其之十七 帰還

 時を同じくして、江陵――――。

 押し寄せる亡者の群れが折り重なってうずたかい山を作り、それをよじ登ってきた屍兵しへいが今にも城壁を越えて侵入してきそうだった。

「絶対に中へ入れるな、ここが生きるか死ぬかの分かれ目だぞ!」

 曹仁そうじんは兵を叱咤激励しながら、城壁の上に立って何とか城内への侵入を食い止めていた。

「くそっ!」

 目の前に上ってきた屍兵に弓を向ける。が、それは突然視界から消えた。

 動きを止め、山から落ちていったのだ。その一体だけではなく、城を襲っていた全ての屍兵たちが動きを止め、一斉に崩れ落ちるように倒れ込んで、大地が揺れた。

「いったい何が起こった?」

 曹仁は予期せぬその急転に驚いて聞いた。しかし、その理由を知る者は誰もいない。張仲景ちょうちゅうけいは医者らしく城壁の上で倒れ込んだ死体に近付いて、死体の手を取りながら、慎重に死体が死体に戻った原因を探った。黒ずんでいた肉体は死体本来の土色に戻っている。

『邪気が消えたのか……?』

 気のせいか、その老兵の顔は安らかに永遠の眠りに就いたように見えた。

 徐庶じょしょは冷静に城壁の上から遠くにまだ動いている者たちがいるのを見ていた。

 江陵に攻め寄せてきた江東軍の将兵たちだ。彼らもまた事態を呑み込めずにいた。

 辺りを覆い尽くす死者の群れの中を斬り進んで血路を開くのに奮戦していた蒋欽しょうきん周泰しゅうたい甘寧かんねいの江東三将たちは突如それが大々的に開けて拍子ひょうし抜けすると共に、何が起こったのか分からず、茫然と顔を見合わせた。当然のことなのだが、死者の全てが大地に倒れて動きを止めているのだ。

 一方、無事に三将と兵士たちが戻ってきたのを江上の船から確認した周瑜しゅうゆは、

「まるで悪夢から覚めたようだ……」

 そう言ってひたいを押さえた。龍と朱雀、そして、亡者の群れ……。

 超常の一日、激動の一日が過ぎ、気を緩めた周瑜の体にずんと疲労感が襲ってきた。

「一旦兵を退く。出直しだ」

 周瑜は暗雲が晴れてゆく空を仰いで言った。

 一気呵成かせいの勢いで江陵を攻略する機運は削がれた。江東軍は虚脱感と共に江水を引き揚げ、凱旋のに就いた。


 馬超ばちょうの西涼軍は亡者の群れを突破して、再突入をするべく向きを転じた。

 ところが、そこにはもう行軍する死者はいなかった。自分たちが打ち倒したわけでもないのに、全てが倒れて一体たりとも動いていない。槍の穂先で倒れた屍兵をつついてみたが、ピクリとも反応しない。確かに死んでいるようだ。

「これ……は?」

 いきなり敵を失って、馬超はこの後どうすべきか分からなくなった。

 猛って膨らんだ戦意が今度はしぼむように縮んでいく。龐徳ほうとくが馬超に進言した。

「もはや、我等がここにいる理由はありません。涼州へ戻りましょう」

敵がいなくなったのなら、戦う必要もない。戦いは終わったのだ。取って返して、もう一度曹操軍と戦う気は起きなかった。自分たちは生き残った。

「涼州へ帰ろう」

 馬超が頷いて答えた。ふと馬超の心に湧いたのは寂寞せきばくたる故郷のなつかしさだった。

 曹操そうそうとの決裂は決定的になった。涼州へ帰って、急ぎ戦力を整えなければならない。

 

