其之十四 陰陽の狭間で

 火見の能力が暗がりの中にその火を感知した。目を閉じた火見のまぶたの裏に炎の揺らめきが見える。それをふところに抱えた者が一歩一歩こちらへ近付いてくるのが感知できた。

「向こう。五十里(約二十キロメートル)くらい先。こっちに向かってくる」

 火見は曹操そうそうがいるおおよその位置を言明した。司馬懿しばいはそれを信じて方策を立てる。

「よし。ひとまずこの華容に丞相を迎え入れる」

 曹純そうじゅん虎豹騎こひょうきはすでに小休止を終え、曹操の下に向かっている。

「県民を動員して防備を固めねば」

 司馬懿は言うやいなや、県府へ向かった。そこへ赴く途中、思わぬ人物に遭遇そうぐうした。曹操の三男、曹植そうしょくである。父の敗走を知らない曹植は呑気のんきに聞いてきた。

「これは老驥ろうき先生。どうされたのですか、こんなところに?」

「それはこちらの台詞せりふでございます。曹植様、何故こちらにいらっしゃったのですか?」

「父に孟黄もうこう先生を捜すようにおおせつかりまして。この華容にいらっしゃるとの情報を得て、捜索に来ていたのですよ」

 曹植は陽気に答えた。顔がかすかに赤く染まっている。息も酒臭い。

「曹植様、酔っておられますな?」

杜康とこう殿と問答していたのですよ。まぁ、お気遣いなく……。老驥先生は孟黄先生をご存知ですか?」

「よく存じております」

 梁鵠りょうこくあざなを孟黄という。安定郡烏氏うしの人で、能書家として有名であっただけでなく、それとは別に、過去に行ったある行為で人々に知られていた。

 というのも、梁鵠は三十年前、官吏の登用と異動をつかさど選部せんぶ尚書しょうしょの官職に就いていて、治安の乱れていた洛陽を正すために弱冠じゃっかん二十歳の曹操を洛陽北部尉に登用した。つまり、現在は漢の丞相として知る人のいない曹操を最初に認め、官吏に抜擢ばってきした人物として名を知られていたのである。そして、まだ無名だった曹操の有能さを知って梁鵠に推薦したのが、当時、尚書右丞うじょう(尚書の副官の一人)を務めていた司馬懿の父、司馬防しばぼうだったのだ。曹操を巡る壮大なえにしである。

 それが時を超えて繋がっている。

「それで、梁公は見つかったのですか?」

「ええ。……ですが、酩酊めいていして伏せっておいでです」

 言いながら曹植は後方を手で指したものの、その手がぷらぷらと不安定に揺れた。

「華容には飲めば長命を得られるという薬酒があるのです。これをご覧ください。全てその〝胡公酒ここうしゅ〟でございます」

 曹植は手に入れた胡公酒の酒壺を満載した荷車を戦果のように示した。

 その昔、南郡華容の人で胡廣ここうあざな伯始はくしという人物がいた。官僚の最高位である三公にあって三十年、六帝に仕えた能吏であった。

 胡廣は病気をわずらう度に帰郷し、菊水きくすいの水を飲んで、八十二の長生を得たという。当時では相当な長寿である。

 菊水とはじょう県に発する川で、両岸を菊の花が覆い、その水は極めて甘くかんばしく、万病にいといわれた。その名水を使った薬酒造りが胡廣の郷里で盛んであったのだ。それを「一度飲めば長生を得、三度飲めば三公に昇る」という超誇大宣伝で、〝胡公酒〟のブランドで売り出している。

「戦勝のうたげには名酒は欠かせません。老驥先生も江東を説得されて帰って参られたのでしょう。先生も父の命を果たしたわけですから、祝いに一献いっこん差し上げましょう」

「はぁ~……」

 司馬懿が嘆息して、悠長な御曹司おんぞうしを叱る。

「酒宴どころではありませんぞ。丞相は敗北され、こちらへ撤退中です。知らぬとはいえ、そんなものを見せては丞相はお怒りになりますぞ」

「え?」

 寝耳に水、信じられない事実である。父が負けた?

