其之十二 天網恢恢
大火に包まれ、津波に押し流された
「さすがは
劉備は先行しながらも、津波を乗り越えた江東船団の操船技術を素直に褒めた。
先日の軍議で孫劉両軍それぞれの役割が決められていた。水戦の主導権は江東軍にあり、劉備軍の主な役割は陸戦での遊撃戦と追撃だ。
「戦は数ではないという見本ですな。軍の錬度が高く、作戦がうまく行けば、大軍も打ち破れる。曹公は
劉備の
官渡は曹操が当時の最大勢力である
劉備は
「
関羽の息子、
「女?」
救助を求める声が微かに聞こえた。女の声だ。板か何かに
「助けよ」
劉備の命を受け、関平が船を出す。兵と共にその女を引き上げ、すぐに戻ってきた。鎧を着込んだずぶ濡れの若い少女である。劉備が搭乗する
「女兵士とは珍しいな。曹操軍の者か?」
「私は……。あなたは……どちらの方ですか?」
「私は左将軍・劉備だ」
劉備――――兄・
「私は孫尚香……。江東の……
正直に自分を名乗った。それを聞いた劉備が笑って言う。
「孫権の妹? ははは、これはとんでもない拾い物をしたものだ」
劉備は孫権の妹の存在さえ知らないし、尚香が周瑜の秘策に身を投じて
「……本当です」
劉備が信じていないのを分かって、尚香は震えながらそう訴えたが、彼女の特徴である威勢のよさはすっかり影を潜めていた。証拠となるようなものは何もない。
それよりも、こんなことになって、心に期した孫家の務めを果たせなくなった
「兄上、あれは軍師の船でしょうか」
関羽が南岸から近付いてくる船を見て言った。南岸は陸口だ。
「おお、孔明の帰還か。迎えるぞ」
劉備が尚香を置き去りにして、
「あ……」
孔明という名を聞いて、尚香は周瑜や
江東の兵士に抱えられて、ぐったりとして動かない孔明が劉備の船に運び入れられた。そんな孔明の様子を見た劉備は仰天して、取り乱して聞いた。
「こ、これはどうしたのだ?」
「
声をかけたのは同船してきた魯粛だった。
「
「私にも分かりません。
「孔明!」
主君の問いかけに返事はない。返答をしたのは全く違う人物だった。
「
その声は船の外からした。水面の上。見ると、解体した船の一部であっただろう板の上に立って近付いてくる老人がいた。その登場の仕方こそ驚きだったが、劉備は孔明の様子が気になる余り、その奇妙な老人を船に招き入れた。
「女兵士の次は
関羽が呟いた単語に魯粛が鋭く反応した。
「関羽将軍、その女兵士というのは?」
「向こうにいる。孫権の妹だと言っているが」
「尚香様だ、ああ良かった!」
魯粛は喜んで、関羽が指した方へ走って行った。そんな魯粛には目もくれず、劉備はボロ道着を
「ご老人、詳しく説明してもらいたい」
その老人、
「この世界には太陽界と太陰界というのがありましてな、太陽界とは私たちがいるこの世界のこと、太陰界というのは、いわゆる〝あの世〟のことでございます。祈祷というのは、太陽界と太陰界を繋ぐ道を開く作業でもあります。その途中で魂魄が肉体を離れて太陰界に行ってしまうことがありまして、その時にこのようになってしまうのですよ」
「どうやったら、意識を戻すことができる? 孔明には今すぐ起きてもらわねばならん」
劉備は何者かも分からない老人に懇願した。
「簡単ではございませんが、やってみましょう。これ以上陰気を吸い上げられては本当に一大事になってしまいますからな」
左慈は
「何の
関平が父に聞いた。父・関羽も意味が分からず、首を振った。
目を開ける。日が昇ったはずだが、辺りは薄暗い。雨は止み、ただ静寂が満ちている。もう混乱はない。曹操はゆっくりと辺りを見回した。木々が茂っている。
どこだか分からないが、林の中のようだ。しかし、それらまばらに茂る木々は全て水に
そんな水没林で
「水に救われたか……」
ふと木の葉が一枚、ふわりと曹操の視線を横切って、音もなく水面へと舞い落ちた。静寂とは陰。過去もまた陰。辺りに漂うそれが原因だろうか、曹操は再び
鮮やかに
「――――コレ、少年さんを悪い火守る」
そんな阿瞞にローマ人の魔術師が告げた言葉。あの時は何の意識もなかった。
だが、今、九死に一生を得て、それが胸に
そこに現れた龍が雨を招いて炎を消し去り、押し寄せた津波に流されて、曹操たちは敵の追撃からも逃れることができたのだ。
