其之十七 帰還
時を同じくして、江陵――――。
押し寄せる亡者の群れが折り重なって
「絶対に中へ入れるな、ここが生きるか死ぬかの分かれ目だぞ!」
「くそっ!」
目の前に上ってきた屍兵に弓を向ける。が、それは突然視界から消えた。
動きを止め、山から落ちていったのだ。その一体だけではなく、城を襲っていた全ての屍兵たちが動きを止め、一斉に崩れ落ちるように倒れ込んで、大地が揺れた。
「いったい何が起こった?」
曹仁は予期せぬその急転に驚いて聞いた。しかし、その理由を知る者は誰もいない。
『邪気が消えたのか……?』
気のせいか、その老兵の顔は安らかに永遠の眠りに就いたように見えた。
江陵に攻め寄せてきた江東軍の将兵たちだ。彼らもまた事態を呑み込めずにいた。
辺りを覆い尽くす死者の群れの中を斬り進んで血路を開くのに奮戦していた
一方、無事に三将と兵士たちが戻ってきたのを江上の船から確認した
「まるで悪夢から覚めたようだ……」
そう言って
超常の一日、激動の一日が過ぎ、気を緩めた周瑜の体にずんと疲労感が襲ってきた。
「一旦兵を退く。出直しだ」
周瑜は暗雲が晴れてゆく空を仰いで言った。
一気
ところが、そこにはもう行軍する死者はいなかった。自分たちが打ち倒したわけでもないのに、全てが倒れて一体たりとも動いていない。槍の穂先で倒れた屍兵を
「これ……は?」
いきなり敵を失って、馬超はこの後どうすべきか分からなくなった。
猛って膨らんだ戦意が今度は
「もはや、我等がここにいる理由はありません。涼州へ戻りましょう」
敵がいなくなったのなら、戦う必要もない。戦いは終わったのだ。取って返して、もう一度曹操軍と戦う気は起きなかった。自分たちは生き残った。
「涼州へ帰ろう」
馬超が頷いて答えた。ふと馬超の心に湧いたのは
静寂が訪れたそこに、陰陽の戦いを終わらせた少女が力なく横たわっていた。
曹操だけでなく、
「火見!」
「土は邪を封じ、金は邪を斬り、水は邪を清め、木は邪を
火見の心臓は鼓動を止め、その体に生気はない。
「この娘は倭の女王の後継ぎ。何とかしてくれ!」
難升米が左慈に嘆願した。
「
曹操も左慈に火見の命を請うた。
「もちろんでございますよ。陰陽崩壊を防いだ最大の功労者ですからな」
左慈が腰の袋から
「ひとまず、
水は陰。故に太陰界に繋がる入口となる。左慈はそこに気の糸を垂らすことで、太陰界との通信手段とできるのである。仙術の一つだ。
左慈は目を閉じ、自ら気を太陰界へと送り込んで、火見の
静かな空間。漆黒の世界――――。
星々が
顔を出して肺いっぱいに息を吸い込む。色を失ったモノクロの世界がそこにあった。空も水も自分自身も、全てが白と黒で存在している。いくら視線を移しても、白と黒の光景しか見当たらない。唯一遠方に色が付いて見えたものがあった。
真っ赤に
『何……?』
つい先程まで万を超すかという死者に囲まれる死地にあったというのに、いきなり川の中で目覚め、一人
『何なの……?』
火見は自分の魂が太陰界に迷い込んだことには気付かず、自分が無意識に火の鳥の燃え盛る炎の中の幻想を見つめて、また夢幻の世界を体験しているのではないかと疑った。見つけた流木を
『ほら、あれだよ。火見だ』
その少年が指差した方向に目を
『船をゆっくり近付けろ』
赤い断崖の方角から水を切って近付いてくる大型船。
その将軍の姿もモノクロだったが、頭巾だけが赤く色付いて見えた。
『火見、大丈夫かい?』
『
驚いたことに助け上げられた火見に駆け寄ってきたのは、まさしく曹沖であった。
『この少年、本当に曹操の息子だったか』
赤頭巾の将軍も驚いて、曹沖を見た。火見は何が何だか分からない。
『あなたは……?』
その将軍に火見が聞いた。その人物を知っている気がしたのだ。
『孫文台だ』
『孫……』
火見はその赤頭巾の将軍の力強い目つきが尚香のものと似ていると思って聞いた。
『
尚香の父――――
孫堅は一下士官から武功を重ねて身を起こし、神器の守護者として四神器を巡る戦いにその身を投じた。黄巾の乱時は曹操や
新たに太陰界で生きることになった孫堅は必然的に太陰界を
そこに左慈から通信があった。
『尚香を知っているのか?』
『はい』
火見がそう答えるとすぐに、孫堅が質問を重ねてきた。
