其之十六 死中の活

 

 徘徊はいかいする死者の軍団。悪しき夢幻の光景。しかし、それは現実として目前にある。しかばねと化した兵士や朽ち果て白骨となった民衆たち。その体を黒い邪気に乗っ取られ、生者を襲う死者の軍団となって押し寄せてきていた。それは南からだけではない。北からも死者の軍団が迫り来ていた。先の長坂坡ちょうはんはの戦いで散っていった多くの亡骸なきがらだ。黒く滲んだ霧の中でそれらと遭遇し、劉備りゅうび軍と江東軍の兵士たちの多くはその異様極まりない光景に仰天して、収拾する間もなく四散してしまった。

 勝軍を率いていたはずの劉備は突如として敗軍の将となってしまい、僅かに残った兵士をまとめ、この谷へ逃げ込んできたのである。

「ここで食い止めるしかないぞ!」

 小さな谷が逃げ込んできた者たちでいっぱいになっている。劉備はもう逃げようがないのを見て取り、意を決して叫んだ。それはこの谷に集った生者全員に聞こえた。

 状況を把握した関羽かんうが号令した。

翼徳よくとく子龍しりゅう、兄上をお守りするぞ」

「おう!」

 兄弟たちは長兄を死者の軍団から死守するために、北口の劉備のもとへ急いだ。

「これも以前に見た光景だな」

 死を逃れたが、さらなる死が迫ろうとしている。しかし、泰然と構える曹操に動揺はない。ライバルであり、盟友である劉備のげき曹操そうそうにも聞こえた。それは自分に言っているのだと思った。曹操も決戦の意志を固める。曹操孟徳の戦は勝利の戦だ。

「仲達、いるか?」

「はっ、ここに」

「お前はオレだ。オレに代わり、残った将兵を率いて南口を封鎖せよ」

「御意」

 畏まって司馬懿しばいが答える。高揚する感情を抑えながら。主君の代理を任せられたのだ。

「丞相のご命令だ。全軍、我に続け!」

 司馬懿が声を大にして号令した。大役である。完全に臆病は吹き飛んでなくなっていた。冷静に努めようとしてみたものの、内心に湧き上がるその興奮はいつまでも抑えられず、司馬懿の足は自然と走り出していた。


