其之十五 報恩の刃

 太陰界から噴出した陰気。その黒くにじんだ気は分厚い暗雲となって天を覆い尽くし、黒く濁った霧となって地を包んだ。濃密に充満した陰気の中で、惨劇が始まる。

 おびただしい数の人々が戦場に倒れ、病に侵されて死んだ。膨大な数の死者の魂魄こんぱくが地下へと吸い込まれた。濃く凝縮された陰気が染み込んだ土壌。黒い陰気は荒野に打ち捨てられ、埋葬まいそうされたしかばねに入り込み、死者をよみがえらせる。いや、蘇生とは訳が違う。むくろに入り込んだそれが、本人の了解なく朽ちた肉体を動かしたのだ。

 屍兵しへい骸兵がいへい。――――黒く染まったそれら不死の軍隊が邪念に従って立ち上がり、行軍を始めた。生者が住まう世界を破壊し、生き残った者たちの魂を奪うために。

 江陵を攻撃していた周瑜しゅうゆにもその耳を疑うような報告が届けられた。

「大都督、大変です。背後から敵の奇襲を受けました!」

 息を切らして戻ってきた呂蒙りょもうがそれを急報した。

「何? ……ちっ、徐晃じょこうか。誤算だった。こんなに早く戻ってくるとは」

 顔を歪めた周瑜が思わず卓上に両手をついて立ち上がった。背後を襲われたと聞いて、当然ながら、周瑜はそれが巴丘はきゅうに陣取っていた徐晃軍だと勘違いした。

 周瑜の江東水軍は烏林うりんでの大勝後、江水をさかのぼって一路江陵を目指した。その道程で程普ていふの一軍が巴丘に停泊していた曹操の軍船を打ち破って壊滅炎上させたが、陸上に陣取っていた徐晃軍は無視していた。江陵までかなりの距離があったし、陸路はぬかるんだ悪路。

 徐晃が曹操そうそうの敗戦を知り、江陵に取って返す選択をしたとしても、陥落させるまでに徐晃軍の帰還は間に合わない――――そう踏んでいた。

 しかし、想像を絶するスピードでそれが江陵に舞い戻ってきたと思い込んだのだ。

 伏兵はなかったし、それしか考えられなかった。周瑜が怒気をあらわにして聞いた。

「後方の警戒は厳重にさせておいたはずだぞ。見張りは何をしていた?」

 呂蒙がはばかりながらも告げる。

「そ、それが、大都督……斥候の兵らが申すには、それらの兵は土中から現れたと……」

「死体ではあるまいし、そんな馬鹿なことが……」

 周瑜は我が目を疑った。半分朽ち果て白骨をき出しにした兵士が迫ってきたのである。

「危ない、大都督!」

 呂蒙が身をていして周瑜をかばう。

「この死に損ないがっ!」

 側に控えていた甘寧かんねいがそんな屍兵を恐れず、朽ちてもろくなったその体を一刀両断した。すさまじい一撃にその屍兵の朽ちた体が寸断され、しゃれこうべが転がっていった。

「信じられん……」

 その光景に周瑜は悪夢を見ている気がした。だが、それは現実としてそこにあった。戦場を見やると、死体が襲ってくるという異様な事態にきもを潰して混乱し、兵たちは任務を忘れて逃げ惑っていた。その擾乱じょうらんぶりははなはだしい。船に逃げ戻ろうと慌てる余り、江水に溺れる者も多数出る始末であった。

