其之十三 蒿里行 

 闇が黒であるなら、光は白だ。天を包む雲は白く、大地を覆う山河は黒い。

 山も水もモノクロに存在するその光景を見た時、山水画を思い浮かべ、白と黒の戦場を見た時、囲碁いごを思い浮かべた。眼下に垣間かいま見える大地に白黒の両軍が激突して、流動する。

 黒の軍勢は鎧兜よろいかぶとも黒ければ、それをまとう者自身も黒い。白の軍団は全てが真っ白というわけではないのだが、俯瞰ふかんして見ていると、全体的に白く映る。

 優勢なのは黒の軍勢だ。数も白より多い。白の軍勢を力押しして後退させる。

 両翼から包み込まれるように攻撃を受けると、間もなく白の軍勢が敗走に転じ、あえなく勝負はついた。敗走する白の軍勢の最後尾で、殿しんがりの将軍が奮戦しているのが見えた。黒の兵士を次々と打ち倒し、独り気勢を吐いている。

 馬上のその将軍が槍をかざし、叫ぶ。

『なぜですか、兄上!』

 そこに黒の軍勢の将軍らしき男が進み出て、白の将軍と一騎打ちを始めた。

『兄上、目を覚ましてください!』

 得物えものと得物がぶつかり合う音にまぎれ、激闘を繰り広げる両者の声が直接心に流れ込んでくるようだった。

『私のあこがれた兄上はこんな人ではない!』

 いや、聞こえてくるのは片方の声だけだ。戦いながら、もう一方に訴えている。

『父上も案じておられますぞ! うがっ!』

 この勝負も黒の勝利だった。胸を突かれた白の将軍がもんどりうって落馬した。

 黒尽くめの将軍がゆっくりと馬を進め、仰向けに倒れた白の将軍の眼前に槍の穂先を突きつけて、今まで固く結んでいた口を開く。

『俺が長沙王だ。おとなしく長沙を引き渡せと、帰って父にそう伝えておけ』

 何かが視界を横切った。それを追う。視線の先を滑空するのは一羽のからす。黒い森へと向かって飛ぶ。ふと、烏有うゆう先生を思い出した。突如とつじょその烏の羽に火が付いて燃え始め、周囲に赤い気を放ち始める。

 赤くいろどられたその烏……モノクロの世界だったから烏に見えたその鳥は飛翔しながら巨大化して、火の鳥に変化した。朱雀すざく。それを見た黒の軍勢が一斉に退却を始める。モノクロの世界を鮮やかに彩った霊鳥が黒の軍勢を追いやって一つ輪を描くと、今度はその下に屹立していた岩壁から光が溢れて辺りを照らし始めた。朱雀はそれに反応するように岩壁に向かって体当たりして消えてしまった。

 一連の光景を見届けた後、孔明は天から一本の細い糸のようなものが垂れてくるのに気が付いた。それは意志を持っているかのように孔明のもとに伸びてきて、自らの体から発した青い気と結合した。そして、孔明の体を包み込んで龍の長い体のように天空へ伸びていき、孔明の意識はその道筋を伝うように昇っていく――――。


 無傷の劉備りゅうび軍と江東水軍の一軍が雨と津波で増水した夏水を遡上そじょうしていた。

 川と湿原の境目は完全に濁流に水没していて見分けがつかない。まるでそこが巨大な湖になってしまったかのようだ。黒い水面には船の残骸や流木、枯れ草などが散乱していて、死体もいくつか浮いていた。尚香はそれから目をそむけ、

「我等の勝利のようですわね、兄上」

 そう言うと、少しぎこちない笑顔を作って浮かぬ顔の孫匡そんきょうを見た。

 尚香は兄の船に移って、劉備軍の船団を追尾していた。行方不明の妹の捜索をしていた孫匡の一軍は下流方面に捜索範囲を広げていたために、幸いにも津波の被害にはわず、尚香を保護したという劉備軍と合流していた。

 孫匡が妹にもう一度確認を取る。

「尚香、本当にこのまま劉備軍と行動するのか?」

「当然です。曹操そうそう軍に朱雀鏡を盗んだ男がいるのですよ。江東の者が追撃しないでどうするのです?」

 尚香が兄と魯粛ろしゅくだけに本心を明かした。尚香の目的は孫氏の代表として、奪われた神器を取り戻すことだ。当主の孫権そんけん柴桑さいそうを離れられないし、孫匡は勇ましさでは余り頼りにならない。勇猛さで孫策に似ていると評された三兄の孫翊そんよくは四年前に暗殺されて、すでに他界していた。だからこそ、自分がやらねばならない。父の形見である古錠刀こていとうを帯びているのは、ひとえにその決意の表れである。