 曹操軍。劉備軍。江東軍。西涼軍。運命が重なり、一同に会すことになった四つの軍勢。しかし、そこに敵味方の区別はなかった。あるのは、生者と死者の区別のみだ。

鶴翼かくよくの陣を敷く。張将軍は左翼、趙将軍は右翼、関将軍は正面を!」

 孔明が羽扇を振って、三将に指示を出した。鶴翼はⅤ字に陣を構えることにより、左右正面の三方向から敵を攻撃できる。

「我等も加勢致す! 孫匡そんきょう様は尚香しょうこう様をお守りください!」

 生死の瀬戸際に立たされたことを知った魯粛ろしゅくも尚香の護衛を孫匡に任せ、自ら江東軍を率いて鶴翼の一角に加わって、陣を厚くした。

「もう一回、殺してやる! かかってこい!」

 張飛がえ、有言実行、無言で突き進んできた亡者の群れを片っ端から粉砕していく。趙雲は寡黙かもくに、沈着に、しかしながら、張飛に負けず劣らずの活躍ぶりだ。

 恐れを知らぬ屍兵しへいたちは気迫をみなぎらせて意気衝天の張飛と趙雲の前に群れ集まる。が、それらはことごとく突かれ、斬られ、砕かれ、ぎ倒され、弾き飛ばされる。

「兄上、ここはお任せください」

 関羽が関平かんぺい周倉しゅうそうとともに劉備の前に仁王立ちになって言った。

「ぬうぅぅんっ!」

 咆哮ほうこうを上げた関羽が豪快に青龍偃月刀を一閃すると、一度に数個の首が飛ぶ。

 関平と周倉も押し寄せる亡者を一体漏らさず斬り捨て、まさに鉄壁の守りである。

 彼ら勇気絶倫、一騎当千、鬼神の如き猛将たちの存在は死者に襲われて戦意を喪失しかかっていた兵士たちに生への一縷いちるの望み、大いなる勇気を与えた。

 それぞれ残った力を振り絞って、死者に立ち向かう。

「任せたぞ、雲長」

 劉備は戦いを孔明と弟たちに任せ、自らは谷の中央へ馬を進めた。

「曹操のもとへ行くのでしょう。私も行きます」

 孫尚香がそう言って劉備の脇に付いた。そして、

「この邪気の向かう先は曹操殿。私も参りましょう」

 左慈さじが言って、それに続いた。


 谷の反対側では司馬懿が同じ様に鶴翼の陣を敷いて、死者の軍団を迎え撃っていた。さすがに曹操軍の諸将たちは勇敢で、亡者の群れを前に敗戦の鬱憤うっぷんを晴らすかのように暴れた。左翼を指揮するのは曹休そうきゅう曹真そうしんだ。若き両将がよく兵をまとめて、屍兵の軍団に立ちはだかる。中でも、突出した働きをしているのが同じく左翼に加わった曹彰そうしょうで、

「っりゃああ!」

 槍を振り回し、押し寄せる屍兵を次々と突き倒す。自らの武勇を発揮するのに飢えていた曹彰は父も認めるその類稀たぐいまれな武芸を披露して、

「どうですか、老驥ろうき先生!」

 軍を指揮する司馬懿にアピールした。司馬懿が頷いて、それに応える。

 右翼は許褚きょちょ満寵まんちょうが担っていた。許褚は力が過ぎたせいで、屍兵数体を造作もなく寸断したのはいいが、勢い余って岩壁まで砕いて長刀を追ってしまった。一瞬、呆然ぼうぜんとして折れた長刀を見つめる許褚。その脇から頭骨を露出させた屍兵が肉薄した。許褚は動じもせず、その顔面を左手でむんずとつかんで持ち上げると、右手で剣を抜いて屍兵の胴体を一刀両断した。さらに、

「これでも食らえっ!」

 上半身だけになったそれを群れの中にぶん投げた。それが数体を打ち倒して、もろい体をばらばらにする。兵士たちが喚声を上げ、奮い立つのを見て、

「相変わらず、目を疑う膂力りょりょくですな」

 満寵が許褚のその暴れっぷりに半ばあきれながら首を振った。

「陣を開けよ!」

 声がして、中央の陣が割れた。現れたのは馬鎧うまよろいを装備した二列の馬群。虎豹騎こひょうき

「最強の騎馬隊、虎豹騎の威力を見せてやる。冥途めいど土産みやげとせよ!」

 曹純そうじゅん率いる虎豹騎が一直線に突撃を敢行して、次々と屍兵たちを弾き飛ばした。

「何が最強の騎馬隊だ。西涼軍こそ最強よ」

 呟いたのは馬超ばちょう。馬超の西涼軍は虎豹騎に続く第二波として準備をしていた。

「ならば、それを天地に証明して見せよ」

 再び司馬懿が挑発するように馬超に言う。司馬懿は西涼軍を戦力にしようとして、馬超にそれを要請し、馬超も同意した。

 今は生者同士で争っている時ではないし、修羅場と化したこの戦場を生き残らなければ、お互い何の意味もない。

「ふん、我等西涼軍の強さをその目に焼き付けておけ!」

 馬超を先頭に、最強騎兵と称された西涼兵が突っ込んだ。馬超と龐徳ほうとくは槍を小脇に抱え、疾走する馬上から屍兵数体を一気に串刺しにして打ち捨てた。

 曹彰・許褚・馬超・龐徳。彼らの武勇と勇猛さは北口の三将に引けを取らない。


 合縁奇縁あいえんきえん。曹操と劉備の人生は幾度も交差するように宿命付けられているようだった。馬に乗った劉備がゆっくりと近付いてくるのを見て、故吏こり陳羣ちんぐんが拱手で迎えた。曹丕そうひ史渙しかんが剣を向けて警戒感をあらわにするも、曹操自身は全くそんな素振そぶりを見せず、自ら劉備に声をかけた。