 曹純そうじゅんは疲弊した虎豹騎こひょうきの兵馬たちを率いて、主君が待つ谷へと戻ってきた。

 静寂が訪れたそこに、陰陽の戦いを終わらせた少女が力なく横たわっていた。

 曹操だけでなく、司馬懿しばいや諸将が火見の周りを囲んでいた。

「火見!」

 難升米なそめが火見の体を抱きかかえて名を呼ぶも、返事はない。左慈さじが告げる。

「土は邪を封じ、金は邪を斬り、水は邪を清め、木は邪をしずめ、火は邪をはらう……。朱雀がこの娘さんの生命力を燃やして邪気の全てを焼き尽くしたのですよ」

 火見の心臓は鼓動を止め、その体に生気はない。

「この娘は倭の女王の後継ぎ。何とかしてくれ!」

 難升米が左慈に嘆願した。

烏角うかく先生、わしからも頼む」

 曹操も左慈に火見の命を請うた。

「もちろんでございますよ。陰陽崩壊を防いだ最大の功労者ですからな」

 左慈が腰の袋から紫蘇しそを取り出して、火見の口に含ませた。紫蘇は蘇生効果のある霊草だ。そして、左慈はあの時のように麻縄に池を張って、指先から気の糸を垂らした。

「ひとまず、孫文台そんぶんだい殿に探してもらいましょう」

 水は陰。故に太陰界に繋がる入口となる。左慈はそこに気の糸を垂らすことで、太陰界との通信手段とできるのである。仙術の一つだ。

 左慈は目を閉じ、自ら気を太陰界へと送り込んで、火見の幽魂ゆうこんを捜した。


 静かな空間。漆黒の世界――――。

 星々がまたたいていた。自分もまるで星の一つとなって宇宙に浮かんでいるようだった。それをぼんやりと見ていた時、吐き出した息がいくつもの球体となって、後方へ消えていった。体を回転させる。微かに白く陽光が差し込む方へ泡が浮上していく。火見はそこが水中だと分かって、泡を追うようにして水面に浮上した。

 顔を出して肺いっぱいに息を吸い込む。色を失ったモノクロの世界がそこにあった。空も水も自分自身も、全てが白と黒で存在している。いくら視線を移しても、白と黒の光景しか見当たらない。唯一遠方に色が付いて見えたものがあった。

 真っ赤にえる断崖。

『何……?』

 つい先程まで万を超すかという死者に囲まれる死地にあったというのに、いきなり川の中で目覚め、一人ただようことになって、火見は何が起きたのか分からずに茫然とした。難升米もいなければ、曹操や司馬懿もいない。死者たちもさっぱり消え去っている。人の声は一切聞こえない。しかしながら、物言わぬ天地は相変わらずそこにあった。空は分厚い暗雲で覆われ、川面を暗い霧が流れている。

『何なの……?』

 火見は自分の魂が太陰界に迷い込んだことには気付かず、自分が無意識に火の鳥の燃え盛る炎の中の幻想を見つめて、また夢幻の世界を体験しているのではないかと疑った。見つけた流木をつかんで川の流れに身をゆだね、まどろんだ頭のまましばらく浮かんでいると、ようやくそれを変えるものが現れてくれた。

『ほら、あれだよ。火見だ』

 その少年が指差した方向に目をらす将軍。

『船をゆっくり近付けろ』

 赤い断崖の方角から水を切って近付いてくる大型船。舳先へさきに龍の彫刻が施されている。為すすべなく、ただ水に浮かぶだけだった火見はその船に乗る将軍に救出された。

 その将軍の姿もモノクロだったが、頭巾だけが赤く色付いて見えた。

『火見、大丈夫かい?』

曹沖そうちゅう様!』

 驚いたことに助け上げられた火見に駆け寄ってきたのは、まさしく曹沖であった。

『この少年、本当に曹操の息子だったか』

 赤頭巾の将軍も驚いて、曹沖を見た。火見は何が何だか分からない。

『あなたは……?』

 その将軍に火見が聞いた。その人物を知っている気がしたのだ。

『孫文台だ』

『孫……』

 火見はその赤頭巾の将軍の力強い目つきが尚香のものと似ていると思って聞いた。

尚香しょうこうさまのお父上様ですか?』

 尚香の父――――孫堅そんけんあざなを文台。孫権そんけん孫匡そんきょうの父でもある。熊のようなどっしりした体躯たいく精悍せいかんな風貌。あごが角ばった雄々おおしい顔つきは孫権によく受け継がれている。

 孫堅は一下士官から武功を重ねて身を起こし、神器の守護者として四神器を巡る戦いにその身を投じた。黄巾の乱時は曹操や劉備りゅうびと協力して討伐に活躍し、董卓とうたくが権勢を聾断ろうだんした時も曹操や劉備たちと共に立ち向かった。しかし、その後、劉表りゅうひょうとの戦いの最中に流れ矢に当たって、こころざし半ばにして死んだ。