龐士元ほうしげんは曹操に降ったわけではないようです。尚香様と同じように佯降ようこうして曹操軍中に潜り込み、朱雀の力を解放して、この勝利を導いたのでございます」

 尚香の身を案じて同行している魯粛が真相を告げ、尚香の男勝りな英気を削ごうとした。だが、尚香は折れない。

「それならばそれで、その龐士元を見つけ出し、神器を返還してもらわなければならないでしょう。私がこの手で神器を受け取ります」

 尚香はかたくなに孫氏の役目を果たそうと意地を張った。責務を貫こうとする剛直さはまさに父親譲りだ。

「どうお考えですか、子敬しけい殿?」

 困り果てた孫匡が魯粛に尋ねる。魯粛は大きな吐息をついて言う。

「……実は大都督が龐士元が素直に朱雀鏡を返還するかどうかを案じておられた。強大な力に魅せられて、心変わりすることも考えられなくもない。孔明の青龍爵のこともある。私が士元と孔明に直談判じかだんぱんするつもりでしたが、こうなれば、仕方ありません。誰か兵を遣わして、尚香様が無事であることと我等が尚香様を守りつつ、劉備軍に同行することを大都督に伝えさせましょう」

 魯粛が視線を向けた前方を行く船にその諸葛孔明がいた。

 魯粛がそう決断するのとほぼ時を同じくして、孔明が目覚めた。薄らと目を開けた孔明に劉備が問いかけた。

「……気が付いたか、孔明?」

「……我が君、私は……?」

 孔明は何故自分が倒れているのか分からなかった。祈祷きとうの途中で気を失って倒れたと劉備から伝え聞いた孔明は体を起こしながら、

「……そうでしたか。夢でも見ているようでした」

 そんな感想を言って、劉備からトレード・マークの白の羽扇うせんを受け取った。

 そして、すぐに夢幻の体験を忘却の彼方に追いやり、現況を確認する。

「それで、戦況はどうなりましたか?」

「我等の勝利だ。今、曹操軍を追撃している。長坂のお返しだ」

「それは何より。周郎はどのように動きましたか?」

「やはり、江陵に向かったようだ。曹操軍の追撃を我等に要請してきた」

「思った通りです。我等に曹操を追撃させ、土地を取る余裕を与えないようにしておいて、自分たちはしたたかにも版図を広げようとしている」

 もう孔明の頭はすっかりと鋭敏さを取り戻している。周瑜の一挙一動は戦後の勢力図を見据えた行動だ。もちろん、孔明もそれは考えてある。

「江陵には我が民が入っている。孫権に黙ってくれてやるのはしゃくだが……」

 襄陽を黙って曹操にくれてやった劉備がそんなことを言って、孔明を苦笑させた。

「いくら周郎でも、江陵をそう易々と落とせるとは思いません。いずれ江陵は我が君のもとへ戻ります。今は予定通り元直げんちょくが遺してくれた策を完遂させることです」

「うむ。早速、陳到ちんとう霍峻かくしゅん両名を益陽に向かわせた」

 劉備は勝利が決定的になったのを見て、軍の一部を分けて、将軍の陳到と霍峻を洞庭湖南岸の益陽攻略に向かわせた。荊南諸郡平定のための足がかりとするためである。

 以前、劉表りゅうひょうの命を受け、荊南鎮圧をやったことがある。その時は徐庶じょしょの知略に従った。荊南確保の方策は徐庶が劉備のために推し進めたものだった。

 徐庶からその大望を受け継いだ孔明。もう一度それをやる。これもあらかじめ孔明と決めた方略だった。

 孫劉同盟は目前に迫った強大な曹操軍に対抗するための一時的な連携である。

 曹操が敗れて北へ去った後、孫権は荊州を掌握しょうあくしようと軍を動かすに違いない。

 孔明はそれを予見していた。孫権は領土拡大の野心を持っている。孫権にじかに対面して、孔明は孫権の心を見抜いた。そもそも健全な同盟は同程度の国力、軍事力がなければ成立しない。夏口とその周辺の数県を領有するだけの、三万にも満たない弱小勢力の劉備軍は曹操との戦いに勝っても、一転して孫権の攻撃にさらされる可能性が高い。