「よう、玄徳。オレは天地と戦っているぞ。加勢に来たか」

「貴公を討つつもりが、何故かこうなってしまった。奇妙なものです」

 およそ敵対しているとは思えない軽妙な会話である。そのすぐ後ろで、孫尚香はその二人の不思議な関係性を黙って見つめた。

「ここでお前に会えたのは天が味方してくれたということだな。この戦いに勝利した後でいいものをくれてやろう」

 曹操は暗く閉ざされた天を睨みながら言った。その天からは再び黒気の龍が姿を見せ、その黒い巨体を雲間にうねらせた。先に華容で斬ったものの十倍はあろうかという巨大さだ。それが大地に黒い影を作る。闇夜が溶け込んだかのように黒く染まった大地からは絶えることなく黒気が噴出していて、そこから黒い蛇が何匹も生まれ出た。邪気を毒としてその身に含んだ陰気の大蛇だ。それらが大地をって、曹操に噛みつこうとした。

「はっ!」

 曹操は俊敏に飛び跳ね、倚天いてんの剣でそれらをまとめて斬り捨てた。あの胡公酒のお陰で、老いた体に若かりし頃の力が戻ってきていた。オレが負けることはない。自信もみなぎってくる。左右に従う曹丕と史渙に曹操が命じる。

「オレのことはいい。あいつらを守ってやれ」

 曹操の目の端で曹植そうしょくと文官たち、それに火見と難升米なそめが一つの集団となって、寄り固まり、右往左往して黒気の蛇から逃げている。まるで小魚の魚群のようだ。

「畏まりました」

 曹丕が父の命を受け、剣を振りながら後退した。史渙もそれに続く。

 馬上の劉備が飛びかかってきた黒気の蛇を交差させた雌雄の剣を振り払って斬り捨てた。黒い大地に落ちて霧散したその後から次の蛇が鎌首かまくびをもたげた。

「これは?」

「お前といっしょで、昔馴染なじみだ。オレには敵が多くてな、困っている」

 曹操はまるで冗談を飛ばすように言って、劉備に眉をひそめさせた。

「貴公はいつもそうだ。どんな状況でもそんな風だ。少しは動揺してもらいたい」

 劉備は曹操の心の強さに苦言を呈した。赤壁に敗戦し、敵将に首を討たれる寸前にもかかわらず、邪悪な敵に逃げ道をふさがれ、天地から襲いかかられても、余裕綽綽しゃくしゃくの態度を崩さない。一見、無頓着に映るその態度に呆れながらも、それが強靭きょうじんな精神力ゆえのものであるのも知っている劉備は年を重ねても変わらぬ曹操の強さを見せつけられて、口元を緩めた。曹操を敵とする劉備にとって、この何事にも動じない精神力の強さこそが最も手強てごわくもあり、畏敬いけいさせられる部分でもあるのだ。

 劉備もまたこの絶体絶命のピンチに動じていない。関羽・張飛・趙雲という心強い義弟おとうとたちに支えられ、諸葛孔明という知謀千万せんばんの軍師を得て、曹操を打ち負かした。何より、死者対生者というこの状況においては曹操は敵ではない。味方だ。

 そう思うと、曹操の揺るぎない自信が自身にも伝染したかのように心を満たすのだ。尚香はそんな二人の関係を見せつけられて、何も口を挟めなかった。父はこの二人と共に戦っていたのだろうかと思うと、何か感慨深いものを感じた。

「このっ!」

 曹操と劉備に見とれていた尚香の脇で、兄の孫匡が剣を振りながら、後退していた。黒気の蛇数匹が傷つき弱りかけた獲物を認め、その命を奪おうと襲いかかったのだ。

「兄上!」

 尚香が兄を助けに駆け出した。大地から生れ出た黒気の蛇は手負いの獲物を感知して、それを優先目標にした。蛇が狙ったのは孫匡だけではない。曹丕の横で、何匹もの蛇にたかられて、奮戦むなしく史渙が毒牙の一撃を受けた。

「ぐあっ……」

 史渙がうめいた。見れば、傷口から蛇が体をうねらせ、史渙の体内に侵入しようとしていた。史渙の後ろにいた火見は爺禾支やかしのことを思い出し、咄嗟とっさにそれを摑んで引き抜いた。火見の手の中で黒気の蛇が焼かれたように蒸発して消える。

「大丈夫ですか?」

「何の、これしき!」

 剛の史渙は傷口を抑えながらも、片手で剣を振り下ろして、群がる黒気の蛇を斬った。

子桓しかん公劉こうりゅう、皆をそこのくぼみに集めよ!」

「はい!」

 曹丕と手負ておいの史渙が文官たちを守りながら、崖がくびれ、半ばいわやのようになったところへ下がらせる。火見と難升米も曹操軍の文官たちと一緒に崖の隙間に避難し、龐統ほうとうもそれに紛れ込んだ。火見が龐統に気付いて、その風貌にハッとした。

