其之十二 天網恢恢

 大火に包まれ、津波に押し流された曹操そうそう水陣から少し下流側の江上にそれを静観する船団があった。津波による被害もなく、陸口沖で待機していたのは劉備りゅうびの水軍である。

「さすがは周公瑾しゅうこうきん率いる江東水軍だ……」

 劉備は先行しながらも、津波を乗り越えた江東船団の操船技術を素直に褒めた。

 先日の軍議で孫劉両軍それぞれの役割が決められていた。水戦の主導権は江東軍にあり、劉備軍の主な役割は陸戦での遊撃戦と追撃だ。

「戦は数ではないという見本ですな。軍の錬度が高く、作戦がうまく行けば、大軍も打ち破れる。曹公は官渡かんとでそれをやってのけましたが、今回は逆でしたな」

 劉備のかたわらで長髯ちょうぜんを風になびかせながら言うのは関羽かんうだ。襄陽の軍船を率いて南下して以来、劉備水軍の実質的な司令官である。

 官渡は曹操が当時の最大勢力である袁紹えんしょうと激突した場所だ。その戦いでは、曹操は寡兵かへいで十倍近い袁紹の大軍を破るという快挙を成し遂げた。

 劉備は張飛ちょうひ趙雲ちょううんに騎馬隊を率いさせて、烏林の北、華容道沿いに伏兵として置いた。もちろん、勝利を見越した上での孔明の指示である。曹操の退路を襲うのだ。

伯父おじ上、あれを」

 関羽の息子、関平かんぺいが指差した。大火の明かりを背に受けて、水面に動く何かが見えた。

「女?」

 救助を求める声が微かに聞こえた。女の声だ。板か何かにつかまって漂流している。

「助けよ」

 劉備の命を受け、関平が船を出す。兵と共にその女を引き上げ、すぐに戻ってきた。鎧を着込んだずぶ濡れの若い少女である。劉備が搭乗する闘船とうせんに運ばれてきたその少女はうずくまって寒さに震えていた。劉備が自分の上着をかぶせながら、怪訝けげんな顔で聞いた。

「女兵士とは珍しいな。曹操軍の者か?」

「私は……。あなたは……どちらの方ですか?」

 尚香しょうこうは思わず名乗りそうになったのを抑えて、逆に劉備に聞いた。

「私は左将軍・劉備だ」

 劉備――――兄・孫権そんけんと同盟した友軍の将軍。尚香はそれを思い出して、

「私は孫尚香……。江東の……討虜とうりょ将軍・孫権の妹です」

 正直に自分を名乗った。それを聞いた劉備が笑って言う。

「孫権の妹? ははは、これはとんでもない拾い物をしたものだ」

 劉備は孫権の妹の存在さえ知らないし、尚香が周瑜の秘策に身を投じて佯降ようこう作戦に参加している事実など何も知らされてもいない。だいたいそんな高貴な身分の女性が前線に出てくること自体、普通では考えられない。

「……本当です」

 劉備が信じていないのを分かって、尚香は震えながらそう訴えたが、彼女の特徴である威勢のよさはすっかり影を潜めていた。証拠となるようなものは何もない。

 それよりも、こんなことになって、心に期した孫家の務めを果たせなくなった挫折ざせつ感に落胆していた。

「兄上、あれは軍師の船でしょうか」

 関羽が南岸から近付いてくる船を見て言った。南岸は陸口だ。

「おお、孔明の帰還か。迎えるぞ」

 劉備が尚香を置き去りにして、接舷せつげんする船の方へ移動した。

「あ……」

 孔明という名を聞いて、尚香は周瑜や魯粛ろしゅくと一緒にいた涼やかな顔立ちの人物を思い浮かべた。彼なら自分を知ってくれている。だが、寒さに震え、体力を消耗していた尚香は立つことすらできず、劉備の背中が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。


 江東の兵士に抱えられて、ぐったりとして動かない孔明が劉備の船に運び入れられた。そんな孔明の様子を見た劉備は仰天して、取り乱して聞いた。

「こ、これはどうしたのだ?」

皇叔こうしゅく

 声をかけたのは同船してきた魯粛だった。

子敬しけい殿、孔明はどうしたのだ?」

「私にも分かりません。祈祷きとう中に気を失ってしまわれました」

「孔明!」

 主君の問いかけに返事はない。返答をしたのは全く違う人物だった。

魂魄こんぱくが太陰に迷い込んだようですな」

 その声は船の外からした。水面の上。見ると、解体した船の一部であっただろう板の上に立って近付いてくる老人がいた。その登場の仕方こそ驚きだったが、劉備は孔明の様子が気になる余り、その奇妙な老人を船に招き入れた。