 新たに太陰界で生きることになった孫堅は必然的に太陰界を席巻せっけんする闇の軍隊と戦う道を進むことになり、今もそのための行軍の途中だった。

 そこに左慈から通信があった。

『尚香を知っているのか?』

『はい』

 火見がそう答えるとすぐに、孫堅が質問を重ねてきた。

『おお、そうか。尚香はどのような女子おなごになった?』

 孫堅が死んで太陽界を去ったのは尚香が生れて間もない頃である。だから、孫堅は尚香の成長した姿を知らない。孫堅の子の中で唯一の女児で、孫堅はその誕生を喜んだ。

 火見は尚香が父が幼い時に亡くなって顔を覚えていないと言っていたことを思い出し、尚香の印象を孫堅に語って聞かせた。

『目があなた様にそっくりです。大層美しゅうございますが、武芸を好んでいらっしゃるようで、男のような身なりで、戦士の格好をしておられます』

『……そうか。父親似だな』

 火見の話を聞いて、孫堅は父親らしく満足そうにそれを想像した。

『どういう経緯で来たかは知らないが、娘の友ということなら、これからは私のもとにいるといい』

『はい……』

 火見は孫堅の申し出に無意識にそう答えてしまっていたが、それが恒久的になっても困る。まだ自分が置かれている状況がはっきりとつかめていない中、ふと、自分がすでに亡くなった人物と話していることに気が付いた。幻想の中に過去を見ているのだろうか?

 しかし、まさかここが死後の世界だとは知り得るはずもなく、孫堅に尋ねた。

『この船はどこへ向かうのですか?』

『長沙だ』

 その地名は火見にも分かる場所だった。一度通過したことがある。

 孫堅は生前、長沙太守であった。死した後、太陰界で闇の勢力と戦うことになった孫堅であるが、その根拠は依然として長沙郡だった。

 孫堅がこうして闇の勢力から長沙を死守することができているのは、生前に赤壁に朱雀の坤禅を成し遂げた加護によるものだろう。孫堅にはそんな確信があった。

 その坤禅が一時的に解かれ、太陽界で息子や娘たちを巻き込んだ大戦が巻き起こったことは知らないでいたが。

『着くまで、ゆっくりくつろいでくれ』

 孫堅は用事があるのか、船室に入っていった。火見は曹沖と二人になって、モノクロの景色を眺めながら、一つずつ疑問を解決していった。

『僕は死んだみたいだ』

『え……?』

『多分、ここは死後の世界さ。太陰界って言うらしい』

『死後の……世界……?』

『あの孫堅将軍は父とは旧知の間柄だったらしいけど、ずっと前に亡くなっているんだ。ほら、馬車で移動している時、洛陽が焼き払われたって話をしただろ? その後のことさ。僕もこちらに来て、まだ間もない。訳が分からず一人で放浪していたところを孫堅将軍に助けられたんだ』

 火見は自分のことには頭が回らず、曹沖が死んだという事実にショックを受けていた。会話を交わしたのは、つい数カ月前だ。あの元気だった少年が死んだ……?

『曹沖様は戦で亡くなられたのですか?』

『いや……多分、病気だよ。江陵で熱を出してね、許都に帰ることになったんだ。その後のことはよく覚えていない』

『そうでしたか……。私も死んだのでしょうか……?』

 いつまで経っても終わらない幻想に火見は不安になり始めた。

『どうかな。それは僕にも分からない……』

 船はしばらく進み、大海に入った。火見はそこを知っている。洞庭湖だ。

 モノクロではあるが、生きている時に見た洞庭湖も白い霧に覆われ、今と似たような雰囲気だった。

 この巨大な湖の東岸が長沙郡である。司馬懿らと共に江東へおもむく道程でこの湖を渡り、湘山しょうざんに立ち寄った。霧の中にその湘山が垣間かいま見えた。その瞬間、脳裏に甦る言葉があった。