 諸葛孔明と共に湘君廟しょうくんびょうで見た幻影の中に登場した男――――。

鳳雛ほうすう先生、生きていらっしゃいましたか」

 曹操軍の敗北を招いた一人であるということを知らない曹植が声をかけ、龐統を迎えた。

「死中から抜け出してきました」

 龐統は曹植の隣に身を置いて、悪びれる様子もなく答えた。

「六陰は天を覆い、しかばね起きて地を動めく。伝説にある蚩尤しゆうの再来か。先生はこの騒擾そうじょうの原因は何だとお考えですか?」

 曹植が華容からの出来事を詩的に表現するとともに、龐統に尋ねた。当然だが、龐統にも生者と死者が入り混じる渾然こんぜん一体の原因は分からない。

 しかし、曹植の言葉がヒントになって、思い出されたことがあった。

「蚩尤の伝説と聞いて思い出しましたが、以前武陵にいた時、びょう族の巫術ふじゅつに死体を操る術があるというのを聞いたことがあります。確か〝趕屍かんし術〟と言っていましたか……」

 蚩尤は武器を発明した戦の神で、古代中国の伝説に登場する黄帝こうてい(聖なる五帝のうち最初の人物)に反乱を企てた邪神でもある。人面獣身、銅の頭と鉄のひたいを持っていたといい、性格は勇敢ながら、邪悪で狂暴、魑魅魍魎ちみもうりょうを操り、煙霧を起こして黄帝に戦いを挑んだ。

 黄河のほとりで行われた両者の戦いは壮絶だったようで、おびただしい戦死者が野に溢れ、その血が川を作ったという。激戦の末、戦いは黄帝の勝利に終わった。

 敗れた蚩尤は殺された。蚩尤軍の敗残兵の中に巫術をろうする者がおり、この戦いで戦死した者たちを故郷へ返そうと考えた。その際に用いられたのが趕屍術であった。

 術者の命令に従うようにそれぞれの額に呪符じゅふを貼り付けられた死体は両手を伸ばして胸の前に掲げ、銅鑼どらを鳴らす術者の後に列をなして整然と移動したのだという。

「趕屍術は異郷で死んだ者を自ら歩かせて連れ帰る術だと聞きましたが、それを応用したものかもしれません」

「では、死体を操っている術者がどこかにいるということですか?」

「そう思います」

 自ら朱雀すざくを呼び出す方術を為した龐統である。それは確信に満ちた言葉だったが、その術者がどこにいるのかは見当が付かない。


 そこから少し離れたところで劉備と孫尚香、孫匡が戦っていた。

 劉備は馬上から両手に握った雌雄の剣を振って、飛びかかってくる黒気の蛇を斬り裂き、後方の孫尚香も父親譲りの武芸と父の形見の古錠刀こていとうで黒気の蛇を寄せつけないでいた。その横に付けていた孫匡は未だ残る脱力感からか、動きがぎこちない。

 妹を護衛するつもりだった兄は逆に妹に守られて、何とか黒気の蛇たちの攻撃を撃退していた。体力をすり減らし、ひざを付いた孫匡に飛びかかろうとした黒蛇。尚香はそれを認めると、舞うように体を投げ出して、斬って捨てる。そのまま宙を泳いで、うつ伏せに着地した。無防備となった背中。尚香の背後に危機が迫った。思うように動かない体に苦悶くもんの表情の孫匡が口だけを動かして、叫んだ。