「女兵士の次は得体えたいの知れぬ老人か」

 関羽が呟いた単語に魯粛が鋭く反応した。

「関羽将軍、その女兵士というのは?」

「向こうにいる。孫権の妹だと言っているが」

「尚香様だ、ああ良かった!」

 魯粛は喜んで、関羽が指した方へ走って行った。そんな魯粛には目もくれず、劉備はボロ道着をまとった得体の知れない老人に走り寄ると、すがるように訴えた。

「ご老人、詳しく説明してもらいたい」

 その老人、左慈さじが答える。

「この世界には太陽界と太陰界というのがありましてな、太陽界とは私たちがいるこの世界のこと、太陰界というのは、いわゆる〝あの世〟のことでございます。祈祷というのは、太陽界と太陰界を繋ぐ道を開く作業でもあります。その途中で魂魄が肉体を離れて太陰界に行ってしまうことがありまして、その時にこのようになってしまうのですよ」

「どうやったら、意識を戻すことができる? 孔明には今すぐ起きてもらわねばならん」

 劉備は何者かも分からない老人に懇願した。

「簡単ではございませんが、やってみましょう。これ以上陰気を吸い上げられては本当に一大事になってしまいますからな」

 左慈は船縁ふなべりに座って、人差し指を突き出す。そして、目をつぶって集中すると、自らの意識を太陰界へと送った。

「何の真似まねでしょう?」

 関平が父に聞いた。父・関羽も意味が分からず、首を振った。


 目を開ける。日が昇ったはずだが、辺りは薄暗い。雨は止み、ただ静寂が満ちている。もう混乱はない。曹操はゆっくりと辺りを見回した。木々が茂っている。

 どこだか分からないが、林の中のようだ。しかし、それらまばらに茂る木々は全て水にかっていて、自身の姿を水面に映し込んでいた。

 そんな水没林で座礁ざしょうした船の上。うつ伏せに倒れ込んでいた曹操がゆっくりと体を起こす。津波で林の奥まで流されたようだ。船はいくらか傾いてはいるものの、沈没する気配はない。それを知って、一人つぶやく。

「水に救われたか……」

 ふと木の葉が一枚、ふわりと曹操の視線を横切って、音もなく水面へと舞い落ちた。静寂とは陰。過去もまた陰。辺りに漂うそれが原因だろうか、曹操は再び阿瞞あまんへと帰る。

 鮮やかによみがえる記憶の中で、白馬寺の池の水が何かを形作りながら、天に吸い上げられるように水柱みずばしらとなって昇った。龍だ。阿瞞が天空へ昇る龍を見上げた時、それは弾けるように散って、阿瞞の上に雨のように降り注いだ。お陰で阿瞞はびしょ濡れになってしまった。

「――――コレ、少年さんを悪い火守る」

 そんな阿瞞にローマ人の魔術師が告げた言葉。あの時は何の意識もなかった。

 だが、今、九死に一生を得て、それが胸にみる。悪い火――――曹操の乗った楼船は焼けただれ、半壊していたものの、今はその火はない。つい先程まで船は業火ごうかに包まれ、退路を炎に絶たれ、絶体絶命の危機にあった。

 そこに現れた龍が雨を招いて炎を消し去り、押し寄せた津波に流されて、曹操たちは敵の追撃からも逃れることができたのだ。

「父上、ご無事でしたか」

 甲板かんぱんの最後尾に飛ばされていた曹丕そうひが腕を抑えながら傾いた甲板を上がってきた。

 その後ろには許褚きょちょ荀攸じゅうゆう賈詡かくらの姿も見えた。目をらせば、林の中には何隻もの軍船が連なるように座礁していて、その上に見慣れた将兵たちの姿があった。

「生き残った将兵たちを集めよ」

 曹操のその命令で、曹丕や許褚たちが大声を上げて、周囲の将兵たちに集合をかけた。水没した中、ひざ上まである水を掻き分けて、続々と生き残った将兵たちが曹操の楼船の周囲に集まってきた。