 そして、そんな臆病はすぐに江東軍中に伝播でんぱして、すでに周瑜の本陣も壊滅状態である。

「馬鹿な!」

 周瑜がまた叫んだ。その前に音もなく黒い霧が漂ってきて、口からその体内に邪気が侵入しようとした。周瑜は気が遠くなるのに耐え、何とかそれを振り払った。

「ごほ……!」

 せきと共にかすかに黒い気が吐き出された。それを見た呂蒙が心配して言う。

「態勢を立て直しましょう。大都督、ここは一旦退却を」

「……分かった。前線の両名に即急そっきゅうに船まで退くように伝えよ。さすがに水の上まで追っては来れまい」

 さすがに周瑜は事態を把握すると、最適な判断を下した。

「はっ。私が決死隊を率い、自ら参ります」

 甘寧が勇躍して飛び出ていった。蒋欽しょうきん周泰しゅうたいの両将は城攻めのため最前線にいたのだ。


 形勢が逆転した。それも突如としてだ。敵勢が城に背を向け、江上に停泊している軍船を目指して後退している。それを創出しているのは、横合いから現れた軍勢だ。

 城壁の上からそれを眺めていた徐庶じょしょが江東軍を追い散らす軍勢に目をらす。

『この近くに軍を展開していたとは聞いていない。何かおかしい……』

 どうにもに落ちない状況に、徐庶はさらに戦場を注視する。

 江陵を死守する防衛戦を指揮していた曹仁そうじんもまた勘違いした。江東軍が敗走を始めたと報告を受けた曹仁は城壁へ続く階段を駆け上がった。

「西涼兵が戻ってきたのか?」

 独断専行して出撃していった馬超ばちょうの部隊が帰還して、周瑜軍を攻撃しているのだと。

 確かに江東軍は算を乱して敗走している。曹仁は城壁の上から瓦解する敵軍を観察すると、今が好機だとばかりに言う。

「よし、出撃だ。俺が自ら周瑜を蹴散らしてくれる」

「お待ちを。これはどうも違うようですぞ」

 それを制止したのは馬超をけしかけて送り出した徐庶である。馬超は徐庶の思惑に乗って曹操軍を追撃しているはずで、戻ってくるわけがないのだ。見たところ、江東軍を襲っているのは騎兵隊でもない。ということは西涼軍でないことは確実なわけで、ただ徐庶にもそれがどこの軍かは分からない。

 正体不明の軍勢は江東軍を敗走させたまでは良かったが、今度は江東軍に代わって城を攻撃し始めた。

「何だ、あいつらは?」

 城門近くまで迫った謎の軍勢。曹仁がその異形いぎょうの兵士たちを凝視して言った。ほとんどは鎧も剣も身に付けず、ボロをまとっているだけだ。一糸いっし纏わぬ姿の者さえ見て取れる。皮膚は黒色にくすみ、骨が剥き出している者もあれば、頭部が頭蓋骨そのものの兵士もいた。どれもこれも郊外の墓地からい出てきた屍たちである。

仲景ちゅうけい先生、あれは死体ではありませんか!」

 仰天した曹仁はそれが完全に死体の群れだと分かって、かたわらの張仲景に対策を求めるような視線を送った。

「そのようですな……。陰気が人を病にし、命を奪うと聞いてはきましたが、死んだ者を蘇らせるという話は聞いたことがありません」

 張仲景は冷静に答えてみたが、それだけだった。いくら名医であろうとも、死者に対する処方箋しょほうせんは知らない。


 その惨劇の最中にある江陵から東へ約百里(約四十キロメートル)。

 劉備りゅうび軍中で最も信頼の置ける美髯びぜんの将軍が名馬・赤兎せきとまたがり、曹操を今や遅しと待っていた。関羽かんう

 一軍を率いて先行していた関羽は増水して巨大な湖と化していた雲夢沢うんぼうたくを軽舟で進み、華容付近で上陸して、道が江陵と竟陵きょうりょう方面へ分岐するその手前の谷で待ち構えた。

 竟陵は華容の北、漢水沿いにある小県で、そこから漢水を遡上そじょうすれば、襄陽へ逃れることができる。意表を突くことが巧みな曹操が裏をかいてそちらに退路を採ることも十分に考えられた。

 関羽が軍を留めるそこは道の両側が切り立った崖になっていて、兵を伏せるには絶好の場所であったし、地形が生み出した霧が辺り一面に漂って軍勢を包み隠してくれていた。だが、しかし……。

ただならぬ空気だ」

 関羽がひげをしごきながら、この暗い霧と曇天の空に不快感を示して呟いた。風一つなく、霧はどんよりと滞留して、窒息ちっそくしそうな陰鬱いんうつさだ。だが、その陰鬱さが不気味にうごめいている。若かりし頃から幾多の戦場を駆け抜けてきた関羽は生死の分かれ目を何度も経験してきた。だからこそ、人が放つ殺気を察し、それを感じることができる。