「尚香!」

 鎌首をもたげた黒の大蛇。凶悪な口が開かれ、黒い毒牙が彼女の首筋を狙う。体を反転させるのも間に合わない。

「危ない!」

 次の瞬間、それは首を斬り払われて、霧散した。斬ったのは劉備だった。

 その勢いで劉備の体は地面に激しく叩き付けられた。尚香の危機を救うため、尚香と同じように身を投げ出したのだ。しかも、馬上から。

「え……」

 尚香はその劉備の行為に驚いた。同盟関係にあるとはいえ、命を危険にさらしてまで助ける義理はないはずだ。何より相手は同盟先の君主であり、頭領なのである。

 尚香はまじまじと劉備の顔を見つめ、痛みをこらえて立ち上がるその姿を目で追った。劉備はなおも尚香に近づく蛇を斬り捨て、その身を盾とした。

「大丈夫か、玄徳。こっちへ来い!」

 曹操が劉備を呼んだ。曹操は崖の窪地の前で壁を背にして事態に対処していた。

「立てるか?」

 劉備は振り返って、放心しているかのような尚香の細腕ほそうでを取った。

 その手の感触に尚香が我に返る。

「……あ、ええ……大丈夫です」

「あそこへ入るぞ」

「……はい」

 尚香は劉備の指示に素直に従った。兄の孫匡を助け、曹丕と史渙が守る窪地へと走った。火見が尚香に気付いて、

「あなた、どうしてここに?」

 そう言いながらも、尚香の手を取って窪地へと招き入れた。

 邪気が生み出す陰気の化け物と屍兵たちがうごめく中を左慈だけは平然と歩き抜けて、火見たちが隠れる窪地へやってきた。その理由を、

「あれらは陽気に引き付けられておる」

 そう語ると、左慈は腰の麻縄あさなわを投げ出して、

りんぴんとうしゃかいじんれつぜんぎょう

 九句を唱えるのと共に、指先で宙に縦四本横五本の井桁いげたを描いて、印を切った。

 窪地に霊気の結界を張ったのだ。一時的に邪を寄せ付けなくする仙術である。

「この縄の内側におれば、あれらに襲われることはございません。声を出さず、この場で静かに身を潜めていなされ」

 左慈はそう忠告を送りながらも、自身の仙術にもこの陰気の大暴走を止める手段がないのを知っていたため、険しい顔を崩さなかった。

 天も地も陰気で黒く閉ざされた空間に陽気はほとんど残っていない。これでは生き残った者たちが陰気で窒息ちっそくさせられるのも時間の問題だ。


 戦況は次第に悪化してきた。切りがないのだ。黒気の蛇は暗く染まった大地から無尽蔵に湧いて出てくる。元より死んでいる屍兵に死はない。首を飛ばされ、体を寸断されて倒れたと思った屍兵たちが再び立ち上がり、大地をう。実体のない黒気が死体を乗っ取って、それを動かしている。死も疲れも知らない不死の軍勢は疲労と消沈で動きの鈍くなった生者の軍勢を圧倒し始めた。

 関羽や張飛、趙雲、曹彰、許褚など谷の両口を守る猛将たちは相変わらず獅子奮迅ししふんじんしてまなかったが、一般の兵士たちはじりじりと後退して、陣形を維持できなくなった。怒濤どとうの如く押し寄せる死者の群れを前に、

「耐え忍べ!」

「退くな! 退いたら、一気に壊滅するぞ!」

 孔明と司馬懿が声を上げて、兵士たちに奮戦を促した。共に神器の力をもう一度使って絶体絶命の状況をくつがえしたいところだったが、頼みの神器は失われてもうその手にはない。

 彼らの後ろで、この戦いで命を落とした兵士たちの亡骸なきがらが邪気に乗っ取られて真新しい屍兵に変わる。それらが起き上がり、あるいは地面を這って曹操と劉備のもとへ向かった。

「何か策は?」

 劉備が屍兵を一体斬り伏せ、背中を合わせに曹操に聞いた。昔からどんな困難な状況をも打開し、危機を切り抜ける知謀を披露してきたのが曹操という男である。

「もう少し考えさせろ」

 曹操も突進してきた屍兵を斬り捨てて、背中越しに答えた。

 そこには孔明や司馬懿の他にも荀攸じゅんゆう賈詡かく、龐統といった錚々そうそうたる謀臣がそろっていたが、誰もこの状況を打破する妙策をひねり出せないでいた。

「そんな時間はなさそうだ」

 劉備が上空を見たのに釣られ、曹操もそれを見た。巨大な黒気の龍が竜巻のように体をわだかまらせながら降下してくる。万事休ばんじきゅうすか――――。

 その時、火見の双眸そうぼうは曹操の中にともる火に注がれていた。火勢かせいが翼のように伸びている。

「丞相の中にあるその火は?」

「……ん?」

 曹操がふところの赤火珠を押さえた。火見はそれに宿る炎に起死回生の未来を見た。

 鏡の中から火の鳥が再び現れて、屍兵と邪気を焼く尽くす勝利の光景――――。

 微かに残った夢の欠片かけらうずいた。ハッとして火見が後ろを振り向く。この風貌のえない男が火の鳥が封じられた鏡を拾ったのを知っている。火見が龐統に走り寄った。

「鏡を貸してください!」

「……いや、もうない」

 どうしてこんな少女が朱雀鏡のことを知っているのか?