 陳羣ちんぐん陳矯ちんきょう王朗おうろう華歆かきん徐宣じょせん董昭とうしょう――――主だった文官諸官も無事だ。

 龐統ほうとうの姿は見えない。そのうち満寵まんちょう史渙しかん曹休そうきゅう曹真そうしんといった陸軍の将軍たちがそれぞれ数十から百数十の兵を引き連れて現れた。極めつけは、蔡瑁さいぼうの水軍に合流したと思われ、安否が分からなくなっていた曹彰そうしょうが小船に乗って生還してきたことだった。

「江東の兵を山ほど蹴散けちらしてきましたよ」

 この惨敗の中で、曹彰が自慢げにそんな武功を披露したものだから、

「さすがは曹彰様。お一人で江東の兵力を半減させて参られましたか」

 どことなく影がある顔つきの賈詡が急に顔を明るくして、そんな言葉で場をなごませた。

 賈詡、あざな文和ぶんわ武威ぶい姑藏こぞう出身の涼州人である。以前、敵方に所属していて曹操を敗北させたことがある謀士で、それがきっかけで曹操は長男の曹昂そうこうを失った。

 それが決定的な汚点としてあるので、普段は口を閉ざして沈黙を守っている。

 しかし、実に謀略に長け、機知に富んだ人物なのは確かで、

「それなら、いつでも江東を平らげることができましょうな」

 賈詡のその言葉が敗戦の陰鬱いんうつに沈みそうな曹操とその将兵たちを救った。

 将兵たちが笑い声を上げ、賛同し、まるで戦勝ムードのような雰囲気に包まれた。

「よろしい。江陵へ退く」

 曹操が賈詡の婉曲えんきょく的な撤退勧告を受け入れて言った。龍も釣った。

「父上、こちらに」

「おう」

 曹操は曹彰の小船に乗り移り、曹丕もそれに乗った。怪力の許褚がそれを押し、他の将兵たちが徒歩で後に続いた。


 烏林から遠く離れた江陵の曹仁そうじんには、まだ曹操敗走の一報は伝わっていない。

 その情報をたずええ、真っ先に江陵に到着したのが司馬懿しばいであった。天空を駆けて二百数十里(百キロメートル以上)、麒麟きりんは高度を下げ、早暁そうきょうの江陵郊外の道に静かに着地した。同時に麒麟は役割を終え、その形を再び黄色を帯びた気と変えて霧散むさんすると、辺りに煙る朝霧あさぎりに同化するようにして消えていなくなった。

「急ごう」

 もはや司馬懿はそれをかえりみることなく、すぐさま江陵県城へと急いだ。

「寒い……」

 火見は思わず自らの手で体を抱いた。急に冬の冷気をその身に感じたからだ。

 麒麟車に乗っている間はそれを感じなかっただけに、なおさらだった。

「火見、行くぞ」

 難升米なそめが火見に声をかけ、司馬懿の後を追った。火見が膝に手をついて立ち止まっている爺禾支やかしを心配そうに気遣った。

「どうしたの? また調子が悪いようだけど……」

 爺禾支の様子がおかしい。火見以上に寒気を感じているのか、顔が青ざめている。

「いや、大丈夫だ。さぁ、行こう」

 病み上がりの爺禾支が強がって火見に言い、心配無用とばかりに駆け出した。

 後を追う火見の視線が道の脇の原野に向いた。草がなく、地肌じはだがむき出しになっているところがそこら中にあった。土を掘り返した痕跡こんせきだ――――多くの人が疫病で死んだ。それを埋葬まいそうした跡であった。そのせいか、周りに大量の陰気が漂っている気がして、それが冬の空気の冷たさをさらに厳しくしているように火見は感じた。