 関羽はどこからか漂ってくる殺気に似た空気を感じていた。自分たちのものではない。自分たちは殺気を抑え、草木のようになって曹操軍を待ち構えている。

 だからこそ、この空気の出所でどころが分からない。

「曹公がこの空気に気付かないはずがない」

 関羽の悪い予感はそこにあった。曹操もまた、数々の戦場を生き抜いてきた英雄だ。このピリピリするような空気感を感知して、ここを避けるかもしれない。

 逆にそれを察して避けることをしなければ、曹操はここで死ぬことになる。

「まさか敵の援軍が近くまで迫っているのでは?」

「それはない。江陵は周瑜に攻められていて、援軍を出す余裕などないはずだ。何より、これは戦場が生み出している空気ではない」

 関羽は息子・関平かんぺい危惧きぐを一蹴した。江陵に曹操敗北の報が届くには早過ぎる。

 気と気がぶつかり合う、そんな激しさはない。静かに、不気味に、重くのしかかる感じだ。周りに何もないのにもかかわらず……だからこそ、この空気の正体がつかめない。

「では、何が……?」

「それが分からぬ」

 そうは言いながらも関羽は微動だにせず、運命を天に任せて、一刻。

 そこに奸雄かんゆうが現れた。わずかな将兵文官を連れて。

『老いたな、曹公』

 心の中でつぶやいて、関羽が奸雄・曹操の前に進み出た。


 怪しい霧が立ち込める中、陸路に切り替えた劉備軍が関羽が待機する地点へ急行していた。勝利の追撃を指揮しながらも、劉備の顔はどこか浮かない。

「心中複雑でございますな」

孔明が主君の心情を察して言った。

「曹操が逃げおおせたら、それは奴に天運があったということだ。だが、曹操に死なれてしまっては、勝っても素直に喜べない」

 曹操は宿敵だ。しかし、救国のこころざしを胸に、共に協力してきた戦友でもある。

 窮地に陥った自分を保護してくれたこともある恩人でありながら、自分を何度も窮地に陥れてきた張本人でもある。そして、曹操という英雄がいたからこそ、崩壊寸前の漢王朝は今まで何とか命脈を保ってきた。これはいつわらざる事実だ。

雲長うんちょうは曹操を殺さないだろうが、翼徳よくとくなら有無を言わさず首をねるだろう。もう刎ねているかもしれない」

 馬上の孔明が羽扇うせんを軽く振って、その劉備の危惧を払い去る。

張飛ちょうひ趙雲ちょううん両将の兵は多くありません。よく敵兵を討ってくれるでしょうが、曹操の首を取るまでには至らないはずです。雲長殿のもとに辿り着く頃にはすっかり数も減って、曹操の命運は我が君に委ねられることになりましょう」

 孔明にとっても、今、曹操に死なれては困る。曹操が死ねば、劉備の命も危うくなる。

 曹操という絶対者を失った時、中原ちゅうげんのバランスは崩れ、再び乱れることになるだろう。そうなれば、それに乗じて孫権そんけんが勢力を伸ばすことは必定ひつじょうで、劉備は勢力が大きくなる前に真っ先に潰される心配があった。いや、周瑜という男なら、間違いなくそう動く。

 曹操という脅威があるからこそ孫劉同盟が成立しているのであって、それが失われて困るのは弱小勢力の劉備であった。

 天下三分の未来を打ち立てるためには、まずはこの戦いで曹操の勢力に大きな打撃を与えてその力をぐのは絶対条件であったわけだが、だからといって、総力を挙げて追撃を敢行かんこうして曹操を殺してしまってもいけなかった。力加減を間違ってはいけない。孔明はそこまで計算して、一騎当千の張飛・趙雲にあくまでも少数精鋭での追撃を命じ、関羽を先行させて報恩の機会を与えたのだった。

 その孔明の神算を聞いた時、劉備は孔明の遠望深慮えんぼうしんりょに心底感服したものだ。

「孔明の計はまさに神妙。そうなってくれたら、言うことはない」

「後ろの方々は計算外でしたが……」

 孔明が渋い顔で後続の一団を振り返った。魯粛ろしゅく孫尚香そんしょうこうら江東の軍勢である。

 その江東勢が乱れていた。まるで敵の奇襲を受けたかのように。

「何が起こったのだ?」

 劉備が驚いて孔明に聞いた。が、さすがの孔明にも分からない。こんなところに敵の伏兵があるわけはないのだ。孔明は眉をひそめた。

 

 江東軍は陸路の追撃を想定していなかった。なので、兵は当然かちでの移動となるが、劉備の計らいで魯粛と孫匡そんきょう、孫尚香の三人には馬が提供された。

 江東軍の先頭に立って劉備軍を追尾していた魯粛が馬を止め、

「何があった?」

 振り返って問うも、答えは返ってこない。しかし、その間にも兵たちの悲鳴は絶え間なく聞こえ、後続部隊が混乱している様子だけは霧のベールを通してもはっきりと伝わってくる。状況的に敵の伏兵にったとしか考えられず、