 血相けっそうを変えた火見の要求に龐統は驚きながらも、両手を出してそれがないことを教えた。赤壁で曹操軍を焼いた後、朱雀はどこかへ消え去って、朱雀鏡も龐統の手になかった。

 その時、曹操の赤火珠が弾けるように一瞬赤く光った。所有者に天運を授ける天宝。

「何だ?」

 所有者である曹操自身が目を疑った。突然、地面から大量の黒気と一緒に赤気せっきが噴き出してきて、それがまとまって銅鏡を形作ると、火見の前に落ちたのだ。

 地宝・朱雀鏡。再び朱雀を背面に宿らせて現れ出た霊宝。朱雀の目にめ込まれた紅玉ルビーが霊力をみなぎらせた証に、怪しくきらめいた。

 火見は考えるより早く左慈が張った結界を飛び出して、それを拾い上げた。

 そこにとある屍兵が近付いてきて腕を伸ばした。

「爺禾支?」

 火見が後ろにのけぞって腰を付きながらも、その屍兵の正体に気付く。それと同時にネックレスが光った。母・日見がお守りとして持たせた赤い瑪瑙めのう勾玉まがたま

 娘・火見の危機にまばゆい光が発して、その光は天に昇って暗雲を突き抜けた。

 そのわずかに開いた雲間から一条の陽光が差し込んで、火見の手の朱雀鏡に降り注いだ。陽光が鏡の鏡面に反射して、断崖の岩壁に朱雀の紋様が投影された。

 魔鏡まきょう現象――――鏡の僅かな凹凸おうとつの違いが生み出す、裏面の紋様がけて浮かび上がる現象。壁に映った朱雀の紋様が動いて、本物の朱雀、火の鳥が飛び出した。

 闇の中に強烈な閃光がほとばしり、火見は思わず目を閉じた。

「……!」

 曹操。劉備。尚香。孔明。司馬懿。陰陽の狭間にいた誰もが煌めく閃光と熱気に思わず身をかがめ、言葉を呑み込み、目を閉じ、顔を覆った。左慈だけを除いて。

『この過密な陰気が再び神器に力を漲らせ、一方で陰陽の境に穴を開けたか。これもの者の引き寄せた天運……』

 地宝である神器は地気、つまり、陰気をその霊力の源とする。そして、河図かとのような魔法陣も屈原くつげん祝詞のりとのような呪文も介さず、おのずと霊獣を出現させた。

 突如として現れ出た火の鳥は噴出する黒い邪気を一瞬にして霧散させ、屍兵の上を羽ばたいて中に宿った邪気を焼き払い、谷間を滑空して、その全てを灰にした。

 爺禾支の亡骸なきがらも例外ではない。炎に包まれて崩れ落ちる爺禾支の亡骸から、彼の最期の意思が解き放たれた。

『さらばだ……火見……』

 薄れゆく意識の中で、火見は去りゆく爺禾支の声を聞いた。

 火の鳥は甲高い声を上げて一鳴きすると、上空へ急上昇して、黒気の龍に体当たりした。降る龍と昇る鳳凰の激突。闇と光の攻防。黒い陰龍の巨体の中を炎の陽鳥が切り裂くように突き抜けていく。火の鳥の光と熱は黒気の龍の闇と冷気を中和させて、ついには暗雲を突き抜け、その遥か上方で双方が消えるように霧散してなくなった。

 音もなく暗雲と黒霧が晴れてゆく。立ち込めた陰気がなくなり、静かに陽気が戻ってきた。谷間に陽光が差し込んで、生き残った者たちを優しく照らした。

 激しい熱さが薄らいでいき、心地よいぬくもりとなって体を包む。皆が目をそっと開ける。何もなかった。全てが終わっていた。

 その陰陽の戦いの結末を見たのは左慈だけだった。



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