『――――もし、万が一、陰気に呑み込まれて道に迷った場合はまたここを訪れなされ』

 火見は初めて左慈に会った時のことを思い出して、船室に走って孫堅に要請した。

『湘山に船を着けてください』

『どうしたのだ?』

『私は仲間たちのもとへ帰らなければなりません』

 このまま太陰界にいることを拒むように火見が言った。

『帰る? 太陽界にか?』

 太陽界という言葉が何を意味しているのか分からなかったが、とにかく湘君びょうに向かえば、この果てしない幻想が終わると思った。

 訴える火見の表情には焦燥感があふれていた。孫堅の目には火見の体が半透明に透けているように見えている。それは魂が太陰界に来て間もないことを意味すると知っていた。

『孫将軍、私からもお願い致します』

 曹沖も火見の気持ちを察するように孫堅に訴えた。

 孫堅は火見が死んだことを受け入れられず、混乱しているのだろうと思ったが、あえてそれに付き合ってやることにした。自分も当初混乱したのを覚えている。

『……いいだろう。烏角先生からは保護を頼まれただけだが、娘の友人の頼みは断れん。叔弼しゅくひつ、お前は残って船団を待機させておけ。私は湘君廟にもうでてくる』

 孫堅は若くしてこちらに来た息子に告げた。今では孫翊そんよくは父の良き助けとなっている。

『畏まりました』

 孫翊がにこやかにほほ笑んで、父の命に従った。


 孫堅の楼船が湘山の岸辺に接岸した。孫堅は火見と曹沖を連れ、霧にかすむ湘君廟へと足を踏み入れた。廟内は太陰界でも変わることなく、粛然とした神聖な空気に包まれている。

『戦いに明け暮れ、しばらく詣でていなかった。私の悪い癖だ』

 孫堅は言って、湘君のレリーフの前にひざまずくと、拝礼を捧げた。

 湘君の祭壇には第五の神器である麒麟きりんかなえはなかった。それでも、火見も同じ様に礼拝を捧げ、心の中で皆のもとへ戻れることを願った。

『我が言を覚えておいででしたか……』

 火見の願いは通じた。霧の中から左慈が現れて、広い太陰界の中に火見を探し当てた。

『ああ……よかった!』

 火見はその老人の正体が誰だか知らないにもかかわらず、その姿を見て喜んだ。

『あの言葉はこういう意味だったのでしょう?』

『いかにも。あなたは賢い』

『烏角先生。梁冀りょうきの軍が急に引き揚げていきましたが、何かあったのですか?』

 孫堅が立ち上がって、左慈を迎えた。左慈は太陽界で曹操を助けるように、太陰界では孫堅の戦いを助けていた。

『向こうでも陰陽の大きな戦いがありましてな。この娘さんがそれを退しりぞけたのです』

『大きな戦い?』

『父が勝利したのでしょう?』

 孫堅と曹沖が左慈に聞いた。

『……まぁ、その話は後でゆっくり語ることとして、まずはこの娘さんを帰して差し上げねば』

 左慈は火見を連れて湘君廟の外に出ると、道着の中からまるでマジックのように麒麟鼎きりんていを取り出して見せ、それを地面の上に置いた。

『あなたが帰る手段はここにあります。さぁ、帰りたいという思いを念じてみなされ』

 火見が難升米や司馬懿の顔を思い浮かべて、その思いを強く念じる。すると、かなえとして結晶していた気が緩やかに解けて、黄色い霊気と共に神獣が現れた。麒麟。

 その背後に霊気が結集した車駕も現れた。同時に半透明だった火見の体にうっすらと色が付き始める。薄い紫色。

『本当に帰るのだな。帰ったら、尚香に「いつもお前のことを思っている」と伝えてくれないか』

『はい、もちろんでございます』

『火見、僕の言葉も父に伝えて。「孝にもとる行為、お許しください。これからもずっと父上を誇りに思っています」と……』

『畏まりました』

 火見は麒麟車に乗り込みながら、孫堅と曹沖の要望に応えた。左慈も麒麟車に乗り込む。

『太陽界に帰ります』

 火見の意思を受けた麒麟は大きくいなないて勢いよく駆け出すと、湘山を飛び出し、湖上を舞った。そして、麒麟は高く高く昇っていき、雲を貫いて、やがて、孫堅と曹沖の目にも見えなくなった。


