむられたことにきっと満足しているに違いない。火見の心に爺禾支と母を想うせつない気持ちがあふれた。それに反応してか、火見の体から突如黄色い気が吹き出て、麒麟が出現した。そして、火見たちを乗せると、再び天を駆けたのである。

 曹彰は唖然あぜんとして突然の別れを見送ったものだ。

「……聞いた。麒麟の力は火見に宿っていたのだな」

 司馬懿は麒麟の行方がずっと気にかかっていた。一度は自分の中に宿った力である。神器を祀ることを使命とし、領土拡大の力としようとする孫権はどうやって知り得たかは分からないが、神器が倭にあるとにらんで、倭と接触を図っていることにも気付いていた。

「そなた、今、麒麟の神器を持っていないだろうな?」 

 司馬懿がかすかな期待を胸に聞いた。その力があれば、赤壁の戦いの時に江水を渡って江陵へ帰還したように、瞬時にして洛陽へ帰ることができる。

「申し訳ございません。あれからというもの、我等は一度として麒麟を見ておりません」

「……そうか」

 司馬懿は小さな溜め息を吐くと、普通の馬車に乗り込んだ。窓から顔を出し、

「私は一足先に都へ戻る。難升米は同乗せよ。都市牛利らは後で上洛するがよい」

 そして、司馬懿と難升米を乗せた馬車が勢いよく駆け出て、土煙つちけむりを上げた。


 司馬懿は昼夜兼行で洛陽へ急ぎ、三日余りで皇帝のもとへ駆けつけた。

「陛下、司馬懿が拝謁致します」

「仲達か。近くへ参れ……」

 曹叡は弱弱しい声で司馬懿を病床へ呼び寄せた。顔は青ざめ、目元には深いくまが刻まれており、呼吸も薄い。相当具合が悪いのは一目瞭然だった。

「はっ。無事に遼東を平定して参りました。もう陛下の御心をわずらわす賊はおりません。心安く休まれますよう……」

 司馬懿はひざまずいたまま、長年頭痛の種であった公孫淵を取り除いたことを報告して、曹叡を何とか元気付けようとした。

 病は気から、という。不安や悩みなどから弱くなった気を強め、それを保つことができれば、病気を体から追い出すこともできる。今は亡き名医・張仲景ちょうちゅうけいの言だ。

「そのことについては何も心配はなかった。そなたは太祖たいそが認めた英雄であるから……。心配なのはこれからのことだ……」

 曹叡も曹操の司馬懿評も狼顧ろうこの相のこともを知っている。自分が死に、司馬懿はどう動くのか。忠臣の道をつらぬくのか、それとも、奸雄として目覚めるのか――――。

「陛下、弱気なことを思うのはおひかえください。陛下はまだお若いのです。療養に専念されれば、きっと病もすぐにえましょう」

 その司馬懿の言葉を曹叡がどう思ったか。しかし、司馬懿の心は決まっている。

 司馬懿があこがれた曹操は最後まで漢臣としての立場を貫いた。司馬懿もまた、生涯魏の臣下として仕えるつもりである。

「……いや、天地はきわまること無くも、人のめいには終わり有り。朕はもう長くない」

「お気を強く。あと数日すれば、倭国の使者が朝貢品をたずさえ、上洛して参ります。朝貢の品の中には薬草を浸した屠蘇酒とそしゅというものがあり、年初に一口飲めば、体の邪気をはらい、寿命を延ばすということでございます。倭国の女王・卑弥呼もそれで長生を得ていると聞きました。まさにこれは天が陛下に賜われた贈り物でございますぞ」

 言いながら、司馬懿は己の失態に目を閉じた。朝貢品の屠蘇酒は他の朝貢品と一緒に都市牛利たちが運んでいる。自分が一緒に持ち帰っていれば……。

「……そうか」

 曹叡が軽く息を吐き、目をつぶって答えた。間に合うかどうか。だが、その情報を聞き、司馬懿の言葉が本心であることを感じ取った曹叡はいくらか元気を取り戻したようだ。その表情が微かな希望にやわらいでいる。そこで、