 曹仁は司馬懿が帰還して面会を求めていると報告を受け、すぐに司馬懿の前に現れた。朝が早かったので、よろい姿ではなく、平服に外套がいとう羽織はおっていた。

「いったい何事だ、仲達ちゅうたつ? 火急の用件だそうだが」

 曹仁は曹操が敗れるなど夢にも思ってもいない。なので、司馬懿から曹操軍敗走の知らせを聞いて眠気がふっとんだものの、すぐにそれを受け入れられなかった。

「……ばかな。酔狂すいきょうしているのではあるまいな。……昨夜のことだと言ったが、そなた、どのようにしてそれを知った?」

 曹仁のその疑問はもっともだった。わずか半日前の出来事が烏林から二百里以上も離れた江陵に届けられるには、余りにも早過ぎる。

「それは……」

 司馬懿は言葉に詰まった。麒麟のことを話しても、信じてはもらえないだろう。

 麒麟車に乗っていた司馬懿は上空から江水をさかのぼる船団の明かりを見た。状況からして、周瑜の江東船団であることは間違いなかった。

 司馬懿は曹仁の問いには答えず、

「……今はそれを詳しく説明している余裕はありません。それよりも、一刻も早く、丞相の救援に軍を派遣しなければなりません。すでに周瑜の船団も江水を遡上そじょうし、こちらに向かっております。私の申していることが事実でなかった時はこの首を差し出しましょう。曹将軍、迅速なご決断を」

 そう切迫せっぱくした事態を告げるとともに、曹仁の判断を仰いだ。

「む……」

 さすがに曹仁はそうあおられて、後方を託された名将の顔に戻った。

「分かった。子和しわ虎豹騎こひょうきを援軍に送る。周瑜は恐れるに足らん。この曹仁が城を守り通し、勝利を我が君に献上しよう」

「ご明断でございます。不肖ふしょう、私も丞相をお迎えに出たいと思います」

「いいだろう。必ず無事に連れて帰るのだぞ」

「畏まりました」

 司馬懿は拝礼して、すぐに官府を退出し、曹純そうじゅんの騎馬隊に合流した。簡素な朝食を済ませて司馬懿を待っていた火見が駆け寄って言った。

「司馬懿様、私たちも一緒に行ってよろしいですか?」

「何を言う、火見。戦に行くようなものなのだぞ」

 難升米がその唐突な申し出に驚いて、火見をたしなめた。

「ここは何か不吉な感じがするの。長居しない方がいいと思うの」

「そうか、周瑜の江東軍だな。私としては歓迎だ。こちらも火見の能力ちからを貸してもらいたいと思っている。どうか?」

 司馬懿は難升米に承諾しょうだくを求めた。

「火見の言うことはいつも正しい。俺は火見に従う」

 爺禾支がそう賛同したので、難升米は渋りながらも、

「分かりました。ご同行しましょう」

 そう言って承諾し、倭国の三人はまたしても、戦の中心へと飛び込んでいくのだった。


 江上を吹き抜ける風が頬をで、船上の軍旗をたなびかせる。

 旗には〝周〟の一字。周瑜率いる江東船団はちょうど巴丘はきゅうの北を遡上中だった。

 孫権の父、孫堅そんけんが長沙太守となった時から、巴丘は孫氏にとっての要地である。

 巴丘は洞庭湖の東岸、江水とも近い位置にある。荊南への入口というべきところだ。孫策と孫権が江夏討伐の兵をしきりに起こしたのは、父の仇討ちだけが目的ではなく、巴丘を確保して、長沙への進出を目論もくろんでいたからにほかならない。

 そこが曹操軍によって占拠されたと聞いた時は龐統が予想したとおり、孫権も周瑜もくちびるを噛んだ。

「大都督、巴丘は攻めないのですか?」

 呂蒙りょもうが進路を変えない周瑜に聞いた。呂蒙、あざな子明しめい。予州汝南郡富陂ふはの人であるが、姉の夫が孫策に仕えていたので、その縁故で江東の将官となった。今は周瑜に付いて、その軍略を学ぶ期待の将軍である。

「副都督の一軍を送る。敵の船を焼いて足止めできさえすれば、それでいい。今は江陵を得るのが先だ。劉備軍に陸路の追撃を任せたのがどうしてだか分かるか?」

「その間に江陵と巴丘を奪取するためだと思っておりました」

「そうだ。曹操が敗れたとなると、逃げる先は江陵だ。江陵を守る曹仁もそれを知れば、すぐに救援軍を出す。我等は城の防備が薄くなったその時を突いて、一気に江陵を攻め取る。江陵は荊州の軍需物資が蓄えられている。荊州攻略の要となる土地だ。そこさえ確保できれば、巴丘に孤立した曹操軍などいつでも料理できる。巴丘に気を取られて、もたもたしていては、江陵を制圧する時を失う」