「父上、ご無事でしたか」
その後ろには
「生き残った将兵たちを集めよ」
曹操のその命令で、曹丕や許褚たちが大声を上げて、周囲の将兵たちに集合をかけた。水没した中、
「江東の兵を山ほど
この惨敗の中で、曹彰が自慢げにそんな武功を披露したものだから、
「さすがは曹彰様。お一人で江東の兵力を半減させて参られましたか」
どことなく影がある顔つきの賈詡が急に顔を明るくして、そんな言葉で場を
賈詡、
それが決定的な汚点としてあるので、普段は口を閉ざして沈黙を守っている。
しかし、実に謀略に長け、機知に富んだ人物なのは確かで、
「それなら、いつでも江東を平らげることができましょうな」
賈詡のその言葉が敗戦の
将兵たちが笑い声を上げ、賛同し、まるで戦勝ムードのような雰囲気に包まれた。
「よろしい。江陵へ退く」
曹操が賈詡の
「父上、こちらに」
「おう」
曹操は曹彰の小船に乗り移り、曹丕もそれに乗った。怪力の許褚がそれを押し、他の将兵たちが徒歩で後に続いた。
烏林から遠く離れた江陵の
その情報を
「急ごう」
もはや司馬懿はそれを
「寒い……」
火見は思わず自らの手で体を抱いた。急に冬の冷気をその身に感じたからだ。
麒麟車に乗っている間はそれを感じなかっただけに、なおさらだった。
「火見、行くぞ」
「どうしたの? また調子が悪いようだけど……」
爺禾支の様子がおかしい。火見以上に寒気を感じているのか、顔が青ざめている。
「いや、大丈夫だ。さぁ、行こう」
病み上がりの爺禾支が強がって火見に言い、心配無用とばかりに駆け出した。
後を追う火見の視線が道の脇の原野に向いた。草がなく、
曹仁は司馬懿が帰還して面会を求めていると報告を受け、すぐに司馬懿の前に現れた。朝が早かったので、
「いったい何事だ、
曹仁は曹操が敗れるなど夢にも思ってもいない。なので、司馬懿から曹操軍敗走の知らせを聞いて眠気がふっとんだものの、すぐにそれを受け入れられなかった。
「……ばかな。
曹仁のその疑問はもっともだった。
「それは……」
司馬懿は言葉に詰まった。麒麟のことを話しても、信じてはもらえないだろう。
麒麟車に乗っていた司馬懿は上空から江水を
司馬懿は曹仁の問いには答えず、
「……今はそれを詳しく説明している余裕はありません。それよりも、一刻も早く、丞相の救援に軍を派遣しなければなりません。すでに周瑜の船団も江水を
そう
「む……」
さすがに曹仁はそう
「分かった。
「ご明断でございます。
「いいだろう。必ず無事に連れて帰るのだぞ」
「畏まりました」
司馬懿は拝礼して、すぐに官府を退出し、
「司馬懿様、私たちも一緒に行ってよろしいですか?」
「何を言う、火見。戦に行くようなものなのだぞ」
難升米がその唐突な申し出に驚いて、火見をたしなめた。
「ここは何か不吉な感じがするの。長居しない方がいいと思うの」
「そうか、周瑜の江東軍だな。私としては歓迎だ。こちらも火見の
司馬懿は難升米に
「火見の言うことはいつも正しい。俺は火見に従う」
爺禾支がそう賛同したので、難升米は渋りながらも、
「分かりました。ご同行しましょう」
そう言って承諾し、倭国の三人はまたしても、戦の中心へと飛び込んでいくのだった。
江上を吹き抜ける風が頬を
旗には〝周〟の一字。周瑜率いる江東船団はちょうど
孫権の父、
巴丘は洞庭湖の東岸、江水とも近い位置にある。荊南への入口というべきところだ。孫策と孫権が江夏討伐の兵を
そこが曹操軍によって占拠されたと聞いた時は龐統が予想したとおり、孫権も周瑜も
「大都督、巴丘は攻めないのですか?」
「副都督の一軍を送る。敵の船を焼いて足止めできさえすれば、それでいい。今は江陵を得るのが先だ。劉備軍に陸路の追撃を任せたのがどうしてだか分かるか?」
「その間に江陵と巴丘を奪取するためだと思っておりました」
「そうだ。曹操が敗れたとなると、逃げる先は江陵だ。江陵を守る曹仁もそれを知れば、すぐに救援軍を出す。我等は城の防備が薄くなったその時を突いて、一気に江陵を攻め取る。江陵は荊州の軍需物資が蓄えられている。荊州攻略の要となる土地だ。そこさえ確保できれば、巴丘に孤立した曹操軍などいつでも料理できる。巴丘に気を取られて、もたもたしていては、江陵を制圧する時を失う」