『おお、そうか。尚香はどのような
孫堅が死んで太陽界を去ったのは尚香が生れて間もない頃である。だから、孫堅は尚香の成長した姿を知らない。孫堅の子の中で唯一の女児で、孫堅はその誕生を喜んだ。
火見は尚香が父が幼い時に亡くなって顔を覚えていないと言っていたことを思い出し、尚香の印象を孫堅に語って聞かせた。
『目があなた様にそっくりです。大層美しゅうございますが、武芸を好んでいらっしゃるようで、男のような身なりで、戦士の格好をしておられます』
『……そうか。父親似だな』
火見の話を聞いて、孫堅は父親らしく満足そうにそれを想像した。
『どういう経緯で来たかは知らないが、娘の友ということなら、これからは私のもとにいるといい』
『はい……』
火見は孫堅の申し出に無意識にそう答えてしまっていたが、それが恒久的になっても困る。まだ自分が置かれている状況がはっきりと
しかし、まさかここが死後の世界だとは知り得るはずもなく、孫堅に尋ねた。
『この船はどこへ向かうのですか?』
『長沙だ』
その地名は火見にも分かる場所だった。一度通過したことがある。
孫堅は生前、長沙太守であった。死した後、太陰界で闇の勢力と戦うことになった孫堅であるが、その根拠は依然として長沙郡だった。
孫堅がこうして闇の勢力から長沙を死守することができているのは、生前に赤壁に朱雀の坤禅を成し遂げた加護によるものだろう。孫堅にはそんな確信があった。
その坤禅が一時的に解かれ、太陽界で息子や娘たちを巻き込んだ大戦が巻き起こったことは知らないでいたが。
『着くまで、ゆっくりくつろいでくれ』
孫堅は用事があるのか、船室に入っていった。火見は曹沖と二人になって、モノクロの景色を眺めながら、一つずつ疑問を解決していった。
『僕は死んだみたいだ』
『え……?』
『多分、ここは死後の世界さ。太陰界って言うらしい』
『死後の……世界……?』
『あの孫堅将軍は父とは旧知の間柄だったらしいけど、ずっと前に亡くなっているんだ。ほら、馬車で移動している時、洛陽が焼き払われたって話をしただろ? その後のことさ。僕もこちらに来て、まだ間もない。訳が分からず一人で放浪していたところを孫堅将軍に助けられたんだ』
火見は自分のことには頭が回らず、曹沖が死んだという事実にショックを受けていた。会話を交わしたのは、つい数カ月前だ。あの元気だった少年が死んだ……?
『曹沖様は戦で亡くなられたのですか?』
『いや……多分、病気だよ。江陵で熱を出してね、許都に帰ることになったんだ。その後のことはよく覚えていない』
『そうでしたか……。私も死んだのでしょうか……?』
いつまで経っても終わらない幻想に火見は不安になり始めた。
『どうかな。それは僕にも分からない……』
船はしばらく進み、大海に入った。火見はそこを知っている。洞庭湖だ。
モノクロではあるが、生きている時に見た洞庭湖も白い霧に覆われ、今と似たような雰囲気だった。
この巨大な湖の東岸が長沙郡である。司馬懿らと共に江東へ
『――――もし、万が一、陰気に呑み込まれて道に迷った場合はまたここを訪れなされ』
火見は初めて左慈に会った時のことを思い出して、船室に走って孫堅に要請した。
『湘山に船を着けてください』
『どうしたのだ?』
『私は仲間たちのもとへ帰らなければなりません』
このまま太陰界にいることを拒むように火見が言った。
『帰る? 太陽界にか?』
太陽界という言葉が何を意味しているのか分からなかったが、とにかく湘君
訴える火見の表情には焦燥感が
『孫将軍、私からもお願い致します』
曹沖も火見の気持ちを察するように孫堅に訴えた。
孫堅は火見が死んだことを受け入れられず、混乱しているのだろうと思ったが、あえてそれに付き合ってやることにした。自分も当初混乱したのを覚えている。
『……いいだろう。烏角先生からは保護を頼まれただけだが、娘の友人の頼みは断れん。
孫堅は若くしてこちらに来た息子に告げた。今では
『畏まりました』
孫翊がにこやかにほほ笑んで、父の命に従った。
孫堅の楼船が湘山の岸辺に接岸した。孫堅は火見と曹沖を連れ、霧に
『戦いに明け暮れ、しばらく詣でていなかった。私の悪い癖だ』
孫堅は言って、湘君のレリーフの前に