「なるほど、時ですか。よく分かりました」

 周瑜の軍略は孔明に勝るとも劣らない。先の先を見て動いている。孫権が軍略において全幅の信任を置いているのもうなずける。

「子敬の戦略は知っているな?」

「はい」

 魯粛もまた孔明に勝るとも劣らない戦略を持っている。魯粛は孫権に「荊州を制圧し、江水を境に天下を分け、割拠するべし」と、いち早く説いた。

 荊南と江南を合わせ、曹操と対抗する〝天下二分の計〟と言ってよい。

 その実現のために、劉備と合従することを強く進言し、こうして曹操の南下を阻止したのだ。

「子敬の戦略は素晴らしい。私はこれに巴蜀はしょくを加えるつもりでいる」

 周瑜もまた征西を考えている。甘寧かんねいという猛将が蜀の出身なので、彼に先導させ、巴蜀の地を抑え、天下二分をより確実なものにする。その征西軍をおこす拠点となるのが、江陵なのだ。十年先を見据えた周瑜と魯粛の壮大なプランを乗せ、江東船団が江水をさかのぼる。


 周瑜の読みどおり、江陵の城門が開く。冷たい外気はただならぬ空気を運んでくるようで、それに敏感に反応した馬たちがぶるぶると鼻を震わせた。

 悪い予感を押し返すように、

「丞相がご帰還される。我等は迎えに出る。続け!」

 曹純の号令で、精鋭の騎馬隊・虎豹騎が出撃した。司馬懿と倭国の三人も馬にまたがってそれに続いた。その様子を城門上から見つめる者がいた。徐庶じょしょである。

 徐庶は曹丕に従って江陵まで同行した後、仮病けびょうを使って留守を願い出ていた。

龍鳳りゅうほうの策がうまくいったようだな……』

 徐庶は盟友たちの神計が成ったのだと知って、深く頷いた。

 まだ江東を攻めてもいないのに曹操が帰還するというのは、これは敗走を意味している。この機に眠りについていた虎が動き始める。

 徐庶はこの時のためにっていた次の一手を打つべく、城門脇の階段を下りた。

 劉備の下を離れ、止むを得ず曹操陣営に加わることになった徐庶ではあるが、その心の主君は変わらず劉備である。

「ふん」

 江陵城門脇には出撃していった曹純の虎豹騎を悪態で見送った馬超ばちょうがいた。

 馬超、あざな孟起もうき。西涼騎馬軍を率い、先の長坂坡ちょうはんはの戦いで劉備軍を執拗しつように追跡して、張飛とも互角にわたり合う武勇を見せた若き猛将だ。

「何のための俺たちだ!」

 馬超が顔をゆがめ、不満をぶちまける。無理矢理戦のために連れて来られたというのに、あれ以来、江陵城内に囲われているだけで出番がない。無為に留まっているうちに西涼兵にも病人が増え始めて、馬超の鬱憤うっぷんは募るばかりだ。

「勇猛果敢なきん馬超を飼い殺しとは、残念なことですな」

 皮肉を言って近付いてきた徐庶を曹操軍の官吏だと勘違いした馬超がにらみつけた。

「将軍、そのような怖い顔をなさらないでいただきたい。飼い殺されているという点では私も将軍と同じ立場なのですから」

「どういう意味だ?」

「私も将軍も警戒されているのです。私は最近まで左将軍に仕えておりました。将軍も丞相の傘下さんかに加わったばかり。元々敵側にいた人間ですし、長年忠義を尽くしてきたわけではありませんから、信用されていないということです。敵にしておけば面倒になるから、とりあえず取り込んでおいて、活躍の場を与えなければよいと考えているのでしょう」

