其之十六 死中の活
勝軍を率いていたはずの劉備は突如として敗軍の将となってしまい、僅かに残った兵士をまとめ、この谷へ逃げ込んできたのである。
「ここで食い止めるしかないぞ!」
小さな谷が逃げ込んできた者たちでいっぱいになっている。劉備はもう逃げようがないのを見て取り、意を決して叫んだ。それはこの谷に集った生者全員に聞こえた。
状況を把握した
「
「おう!」
兄弟たちは長兄を死者の軍団から死守するために、北口の劉備のもとへ急いだ。
「これも以前に見た光景だな」
死を逃れたが、さらなる死が迫ろうとしている。しかし、泰然と構える曹操に動揺はない。ライバルであり、盟友である劉備の
「仲達、いるか?」
「はっ、ここに」
「お前はオレだ。オレに代わり、残った将兵を率いて南口を封鎖せよ」
「御意」
畏まって
「丞相のご命令だ。全軍、我に続け!」
司馬懿が声を大にして号令した。大役である。完全に臆病は吹き飛んでなくなっていた。冷静に努めようとしてみたものの、内心に湧き上がるその興奮はいつまでも抑えられず、司馬懿の足は自然と走り出していた。
曹操軍。劉備軍。江東軍。西涼軍。運命が重なり、一同に会すことになった四つの軍勢。しかし、そこに敵味方の区別はなかった。あるのは、生者と死者の区別のみだ。
「
孔明が羽扇を振って、三将に指示を出した。鶴翼はⅤ字に陣を構えることにより、左右正面の三方向から敵を攻撃できる。
「我等も加勢致す!
生死の瀬戸際に立たされたことを知った
「もう一回、殺してやる! かかってこい!」
張飛が
恐れを知らぬ
「兄上、ここはお任せください」
関羽が
「ぬうぅぅんっ!」
関平と周倉も押し寄せる亡者を一体漏らさず斬り捨て、まさに鉄壁の守りである。
彼ら勇気絶倫、一騎当千、鬼神の如き猛将たちの存在は死者に襲われて戦意を喪失しかかっていた兵士たちに生への
それぞれ残った力を振り絞って、死者に立ち向かう。
「任せたぞ、雲長」
劉備は戦いを孔明と弟たちに任せ、自らは谷の中央へ馬を進めた。
「曹操のもとへ行くのでしょう。私も行きます」
孫尚香がそう言って劉備の脇に付いた。そして、
「この邪気の向かう先は曹操殿。私も参りましょう」
谷の反対側では司馬懿が同じ様に鶴翼の陣を敷いて、死者の軍団を迎え撃っていた。さすがに曹操軍の諸将たちは勇敢で、亡者の群れを前に敗戦の
「っりゃああ!」
槍を振り回し、押し寄せる屍兵を次々と突き倒す。自らの武勇を発揮するのに飢えていた曹彰は父も認めるその
「どうですか、
軍を指揮する司馬懿にアピールした。司馬懿が頷いて、それに応える。
右翼は
「これでも食らえっ!」
上半身だけになったそれを群れの中にぶん投げた。それが数体を打ち倒して、
「相変わらず、目を疑う
満寵が許褚のその暴れっぷりに半ば
「陣を開けよ!」
声がして、中央の陣が割れた。現れたのは
「最強の騎馬隊、虎豹騎の威力を見せてやる。
「何が最強の騎馬隊だ。西涼軍こそ最強よ」
呟いたのは
「ならば、それを天地に証明して見せよ」
再び司馬懿が挑発するように馬超に言う。司馬懿は西涼軍を戦力にしようとして、馬超にそれを要請し、馬超も同意した。
今は生者同士で争っている時ではないし、修羅場と化したこの戦場を生き残らなければ、お互い何の意味もない。
「ふん、我等西涼軍の強さをその目に焼き付けておけ!」
馬超を先頭に、最強騎兵と称された西涼兵が突っ込んだ。馬超と
曹彰・許褚・馬超・龐徳。彼らの武勇と勇猛さは北口の三将に引けを取らない。
「よう、玄徳。オレは天地と戦っているぞ。加勢に来たか」
「貴公を討つつもりが、何故かこうなってしまった。奇妙なものです」
およそ敵対しているとは思えない軽妙な会話である。そのすぐ後ろで、孫尚香はその二人の不思議な関係性を黙って見つめた。
「ここでお前に会えたのは天が味方してくれたということだな。この戦いに勝利した後でいいものをくれてやろう」
曹操は暗く閉ざされた天を睨みながら言った。その天からは再び黒気の龍が姿を見せ、その黒い巨体を雲間にうねらせた。先に華容で斬ったものの十倍はあろうかという巨大さだ。それが大地に黒い影を作る。闇夜が溶け込んだかのように黒く染まった大地からは絶えることなく黒気が噴出していて、そこから黒い蛇が何匹も生まれ出た。邪気を毒としてその身に含んだ陰気の大蛇だ。それらが大地を
「はっ!」
曹操は俊敏に飛び跳ね、
「オレのことはいい。あいつらを守ってやれ」
曹操の目の端で
「畏まりました」
曹丕が父の命を受け、剣を振りながら後退した。史渙もそれに続く。
馬上の劉備が飛びかかってきた黒気の蛇を交差させた雌雄の剣を振り払って斬り捨てた。黒い大地に落ちて霧散したその後から次の蛇が
「これは?」
「お前といっしょで、昔
曹操はまるで冗談を飛ばすように言って、劉備に眉をひそめさせた。
「貴公はいつもそうだ。どんな状況でもそんな風だ。少しは動揺してもらいたい」
劉備は曹操の心の強さに苦言を呈した。赤壁に敗戦し、敵将に首を討たれる寸前にもかかわらず、邪悪な敵に逃げ道を
劉備もまたこの絶体絶命のピンチに動じていない。関羽・張飛・趙雲という心強い
そう思うと、曹操の揺るぎない自信が自身にも伝染したかのように心を満たすのだ。尚香はそんな二人の関係を見せつけられて、何も口を挟めなかった。父はこの二人と共に戦っていたのだろうかと思うと、何か感慨深いものを感じた。
「このっ!」
曹操と劉備に見とれていた尚香の脇で、兄の孫匡が剣を振りながら、後退していた。黒気の蛇数匹が傷つき弱りかけた獲物を認め、その命を奪おうと襲いかかったのだ。
「兄上!」
尚香が兄を助けに駆け出した。大地から生れ出た黒気の蛇は手負いの獲物を感知して、それを優先目標にした。蛇が狙ったのは孫匡だけではない。曹丕の横で、何匹もの蛇にたかられて、奮戦
「ぐあっ……」
史渙が
「大丈夫ですか?」
「何の、これしき!」
剛の史渙は傷口を抑えながらも、片手で剣を振り下ろして、群がる黒気の蛇を斬った。
「
「はい!」
曹丕と
諸葛孔明と共に
「
曹操軍の敗北を招いた一人であるということを知らない曹植が声をかけ、龐統を迎えた。
「死中から抜け出してきました」
龐統は曹植の隣に身を置いて、悪びれる様子もなく答えた。
「六陰は天を覆い、
曹植が華容からの出来事を詩的に表現するとともに、龐統に尋ねた。当然だが、龐統にも生者と死者が入り混じる
しかし、曹植の言葉がヒントになって、思い出されたことがあった。
「蚩尤の伝説と聞いて思い出しましたが、以前武陵にいた時、
蚩尤は武器を発明した戦の神で、古代中国の伝説に登場する
黄河のほとりで行われた両者の戦いは壮絶だったようで、
敗れた蚩尤は殺された。蚩尤軍の敗残兵の中に巫術を
術者の命令に従うようにそれぞれの額に
「趕屍術は異郷で死んだ者を自ら歩かせて連れ帰る術だと聞きましたが、それを応用したものかもしれません」
「では、死体を操っている術者がどこかにいるということですか?」
「そう思います」
自ら
そこから少し離れたところで劉備と孫尚香、孫匡が戦っていた。
劉備は馬上から両手に握った雌雄の剣を振って、飛びかかってくる黒気の蛇を斬り裂き、後方の孫尚香も父親譲りの武芸と父の形見の
妹を護衛するつもりだった兄は逆に妹に守られて、何とか黒気の蛇たちの攻撃を撃退していた。体力をすり減らし、
「尚香!」
鎌首をもたげた黒の大蛇。凶悪な口が開かれ、黒い毒牙が彼女の首筋を狙う。体を反転させるのも間に合わない。
「危ない!」
次の瞬間、それは首を斬り払われて、霧散した。斬ったのは劉備だった。
その勢いで劉備の体は地面に激しく叩き付けられた。尚香の危機を救うため、尚香と同じように身を投げ出したのだ。しかも、馬上から。
「え……」
尚香はその劉備の行為に驚いた。同盟関係にあるとはいえ、命を危険に
尚香はまじまじと劉備の顔を見つめ、痛みを
「大丈夫か、玄徳。こっちへ来い!」
曹操が劉備を呼んだ。曹操は崖の窪地の前で壁を背にして事態に対処していた。
「立てるか?」
劉備は振り返って、放心しているかのような尚香の
その手の感触に尚香が我に返る。
「……あ、ええ……大丈夫です」
「あそこへ入るぞ」
「……はい」
尚香は劉備の指示に素直に従った。兄の孫匡を助け、曹丕と史渙が守る窪地へと走った。火見が尚香に気付いて、
「あなた、どうしてここに?」