 難升米とそこに居合わせた英雄諸将が固唾かたずを呑んで見守る中、すっと火見の肉体に魂が戻った。一足先に左慈が静かに目を開けた。

 トクン、トクン……。火見の心臓に鼓動が戻り、若き肉体を再び生気が駆け巡った。口元が動き、無意識に含んであった紫蘇を吐き出す。

「う……ん……」

 間もなく火見が目覚め、ゆっくり体を起こした。邪気に乗っ取られてよみがえったしかばねではない。正真正銘しょうしんしょうめい、蘇生したのだ。気が気でなかった難升米は、

「火見!」

 大きな声を上げて、火見の体を抱きしめながら、その奇跡の生還を迎えた。

 強張こわばっていた司馬懿の表情も緩み、曹操も軽く安堵の息を吐いた。

「さて……」

 曹操が呟いて次の始末に取り掛かる。生者と死者の戦いは終わった。が、生者同士の決着がまだだ。曹操は残った自軍を見渡した。曹純と史渙しかんは傷を負っており、戦闘続きの曹操軍の消耗度は激しかった。これ以上の戦闘は無理だ。それに比べ、劉備軍はまだ戦おうと思ったら戦える。江東軍の加勢もある。

 曹操が態度を改めて、かたわらの劉備に問うた。

「……今こそオレたちの進む道は違うが、目指してきたものは同じはずだ。オレはオレのやり方で漢を存続させてきた。窮地に陥ったお前を助けたこともある。オレの功績を公正に評価して、殺すかどうか決めてもらおう」

 曹操の命運は劉備に委ねられた。劉備はその曹操の言葉にしばし沈黙の時を送った。

 曹操との出逢い。民の救済と漢朝の復興という同じ理想を追いかけ、互いに協力した無名時代。同志として董卓という巨悪に立ち向かい、共に群雄の一人として名を成した。だが、次第にそれぞれの理想に差異が生じた。その相違は徐々に大きくなって、ついには対立し、決別することになった……。

 それら昔日せきじつの記憶が劉備の脳裏を駆け巡った。

「どうだ、オレを殺すか?」

「置き手紙を残した。読んでもらえたはずだ」

 劉備はその問いには答えずに、ある確認をとった。襄陽からの逃避行中、劉備は置き手紙と共に避難民たちの保護を頼んだ。当陽でのことだ。

「……読んだ。民と陛下をよろしく頼むとあったな」

「その答えを聞こう」

「……約束しよう。漢朝を守り、民草をいつくしむオレのこころざしは昔から何ら変わっていない。やり方を変えただけだ。オレが生きているうちは漢は安泰だ。それは保証してやる」

 敗軍の将であるにもかかわらず、曹操が泰然と答えた。

 曹操という男はいつ何時もひるむ様子を見せない。幾度も苦境を乗り越え、逆境を跳ね返してきた。それは単に曹操に天運があったというだけではなく、強き信念に裏打ちされた自信が導いてきたからだろう。

 曹操が口にした言葉は強く劉備に響いた。その曹操の怯みなき態度と偽りなき言葉は劉備が期待したものであった。

 漢を存続させる言質げんちを取り付け、劉備は息を吐いた。そもそも邪を退けたその空間にすでに戦いが起こるような空気はなかったし、最初から劉備に曹操を殺す意志はなかった。

 これもまた曹操の引き寄せた天運なのかもしれない。劉備は乗馬を曹操に差し出し、

「……行かれよ」

 そう言って、道を開けた。関羽ら配下の将兵たちも同様の行為を取る。

 この場においても、曹操の持つ天運と信念が道を切り開いた。曹操がゆっくりと馬を進め、その道に乗る。自分の道を行く。自分の道ではないそれは手放さなければならない。すれ違い様、劉備の横で馬を止め、