 生き残るためには、それなりの領土を確保し、兵力を保持することが必須条件であった。

「――――戦いに敗れても、荊北は依然曹操が支配するでしょう。周瑜しゅうゆは水軍を生かして江陵攻略を狙い、荊州の中核を抑えたいと考えています。ですが、江陵は曹仁そうじんが守っており、簡単には攻略できません。江東軍が猛攻しても、陥落させるには時間を要すでしょう。我々はそのすきに荊南諸郡を抑え、二者に対抗する足場を得るのです。そうすれば、たとえ江東が攻め寄せて来ても、互角以上に渡り合えます。同盟関係を続けるにしても、足下を見られることもありません」

 早くから孔明が見据えるのは天下三分、鼎立ていりつの未来だ。

 皇帝をようし、中原ちゅうげんから河北にかけて強大な勢力を築き上げた曹操。江水を楯として、江東に確固たる地盤を築いた孫権。劉備がこの両者と対抗するだけの勢力となるためには、まずは荊州を確保しなければならない。そして、西征して蜀を併せ、天下を三分する。

 孔明は出廬しゅつろの際に、この〝天下三分の計〟を劉備に熱弁した。その成就をはかって、数年先の未来を見据え、すでに荊州の戦乱を利用して蜀と境界を接する秭帰しき令の李厳りげんを蜀に亡命させた。

 李厳、あざな正方せいほう。荊州南陽郡の人で新野しんや令を務めていた時に劉備とよしみを通じた。

 有能な人物なので、蜀を治める劉璋りゅうしょうに登用され、それなりの要職に就くだろう。

 密命を帯びた彼は蜀で親劉備派を形成し、劉備が西征する時に手助けとなる手筈てはずだ。漢の復興をこころざす劉備と、天下三分を現実的な理想として描く孔明。

 どちらにしても、荊南確保は二人の夢を実現するための絶対条件であった。

 そして、劉備と孔明のその意志が周瑜と魯粛の天下二分の計をさまたげることとなる。

「こうなる運命だったんでしょうかなぁ……」

 この世に生きる人間たちのそんな思惑には無関心のように、左慈さじがぽつりと呟いた。

「……この方は?」

「そなたの魂をあの世から呼び戻してくれた御仁ごじんだ」

「いや、私は何もしておりませんよ。私が探し当てる前に龍をぎょして自ら戻ってこられた」

 左慈が言って、太陰界から戻ってきた孔明を見つめた。孔明が目覚める直前、青い気がすっと孔明の肉体に入り込んだのを見た。

「それにしても、そろそろ限界ですな。人が死に過ぎました……」

「限界とは?」

 孔明が尋ねる。また霧が濃くなってきていた。その色は深く、暗い。

「陰気がたけり狂っておるところに三体もの神獣が一度に膨大な霊力を解放しましたから、陰陽の境界が破れる寸前でございます。これはもう、どうにもなりません。遠くへ避難することをお勧め致します」

「良からぬことが起こるのだな。だが、今は前へ進まなければならん。曹操に確認したいことがある」

 劉備が不吉な事態を察しながらもそう答え、左慈は諦めるように言った。

「英雄とは似た者同士でございますな。一筋縄ひとすじなわではいかない。……仕方ありません。同じ船に乗っておることですし、私も最後まで見届けると致しましょう」

 陰陽のバランスが大きく乱れて久しい。大乱が続き、短期間で数多の人間が死んだ。太陰界にそれらの魂魄こんぱくが一気に流入し、陰気が過密状態となり、膨大にふくれ上がった。それはすでに太陰界に収まりきらず、溢れ出た陰気が各地に影響を及ぼしている。これ以上の大乱は陰陽両界の大崩壊に繋がってしまいかねない。

 そうならないように長年監視を続け、対策を講じてきたが、仙人一人の力で無数の人間の意思が奔流ほんりゅうとなって渦巻く世界をコントロールできないのも確かな事実だった。


 夏口の戦いで文聘ぶんぺいを破った劉備はそのまま張飛ちょうひ趙雲ちょううんに特命を与えた。

「やっぱり、陸の上ってのはいいな」

 機嫌良く言ったのは張飛だった。夏口の戦いで勝利して以来、ずっと上機嫌だ。

「兄上が気を配ってくれたのでしょう」

 趙雲隊も水を避け、華容道かようどう沿いの浮島のようになった丘の上に上がり、曹操軍を待ち伏せしていた。張飛隊と合わせて五百騎ほどの小隊が今や遅しとその到来を待っている。