湘君の祭壇には第五の神器である
『我が言を覚えておいででしたか……』
火見の願いは通じた。霧の中から左慈が現れて、広い太陰界の中に火見を探し当てた。
『ああ……よかった!』
火見はその老人の正体が誰だか知らないにもかかわらず、その姿を見て喜んだ。
『あの言葉はこういう意味だったのでしょう?』
『いかにも。あなたは賢い』
『烏角先生。
孫堅が立ち上がって、左慈を迎えた。左慈は太陽界で曹操を助けるように、太陰界では孫堅の戦いを助けていた。
『向こうでも陰陽の大きな戦いがありましてな。この娘さんがそれを
『大きな戦い?』
『父が勝利したのでしょう?』
孫堅と曹沖が左慈に聞いた。
『……まぁ、その話は後でゆっくり語ることとして、まずはこの娘さんを帰して差し上げねば』
左慈は火見を連れて湘君廟の外に出ると、道着の中からまるでマジックのように
『あなたが帰る手段はここにあります。さぁ、帰りたいという思いを念じてみなされ』
火見が難升米や司馬懿の顔を思い浮かべて、その思いを強く念じる。すると、
その背後に霊気が結集した車駕も現れた。同時に半透明だった火見の体に
『本当に帰るのだな。帰ったら、尚香に「いつもお前のことを思っている」と伝えてくれないか』
『はい、もちろんでございます』
『火見、僕の言葉も父に伝えて。「孝にもとる行為、お許しください。これからもずっと父上を誇りに思っています」と……』
『畏まりました』
火見は麒麟車に乗り込みながら、孫堅と曹沖の要望に応えた。左慈も麒麟車に乗り込む。
『太陽界に帰ります』
火見の意思を受けた麒麟は大きくいなないて勢いよく駆け出すと、湘山を飛び出し、湖上を舞った。そして、麒麟は高く高く昇っていき、雲を貫いて、やがて、孫堅と曹沖の目にも見えなくなった。
難升米とそこに居合わせた英雄諸将が
トクン、トクン……。火見の心臓に鼓動が戻り、若き肉体を再び生気が駆け巡った。口元が動き、無意識に含んであった紫蘇を吐き出す。
「う……ん……」
間もなく火見が目覚め、ゆっくり体を起こした。邪気に乗っ取られて
「火見!」
大きな声を上げて、火見の体を抱きしめながら、その奇跡の生還を迎えた。
「さて……」
曹操が呟いて次の始末に取り掛かる。生者と死者の戦いは終わった。が、生者同士の決着がまだだ。曹操は残った自軍を見渡した。曹純と
曹操が態度を改めて、
「……今こそオレたちの進む道は違うが、目指してきたものは同じはずだ。オレはオレのやり方で漢を存続させてきた。窮地に陥ったお前を助けたこともある。オレの功績を公正に評価して、殺すかどうか決めてもらおう」
曹操の命運は劉備に委ねられた。劉備はその曹操の言葉に
曹操との出逢い。民の救済と漢朝の復興という同じ理想を追いかけ、互いに協力した無名時代。同志として董卓という巨悪に立ち向かい、共に群雄の一人として名を成した。だが、次第にそれぞれの理想に差異が生じた。その相違は徐々に大きくなって、ついには対立し、決別することになった……。
それら
「どうだ、オレを殺すか?」
「置き手紙を残した。読んでもらえたはずだ」
劉備はその問いには答えずに、ある確認をとった。襄陽からの逃避行中、劉備は置き手紙と共に避難民たちの保護を頼んだ。当陽でのことだ。
「……読んだ。民と陛下をよろしく頼むとあったな」
「その答えを聞こう」
「……約束しよう。漢朝を守り、民草を
敗軍の将であるにもかかわらず、曹操が泰然と答えた。
曹操という男はいつ何時も
曹操が口にした言葉は強く劉備に響いた。その曹操の怯みなき態度と偽りなき言葉は劉備が期待したものであった。
漢を存続させる
これもまた曹操の引き寄せた天運なのかもしれない。劉備は乗馬を曹操に差し出し、
「……行かれよ」
そう言って、道を開けた。関羽ら配下の将兵たちも同様の行為を取る。
この場においても、曹操の持つ天運と信念が道を切り開いた。曹操がゆっくりと馬を進め、その道に乗る。自分の道を行く。自分の道ではないそれは手放さなければならない。すれ違い様、劉備の横で馬を止め、
「オレが荊州を取りたかった理由の一つはこいつを
南征に
内部に炎を閉じ込めたように輝く宝珠、
赤火珠の封乾の場、
天に近い聖山の山頂で祭祀を行うのである。