「オレが荊州を取りたかった理由の一つはこいつを南岳なんがく封乾ほうけんするためだった。後で蔡文姫さいぶんきを送る。オレの代わりに玄徳、お前がやってくれ」

 南征にこだわった理由――――曹操は懐から取り出した天運を劉備に託そうとした。

 内部に炎を閉じ込めたように輝く宝珠、赤火珠せっかじゅ。漢のシンボル・カラー、赤を宿す仙珠である。赤は方角でいうと南に当たる。

 赤火珠の封乾の場、衡山こうざんは荊南の長沙と零陵の郡境にあった。この天宝を南岳・衡山に封乾することができれば、漢の命運はより長らえるはずだ。地宝である神器を祀ることを〝坤禅こんぜん〟というのに対し、天宝の仙珠を祀ることを〝封乾〟といった。

 天に近い聖山の山頂で祭祀を行うのである。

つつしんで拝受いたす」

 劉備がそれを受け取った。劉備に漢の命運の半分を託した曹操が付け加えた。

「ついでに、オレの長寿も祈っておいてくれ」

 衡山は別名を〝寿岳〟ともいい、人間の寿命をつかさどる山としても知られていた。

 それには劉備も苦笑で応じた。敵対していても、二人は生死を分かち合ってきた盟友であることは間違いなかった。


 火見もまた、尚香に宝を手渡していた。霊力を失った神器・朱雀鏡すざくきょうである。

 目覚めた火見のもとに尚香が走り寄ってきて、あるべきところに戻すと言って、所望しょもうしたのだ。火見に断る理由はなかった。

「ありがとう。これで私の役目が果たせたわ。父も喜んでくれる」

 尚香は朱雀鏡を大事そうに鎧の下に収めながら言った。

 その尚香の言葉を聞いて、火見は夢幻の世界での出来事を思い出した。

「あの……、信じてもらえるかどうか分からないですけど、太陰の世界であなたのお父上様にお会いしました」

「えっ、父に?」

 途端に尚香の顔が戸惑うように曇った。だが、その目は更なる言葉を待っていた。

「はい。『いつもあなたのことを思っている』。そう伝えてほしいと頼まれました」

「そう……。そんな嬉しい話なら、信じないわけにはいかないわ」

 それを聞いた尚香の目に薄ら涙がにじんで、尚香はそれを手の甲でぬぐった。

「火見、我等も行こう」

 難升米が声をかけた。曹操に付いて、許都に戻るのだ。火見が頷いた。

「行くのね?」

「はい。私も帰るべきところへ帰ります」

「あなたの国は遠い海の彼方かなたなのでしょう。もう会うこともないのでしょうね」

 尚香の言葉を聞いた火見がおもむろに瑪瑙めのう勾玉まがたまのネックレスを外して、

「友好のあかしとして差し上げます。見れば、思い出すことはあっても、忘れることはないでしょう」

 尚香に差し出した。二人もまた同じ時を共有した盟友なのだ。

「いいの? ありがとう」

 宝飾品らしきものを一切身に付けていない尚香はそれを受け取って礼を言い、嬉しそうな笑顔を見せた。そして、

「お返しにこれをあげるわ」

 尚香らしく火見に与えたのは、柄に数種類の宝石を散りばめた短剣であった。

「尚香、我等も行こう」

 兄の孫匡そんきょうが言った。腕を押さえている。尚香もその兄の様子を心配して頷いた。

 尚香は兄を支えて江東勢に合流したかと思うと、孫匡を馬に乗せ、自分の乗馬を劉備に差し出して、

「救ったついでに私を江東までお送りください」

 大胆にもそんなことを言って手を出した。意表を突かれながらも劉備はその手を取ると、

「先日は失礼した。おびに責任を持ってお送り致そう」

 尚香を馬に引き上げ、馬に同乗させた。魯粛ろしゅくの目にはそれが自分が先導してきた孫劉同盟の結晶のように映った。

『……これは良い!』

 そして、それを見た魯粛の脳裏に鮮やかにひらめくものがあった。まさに妙策である。孔明は魯粛が顔を緩めているのを目にしたものの、何を考えているのかはさすがの孔明にも分からなかった。