「何でもいい。船に揺られるよりは、こうして陸の上でじっと待ってる方が百倍ましだ」

 実は張飛は水戦はしょうに合わないと言って敬遠した。船での戦は足場が不安定なため、弓矢の応酬おうしゅうがメインで、長柄ながえを振り回し、肉体をぶつけ合う張飛好みの戦は期待できない。何より、北方出身の張飛は船の揺れが苦手で泳げないのだ。

 ふと、兵の一人が前方を指差した。かすみの向こう。遠くで葦原あしはらが揺れている。距離は一里(四百メートル)もない。

「やっと現れたか。待ちくたびれたぜ」

「お待ちを。どうも数が少ない。敵の斥候せっこうかもしれません。私が見て参りましょう」

 息巻く張飛を制し、趙雲が数人の兵を連れて様子を見に出た。そして、間もなく怪しい男を捕らえて戻ってきた。姿貌短小しぼうたんしょう、ぱっとしない風貌ふうぼうの男だ。服は泥にまみれている。その男の他にも数人の兵士が一緒に捕らえられていた。

「何だ、お前は?」

「おお、その風貌。もしかして張飛将軍ですかな?」

 張飛の詰問に龐統ほうとうが答える。実は二人は五年ほど前に一度会ったことがある。

「そうだ。お前は?」

「私は龐士元と申す者。孔明から聞いていると思うが、曹操軍中におったところ、気が付いたらこんなところに倒れていてな……。当てもなく彷徨さまよっていた」

「曹操軍にいただと?」

 張飛がぐっと蛇矛だぼうを突き出した。慌てた龐統が手でそれを制しながら聞き返す。

「待て待て。聞いておらぬか、龐統の名を。諸葛孔明の友人でござる。将軍にも以前お会いした」

「知らんぞ、出まかせを言いやがって!」

 威嚇いかくするように言う張飛。過去の記憶はとうの昔に酒といっしょに流れてしまったようだ。

「失礼ながら張飛将軍、この方は高名な鳳雛ほうすう先生でございます」

 共に捕らえられていた輔匡ほきょうが口添えした。それを聞いた趙雲に思い当たるふしがあった。

「張兄、待たれよ。鳳雛と言えば、軍師殿と並ぶ英名だと聞いたことがあります」

子龍しりゅう、知っているのか?」

「襄陽におもむいた時に耳にしたことがあります。あなたが本当に鳳雛先生だとして、こんなところで何をしておられる?」

「孫劉軍に内応するために曹操軍に潜り込んでいたのだ。……とにかく、孔明に会わせてくれ。そうすれば、疑いは晴れる」

 朱雀を召喚してから記憶がない。龐統は子細しさいを語るよりも孔明に会った方が話が早いと思って言ったのだが、あいにく孔明はここにはいない。

「……ちっ、ややこしいな。こいつのことは後回しだ。兵に監視させておけ」

 張飛の命令で龐統は兵に連行された。何はともかく助かったわけだが、

「やれやれ、内密に動くというのもしだな。とんだ誤解を与える……」

 龐統はりたように呟くと、広いひたいをパチンと叩いた。


 龍は恵みの雨という天佑てんゆうをもたらした一方、悪路という災禍さいかまで運んできた。

 烏林うりんでの敗戦から丸一日が過ぎていた。曹操と五千ほどの敗残兵が冬至の寒空の下、雨と洪水でぬかるんだ道を後退していた。幸い水が邪魔をしてくれたのか、敵の追撃はまぬがれた。これも天祐だといえなくもない。が、笑みが浮かぶはずもなく、

蒿里行こうりこうだな……」

 黒い水面に映った自分の姿を見て、曹操がぽつりと呟いた。蒿里とは冥途めいどのことをいう。

 曹操は以前、この題名で詩をんでいる。董卓とうたくの専横以来の荒廃ぶりを断腸だんちょうの思いで詠んだものだ。多くの将兵を失い、生き残った者たちも声なく、亡霊のようにただ足を運んでいる。今の悲惨な逃避行はまさしく蒿里への道筋のようである。

 冠水した湿地帯を抜け、何とか華容道を探し当てたのはいいが、船が使えなくなった。お陰で曹操自身も泥に足を取られながらの移動であった。疲労と足下の悪さでその足取りは重く、歩みは遅い。鮮やかだった赤い衣装もすっかり泥に塗れ、無残に汚れていた。その道はあちこちで寸断され、まとわりつく冷たい水と泥がじっとしていても体力を奪う。