「
劉備がそれを受け取った。劉備に漢の命運の半分を託した曹操が付け加えた。
「ついでに、オレの長寿も祈っておいてくれ」
衡山は別名を〝寿岳〟ともいい、人間の寿命を
それには劉備も苦笑で応じた。敵対していても、二人は生死を分かち合ってきた盟友であることは間違いなかった。
火見もまた、尚香に宝を手渡していた。霊力を失った神器・
目覚めた火見のもとに尚香が走り寄ってきて、あるべきところに戻すと言って、
「ありがとう。これで私の役目が果たせたわ。父も喜んでくれる」
尚香は朱雀鏡を大事そうに鎧の下に収めながら言った。
その尚香の言葉を聞いて、火見は夢幻の世界での出来事を思い出した。
「あの……、信じてもらえるかどうか分からないですけど、太陰の世界であなたのお父上様にお会いしました」
「えっ、父に?」
途端に尚香の顔が戸惑うように曇った。だが、その目は更なる言葉を待っていた。
「はい。『いつもあなたのことを思っている』。そう伝えてほしいと頼まれました」
「そう……。そんな嬉しい話なら、信じないわけにはいかないわ」
それを聞いた尚香の目に薄ら涙が
「火見、我等も行こう」
難升米が声をかけた。曹操に付いて、許都に戻るのだ。火見が頷いた。
「行くのね?」
「はい。私も帰るべきところへ帰ります」
「あなたの国は遠い海の
尚香の言葉を聞いた火見がおもむろに
「友好の
尚香に差し出した。二人もまた同じ時を共有した盟友なのだ。
「いいの? ありがとう」
宝飾品らしきものを一切身に付けていない尚香はそれを受け取って礼を言い、嬉しそうな笑顔を見せた。そして、
「お返しにこれをあげるわ」
尚香らしく火見に与えたのは、柄に数種類の宝石を散りばめた短剣であった。
「尚香、我等も行こう」
兄の
尚香は兄を支えて江東勢に合流したかと思うと、孫匡を馬に乗せ、自分の乗馬を劉備に差し出して、
「救ったついでに私を江東までお送りください」
大胆にもそんなことを言って手を出した。意表を突かれながらも劉備はその手を取ると、
「先日は失礼した。お
尚香を馬に引き上げ、馬に同乗させた。
『……これは良い!』
そして、それを見た魯粛の脳裏に鮮やかに
そんな孔明のもとに歩み寄ってくる者があった。
「
孔明が笑顔で友を迎え、その手を取って
「喜ぶのは後だ。早く退いた方がよい。
夏口攻撃に向かった于禁らの七軍は無傷である。この部隊が大挙して戻ってくる。
孔明が頷いた。全ては終わったのだ。長居は無用だ。
「士元、共に参ろう。私から鳳凰の
孔明がそう言って同じ道へ龐統を誘った。
司馬懿は孔明とは会話を交わさなかった。ただお互いに視線を合わせただけだ。
孔明は羽扇を揺らしながら、司馬懿を見て一礼した。司馬懿はそれを複雑な心境で受け、故に厳しい表情を崩すことはなかった。
この戦いで最大の利益を手にしたのは劉備だ。そして、それを成就させたのが孔明。自分は孔明によって踊らされたのではないのか――――そんな思いが
火見が恐る恐る曹操に近付いた。曹沖の言葉を伝えなければならない。
「丞相、よろしいでしょうか?」
「どうした、火見?」
「私は目覚める前まで太陰界というところに行っていました。そこで曹沖様とお会いしました」
「なに……」
それを聞いた曹操の表情が
「そこで曹沖様から丞相への言伝をお預かり致しました……」
「……聞こう」
「はい……。『孝にもとる行為をお許しください。これからもずっと父上を誇りに思っています』と、そのように申されました」
それを聞いた曹操は力が抜けたかのように馬から滑り落ちた。
孝にもとる――――それはすなわち親より先に先立つ不孝のことを言っている。
「丞相!」
「父上!」
司馬懿と
「どうなされましたか、丞相?」
司馬懿が尋ねた。気が抜けたように曹操が呟く。
「
「何ですと?」
それは何事にも動じない曹操でさえ放心する程、ショッキングな知らせであった。
がっくりと肩を落とした曹操の姿は英雄のものではなく、一人の父親のものであった。
「倉舒が死んだ……? そんな……」
曹丕も曹彰も
「まさか……」
司馬懿も信じられないといった様子で呟いた。敗戦よりも重苦しい雰囲気が辺りを暗く覆った。それを晴らすように火見が希望の言葉をかけた。