「こんなところに伏兵だと?」

 魯粛はそう言ってうなり、先行していた兵士らを連れて救援に向かった。

「敵の伏兵かっ!」

 後続部隊を率いていた孫匡も周瑜や魯粛と同じく、この攻撃が曹操軍によるものだと勘違いした。剣を抜いた孫匡の正面。濃霧の中からヌッと現れ出た兵士。

 ボロ布をまとっただけの体はみずみずしさを失い、肌は黒く変色している。双眸そうぼうに瞳はなく、あるのは二つの黒くうつろなあなだけだ。だが、それが明らかに孫匡を認めて、何の言葉も発せず、細腕に握った剣を振り上げた。驚嘆はなはだしい孫匡は体を硬直させてしまい、身動きが取れない。隣にいた尚香がそれに気づいて、それを振り下ろすよりも速く死兵の腕を斬り飛ばした。血も流れない干からびた腕が孫匡の馬のそばを転がった。血の代わりに出てきたのは、死体を動かす動力源である黒気。その黒気が蛇のように形を取って、孫匡の足にからみつき、太腿ふとももの辺りにみついた。孫匡が急激に広がる脱力感に襲われて落馬した。

「兄上!」

 尚香が馬から飛び下りて、孫匡の脚に咬みついた蛇を父の形見の古錠刀こていとうで斬り捨てた。

「お怪我けがはありませんか?」

「ああ。少ししびれているが、問題ない」

 孫匡は脚を抑えながら、剣を取って何とか立ち上がる。そして、腕を失ってなお近付いてくる死兵の首を刎ねた。そこから黒い陰気が放出され、また霧に溶け込む。

 死兵は首を失って、ようやく動きを止めて崩れ落ちた。

「……こ奴らは何なのだ?」

 まだ動揺が収まらない孫匡が妹に問う。兄と同じく動揺を隠せない尚香にそれが分かるはずもなく、言葉なく首を振った。


 本来、霧は陰気による自然現象であり、そこには善も悪もない。しかし、今ここにある霧は黒く滲んでいて、邪気をはらみ、人の命をおびやかす。悪霧あくむ

「ついに悪霧になってしまいましたか」

 後方の様子を傍観して、左慈さじが呟いた。

「悪霧とは?」

「陰気が邪気に変化する際に起こる黒い霧を言います。天地人、無量無辺の陰気がこの地に凝縮されました。悪霧起こるは邪があふれる前兆です」

 白い羽扇が黒く染まり始めている。左慈の説明に孔明は即座に理解した。

 天――――冬至は陰気が最大に高まる時期であり、孔明は青龍爵の霊力を解放するために冬至を待った。

 地――――江水と洞庭湖、そして、雲夢沢うんぼうたくは膨大な水量をたたえる陰の地形。そこに陰気がかたどった神獣が出現して、霊力を暴発させた。

 人――――人間同士が引き起こした戦によって多くの人命が失われ、それがまた陰気となって溢れた。陰気の超過剰状態。

「青龍爵の力が吉凶両方を招いたか」

 若き頃から仙珠と神器を奪還する戦いに身を投じて、超常現象をの当たりにし、幾度の修羅場を潜り抜けてきた劉備は左慈の言葉を聞いても、微塵の動揺もない。

「友軍を助けないわけにもいかない。引き返すぞ」

 何よりも義を重んじる劉備は友軍の危機に躊躇ちゅうちょなく引き返す道を選んだ。


 曹操は自らの命運をさえぎるように立ちはだかった敵将に何故かうれしさを滲ませて対面した。曹操には敵という実感がない。むしろ、友といった感覚だ。

「久しぶりだ、雲長。変わりないか?」

「……ござらん。丞相も壮健そうけんそうで何より」

 関羽は馬上から曹操に対した。曹操の姿は見る影もない。漢の丞相という威厳はない。着物は汚れ、そのみやびな絵柄を隠している。かちでの移動であったために、足下は泥だらけだ。五十を過ぎ、歳の刻まれた顔に疲労があらわになって、逃避行の苦難が滲み出ていた。それはまさしく敗軍の将のものであって、英雄と称えられた男の姿ではなかった。

 そして、曹操は自ら自虐じぎゃくの弁を述べ、己の哀れな状況に終止符を打とうとした。

「壮健は壮健だが、それもこれまでのようだ。ここでオレの首と胴が離れることになろう。……が、それもよい」

 進退、ここにきわまれり――――曹操は自分の首をポンポンと叩いて、関羽に青龍刀の一閃いっせんを促した。火見と倭国の一行、そして、敵味方全員が固唾かたずをのんで見守る中、関羽が馬を下り、曹操のもとへ歩みを進めた。自慢の青龍偃月刀の柄をドンと地面に突き立てて、一呼吸した。口を真一文字まいちもんじに結び、紅潮した厳しい表情で曹操の顔を見る。曹操はそれにひるむことなく、毅然きぜんとした態度で言葉を続けた。

「だが、オレは死なん。オレのたましいは太陰へ行き、また戦うのだ。そなたの顔を見て覚悟ができた。雲長にそれを後押ししてもらえるなら、悔いはない」

 曹操は最後にそんな言葉を残してひざまずき、新たな戦いへ赴く準備をした。

 梁冀りょうきという因縁の敵は太陰界にいる。それを倒さずしてこの陰気の氾濫はんらんは収まらない。

 曹操の心情をんだのかどうか、関羽は言葉を発せず、また大きく呼吸した。口を結んだまま、力を込めた腕で青龍偃月刀を持ち上げる。駆け出たのは火見だった。

「今、この人を殺してはだめ!」

 両手を広げ、曹操の前に立ってそれをかばった。思わぬ少女の登場に、関羽が青龍刀を持ち上げたまま動きを止める。それに続き、

「関将軍、お待ちあれ!」

 沈黙を切り裂いて飛び出してきたのは、陳羣ちんぐんであった。陳羣、あざな長文ちょうぶん

 今は仮の都となっている潁川えいせんきょ県の清流派名家の出で、劉備が予州刺史となった時に召し出されて、初め劉備に仕えた。能吏として、劉備にも信頼された人物であったが、劉備が敗れ、予州が曹操の支配下となって、自動的に曹操に仕えることになった。

「今丞相を失えば、大乱の世に逆戻りしてしまいます。漢のためにも、丞相を失うわけにはいきません。どうか旧恩をって見逃して頂きたい」

 平伏して命をう旧知の男。旧知なのは、陳羣だけではない。

 八年ほど前、関羽は劉備と生き別れ、一時的に曹操のもとにいた。戦いに敗れた劉備の生死が分からなくなり、劉備夫人を守るためのむを得ない行動であったが、その時、関羽は曹操から多大なる恩義を受けた。

 多くを語ったわけではないが、荀攸じゅうゆう陳矯ちんきょうなどの諸官とも言葉を交わしたことがあるし、曹丕そうひをはじめ、若手諸将は名将・関羽をしたって、その屋敷を表敬訪問することしばしばであった。曹丕には武芸の稽古けいこをつけたこともある。顔を見れば、それらを思い出す。

「関将軍、我等にどうかご慈悲を!」

 曹丕、曹植そうしょくもこぞってひざを屈し、叩頭こうとうして関羽の義心に訴えた。

 それに文官たちや全ての敗残兵が加わって、曹操軍全体が関羽の判断を待つ。

 司馬懿しばいは関羽と面識はない。火見も難升米なそめもこの緊張した場面で茫然と立ちつくして、事態を見守った。訪れるのは生か、死か――――。

「……哀れ。わしにこの者たちは斬れん」

 一時いっときを置いて、関羽が瞑目めいもくして呟いた。生。

 強き者に対しては豪気、戦場では鬼神の如き関羽も、弱き者に対してはそれを見せない。全てが膝をついて命乞いをするここはすでに戦場ではない。情に厚いのも関羽という男の特性であった。

「父上、何を言っているのですか!」

 父の判断に抗議したのは関平だ。主君の宿敵を見逃すことがあってよいわけがない。

「下がれ」

 関羽は語気を強くして、息子にそれ以上の口出しを許さなかった。

「斬らんのか、雲長?」

 曹操が頭を上げ、確認した。関羽は瞑目したまま答える。

「長文のげんを重んじるまで。今の我が両眼まなこに敵は映っておらぬ。早く行かれよ」

「感謝致します、関将軍。さぁ、父上、参りましょう」

 曹丕たちが関羽に礼を言い、曹操を立ち上がらせた。……と、その時である。

「来たわ」

 火見が先んじて言い、その直後、周囲で陰気が弾けた。急激に暗い霧が辺りに流れ込んできて、殺気に似たそれが凝縮して高ぶる。それを察して見開かれた関羽の両眼が敵を捉えた。黒い陰気――――それは、死。

「追いつかれたか!」

 心の奥に臆病を抑え込んだ司馬懿が叫んだ。

 見上げれば、いつの間にか天を暗雲が包もうとしていた。曹操のすぐ側の大地からまたもや黒い気が噴出し、黒気の龍が具現化した。殺気を感じた関羽が両眼を見開く。

「……ぬんっ!」

 関羽の青龍偃月刀がうなりを上げて、曹操を噛み砕こうとしたそれを寸断した。

 すさまじい風圧とともに黒気は拡散して、旋風つむじかぜのように天へ舞い上がった。

 八年前。敵将の関羽を殺さず優遇した。それが曹操に生きる天運をもたらした。

 しかし、黒気の噴出は止まらない。大地と絶壁が弾け、至るところから黒く滲んだ陰気が噴き出して、暗雲の天へ立ち昇った。陰気の氾濫。邪気の暴走。震天動地。

 深い闇の色を滲ませた黒気は生ある者を押し潰すような陰鬱さとあらゆる生気を吸い尽くすような陰湿さで満ちていた。

「これが殺気の正体か! 兵を集めよ、 方円を組め!」

 関羽が一転して自軍が危機に陥ったのを察して、兵を密集させた。

 同時に前後で喚声が上がった。谷の北と南からそれぞれ軍勢が雪崩なだれ込んできたのだ。北口から現れたのは劉備と江東の軍。関羽が北口から現れた劉備の姿を確認する一方、

「兄上! ……翼徳も!」

 後方で上がった喚声に振り返ると、弟・張飛の姿も確認した。

 南口から逃げ込んできたのは張飛が率いる少数の騎兵と曹操がその防戦のために充てた許褚きょちょ満寵まんちょうの軍勢。そして、馬超の西涼兵と曹純そうじゅん虎豹騎こひょうきだ。曹彰そうしょう曹休そうきゅう曹真そうしんも一緒だった。それらがまるで敵に追われるように一体となって谷に逃げ込んできたのである。

 曹純は傷を負った史渙しかんを馬に乗せ帰ってきた。それを脇目にしながら、

「どうしたのだ、虎癡こち?」

 曹操が目の前で崩れ落ちるように膝を付いた許褚に聞く。許褚はぜいぜいと荒々しく息を吐き、それに答えるのもままならない。その上、

「はぁ、はぁ……。それが……敵襲に遭い、ここまで走って……」

 許褚はとんちんかんにも、巨体を揺らして走り戻ってきたその事情を説明しようとして、代わりに満寵が曹操の聞きたかった答えを返す。

「正体不明の異形の軍団に襲われ、恐れをなして兵は逃亡、軍は瓦解しました。残った兵をまとめて何とかここまで逃げてきたのですが……」

 言う満寵の視線の先は劉備軍でふさがっていた。

「やばいぜ、兄者。ものすげぇ数の死体が襲いかかってきやがった!」

「死体だと?」

 張飛も関羽に状況を脚色なく伝えて、とんでもないことが起こったと訴えるのだが、関羽は眉をひそめて問い返す。それ以上に末弟の姿が見えないのが気になった。

「翼徳、子龍しりゅうはどうした?」

「ああ、何か軍師の友人という奴を守っている。もうすぐ来るさ」

 当然ながら、関羽も張飛も趙雲の武勇をよく知っている。心配などしていない。

 長坂坡ちょうはんはでもたった一騎で曹操の大軍の中を切り抜けてきた豪の者である。

 それもそのはず、関羽が谷の南口に目をやると、押し寄せる軍勢の一角が豪快に開いて、趙雲が現れた。そして、龐統ほうとう輔匡ほきょうに守られ、その後に続いて姿を見せた。

「子龍、あの軍勢は?」

 生還した趙雲に関羽が尋ねる。

「信じられないかもしれませんが、あれは数千もの亡者もうじゃの群れです。敵味方関係なく、見境みさかいなく襲ってきます」

「亡者……」

 謹厳実直な趙雲の言葉に関羽は悟った。殺気に似た気は死者の放つ邪気なのだと。

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