「とにかく、間もなく丞相がご到着されます。兵を配置し、お出迎えの用意を」

「わ、分かりました」

 瞬時に酔いがめるような一言だった。曹植はいくらか兵を連れてきていたので、それが不幸中の幸いであった。


 曹操はまた頭の奥がうずくような痛みに襲われていた。決まって気分も悪くなる。

「父上、もうすぐ華容に着きます。もうしばらくの辛抱です」

 曹丕そうひが希望を与えるように言って、父を励ました。史渙しかんが率いる熊羆兵ゆうひへいが一時も離れず曹操を守っている。曹彰そうしょう曹休そうきゅう曹真そうしんもいる。

 曹休、あざな文烈ぶんれつ。曹真、あざな子丹したん。戦の経験を積ませ、有能な将軍として育成するために連れてきた一族の若手だ。将来、必ずや国家の柱石ちゅうせきとなり、曹丕ら息子たちを補佐してくれると見込んでいる。このような敗戦の時ほど、身内や忠臣の存在の有難ありがたみが染みる。

 もう一人、一族の将軍が救援に現れた。馬鎧うまよろいを付けた黒毛の騎兵隊は虎豹騎こひょうきの特徴だ。

子和しわか。よく来てくれた」

「はっ。兄の命で駆けつけました。ご無事で何より」

 曹純が馬から飛び下りて、拝謁はいえつした。曹操はそれを喜ぶ一方、

「だが、早かったではないか。早過ぎると言っていい。お陰で助かったが」

「司馬仲達が戻り、丞相の危機を知らせました」

「仲達だと? 江陵にか?」

「はい。今、この先の華容に来ております」

 曹純の言葉は頭痛を忘れさせるほど曹操の頭に疑問をふくらませた。が、ゆっくりそれを考えている時間はない。現れたのは忠臣だけではない。

 時を置かずして、反旗した馬超ばちょうの騎馬隊が曹純隊の後方に突っ込んだ。

「おおおおっ!」

 先陣を切る副将の龐徳ほうとく雄叫おたけびを上げつつ、自慢の武力を全開にして、精鋭ぞろいの虎豹騎の中を突破する。

「西涼兵だと? どういうことだ?」

 今度は曹純が自隊の混乱に慌てた。つい数刻前まで味方であった部隊の突如とした反旗に虎豹騎も対応できずに突き崩される。

 兵法三十六計の一つ、借刀しゃくとう殺人さつじんの計――――刀を借りて、人を殺す。

 第三者を誘い込んで敵を攻撃させ、自軍の被害を抑えるという計略である。

 徐庶が劉備のためにはかった計略。それを見破った者がいた。

「恐らくは裏切りでしょう。目の前に武を用い、覇を唱える機会があれば、後先を考えるより早く動いてしまうのが涼州人でございます。何者かにそそのかされたのかもしれません」

 沈着冷静な賈詡かくが分析した。賈詡もまた涼州出身の人間で、そんな気質をよく分かっていた。そして、さらに――――。

 陰気に満ちた地では、悪いことが幾重いくえにも重なる。

 現れたのは味方だけではない。後方に張飛ちょうひ趙雲ちょううんの騎兵隊が迫った。

 防戦にあたった曹操軍を突破、振り切ってきたのだ。

「我等で西涼兵を防ぎますので、丞相はひとまず華容へお入りください」

 曹純は再び馬に飛び乗ると、馬首を返して西涼兵に突撃していった。

 曹彰・曹休・曹真もまた少ない兵を率いて西涼軍に突っ込んで血路を開こうと奮戦した。曹丕と史渙の熊羆兵が曹操と文官諸官を守って、その間を突き進んで行く。

「どこだ、曹操!」

 張飛が雷鳴のような雄叫びを上げながら、その後を追ってきた。文官たちにとっては、背筋が凍るほどの恐怖である。もうすぐ側まで来ている。

 さしもの熊羆兵も次々とやられ、鬼の形相ぎょうそうをした張飛の顔が見えた。

「丞相の御身おんみを隠せ!」

 残った熊羆兵に命令して、史渙は自ら張飛にいどみかかった。

「うりゃああっ!」

 史渙は武勇に優れた将軍である。にもかかわらず、怒れる張飛の前では無力に等しい。蛇矛に肩口を貫かれ、吹き飛ばされた。鼻息荒く、たける張飛。

「どこに消えた、曹操!」

 しかし、そのわずかな時が曹操の姿を兵たちの中にまぎれ込ませて、逃げる天運を与えた。敵味方入り乱れる混戦の中、張飛は代わりの標的を見つけ、その男に矛先を転じた。

「また会ったな、すかし野郎め! 今度こそ決着をつけてやるぜ!」

 その相手とは馬超である。だが、今の馬超には張飛と戦う理由はない。

「待て、俺は敵ではない!」

「うるせえ、問答無用だ!」

 馬超が打ちかかってきた張飛を制止させようと叫ぶものの、その猪突猛進は止まらない。張飛は馬超の事情など知らない。ただ先の戦いで自分たちを執拗しつように追撃してきた敵将に恨みを募らせ、十倍返しで応じる。馬超はその張飛の猛攻に耐えるので精一杯になって、こちらも曹操を見失ってしまった。


 悪運。幸運。いくつもの運が重なって何とか華容に逃げ込むことができた曹操を司馬懿と曹植が出迎えた。

「さぁ、丞相、こちらへ。無事で何よりでございました」

 司馬懿が曹操を導き入れながら言い、その後ろでは、

「ここで防ぐぞ。絶対に敵を中へ入れさせるな!」

 曹彰が声をあげて兵に厳命した。曹休と曹真が追われてくる兵士を糾合きゅうごうして、城門前で態勢を立て直す。虎豹騎を率いる曹純は城外でまだ踏ん張っていたが、敵軍が城門のすぐ近くまで迫っていることを示すように喚声が聞こえてきた。

「父上、兄上……」

 曹植は汚れ乱れ、憔悴しょうすいした父と兄の姿を見て、ようやく敗戦が真実なのだと知った。すっかり酔いも醒めている。

「仲達、そなたどうやって……」

 言いかけた曹操だったが、強烈なのどかわきで言葉が続かなかった。

子建しけん……それを……くれ」

 曹操は息子の背後の荷車にある酒壺を見つけて、苦しそうに訴えた。

「これは……」

 曹植は一瞬ためらったが、父の苦しむ姿を見て、胡公酒の入った小壺を差し出した。曹操はそれを一気に喉の奥に流し込んだ。みるみるうちに疲労した体に活力がみなぎり、血相もよくなって、生き返ったように息を吐く。

「おおぅ……美味うまいな。まさに五臓六腑ごぞうろっぷみ渡るようだ」

 父が絞り出した生気に満ちた言葉に曹植は胡公酒の長生効果を疑わなかった。

「これは長寿を得られるという胡公酒でございます。父上のために用意致しました」

「気がくではないか」

 司馬懿が懸念けねんしたのとは反対に、曹操はその酒を喜んで言った。そして、曹操はもう一口それを胃に注ぎ込んで、酒壺を天に掲げ、

「ああ、幽思ゆうし忘れがたし。何をもってか憂いを解かん。杜康とこう有るのみ……。これはまさに命の酒よ。後で将兵たちにも振る舞ってやれ」

 敗戦の憂悶ゆうもんを詩風で吹き飛ばし、曹植に命じた。杜康は初めて酒を造ったといわれる古代の人物で、酒そのものを指す。

 それは火見の耳には一切入ってこなかった。火見は何故かきょろきょろと周囲を見回し、密かに近付いてくる邪悪な存在を捜していた。爺禾支やかしにこっそり告げる。

「黒い龍が暴れているわ……」

「黒い龍だって?」

 爺禾支が火見の言葉に辺りを見回したが、何も見えない。

「黒い龍……」

 曹操は爺禾支が口に出したその言葉を聞いてすぐに思い起こす過去があった。

 曹植も思い出したように呟いた。

「そう言えば、孟黄先生が同じことを言っていた……」

「梁公がおるのか?」

「はい。この先の逆旅げきりょ(宿屋)におられます」

「なら、すぐに会いに行くぞ。子建、案内せよ」

 曹操は追われている身であるにもかかわらず、それを忘れたかのように司馬懿らを引き連れて、恩人のもとを訪ねた。


 小さな逆旅から梁鵠が姿を見せた。一人では歩けないほどに足下がおぼつかない梁鵠を曹植と曹丕が抱えて連れ出してきた。梁鵠はもう六十過ぎの老人である。

「梁公、私を覚えておいでか?」

 曹操がぐったりとこうべを垂れ、乱れた長い白髪で半分顔を隠した梁鵠に尋ねた。

「忘れるはずがありません」

 梁鵠がはっきりとした口調くちょうで答えた。曹植が言とは違い、酩酊などしていなかった。独特の持病で体調が優れなかっただけだ。梁鵠が気を張って問い返した。

「丞相は昔、病に伏せっていた私を見舞われたことがございますが、覚えておいでですか?」

「覚えている」

「私のここの病はあれからしばらく治まっていましたが、最近またぶり返しました」

 梁鵠がこめかみを指差しながら言った。梁鵠が襄陽から姿を消したのは万病に効くという胡公酒を求めてのことであった。

 三十年前。光和こうわ元(一七八)年、二十四歳の曹操は議郎ぎろう(建議官)の職に就いていて、都・洛陽に勤めていた。その年の六月、梁鵠が病に伏していることを聞き付けた曹操はその屋敷を見舞いに訪れた。梁鵠は曹操に夢の話をした。

 夢枕ゆめまくらに現れた梁商りょしょうが曹操に都を守らせるように告げた。そして、その夢を見てから頭が陰気に覆われたように重いのだと――――。

 梁商は曹操が生まれる前に大将軍を務めていた人物である。その時はすでに故人だった。梁商の遠縁に当たる梁鵠は宿痾しゅくあの原因が呪われた血縁にあると知った。

「今なら分かります。これは太陰からの凶なる知らせ。昔と同じことが起きると教えてくれていると……」

「黒気の龍事件か……」

 曹操がぽつりと呟いた。

 三十年前、曹操が梁鵠を見舞った後、間もなくして宮中に黒気の龍が忽然こつぜんと現れて、都を騒がす一大事件が起きた。かつて曹操はその事件の渦中かちゅうにいたのだ。

 梁鵠の頭を陰気が覆うその病は、実はその前触れであった。

「来るわ!」

 火見が猛る陰気の噴出を察知して叫んだ。その場にいた全ての視線が火見が見つめる先へと注がれた。その予兆のように胡公酒の入った酒壺がパン、パンと次々破裂して、名酒が荷車から地面へとしたたり落ちた。曹植が驚いて、飛び退く。

「何が起ころうというのだ?」

 全く展開が読めない事態に司馬懿が思わずうろたえる。

「臆病を発するなよ、仲達」

 慌てず動じず司馬懿に言うと、曹操は目の前の事態から目をそむけず、それを凝視した。路地の地面が黒く染まって、煙のようなにじんだ霊気がそこから立ち昇った。

 そして、それに続くようにして、黒く染まった地面から、まさしく龍のように形を整えたものが頭をもたげるようにして現れた。陰気の集合体。黒気の龍。

「久しぶりだな……」

 曹操がそれを目にして、追憶にひたりながらも冷静に呟いた。

 その手は自然と腰の剣へと伸びていた。だが、剣を抜くより早く、黒気の龍が飛び上がった。宙へと伸びたその体をじって、邪気を辺り一面にばらいた。飛び散った黒気がそれぞれ黒気の蛇となって、頭をもたげる。

「きゃあ!」

 火見の足下に落ちた黒気も頭をもたげて、火見に噛みつこうとした。

「下がれ、火見!」

 すぐさま難升米がふところに携帯している清めの塩を撒いた。塩には邪気を退ける力がある。黒気の蛇もそれを嫌って、火見の足下を離れた。

 爺禾支は飛びかかってきた黒気の蛇を剣で叩き斬った。が、それは二つに分裂して、新たな蛇となる。それがまた飛びかかってきた。

「これでも食らえ!」

 難升米にならって、清めの塩を撒く。それに当たった蛇の霊体の中に白気が弾けてもだえた。

「このっ!」

 そして、爺禾支がそれを再び斬り捨てる。今度は黒気の蛇は地面に落ちて動かなくなり、そのまま霧散して消えた。


 黒気の龍が所構わずばら撒いた邪気は城外にも散らばって、黒気の蛇となって相手構わず、襲いかかった。馬上の張飛が飛びかかってきた黒蛇をよけながら、

「何だ、今のは!」

 馬超に打ちかかって声を荒げた。完全に馬超を敵と誤認する張飛は一向に攻撃を止めない。馬超も何十回目かの攻撃を受け止めながら、

「知らん!」

 声を荒げて答えた。二人の一騎打ちの場に趙雲と龐徳が割って入ってきて、

「張兄、様子がおかしい。兵が逃げ出している」

「若、兵が混乱しております」

 それぞれ異常事態を告げた。それでようやく張飛と馬超が矛を収める。

子龍しりゅう、いったいどうなってんだ?」

「分かりません。とにかくこの状態を収拾しなければ、もはや曹軍の追撃どころではありません」

 見れば、曹操・劉備・西涼三軍の兵士たちは黒気の蛇に襲われて大混乱だった。

 その騒乱のせいで、戦いの構図が変わる。

「張飛将軍、我等西涼軍は左将軍に加勢して曹操を討つと決めました。共闘してこの事態を乗り切り、曹操を追いましょう」

 龐徳が西涼軍の方針を明らかにして言った。

「よし、いいだろう」

 龐徳にそう言われてようやく張飛も納得した。劉備軍と西涼軍の将兵たちは意思統一を図って、協同で黒気の蛇を相手に戦い始めた。


 張飛・趙雲・馬超・龐徳。劉備軍と西涼軍の名だたる勇将たちは黒気の蛇の攻撃にひるむことなく、ことごとくそれを斬って捨てた。彼らに率いられた両軍の兵士たちも奮戦したが、切り裂かれた蛇は邪気となって、辺りに転がった兵たちの死体に入り込んだ。

 その結果――――死体が目覚めた。黒く染まった死体が起き上がり、剣を取り、向かってきたのだ。しかばねが生き返り、無言で襲いかかってくる。先程までの戦友が敵となり、命を奪おうとしてくる。それは更なる擾乱じょうらんを巻き起こした。

「子龍、いったいどうなってんだ?」

「分かりません!」

 動き出した死体を再び突き倒して張飛が聞き、また起き上がったそれのひたいに槍を突き刺して趙雲が答える。

「どうする、令明れいめい?」

「これは……!」

 こちらも襲いかかってきた死体を打ち倒して馬超が対策を問うが、龐徳は答えられない。死者の反攻。それは兵士たちを恐怖の底におとしいれた。

 奮戦むなしく両軍が瓦解がかいしていく。


 軍の瓦解。それは曹操軍にしても同じだった。

 生ある兵士たちを死した兵士が襲う。それには曹操軍の兵士たちも算を乱して逃げ惑う。曹彰ら将軍たちも迫る死体を斬り捨てながらも、じりじりと後退するしかなかった。

「逃げるな、戦え!」

 しかし、曹彰のその命令は混乱をきたした兵には届かない。空しく響くだけだ。

「いくらか時は稼ぎました。我等も退きましょう」

「丞相ももう江陵へ向けて発たれたはず。我等も早く追いかけた方がよい」

 曹真と曹休が曹彰に進言した。彼らは曹操が梁鵠と対面して、まだ城内に残っているとは知らない。当然のことながら、もうとっくに脱出したと思い込んだ。

 曹彰がうなずく。それを聞いた曹休が、

「城門に火を放て。ここを火葬場にしてやる」

 まだ我を保って従っていた兵士たちに命令した。程なく城門が炎に包まれた。

 しかし、死者の兵団はそれさえ恐れない。焼けただれるのをものともせずに炎の城門を突破してくる。曹家の戦士たちが目を疑った。おぞましい予感が背筋を走る。

 燃え尽き、灰になるまで動き続けるのか――――。


 また火見がその炎を感知した。

「これは、何……?」

 黒ずんだ兵士たちが押し寄せてくる。それに追われる兵士たち。

 城門の方から曹彰ら将兵が走ってきたのを目撃した曹丕は、

「父上、城門を抜かれたようです!」

 声を大にして留まったままの父に訴えた。

 だが、曹操は宙をにらみ、微動だにしない。腰の剣に手をやり、黒気の龍の動きに神経を集中させていた。強大な敵を前に気力がみなぎっている。

 黒気の龍――――若かりし曹操の前に突然現れ、擾乱を巻き起こした死者の怨念おんねん

 その時と同じように急降下してきた黒気の龍が大口を開けて曹操の命を狙ったが、

「はっ!」

 曹操は軽やかに跳躍して、それをかわした。肉体の反応があの時に戻っている。

 気付けば、頭のうずきも消えている。胡公酒のお陰か――――だが、それを考えるいとまもなく、猛り狂った黒気の龍がまるで意志があるかのように曹操に向かってきた。曹操は再び身をひるがえしてそれをかわした。

 この邪龍は曹操以外には目もくれない。曹操だけを狙っている。

『目的はオレか。いや、オレが持つこれか……』

 曹操が懐を触った。三度みたび襲いかかる邪龍。剣を抜く。

「ふんっ!」

 しかし、曹操は今度は逃げもせず、真っ向からそれを斬って捨てた。

 倚天いてんの剣――――三十年前もその龍を斬った白気を帯びし霊剣。

 黒気の龍はその一閃で首を寸断されて、地面に落ちてのたうつと、陰気の集合体を弾けさせて蒸発した。司馬懿はその光景と、それを生み出した曹操孟徳という男の強さに茫然とする。

『何というお方だ……』

 曹丕も曹植も、父の無事に胸をで下ろした。が、それも束の間、

「まだ来る。この下に、ものすごい量の邪気がある」

 それを感知した火見がおののきながらも、警告した。

 怨念。呪詛じゅそ。狂気。殺意。紛然して渦巻く負の感情。この世に溢れる全ての望みを打ち砕き、あらゆる願いを消し去ってしまうような濃い邪気が蠢動しゅんどうしている。

 その途端、地表近くまで押し寄せていた邪気が爆発するように噴出して拡散した。

 それはまたたく間に辺りに立ち込め、世界を黒く汚染していく。

 その下で爺禾支がうめいた。

「ぐああっ!」

 病み上がりの体を押して奮戦していた爺禾支だったが、清めの塩が尽きてしまって、油断したところを黒気の蛇に噛みつかれた。

「爺禾支!」

 火見が悲鳴に似た声で叫んだ。爺禾支が苦しそうに胸を抑えてうずくまった。噛みついた黒気の蛇が邪気となって、九竅きゅうきょうから体に侵入していく。

 九竅とは、目や鼻、耳など身体にある九つの穴のことである。この時代、九竅から悪霊が入り込んで、生者に病を引き起こし、死者の遺体を腐らせると考えられた。

 もがき苦しむ爺禾支の体が次第に毒に黒く侵され、ついに爺禾支は崩れ落ちた。

 弱った人間を容赦なく死に至らしめる。黒気の病。黒死病。

「逃げろ、火見!」

 地面にいつくばり、死に臨みながら、爺禾支は最期の力を振り絞って火見に叫んだ。

「火見、行くぞ!」

 有無を言わさず、難升米なそめが火見を抱えて走り出した。

「丞相、退避を!」

「父上!」

 司馬懿も黒気の噴出を凝視する曹操に声をかけ、曹丕と曹植が父の体を押しやるようにして、強引に退避を促した。

『幻想が過去と繋がろうとしているのか……?』

 曹操は体を駆けさせながらも、頭では冷静に事態の真相を見抜こうとしていた。

 あの気の正体は約二十年もの長きにわたり政権を聾断ろうだんした過去の大将軍・梁冀りょうきの怨念だ。

 安定郡烏氏の人、梁冀、あざな伯卓はくたく。歴史に醜名しゅうめいを刻んだ跋扈ばっこ将軍。

 梁冀は生来の暴虐性の上に酒乱といった人物で、心と同様に容貌もみにくく、その声も酷く濁っていた。それにもかかわらず、父・梁商が外戚がいせきの身分から大将軍になると、梁冀もそれに合わせるように出世を遂げて、父の死後、大将軍の位を継いだ。

 梁冀はあらゆる権力を掌握して政道を乱す一方、その権威で五仙珠を独占した。

 そして、ついには皇帝を毒殺し、それに為り代わろうとたくらんだ。

 傲慢不遜ごうまんふそん暴虐無人ぼうぎゃくぶじん、皇帝殺し……。天をも恐れぬ所業の悪名高き人物である。

 その梁冀の野望は寸でのところで破綻はたんし、梁冀は自殺してこの世を去った。

 梁冀の政権聾断の後、それに深く関わった梁氏は一族誅滅ちゅうめつされ、他は南方へ流刑に処された。しかし、梁氏は後漢の名族であったことと、梁冀の血筋から遠かったのが幸いして、在野にあった梁鵠は連座をまぬがれた。

 外戚の簒奪さんだつ未遂、世紀の大事件。まだ曹操が幼少の頃の出来事である。

 しかし、梁冀のそのけがれた魂は太陰界でも浄化されず、怨念と野望を増大させ、この世を侵そうとしている――――曹操が自らの耳目で見聞して得た結論である。


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