 先日、劉備軍が十余万の民衆を引き連れて遅々たる行軍に苦しめられたが、その逆である。季節は冬。濡れた体に寒風が肌を刺すようだった。

「休息だ」

 疲労困憊こんぱいの曹操が命じた。空が暗くなってきた。また野外での陰鬱な一夜を明かさなければならない。少しでも濡れていないところを探し、火を起こして寒さをしのぐ。

 しかし、食糧がない。食べられそうなものといえば、水辺の貝しか見当たらない。

 それを兵士たちに集めさせた。指先ほどの小さな巻貝。それもわずかである。水に濡れた兵士たちは寒さと空腹に耐えかねて、震え、やがて、倒れて動かなくなった。

 そうなるのを待っているのが、樹上の烏たちだ。烏が棲む林だから、そんな地名があるのだ。死地にほかならない。

「フ、フ、フハハハハ……」

 そんな状況の中、曹操が気でも違ったように笑い出した。かたわらの荀攸じゅんゆうが案じて聞いた。

「どうされたのですか、丞相?」

「こんな敗戦は久しぶりだと思ってな」

「……そうですな」

 荀攸は返す適当な言葉を見つけられず、そう言って場をにごした。

 確かに曹操は常勝の将軍であった。幾多の戦に勝利して、覇者へと上り詰めた。

 命からがら逃げ帰った敗戦といえば、『蒿里行』を詠んだ董卓討伐軍の頃にさかのぼる。

 関東に義士有り、群凶ぐんきょうを討たんと兵をおこす――――あの頃は漢朝再興の義憤ぎふんに燃え、天運に恵まれた自分が負けるはずがないと思った。

 しかし、負けた。酷い敗戦だった。間違った道を行こうとしたから、天の加護なく敗れたのだ。曹操は敗戦後、そう考えた。

 そして、あの敗戦が運命の転機となって、曹操は歩む道を変え、劉備とたもとを分かったのだ。今度も進むべき道を間違えたに過ぎない。

一度ひとたび道を間違えば、それは冥途へ通じる……」

 曹操がぽつりと呟いて、汚れた着物のふところから赤き命運を取り出した。

「こいつを抱えてあれこれ考えてしまったから、間違えたのだ。はっきりした。これはオレが採るべき道ではない」

 曹操は赤い仙珠を手にして言った。赤火珠せっかじゅ。赤をシンボル・カラーとする漢朝の命運を左右する天宝。炎のような赤い気が揺れるそれを見やる。

 若き頃に燃やした義憤の炎。消えたと思ったその火が漢の丞相としてある自分の心の奥の方、無意識に近い場所でまだ燃えていたようだ。くだらない未練は絶たなければならない。若き頃の自分の想いを殺すように、年を重ねた曹操がそれを自ら吹き消した。


 江陵を発った司馬懿しばいと火見たちは一日中駆け、西へ百里のところにある華容という小県に到着していた。曹操が退路を取っている華容道の始発点であり、終着点である。

「あっ」

「どうした、火見?」

「丞相の感覚を感じていたのですが、消えてしまいました」

 小休止の間、曹操の気配を感じ取ろうとしていた火見がそれが途絶えてしまったことを告げて、不安そうな顔を司馬懿に向けた。思わず司馬懿が不吉な予感を口にする。

「……まさか」

「そんなバカなことがあるか。それより、仲達ちゅうたつ。本当に信じてよいのだな?」

 それをさえぎったのは虎豹騎こひょうきを率いる曹純そうじゅんである。休まず華容を目指して駆けてきたが、このまま異国の少女の占視などに頼って行動するのは、さすがに判断に迷う。

「はい。火見の能力については私が保証致します。それに華容道は一本道。丞相が陸路を落ち延びて来られるとしたら、華容しかございません。問題は丞相が今どの辺りにおられるのかですが……」

 この頃、火見の占視感覚はぎ澄まされて、能力が飛躍的に拡大している。

 それは火見本人が語っていたことで、司馬懿はこの火見の能力を頼りに曹操がいるおおよその場所をつかもうとしていた。

「どれくらい離れているか分かるか?」

「感じ方が弱かったから、まだ随分離れていると思います」

「方角は?」

 火見が指差す遥か先――――赤火珠はその霊力で所有者の曹操にほのかに温かさをもたらす。曹操もこの寒空の中でそれを手放すことはできかねた。だが、それで良かったのだ。赤き宿命を背負った曹操がこの天宝を所持する以上、それは彼に有形無形の天運をもたらすのである。