「死んだのではありません。太陰界で生きておられるのです」
自身がその目で太陰界を見てきた。それは死後の世界であっても、亡くなった人々の魂はこの世の人々と同じ様に生きている――――火見はそう感じた。
「左様。太陽界を去った者たちは、太陰界で生きるのでございます」
左慈が火見の言葉を肯定して言った。
「太陰界で生きている……」
曹操がぼそっと呟いた。手を差し出す。曹操は息子たちに助けられて立ち上がると、再び馬に
馬が進むに任せ、曹操はただそれに揺られた。言葉はなく、どこを見つめているのかも分からない。群臣たちはこれほど気落ちした主君を見たことがなく、慰めの言葉もかけることができずに
自分が生まれる前にあった清濁の戦いと、いつ訪れるか分からない未来の戦い。
その過去と未来の両域で立ちはだかる敵は梁冀。漢王朝を実質的に支配して専横を振るい、死してなお
曹騰、
曹騰と胡廣は共に梁冀に
曹操はそれを直接祖父から聞いたわけではない。曹操が勝手にそう考えているだけだ。だが、それは間違っていないように思う。曹騰は梁冀が
「この頭痛はあの世から祖父が何かを訴えてきているのかもしれないな」
ようやく曹操が呟くように口を開いた。
「烏角先生に聞きたいことがある」
「何でしょうか?」
退却する曹操の敗残軍に同行していた左慈が聞いた。
「太陰界がこの世界と表裏一体であることは分かった。太陰界が大きく乱れているのは、この太陽界が長い間治まらぬからだな?」
「その通りでございます」
「ならば、わしが治めてみせよう」
曹操が力強く言った。左慈もその英雄の言葉を待っていた。
「はい。そのためにも、今、あなた様に死んでもらっては困るのです」
「そなたが昔からオレに付き
曹操は過去を振り返って聞いた。今でこそ奇妙な老人がこの左慈だと分かっているが、曹操は人生の中で何度か
「それはいずれ……。太陰界でもあなた様の力は必要でございます」
「死んだら死んだで、オレも太陰界で戦うことになるのだな?」
「そうして頂ければ。今は孫文台殿が活躍されておられますが……」
「ははは、そういうことなら、死んでも退屈はしないな」
曹操は記憶の彼方から孫堅の武人らしい精悍な顔を思い起こした。孫堅が死んだのは、もうずっと前のことだが、その男の記憶はしっかりと曹操の中にある。
「ひとまず陰陽境界の崩壊が避けられ、安心致しました。丞相もご安心を。曹沖様は文台殿が面倒を見ておられます」
「……そうか」
孫堅もまた志を同じくした曹操の盟友であった。その男が息子を預かってくれている。
「はい。私は文台殿にこちらで起こった陰陽の戦いの
「分かった」
曹操の目の
「仙人ともなると、両界を行ったり来たり。大層忙しいんだな」
失意のどん底から鮮やかに蘇った曹操がまるで人ごとのように言い、ひょうきんな顔を作って司馬懿に向けた。
『何というお方であろうか……』
曹操の
「……どうした、仲達? 生き残ったというのに、浮かぬ顔だな」
曹操に合わせて気を取り戻した司馬懿が、気になっていたことを聞いてみた。
「……いえ、一つ
「何だ、言うてみよ」
「……はい。丞相は敵であるのに、劉備のことを大層信頼しているのでございますな」
「そのことか。
曹操は
「英雄を知るは英雄のみ、だ。……ま、お前にもそのうちそんな相手が現れるだろう」
「はい……」
司馬懿はそれを聞いて、それが諸葛孔明という男になるだろうことを確信した。
「文台が戦っているというのなら、奉孝もあっちで知恵を発揮しているのかもな。
気丈に振る舞っていた曹操だが、思わず涙が零れそうになって天を仰ぐと、太陰界へ去っていった息子や家臣たちに想いを
これは
『激しいけれど、温かい火……』
二人の英雄の後ろに続きながら、火見は曹操の背中を見つめていた。
その内側に燃える火。その赤い揺らめきを……。そして、
『私はこの人を通して未来を見ていたんだわ……』
火見もまたそれを確信して、許都への帰路に就いた。
赤壁で、その戦いを見届けた火見たち倭国の一行が曹操に従って許都へ帰還したのは、翌建安十四(二〇九)年、正月のことである――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます