其之十五 報恩の刃
太陰界から噴出した陰気。その黒く
江陵を攻撃していた
「大都督、大変です。背後から敵の奇襲を受けました!」
息を切らして戻ってきた
「何? ……ちっ、
顔を歪めた周瑜が思わず卓上に両手をついて立ち上がった。背後を襲われたと聞いて、当然ながら、周瑜はそれが
周瑜の江東水軍は
徐晃が
しかし、想像を絶するスピードでそれが江陵に舞い戻ってきたと思い込んだのだ。
伏兵はなかったし、それしか考えられなかった。周瑜が怒気を
「後方の警戒は厳重にさせておいたはずだぞ。見張りは何をしていた?」
呂蒙が
「そ、それが、大都督……斥候の兵らが申すには、それらの兵は土中から現れたと……」
「死体ではあるまいし、そんな馬鹿なことが……」
周瑜は我が目を疑った。半分朽ち果て白骨を
「危ない、大都督!」
呂蒙が身を
「この死に損ないがっ!」
側に控えていた
「信じられん……」
その光景に周瑜は悪夢を見ている気がした。だが、それは現実としてそこにあった。戦場を見やると、死体が襲ってくるという異様な事態に
そして、そんな臆病はすぐに江東軍中に
「馬鹿な!」
周瑜がまた叫んだ。その前に音もなく黒い霧が漂ってきて、口からその体内に邪気が侵入しようとした。周瑜は気が遠くなるのに耐え、何とかそれを振り払った。
「ごほ……!」
「態勢を立て直しましょう。大都督、ここは一旦退却を」
「……分かった。前線の両名に
さすがに周瑜は事態を把握すると、最適な判断を下した。
「はっ。私が決死隊を率い、自ら参ります」
甘寧が勇躍して飛び出ていった。
形勢が逆転した。それも突如としてだ。敵勢が城に背を向け、江上に停泊している軍船を目指して後退している。それを創出しているのは、横合いから現れた軍勢だ。
城壁の上からそれを眺めていた
『この近くに軍を展開していたとは聞いていない。何かおかしい……』
どうにも
江陵を死守する防衛戦を指揮していた
「西涼兵が戻ってきたのか?」
独断専行して出撃していった
確かに江東軍は算を乱して敗走している。曹仁は城壁の上から瓦解する敵軍を観察すると、今が好機だとばかりに言う。
「よし、出撃だ。俺が自ら周瑜を蹴散らしてくれる」
「お待ちを。これはどうも違うようですぞ」
それを制止したのは馬超を
正体不明の軍勢は江東軍を敗走させたまでは良かったが、今度は江東軍に代わって城を攻撃し始めた。
「何だ、あいつらは?」
城門近くまで迫った謎の軍勢。曹仁がその
「
仰天した曹仁はそれが完全に死体の群れだと分かって、
「そのようですな……。陰気が人を病にし、命を奪うと聞いてはきましたが、死んだ者を蘇らせるという話は聞いたことがありません」
張仲景は冷静に答えてみたが、それだけだった。いくら名医であろうとも、死者に対する
その惨劇の最中にある江陵から東へ約百里(約四十キロメートル)。
一軍を率いて先行していた関羽は増水して巨大な湖と化していた
竟陵は華容の北、漢水沿いにある小県で、そこから漢水を
関羽が軍を留めるそこは道の両側が切り立った崖になっていて、兵を伏せるには絶好の場所であったし、地形が生み出した霧が辺り一面に漂って軍勢を包み隠してくれていた。だが、しかし……。
「
関羽が
関羽はどこからか漂ってくる殺気に似た空気を感じていた。自分たちのものではない。自分たちは殺気を抑え、草木のようになって曹操軍を待ち構えている。
だからこそ、この空気の
「曹公がこの空気に気付かないはずがない」
関羽の悪い予感はそこにあった。曹操もまた、数々の戦場を生き抜いてきた英雄だ。このピリピリするような空気感を感知して、ここを避けるかもしれない。
逆にそれを察して避けることをしなければ、曹操はここで死ぬことになる。
「まさか敵の援軍が近くまで迫っているのでは?」
「それはない。江陵は周瑜に攻められていて、援軍を出す余裕などないはずだ。何より、これは戦場が生み出している空気ではない」
関羽は息子・
気と気がぶつかり合う、そんな激しさはない。静かに、不気味に、重くのしかかる感じだ。周りに何もないのにもかかわらず……だからこそ、この空気の正体が
「では、何が……?」
「それが分からぬ」
そうは言いながらも関羽は微動だにせず、運命を天に任せて、一刻。
そこに
『老いたな、曹公』
心の中で
怪しい霧が立ち込める中、陸路に切り替えた劉備軍が関羽が待機する地点へ急行していた。勝利の追撃を指揮しながらも、劉備の顔はどこか浮かない。
「心中複雑でございますな」
孔明が主君の心情を察して言った。
「曹操が逃げおおせたら、それは奴に天運があったということだ。だが、曹操に死なれてしまっては、勝っても素直に喜べない」
曹操は宿敵だ。しかし、救国の
窮地に陥った自分を保護してくれたこともある恩人でありながら、自分を何度も窮地に陥れてきた張本人でもある。そして、曹操という英雄がいたからこそ、崩壊寸前の漢王朝は今まで何とか命脈を保ってきた。これは
「
馬上の孔明が
「
孔明にとっても、今、曹操に死なれては困る。曹操が死ねば、劉備の命も危うくなる。
曹操という絶対者を失った時、
曹操という脅威があるからこそ孫劉同盟が成立しているのであって、それが失われて困るのは弱小勢力の劉備であった。
天下三分の未来を打ち立てるためには、まずはこの戦いで曹操の勢力に大きな打撃を与えてその力を
その孔明の神算を聞いた時、劉備は孔明の
「孔明の計はまさに神妙。そうなってくれたら、言うことはない」
「後ろの方々は計算外でしたが……」
孔明が渋い顔で後続の一団を振り返った。
その江東勢が乱れていた。まるで敵の奇襲を受けたかのように。
「何が起こったのだ?」
劉備が驚いて孔明に聞いた。が、さすがの孔明にも分からない。こんなところに敵の伏兵があるわけはないのだ。孔明は眉をひそめた。
江東軍は陸路の追撃を想定していなかった。なので、兵は当然
江東軍の先頭に立って劉備軍を追尾していた魯粛が馬を止め、
「何があった?」
振り返って問うも、答えは返ってこない。しかし、その間にも兵たちの悲鳴は絶え間なく聞こえ、後続部隊が混乱している様子だけは霧のベールを通してもはっきりと伝わってくる。状況的に敵の伏兵に
「こんなところに伏兵だと?」
魯粛はそう言って
「敵の伏兵かっ!」
後続部隊を率いていた孫匡も周瑜や魯粛と同じく、この攻撃が曹操軍によるものだと勘違いした。剣を抜いた孫匡の正面。濃霧の中からヌッと現れ出た兵士。
ボロ布を
「兄上!」
尚香が馬から飛び下りて、孫匡の脚に咬みついた蛇を父の形見の
「お
「ああ。少し
孫匡は脚を抑えながら、剣を取って何とか立ち上がる。そして、腕を失ってなお近付いてくる死兵の首を刎ねた。そこから黒い陰気が放出され、また霧に溶け込む。
死兵は首を失って、ようやく動きを止めて崩れ落ちた。
「……こ奴らは何なのだ?」
まだ動揺が収まらない孫匡が妹に問う。兄と同じく動揺を隠せない尚香にそれが分かるはずもなく、言葉なく首を振った。
本来、霧は陰気による自然現象であり、そこには善も悪もない。しかし、今ここにある霧は黒く滲んでいて、邪気を
「ついに悪霧になってしまいましたか」
後方の様子を傍観して、
「悪霧とは?」
「陰気が邪気に変化する際に起こる黒い霧を言います。天地人、無量無辺の陰気がこの地に凝縮されました。悪霧起こるは邪が
白い羽扇が黒く染まり始めている。左慈の説明に孔明は即座に理解した。
天――――冬至は陰気が最大に高まる時期であり、孔明は青龍爵の霊力を解放するために冬至を待った。
地――――江水と洞庭湖、そして、
人――――人間同士が引き起こした戦によって多くの人命が失われ、それがまた陰気となって溢れた。陰気の超過剰状態。
「青龍爵の力が吉凶両方を招いたか」
若き頃から仙珠と神器を奪還する戦いに身を投じて、超常現象を
「友軍を助けないわけにもいかない。引き返すぞ」
何よりも義を重んじる劉備は友軍の危機に
曹操は自らの命運を
「久しぶりだ、雲長。変わりないか?」
「……ござらん。丞相も
関羽は馬上から曹操に対した。曹操の姿は見る影もない。漢の丞相という威厳はない。着物は汚れ、その
そして、曹操は自ら
「壮健は壮健だが、それもこれまでのようだ。ここでオレの首と胴が離れることになろう。……が、それもよい」
進退、ここに
「だが、オレは死なん。オレの
曹操は最後にそんな言葉を残して
曹操の心情を
「今、この人を殺してはだめ!」
両手を広げ、曹操の前に立ってそれを
「関将軍、お待ちあれ!」
沈黙を切り裂いて飛び出してきたのは、
今は仮の都となっている
「今丞相を失えば、大乱の世に逆戻りしてしまいます。漢のためにも、丞相を失うわけにはいきません。どうか旧恩を
平伏して命を
八年ほど前、関羽は劉備と生き別れ、一時的に曹操のもとにいた。戦いに敗れた劉備の生死が分からなくなり、劉備夫人を守るための
多くを語ったわけではないが、
「関将軍、我等にどうかご慈悲を!」
曹丕、
それに文官たちや全ての敗残兵が加わって、曹操軍全体が関羽の判断を待つ。
「……哀れ。わしにこの者たちは斬れん」
強き者に対しては豪気、戦場では鬼神の如き関羽も、弱き者に対してはそれを見せない。全てが膝をついて命乞いをするここはすでに戦場ではない。情に厚いのも関羽という男の特性であった。
「父上、何を言っているのですか!」
父の判断に抗議したのは関平だ。主君の宿敵を見逃すことがあってよいわけがない。
「下がれ」
関羽は語気を強くして、息子にそれ以上の口出しを許さなかった。
「斬らんのか、雲長?」
曹操が頭を上げ、確認した。関羽は瞑目したまま答える。
「長文の
「感謝致します、関将軍。さぁ、父上、参りましょう」
曹丕たちが関羽に礼を言い、曹操を立ち上がらせた。……と、その時である。
「来たわ」
火見が先んじて言い、その直後、周囲で陰気が弾けた。急激に暗い霧が辺りに流れ込んできて、殺気に似たそれが凝縮して高ぶる。それを察して見開かれた関羽の両眼が敵を捉えた。黒い陰気――――それは、死。
「追いつかれたか!」
心の奥に臆病を抑え込んだ司馬懿が叫んだ。
見上げれば、いつの間にか天を暗雲が包もうとしていた。曹操のすぐ側の大地からまたもや黒い気が噴出し、黒気の龍が具現化した。殺気を感じた関羽が両眼を見開く。
「……ぬんっ!」
関羽の青龍偃月刀が
すさまじい風圧とともに黒気は拡散して、
八年前。敵将の関羽を殺さず優遇した。それが曹操に生きる天運をもたらした。
しかし、黒気の噴出は止まらない。大地と絶壁が弾け、至るところから黒く滲んだ陰気が噴き出して、暗雲の天へ立ち昇った。陰気の氾濫。邪気の暴走。震天動地。
深い闇の色を滲ませた黒気は生ある者を押し潰すような陰鬱さとあらゆる生気を吸い尽くすような陰湿さで満ちていた。
「これが殺気の正体か! 兵を集めよ、 方円を組め!」
関羽が一転して自軍が危機に陥ったのを察して、兵を密集させた。
同時に前後で喚声が上がった。谷の北と南からそれぞれ軍勢が
「兄上! ……翼徳も!」
後方で上がった喚声に振り返ると、弟・張飛の姿も確認した。
南口から逃げ込んできたのは張飛が率いる少数の騎兵と曹操がその防戦のために充てた
曹純は傷を負った
「どうしたのだ、
曹操が目の前で崩れ落ちるように膝を付いた許褚に聞く。許褚はぜいぜいと荒々しく息を吐き、それに答えるのもままならない。その上、
「はぁ、はぁ……。それが……敵襲に遭い、ここまで走って……」
許褚はとんちんかんにも、巨体を揺らして走り戻ってきたその事情を説明しようとして、代わりに満寵が曹操の聞きたかった答えを返す。
「正体不明の異形の軍団に襲われ、恐れをなして兵は逃亡、軍は瓦解しました。残った兵をまとめて何とかここまで逃げてきたのですが……」
言う満寵の視線の先は劉備軍で
「やばいぜ、兄者。もの
「死体だと?」
張飛も関羽に状況を脚色なく伝えて、とんでもないことが起こったと訴えるのだが、関羽は眉をひそめて問い返す。それ以上に末弟の姿が見えないのが気になった。
「翼徳、
「ああ、何か軍師の友人という奴を守っている。もうすぐ来るさ」
当然ながら、関羽も張飛も趙雲の武勇をよく知っている。心配などしていない。
それもそのはず、関羽が谷の南口に目をやると、押し寄せる軍勢の一角が豪快に開いて、趙雲が現れた。そして、
「子龍、あの軍勢は?」
生還した趙雲に関羽が尋ねる。
「信じられないかもしれませんが、あれは数千もの
「亡者……」
謹厳実直な趙雲の言葉に関羽は悟った。殺気に似た気は死者の放つ邪気なのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます