其之十三 蒿里行
闇が黒であるなら、光は白だ。天を包む雲は白く、大地を覆う山河は黒い。
山も水もモノクロに存在するその光景を見た時、山水画を思い浮かべ、白と黒の戦場を見た時、
黒の軍勢は
優勢なのは黒の軍勢だ。数も白より多い。白の軍勢を力押しして後退させる。
両翼から包み込まれるように攻撃を受けると、間もなく白の軍勢が敗走に転じ、あえなく勝負はついた。敗走する白の軍勢の最後尾で、
馬上のその将軍が槍をかざし、叫ぶ。
『なぜですか、兄上!』
そこに黒の軍勢の将軍らしき男が進み出て、白の将軍と一騎打ちを始めた。
『兄上、目を覚ましてください!』
『私の
いや、聞こえてくるのは片方の声だけだ。戦いながら、もう一方に訴えている。
『父上も案じておられますぞ! うがっ!』
この勝負も黒の勝利だった。胸を突かれた白の将軍がもんどりうって落馬した。
黒尽くめの将軍がゆっくりと馬を進め、仰向けに倒れた白の将軍の眼前に槍の穂先を突きつけて、今まで固く結んでいた口を開く。
『俺が長沙王だ。おとなしく長沙を引き渡せと、帰って父にそう伝えておけ』
何かが視界を横切った。それを追う。視線の先を滑空するのは一羽の
赤く
一連の光景を見届けた後、孔明は天から一本の細い糸のようなものが垂れてくるのに気が付いた。それは意志を持っているかのように孔明のもとに伸びてきて、自らの体から発した青い気と結合した。そして、孔明の体を包み込んで龍の長い体のように天空へ伸びていき、孔明の意識はその道筋を伝うように昇っていく――――。
無傷の
川と湿原の境目は完全に濁流に水没していて見分けがつかない。まるでそこが巨大な湖になってしまったかのようだ。黒い水面には船の残骸や流木、枯れ草などが散乱していて、死体もいくつか浮いていた。尚香はそれから目を
「我等の勝利のようですわね、兄上」
そう言うと、少しぎこちない笑顔を作って浮かぬ顔の
尚香は兄の船に移って、劉備軍の船団を追尾していた。行方不明の妹の捜索をしていた孫匡の一軍は下流方面に捜索範囲を広げていたために、幸いにも津波の被害には
孫匡が妹にもう一度確認を取る。
「尚香、本当にこのまま劉備軍と行動するのか?」
「当然です。
尚香が兄と
「
尚香の身を案じて同行している魯粛が真相を告げ、尚香の男勝りな英気を削ごうとした。だが、尚香は折れない。
「それならばそれで、その龐士元を見つけ出し、神器を返還してもらわなければならないでしょう。私がこの手で神器を受け取ります」
尚香は
「どうお考えですか、
困り果てた孫匡が魯粛に尋ねる。魯粛は大きな吐息をついて言う。
「……実は大都督が龐士元が素直に朱雀鏡を返還するかどうかを案じておられた。強大な力に魅せられて、心変わりすることも考えられなくもない。孔明の青龍爵のこともある。私が士元と孔明に
魯粛が視線を向けた前方を行く船にその諸葛孔明がいた。
魯粛がそう決断するのとほぼ時を同じくして、孔明が目覚めた。薄らと目を開けた孔明に劉備が問いかけた。
「……気が付いたか、孔明?」
「……我が君、私は……?」
孔明は何故自分が倒れているのか分からなかった。
「……そうでしたか。夢でも見ているようでした」
そんな感想を言って、劉備からトレード・マークの白の
そして、すぐに夢幻の体験を忘却の彼方に追いやり、現況を確認する。
「それで、戦況はどうなりましたか?」
「我等の勝利だ。今、曹操軍を追撃している。長坂のお返しだ」
「それは何より。周郎はどのように動きましたか?」
「やはり、江陵に向かったようだ。曹操軍の追撃を我等に要請してきた」
「思った通りです。我等に曹操を追撃させ、土地を取る余裕を与えないようにしておいて、自分たちは
もう孔明の頭はすっかりと鋭敏さを取り戻している。周瑜の一挙一動は戦後の勢力図を見据えた行動だ。もちろん、孔明もそれは考えてある。
「江陵には我が民が入っている。孫権に黙ってくれてやるのは
襄陽を黙って曹操にくれてやった劉備がそんなことを言って、孔明を苦笑させた。
「いくら周郎でも、江陵をそう易々と落とせるとは思いません。いずれ江陵は我が君のもとへ戻ります。今は予定通り
「うむ。早速、
劉備は勝利が決定的になったのを見て、軍の一部を分けて、将軍の陳到と霍峻を洞庭湖南岸の益陽攻略に向かわせた。荊南諸郡平定のための足がかりとするためである。
以前、
徐庶からその大望を受け継いだ孔明。もう一度それをやる。これも
孫劉同盟は目前に迫った強大な曹操軍に対抗するための一時的な連携である。
曹操が敗れて北へ去った後、孫権は荊州を
孔明はそれを予見していた。孫権は領土拡大の野心を持っている。孫権に
生き残るためには、それなりの領土を確保し、兵力を保持することが必須条件であった。
「――――戦いに敗れても、荊北は依然曹操が支配するでしょう。
早くから孔明が見据えるのは天下三分、
皇帝を
孔明は
李厳、
有能な人物なので、蜀を治める
密命を帯びた彼は蜀で親劉備派を形成し、劉備が西征する時に手助けとなる
どちらにしても、荊南確保は二人の夢を実現するための絶対条件であった。
そして、劉備と孔明のその意志が周瑜と魯粛の天下二分の計を
「こうなる運命だったんでしょうかなぁ……」
この世に生きる人間たちのそんな思惑には無関心のように、
「……この方は?」
「そなたの魂をあの世から呼び戻してくれた
「いや、私は何もしておりませんよ。私が探し当てる前に龍を
左慈が言って、太陰界から戻ってきた孔明を見つめた。孔明が目覚める直前、青い気がすっと孔明の肉体に入り込んだのを見た。
「それにしても、そろそろ限界ですな。人が死に過ぎました……」
「限界とは?」
孔明が尋ねる。また霧が濃くなってきていた。その色は深く、暗い。
「陰気が
「良からぬことが起こるのだな。だが、今は前へ進まなければならん。曹操に確認したいことがある」
劉備が不吉な事態を察しながらもそう答え、左慈は諦めるように言った。
「英雄とは似た者同士でございますな。
陰陽のバランスが大きく乱れて久しい。大乱が続き、短期間で数多の人間が死んだ。太陰界にそれらの
そうならないように長年監視を続け、対策を講じてきたが、仙人一人の力で無数の人間の意思が
夏口の戦いで
「やっぱり、陸の上ってのはいいな」
機嫌良く言ったのは張飛だった。夏口の戦いで勝利して以来、ずっと上機嫌だ。
「兄上が気を配ってくれたのでしょう」
趙雲隊も水を避け、
「何でもいい。船に揺られるよりは、こうして陸の上でじっと待ってる方が百倍ましだ」
実は張飛は水戦は
ふと、兵の一人が前方を指差した。
「やっと現れたか。待ちくたびれたぜ」
「お待ちを。どうも数が少ない。敵の
息巻く張飛を制し、趙雲が数人の兵を連れて様子を見に出た。そして、間もなく怪しい男を捕らえて戻ってきた。
「何だ、お前は?」
「おお、その風貌。もしかして張飛将軍ですかな?」
張飛の詰問に
「そうだ。お前は?」
「私は龐士元と申す者。孔明から聞いていると思うが、曹操軍中におったところ、気が付いたらこんなところに倒れていてな……。当てもなく
「曹操軍にいただと?」
張飛がぐっと
「待て待て。聞いておらぬか、龐統の名を。諸葛孔明の友人でござる。将軍にも以前お会いした」
「知らんぞ、出まかせを言いやがって!」
「失礼ながら張飛将軍、この方は高名な
共に捕らえられていた
「張兄、待たれよ。鳳雛と言えば、軍師殿と並ぶ英名だと聞いたことがあります」
「
「襄陽に
「孫劉軍に内応するために曹操軍に潜り込んでいたのだ。……とにかく、孔明に会わせてくれ。そうすれば、疑いは晴れる」
朱雀を召喚してから記憶がない。龐統は
「……ちっ、ややこしいな。こいつのことは後回しだ。兵に監視させておけ」
張飛の命令で龐統は兵に連行された。何はともかく助かったわけだが、
「やれやれ、内密に動くというのも
龐統は
龍は恵みの雨という
「
黒い水面に映った自分の姿を見て、曹操がぽつりと呟いた。蒿里とは
曹操は以前、この題名で詩を
冠水した湿地帯を抜け、何とか華容道を探し当てたのはいいが、船が使えなくなった。お陰で曹操自身も泥に足を取られながらの移動であった。疲労と足下の悪さでその足取りは重く、歩みは遅い。鮮やかだった赤い衣装もすっかり泥に塗れ、無残に汚れていた。その道はあちこちで寸断され、まとわりつく冷たい水と泥がじっとしていても体力を奪う。
先日、劉備軍が十余万の民衆を引き連れて遅々たる行軍に苦しめられたが、その逆である。季節は冬。濡れた体に寒風が肌を刺すようだった。
「休息だ」
疲労
しかし、食糧がない。食べられそうなものといえば、水辺の貝しか見当たらない。
それを兵士たちに集めさせた。指先ほどの小さな巻貝。それも
そうなるのを待っているのが、樹上の烏たちだ。烏が棲む林だから、そんな地名があるのだ。死地にほかならない。
「フ、フ、フハハハハ……」
そんな状況の中、曹操が気でも違ったように笑い出した。
「どうされたのですか、丞相?」
「こんな敗戦は久しぶりだと思ってな」
「……そうですな」
荀攸は返す適当な言葉を見つけられず、そう言って場を
確かに曹操は常勝の将軍であった。幾多の戦に勝利して、覇者へと上り詰めた。
命からがら逃げ帰った敗戦といえば、『蒿里行』を詠んだ董卓討伐軍の頃に
関東に義士有り、
しかし、負けた。酷い敗戦だった。間違った道を行こうとしたから、天の加護なく敗れたのだ。曹操は敗戦後、そう考えた。
そして、あの敗戦が運命の転機となって、曹操は歩む道を変え、劉備と
「
曹操がぽつりと呟いて、汚れた着物の
「こいつを抱えてあれこれ考えてしまったから、間違えたのだ。はっきりした。これはオレが採るべき道ではない」
曹操は赤い仙珠を手にして言った。
若き頃に燃やした義憤の炎。消えたと思ったその火が漢の丞相としてある自分の心の奥の方、無意識に近い場所でまだ燃えていたようだ。くだらない未練は絶たなければならない。若き頃の自分の想いを殺すように、年を重ねた曹操がそれを自ら吹き消した。
江陵を発った
「あっ」
「どうした、火見?」
「丞相の感覚を感じていたのですが、消えてしまいました」
小休止の間、曹操の気配を感じ取ろうとしていた火見がそれが途絶えてしまったことを告げて、不安そうな顔を司馬懿に向けた。思わず司馬懿が不吉な予感を口にする。
「……まさか」
「そんなバカなことがあるか。それより、
それを
「はい。火見の能力については私が保証致します。それに華容道は一本道。丞相が陸路を落ち延びて来られるとしたら、華容しかございません。問題は丞相が今どの辺りにおられるのかですが……」
この頃、火見の占視感覚は
それは火見本人が語っていたことで、司馬懿はこの火見の能力を頼りに曹操がいるおおよその場所を
「どれくらい離れているか分かるか?」
「感じ方が弱かったから、まだ随分離れていると思います」
「方角は?」
火見が指差す遥か先――――赤火珠はその霊力で所有者の曹操にほのかに温かさをもたらす。曹操もこの寒空の中でそれを手放すことはできかねた。だが、それで良かったのだ。赤き宿命を背負った曹操がこの天宝を所持する以上、それは彼に有形無形の天運をもたらすのである。
気を失うように眠っていた曹操が目を覚ました。僅かな時間しか眠っていないはずだったが、それはいくらか曹操の体力と気力を回復させた。
「まだ
「オレは天に負けたのだ。劉備や孫権に負けたのではない。もし、オレが奴らの立場なら、退路に伏兵を置いておく。逃がしはしない」
そう強がった直後、前方から喚声が上がった。
「どうした?」
「敵です、伏兵です!」
「何だと……」
曹操は途端に脱力感に襲われたものの、何とか
「敵はそれほど多くはありません。我等が防ぎます。丞相はお逃げくだされ」
「我等が命を賭けてもお守り致します」
ボディー・ガードの
史渙、
熊羆兵とは、体つきが大きく、強靭な肉体を持った者たちを選抜した曹操の親衛隊である。虎豹騎が精鋭騎馬隊なら、熊羆兵は精鋭歩兵隊といったところだ。
「さぁ、父上」
「戻れよ、
「ご安心を。この許褚が負けることはありません」
胸を張る許褚の目つきがおっとりとしたものから、猛虎の鋭さに変わった。
普段なら精兵ではあっても、不意を突かれた上に疲弊していて本来の力はない。
それは熊羆兵も例外ではない。曹操軍の兵たちは気力だけで押し寄せる敵兵を防ごうとしたが、いとも簡単に打ち破られた。何せ相手は一騎当千の張飛と趙雲が率いる騎兵隊なのだ。
「どこだ、曹操!」
張飛が先の敗走のお返しだとばかり、敵兵を蹴散らしながら、ぎょろりと見開かれた
「俺が相手だ!」
先の戦いと同様に、張飛の前に
「またお前か!」
「また今度と言ったのはお前だぞ!」
許褚の長刀が張飛の体を一刀両断しようと豪快に振り下ろされた。馬上の張飛はそれを蛇矛の柄で受け止めたが、その
「この野郎!」
趙雲の一隊の前には
満寵、
その能力を認められて、満寵は曹操本営の陸軍を統括していた。
「防げ、防げ! 丞相がおらねば、我等の明日もないぞ!」
満寵は兵を
「邪魔をするなっ!」
趙雲は行方を阻む敵兵を次々に槍で突いて押しのけ、駆け抜けるものの、どういうわけか馬が駆けるのを止めた。前方で火の手が上がっている。煙が煙幕のように辺りを包む。
「もっと火を
動物は火を恐れる。周囲には
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