 そんな孔明のもとに歩み寄ってくる者があった。龐統ほうとうである。

士元しげん、御苦労だった」

 孔明が笑顔で友を迎え、その手を取ってねぎらった。龐統は疲れた様子で忠言した。

「喜ぶのは後だ。早く退いた方がよい。于禁うきんらの七軍が引き返してくるぞ」

 夏口攻撃に向かった于禁らの七軍は無傷である。この部隊が大挙して戻ってくる。

 孔明が頷いた。全ては終わったのだ。長居は無用だ。

「士元、共に参ろう。私から鳳凰のるべき大樹を紹介しよう」

 孔明がそう言って同じ道へ龐統を誘った。


 司馬懿は孔明とは会話を交わさなかった。ただお互いに視線を合わせただけだ。

 孔明は羽扇を揺らしながら、司馬懿を見て一礼した。司馬懿はそれを複雑な心境で受け、故に厳しい表情を崩すことはなかった。

 この戦いで最大の利益を手にしたのは劉備だ。そして、それを成就させたのが孔明。自分は孔明によって踊らされたのではないのか――――そんな思いがぬぐえず、司馬懿は口を閉ざしたまま、主君・曹操に従った。

 火見が恐る恐る曹操に近付いた。曹沖の言葉を伝えなければならない。

「丞相、よろしいでしょうか?」

「どうした、火見?」

「私は目覚める前まで太陰界というところに行っていました。そこで曹沖様とお会いしました」

「なに……」

 それを聞いた曹操の表情がにわかに曇った。

「そこで曹沖様から丞相への言伝をお預かり致しました……」

「……聞こう」

「はい……。『孝にもとる行為をお許しください。これからもずっと父上を誇りに思っています』と、そのように申されました」

 それを聞いた曹操は力が抜けたかのように馬から滑り落ちた。

 孝にもとる――――それはすなわち親より先に先立つ不孝のことを言っている。

「丞相!」

「父上!」

 司馬懿と曹丕そうひ曹彰そうしょうらが慌てて走り寄った。曹操は曹丕の手で抱え起こされた。

「どうなされましたか、丞相?」

 司馬懿が尋ねた。気が抜けたように曹操が呟く。

倉舒そうじょが死んだ……」

「何ですと?」

 それは何事にも動じない曹操でさえ放心する程、ショッキングな知らせであった。

 がっくりと肩を落とした曹操の姿は英雄のものではなく、一人の父親のものであった。

「倉舒が死んだ……? そんな……」

 曹丕も曹彰も曹植そうしょくも、弟の突然の死を聞かされて言葉を失った。

「まさか……」

 司馬懿も信じられないといった様子で呟いた。敗戦よりも重苦しい雰囲気が辺りを暗く覆った。それを晴らすように火見が希望の言葉をかけた。

「死んだのではありません。太陰界で生きておられるのです」

 自身がその目で太陰界を見てきた。それは死後の世界であっても、亡くなった人々の魂はこの世の人々と同じ様に生きている――――火見はそう感じた。

「左様。太陽界を去った者たちは、太陰界で生きるのでございます」

 左慈が火見の言葉を肯定して言った。

「太陰界で生きている……」

 曹操がぼそっと呟いた。手を差し出す。曹操は息子たちに助けられて立ち上がると、再び馬にまたがった。

 馬が進むに任せ、曹操はただそれに揺られた。言葉はなく、どこを見つめているのかも分からない。群臣たちはこれほど気落ちした主君を見たことがなく、慰めの言葉もかけることができずに狼狽ろうばいした。だが、その時、曹操の心はすでに立ち直っていた。敗戦と愛息を失った喪失感に打ちひしがれているのではなく、その思考はしなやかに過去と未来を駆け巡っていた。

 自分が生まれる前にあった清濁の戦いと、いつ訪れるか分からない未来の戦い。

 その過去と未来の両域で立ちはだかる敵は梁冀。漢王朝を実質的に支配して専横を振るい、死してなおしき野望を捨てずに太陰界で暗躍している跋扈ばっこ将軍だ。梁冀が専横を極めていた頃、その傍らにあったのが曹騰そうとう胡廣ここうだった。

 曹騰、あざな季興きこう宦官かんがんとして四帝に仕えた曹操の祖父である。

 曹騰と胡廣は共に梁冀に阿諛あゆしながらも、一方で正義派官僚の清流派を推薦して官界の崩壊を食い止めようとした。梁冀の近くにありながら、その暴走を抑え込もうとしたのである。

 曹操はそれを直接祖父から聞いたわけではない。曹操が勝手にそう考えているだけだ。だが、それは間違っていないように思う。曹騰は梁冀がちゅうされると、責任を全うしたように寿命を終えた。