そう言いながらも、尚香の手を取って窪地へと招き入れた。
邪気が生み出す陰気の化け物と屍兵たちが
「あれらは陽気に引き付けられておる」
そう語ると、左慈は腰の
「
九句を唱えるのと共に、指先で宙に縦四本横五本の
窪地に霊気の結界を張ったのだ。一時的に邪を寄せ付けなくする仙術である。
「この縄の内側におれば、あれらに襲われることはございません。声を出さず、この場で静かに身を潜めていなされ」
左慈はそう忠告を送りながらも、自身の仙術にもこの陰気の大暴走を止める手段がないのを知っていたため、険しい顔を崩さなかった。
天も地も陰気で黒く閉ざされた空間に陽気はほとんど残っていない。これでは生き残った者たちが陰気で
戦況は次第に悪化してきた。切りがないのだ。黒気の蛇は暗く染まった大地から無尽蔵に湧いて出てくる。元より死んでいる屍兵に死はない。首を飛ばされ、体を寸断されて倒れたと思った屍兵たちが再び立ち上がり、大地を
関羽や張飛、趙雲、曹彰、許褚など谷の両口を守る猛将たちは相変わらず
「耐え忍べ!」
「退くな! 退いたら、一気に壊滅するぞ!」
孔明と司馬懿が声を上げて、兵士たちに奮戦を促した。共に神器の力をもう一度使って絶体絶命の状況を
彼らの後ろで、この戦いで命を落とした兵士たちの
「何か策は?」
劉備が屍兵を一体斬り伏せ、背中を合わせに曹操に聞いた。昔からどんな困難な状況をも打開し、危機を切り抜ける知謀を披露してきたのが曹操という男である。
「もう少し考えさせろ」
曹操も突進してきた屍兵を斬り捨てて、背中越しに答えた。
そこには孔明や司馬懿の他にも
「そんな時間はなさそうだ」
劉備が上空を見たのに釣られ、曹操もそれを見た。巨大な黒気の龍が竜巻のように体を
その時、火見の
「丞相の中にあるその火は?」
「……ん?」
曹操が
鏡の中から火の鳥が再び現れて、屍兵と邪気を焼く尽くす勝利の光景――――。
微かに残った夢の
「鏡を貸してください!」
「……いや、もうない」
どうしてこんな少女が朱雀鏡のことを知っているのか?
その時、曹操の赤火珠が弾けるように一瞬赤く光った。所有者に天運を授ける天宝。
「何だ?」
所有者である曹操自身が目を疑った。突然、地面から大量の黒気と一緒に
地宝・朱雀鏡。再び朱雀を背面に宿らせて現れ出た霊宝。朱雀の目に
火見は考えるより早く左慈が張った結界を飛び出して、それを拾い上げた。
そこにとある屍兵が近付いてきて腕を伸ばした。
「爺禾支?」
火見が後ろにのけぞって腰を付きながらも、その屍兵の正体に気付く。それと同時にネックレスが光った。母・日見がお守りとして持たせた赤い
娘・火見の危機にまばゆい光が発して、その光は天に昇って暗雲を突き抜けた。
その
闇の中に強烈な閃光が
「……!」
曹操。劉備。尚香。孔明。司馬懿。陰陽の狭間にいた誰もが煌めく閃光と熱気に思わず身を
『この過密な陰気が再び神器に力を漲らせ、一方で陰陽の境に穴を開けたか。これも
地宝である神器は地気、つまり、陰気をその霊力の源とする。そして、
突如として現れ出た火の鳥は噴出する黒い邪気を一瞬にして霧散させ、屍兵の上を羽ばたいて中に宿った邪気を焼き払い、谷間を滑空して、その全てを灰にした。
爺禾支の
『さらばだ……火見……』
薄れゆく意識の中で、火見は去りゆく爺禾支の声を聞いた。
火の鳥は甲高い声を上げて一鳴きすると、上空へ急上昇して、黒気の龍に体当たりした。降る龍と昇る鳳凰の激突。闇と光の攻防。黒い陰龍の巨体の中を炎の陽鳥が切り裂くように突き抜けていく。火の鳥の光と熱は黒気の龍の闇と冷気を中和させて、ついには暗雲を突き抜け、その遥か上方で双方が消えるように霧散してなくなった。
音もなく暗雲と黒霧が晴れてゆく。立ち込めた陰気がなくなり、静かに陽気が戻ってきた。谷間に陽光が差し込んで、生き残った者たちを優しく照らした。
激しい熱さが薄らいでいき、心地よいぬくもりとなって体を包む。皆が目をそっと開ける。何もなかった。全てが終わっていた。
その陰陽の戦いの結末を見たのは左慈だけだった。
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