「陛下、その倭国の使者のことで、一つお教え頂きたいことがあるのですが……」

 司馬懿はこの謁見で是非聞いておかねばと思っていたことを口にした。

「……申してみよ」

「はい。昔、武帝が倭国の使者のためにある宝物を用意されたそうでございます。三十年も前の話ではございますが、此度の使者はそれを所望しょもうのようでございます。何かご存じありませんでしょうか?」

 それを聞いた曹叡は瞑目めいもくしてまどろみの中、記憶を辿った。そして、薄らと目を開く。

「……父に聞いた。雲台うんたいの地下にその霊宝を安置していると……。仲達よ、そなた行って確かめて参れ」

「ははっ」

 司馬懿は畏まってその命を受け、退殿するとすぐにその雲台へと足を運んだ。

 雲台はかつて漢の都であった洛陽の宮中に存在した楼閣である。宝物庫も兼ねていたが、旧洛陽は董卓の乱の時に焼失して、宮殿は全て灰燼かいじんと帰した。

 元々、洛陽があった盆地は山と河に囲まれ、地勢に優れていただけでなく、黄河と嵩山すうざんから湧き出す陰陽の気が交わる強力なパワー・スポットであった。そのために漢はそこを都と定めたのである。一旦は廃墟はいきょとなってしまったものの、曹操は漢を維持する上で、洛陽の再建を始めた。その時、雲台も再建され、魏は建国と共に新生した洛陽へ都を戻したのである。

 独り地下宝物庫に潜った司馬懿はすぐに地気をたっぷりと吸い込んで、微かな霊気を放つそれを見つけた。かたわらには封を施された朱塗しゅぬりの木箱があり、その中に死せる曹操からの命があった。それを開いて、中にあった曹操の遺言に目を通す。司馬懿の目に威厳に満ちた英雄の顔が、耳にその重みをはらんだ声が甦るようであった。

――――倭の国の火見の功績にむくいて、この霊宝を卑弥呼に授ける。当日の年号を刻み、天下太平を分け与えよ――――

「畏まりました」

 司馬懿は太陰の曹操に深い拱手で応えた。


 翌日、倭国の使者・難升米が魏帝・曹叡に謁見を果たした。決して病状が回復したわけではなかったが、それでも曹叡は最後の帝務だと無理をして、嘉福殿かふくでんで難升米を迎えた。

「遠路遥々の朝貢、大義である……」

 曹叡はもう口を利くのもやっとであったので、司馬懿が傍らに立って代弁した。

 そして、卑弥呼のために「親魏倭王」の金印紫綬しじゅと銅鏡百枚を下賜した。

「親」の字を用いるのはかなりの好待遇を意味する。魏に朝貢する諸外国の中でも、この「親魏」を用いた冊封さくほうを受けたのは、西の大月氏だいげっし国と東の倭国だけであった。〝綬〟は金印に付けられたひものことだが、中でも紫綬は高い格式であることを意味した。

「さらに武帝から先の戦いにおける功労を評して、特別の恩賞がある」

 司馬懿も火見のことを忘れたことはない。それは亡き曹操も同じであった。

 赤壁の戦いにおける火見の功績に報いて武帝・曹操からの下賜品として授けられたのは、青銅の神獣鏡であった。

 それは鏡背きょうはいに神獣をあしらった銅鏡で、神器である朱雀鏡を模してデザインされたものだ。後に〝三角縁さんかくぶち神獣鏡〟と呼ばれる逸品いっぴんである。

 ここに難升米は火見の予言通りに霊験を授かり、魏との関係を確かなものにしたのである。これだけの好待遇を受けたのは魏が戦略上倭国を重視したからなのはもちろんのこと、曹叡の祖父である曹操の時代から日見(卑弥呼)やその娘の火見、難升米ら倭人とのきずな、深い交流があったことが大きかった。

 曹沖死後、曹操はその代わりとするように曹丕の子・曹叡を寵愛ちょうあいし、我が宿業を成す者はこの孫だと太鼓判たいこばんを押した。曹叡は人生の最後に祖父の遺業をまっとうすることができて、やり残したことはなくなった。もう、安心して眠ることができた。