「なるほど、時ですか。よく分かりました」
周瑜の軍略は孔明に勝るとも劣らない。先の先を見て動いている。孫権が軍略において全幅の信任を置いているのも
「子敬の戦略は知っているな?」
「はい」
魯粛もまた孔明に勝るとも劣らない戦略を持っている。魯粛は孫権に「荊州を制圧し、江水を境に天下を分け、割拠するべし」と、いち早く説いた。
荊南と江南を合わせ、曹操と対抗する〝天下二分の計〟と言ってよい。
その実現のために、劉備と合従することを強く進言し、こうして曹操の南下を阻止したのだ。
「子敬の戦略は素晴らしい。私はこれに
周瑜もまた征西を考えている。
周瑜の読みどおり、江陵の城門が開く。冷たい外気は
悪い予感を押し返すように、
「丞相がご帰還される。我等は迎えに出る。続け!」
曹純の号令で、精鋭の騎馬隊・虎豹騎が出撃した。司馬懿と倭国の三人も馬に
徐庶は曹丕に従って江陵まで同行した後、
『
徐庶は盟友たちの神計が成ったのだと知って、深く頷いた。
まだ江東を攻めてもいないのに曹操が帰還するというのは、これは敗走を意味している。この機に眠りについていた虎が動き始める。
徐庶はこの時のために
劉備の下を離れ、止むを得ず曹操陣営に加わることになった徐庶ではあるが、その心の主君は変わらず劉備である。
「ふん」
江陵城門脇には出撃していった曹純の虎豹騎を悪態で見送った
馬超、
「何のための俺たちだ!」
馬超が顔を
「勇猛果敢な
皮肉を言って近付いてきた徐庶を曹操軍の官吏だと勘違いした馬超が
「将軍、そのような怖い顔をなさらないでいただきたい。飼い殺されているという点では私も将軍と同じ立場なのですから」
「どういう意味だ?」
「私も将軍も警戒されているのです。私は最近まで左将軍に仕えておりました。将軍も丞相の
「俺は曹操の部下になったわけではないぞ」
徐庶の説明に、馬超が思わず
「それは私も同じ。ですが、曹操は今後も
「く……」
徐庶が言葉巧みに
「江東が平定されれば、次に狙われるのは涼州であるのは明らか。
徐庶の言葉は十分過ぎる可能性を含んでいる。それだけに、それを聞いてしまった馬超の顔から怒りの表情が消え失せる。代わって、焦りの表情が浮かんできた。
「俺はどうすればいいのだ?」
居ても立ってもいられなくなった馬超が傍らに立つ
龐徳は
「話を聞いていましたが、貴公の心の
龐徳は徐庶に問い
「まさしく」
徐庶はきっぱりと答え、龐徳に変わらぬ忠義を示して見せた。そこで龐徳が馬超に
「この方は我等の敵ではないようです。左将軍は孫権と同盟を結んだということですし、若、あれを見せてみては?」
馬超が頷いて、
「これについてどう思われるか?」
徐庶は馬超から書簡を受け取って、目を通した。それはつい先日届いた江東の周瑜からの内応の誘いであった。この存在も馬超が頭を悩ませる一つの原因であった。
「悪くはありませんが、最上の身の処し方ではありません。将軍の一番の
徐庶はその迷いを一蹴した。馬超の父、馬騰は曹操の
「その通りだ。では、どうすればよい?」
馬超の焦りを知って、徐庶はすかさず決起を促した。
「将軍次第で事態は変えられます。幸い曹操軍は戦いに敗れ、敗走中です。左将軍が追撃しています。これは天が将軍に与えたもうた絶好の機会。牙を抜かれた虎となりたくなければ、左将軍に協力して曹操を討ちなさい。これこそ将軍の悩みを取り除く最上の策」
「敗走……それは
「真です。今出て行ったのは敗走する曹操軍を救援する部隊です。決して数は多くない。将軍が率いるのは精猛で知られ涼州兵。左将軍と
劉備への忠義は漢朝への忠義だ。そこから来る徐庶の言葉は熱い。
「それに江東の大軍が江水を遡って押し寄せてくるのは時間の問題。ここに留まって曹操軍に味方すれば、忠孝の道を外すだけでなく、西涼軍は城を守るための楯とされ、壊滅してしまいますぞ」
徐庶の指摘は実に的確、道理も通っていた。三つ目の選択肢。
「どう思う?」
「若の意のままに」
龐徳が短く答え、馬超が腹を決めた。
「よく分かった。出撃する」
馬超は西涼兵を集め、出撃の
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