「俺は曹操の部下になったわけではないぞ」

 徐庶の説明に、馬超が思わず本音ほんねで返した。

「それは私も同じ。ですが、曹操は今後も馬騰ばとう殿を従わせるために将軍を手放さないでしょう。情勢が変わらなければ、私も将軍も飼い殺されて終わりです」

「く……」

 徐庶が言葉巧みに切歯扼腕せっしやくわんする馬超の心をあおる。

「江東が平定されれば、次に狙われるのは涼州であるのは明らか。韓遂かんすいはまだ曹操に従っていません。馬騰殿が衛尉えいいに任命されたのは、両名の連盟をさまたげ、涼州を攻撃するための布石です。将軍はいずれ韓遂討伐の先鋒とされるでしょう。馬騰殿と韓遂は義兄弟を誓った仲だと聞いております。つまり、仲間同士、兄弟同士で殺し合うことになる。そうして、両者を戦わせ、両軍の力を削るのが曹操の真の狙い。それに従わなかった場合は、将軍も馬騰殿も殺されて終わりです。たとえ殺されなかったとしても、曹操の下にいる限り、涼州が攻撃され、蹂躙じゅうりんされるのを黙って見ているほかありません。実は人質同然なのは、将軍、あなたご自身なのです」

 徐庶の言葉は十分過ぎる可能性を含んでいる。それだけに、それを聞いてしまった馬超の顔から怒りの表情が消え失せる。代わって、焦りの表情が浮かんできた。

「俺はどうすればいいのだ?」

 居ても立ってもいられなくなった馬超が傍らに立つ髭面ひげづら龐徳ほうとくに聞いた。

 龐徳はあざな令明れいめいという。涼州の漢陽郡狟道かんどうの人である。馬超より数歳年上で、馬超が元服した時からその補佐役を兼ねる勇将だ。武勇は馬超に勝るとも劣らない。

「話を聞いていましたが、貴公の心のあるじは今も左将軍だと聞こえますな」

 龐徳は徐庶に問いただした。左将軍とは劉備が朝廷から授けられた官職である。

「まさしく」

 徐庶はきっぱりと答え、龐徳に変わらぬ忠義を示して見せた。そこで龐徳が馬超にささやく。

「この方は我等の敵ではないようです。左将軍は孫権と同盟を結んだということですし、若、あれを見せてみては?」

 馬超が頷いて、ふところから書簡を取り出した。

「これについてどう思われるか?」

 徐庶は馬超から書簡を受け取って、目を通した。それはつい先日届いた江東の周瑜からの内応の誘いであった。この存在も馬超が頭を悩ませる一つの原因であった。

「悪くはありませんが、最上の身の処し方ではありません。将軍の一番のうれいは馬騰殿と将軍自身が曹操の手の内にいることでしょう。仮に周瑜に協力して曹仁を討ったとします。それで何を得られましょう? 江陵は周瑜の手に渡るだけで、将軍の悩みの何の解決にもなりません」

 徐庶はその迷いを一蹴した。馬超の父、馬騰は曹操の姦計かんけいに絡めとられた。朝廷の官職を与えられて、曹操の思惑の中、許都に出仕している。

「その通りだ。では、どうすればよい?」

 馬超の焦りを知って、徐庶はすかさず決起を促した。

「将軍次第で事態は変えられます。幸い曹操軍は戦いに敗れ、敗走中です。左将軍が追撃しています。これは天が将軍に与えたもうた絶好の機会。牙を抜かれた虎となりたくなければ、左将軍に協力して曹操を討ちなさい。これこそ将軍の悩みを取り除く最上の策」

「敗走……それはまことか?」

「真です。今出て行ったのは敗走する曹操軍を救援する部隊です。決して数は多くない。将軍が率いるのは精猛で知られ涼州兵。左将軍と挟撃きょうげきすれば、勝利は間違いありません。左将軍と馬騰殿はかつて天子様をお救いすべく曹操を討とうとした同士。父の思いを子が継ぐは孝行、天子をないがしろにする曹操を討つは忠義。忠孝の道は馬騰殿と天子様をお救いすることに繋がるのです」

 劉備への忠義は漢朝への忠義だ。そこから来る徐庶の言葉は熱い。

「それに江東の大軍が江水を遡って押し寄せてくるのは時間の問題。ここに留まって曹操軍に味方すれば、忠孝の道を外すだけでなく、西涼軍は城を守るための楯とされ、壊滅してしまいますぞ」

 徐庶の指摘は実に的確、道理も通っていた。三つ目の選択肢。

「どう思う?」

「若の意のままに」

 龐徳が短く答え、馬超が腹を決めた。

「よく分かった。出撃する」

 馬超は西涼兵を集め、出撃のむねを伝えた。決意が変わらぬうちに槍をたずさえ、馬にまたがる。そして、馬の腹を蹴ると、怒濤どとうの如く出撃していった。敵は――――曹操。

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