 年が明け、景初三(二三九)年、正月。曹叡は崩御した。諡号しごうは明帝という。

 その夜。司馬懿の屋敷――――。

 司馬懿は眠れずに燭台しょくだいを片手に独り庭に出ると、天にきらめく星々を見上げていた。太陰を象徴する月は出ていたが、その時は雲に隠れて見えなかった。

『……皆、太陰へ行った。私はいつまで……』

 ふと、司馬懿の心に寂寞せきばくたる感情が込み上げた。長生は何も良いことばかりではない。曹操・曹丕・曹叡、仕えた主君は三代。皆、世を去った。孔明という最大のライバルもついに太陰へ去ってしまい、ただ司馬懿だけがこの世に取り残されている。

『御孫ができたというのに、何を申されるのですか……』

 どこからか声を聞いた。直接自分の頭に響くような女の声だ。

 司馬懿は闇の中にその声の主を探した。ふと天から明かりが差し込み、年老いた司馬懿の顔を微かに照らした。

 目元のしわを深くして、司馬懿が顔を上げる。それは月明かりではなかった。

 雲間に黄金こがね色に輝く光が見えたが、それに続いて現れたのは吉祥の神獣・麒麟であった。獰猛どうもうな狼の顔を持った麒麟が角を生やした頭を一振りして、夜空に遠吠えを響かせた。そして、麒麟はその身から輝く霊気をたなびかせながら、大鹿の体で車駕を引き、しなやかな馬脚で天空から駆け下りてきて、滑るように司馬懿が立つ庭先へ降り立った。

『お久しぶりでございます……』

 麒麟の車を御していた少女がそう言って、音も立てずに車から降り立った。

 赤いラインの化粧をほどこしたうらららかな容姿。独特な白装束をまとった細い体が麒麟と同じように淡く発光している。麒麟のたてがみでながら、にこやかに微笑むその少女は……。

「おお、火見ではないか……」

 老人の司馬懿が夢幻の中に少女姿の火見を見た。火見の体がゆらめいて、時がないことを知らせた。火見は手を差し出してそれを告白した。

『お別れを告げに参りました……』

「別れ?」

『はい。人は宿命を背負ってこの世に生れて参ります。そして、その宿命に生き、その宿命に死ぬのです……』

 最期の思念を霊獣に託し、それを司馬懿に届けた火見。彼女もまた使命を終え、新たな世界へと旅立つ。

『この世とあの世はまこと太陽と月、魏と倭の関係のようでございます。私も太陰へ行かなければなりません。司馬懿様、ごきげんよう……』

 微かな輝きを放っていた火見の体からゆっくりと光が失われて、闇に溶け込んでいく。司馬懿の手にあった燭台のともしびがゆらゆらと揺れて、ふっと消え、

「火見……!」

 司馬懿が見守る中で火見の体も消えてなくなった。麒麟もまたその姿を分解し、その跡にかなえだけを残して消えた。麒麟鼎きりんてい――――再び目にすることになった失われた神器。

「宿命か。そうだな……」

 嘆息はなかった。司馬懿は暗くなった庭を独り歩いて、火見が届けたそれを手に取った。ずっしりとした重みが手に伝わる。同時にまた曹操の言葉が耳朶じだよみがえった。

『――――お前はオレだ』

 曹操がやり残した遺業――――天下を統一し、太陽界に平和と安定をもたらすこと。司馬懿はまだ生きて、それを継がねばならない。己の宿命を知った司馬懿は天を仰いで、火見との昔日の出逢いを回想した。

「昔、そなたと出逢い、良き占断をもらった。今の私があるのも、そなたのお陰だ。礼を言うぞ……」

 三十年前、運命に導かれるように海の向こうからやってきて、今、夢幻の彼方へと去って行ったうるわしき巫女みこ

「また会おう」

 司馬懿は最後に虚空こくうに向かってそうつぶやくと、大事そうに黄金の輝きを放つ鼎を抱え、ほのかな月明かりに照らされた屋敷へと戻っていった――――。

                                             完


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三国夢幻演義 火見の赤壁 光月ユリシ @ulysse

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