 気を失うように眠っていた曹操が目を覚ました。僅かな時間しか眠っていないはずだったが、それはいくらか曹操の体力と気力を回復させた。

「まだむくろにはなっていないようだな」

 懐中かいちゅうの温かさを感じて、曹操が独り言を呟く。

「オレは天に負けたのだ。劉備や孫権に負けたのではない。もし、オレが奴らの立場なら、退路に伏兵を置いておく。逃がしはしない」

 そう強がった直後、前方から喚声が上がった。

「どうした?」

「敵です、伏兵です!」

「何だと……」

 曹操は途端に脱力感に襲われたものの、何とかくじけぬ意志を発揮して踏み止まった。

「敵はそれほど多くはありません。我等が防ぎます。丞相はお逃げくだされ」

「我等が命を賭けてもお守り致します」

 ボディー・ガードの許褚きょちょが頼もしく言い、熊羆兵ゆうひへいを指揮する史渙しかんが決死の覚悟で言った。

 史渙、あざな公劉こうりゅう。曹操の地元・はい国出身の勇将で、挙兵の時から付き従ってきた忠義の将軍でもある。

 熊羆兵とは、体つきが大きく、強靭な肉体を持った者たちを選抜した曹操の親衛隊である。虎豹騎が精鋭騎馬隊なら、熊羆兵は精鋭歩兵隊といったところだ。

「さぁ、父上」

 曹丕そうひが父の肩を取って、荀攸や諸官たちとその場を離れようとした。曹操が命じる。

「戻れよ、虎癡こち

「ご安心を。この許褚が負けることはありません」

 胸を張る許褚の目つきがおっとりとしたものから、猛虎の鋭さに変わった。


 普段なら精兵ではあっても、不意を突かれた上に疲弊していて本来の力はない。

 それは熊羆兵も例外ではない。曹操軍の兵たちは気力だけで押し寄せる敵兵を防ごうとしたが、いとも簡単に打ち破られた。何せ相手は一騎当千の張飛と趙雲が率いる騎兵隊なのだ。

「どこだ、曹操!」

 張飛が先の敗走のお返しだとばかり、敵兵を蹴散らしながら、ぎょろりと見開かれた双眸そうぼうの先に曹操を探す。暗中あんちゅう霧中むちゅう、曹操の姿は見えない。曹操の代わりにその視界に飛び込んできたのは巨漢の男。

「俺が相手だ!」

 先の戦いと同様に、張飛の前に魁傑かいけつ・許褚が難関のごとく立ちはだかった。

「またお前か!」

「また今度と言ったのはお前だぞ!」

 許褚の長刀が張飛の体を一刀両断しようと豪快に振り下ろされた。馬上の張飛はそれを蛇矛の柄で受け止めたが、その膂力りょりょくに抗しきれず、バランスを崩して落馬した。

「この野郎!」

 罵声ばせいとともに張飛が怒り立って、許褚に一撃必殺の蛇矛を突き出した。今度は許褚がそれを長刀で振り払った。張飛がますます怒髪をあらわにして打ちかかる。許褚も負けじと反撃する。またしても二人の壮絶な一騎打ちが始まる。

 趙雲の一隊の前には満寵まんちょうの部隊が進路をふさいで防戦にあたった。

 満寵、あざな伯寧はくねい。山陽郡昌邑しょうゆうの人で、部隊統率に長けた知勇兼備の将軍である。

 その能力を認められて、満寵は曹操本営の陸軍を統括していた。

「防げ、防げ! 丞相がおらねば、我等の明日もないぞ!」

 満寵は兵を叱咤しった激励げきれいして、趙雲軍の進撃をはばんだ。疲弊しているとはいえ、数では勝る。

「邪魔をするなっ!」

 趙雲は行方を阻む敵兵を次々に槍で突いて押しのけ、駆け抜けるものの、どういうわけか馬が駆けるのを止めた。前方で火の手が上がっている。煙が煙幕のように辺りを包む。

「もっと火をいて道を塞げ!」

 動物は火を恐れる。周囲には幾分いくぶん湿ってはいるが、やぶが生い茂り、あしも落ち葉も燃やせるものは腐るほどある。満寵は兵士にそれらをき集めさせ、火を起こすことで敵騎兵を足止めすることに成功した。

 暁闇ぎょうあん。葦原。煙幕。隘路あいろ。有利な条件を最大限利用した満寵の好守であった。

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