「この頭痛はあの世から祖父が何かを訴えてきているのかもしれないな」

 ようやく曹操が呟くように口を開いた。

「烏角先生に聞きたいことがある」

「何でしょうか?」

 退却する曹操の敗残軍に同行していた左慈が聞いた。

「太陰界がこの世界と表裏一体であることは分かった。太陰界が大きく乱れているのは、この太陽界が長い間治まらぬからだな?」

「その通りでございます」

「ならば、わしが治めてみせよう」

 曹操が力強く言った。左慈もその英雄の言葉を待っていた。

「はい。そのためにも、今、あなた様に死んでもらっては困るのです」

「そなたが昔からオレに付きまとっているのは、オレを太陰界に連れて行こうとしてのことではなかったのか?」

 曹操は過去を振り返って聞いた。今でこそ奇妙な老人がこの左慈だと分かっているが、曹操は人生の中で何度か得体えたいの知れない仙人と出会っている。

「それはいずれ……。太陰界でもあなた様の力は必要でございます」

「死んだら死んだで、オレも太陰界で戦うことになるのだな?」

「そうして頂ければ。今は孫文台殿が活躍されておられますが……」

「ははは、そういうことなら、死んでも退屈はしないな」

 曹操は記憶の彼方から孫堅の武人らしい精悍な顔を思い起こした。孫堅が死んだのは、もうずっと前のことだが、その男の記憶はしっかりと曹操の中にある。

「ひとまず陰陽境界の崩壊が避けられ、安心致しました。丞相もご安心を。曹沖様は文台殿が面倒を見ておられます」

「……そうか」

 孫堅もまた志を同じくした曹操の盟友であった。その男が息子を預かってくれている。

「はい。私は文台殿にこちらで起こった陰陽の戦いの顛末てんまつをお伝えしなければなりません。これにて失礼致します」

「分かった」

 曹操の目のはじで、左慈は岩陰の後ろに隠れるようにして忽然こつぜんと消えた。

「仙人ともなると、両界を行ったり来たり。大層忙しいんだな」

 失意のどん底から鮮やかに蘇った曹操がまるで人ごとのように言い、ひょうきんな顔を作って司馬懿に向けた。

『何というお方であろうか……』

 曹操の強靭きょうじんな精神力に司馬懿は感服するしかなかった。曹操がそんな司馬懿をたしなめるように言う。

「……どうした、仲達? 生き残ったというのに、浮かぬ顔だな」

 曹操に合わせて気を取り戻した司馬懿が、気になっていたことを聞いてみた。

「……いえ、一つせぬことがございまして」

「何だ、言うてみよ」

「……はい。丞相は敵であるのに、劉備のことを大層信頼しているのでございますな」

「そのことか。奉孝ほうこうも理解できなかったことでもあるが……」

 曹操は郭嘉かくかの名を出して、それを懐かしんだ。

「英雄を知るは英雄のみ、だ。……ま、お前にもそのうちそんな相手が現れるだろう」

「はい……」

 司馬懿はそれを聞いて、それが諸葛孔明という男になるだろうことを確信した。

「文台が戦っているというのなら、奉孝もあっちで知恵を発揮しているのかもな。子修ししゅう悪来あくらいも活躍しているかもしれないなぁ……。倉舒も……」

 気丈に振る舞っていた曹操だが、思わず涙が零れそうになって天を仰ぐと、太陰界へ去っていった息子や家臣たちに想いをせた。

 これはしばしの別れに過ぎない。自分にそう言い聞かせて。

『激しいけれど、温かい火……』

 二人の英雄の後ろに続きながら、火見は曹操の背中を見つめていた。

 その内側に燃える火。その赤い揺らめきを……。そして、

『私はこの人を通して未来を見ていたんだわ……』

 火見もまたそれを確信して、許都への帰路に就いた。

 建安けんあん十三(二〇八)年うるう十二月。天下分け目の大決戦があったこの年は十二月が二回あった珍しい年でもあった。

 赤壁で、その戦いを見届けた火見たち倭国の一行が曹操に従って許都へ帰還したのは、翌建安十四(二〇九)年、正月のことである――――。

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