其之十一 神獣乱舞

 曹操そうそうの手の中で釣り上げた大魚がばたばたともがいた。苦しむ姿が自分と重なって見えた。思わず釣り上げたそれを手から放した。それを見ていた諸官から驚きの声が漏れる中、再び自由を得た魚は縄の池へと落ちて消えた。左慈さじが言う。

凶魚きょうぎょではありませんぞ」

「とにかく、所望しょもうしたものとは違った。オレが釣りたかったのはもっともっと大きな奴だ」

「それでは、この大きさでは不足ですな」

 曹操に撤退の意思がないことを知って、左慈が溜め息をつきながら、地面に置いた縄を拾った。すると、輪の中にあった水面も消えてしまった。

「オレは龍を釣らなければならない」

 それは天下を狙う意志の表れだった。

「龍を釣れば、退くのでございますな?」

「ああ、約束する」

 曹操が夜空を見上げて断言した。

「分かりました。これを残していきましょう。この地は龍脈が流れておりますから、龍を釣ることもできるでしょう。江水の太公望たいこうぼうとおなりなされ」

 左慈が曹操に手にした小枝の竿を差し出すと、後ずさって、闇の中に消えた。

 龍脈というのは、天上、あるいは地下を流れる大きな気の道筋をいう。

 左慈がいなくなるのとほぼ時を同じくして、兵の報告があった。

「丞相、敵の船が見えました。先頭に一そう、その背後に数十の船団が付いています!」

「先頭は黄蓋こうがいの船でしょう。曹彰そうしょう様もお乗りになっているはずです」

 曹操のもとへ戻っていた蒋幹しょうかんが言った。

 孔明は戦後の形勢不利を事前に解消しておくため、あえて周瑜しゅうゆの江陵攻めの情報を司馬懿しばいにリークした。司馬懿はそれを蒋幹に伝え、蒋幹はその情報を曹操に伝えた。

 それを知った上で、曹操は龐統ほうとうの進言をれ、徐晃じょこう呂常りょじょう巴丘はきゅうを抑えさせ、孫権そんけん牽制けんせいさせた。それは江陵を目指す周瑜軍に対しての妨害ともなるだろう。

 孔明は思惑通り、曹操本陣の戦力を分散させると共に周瑜への障害を作ったのである。そんなことは一切関知しない蒋幹は、黄蓋が寝返って使者の一行を連れ出す脱出計画もすでに曹操の耳に入れてあった。

「丞相は黄蓋が本気で寝返るとお思いですか?」

 龐統がひっそり曹操に聞いた。

佯降ようこうの可能性はある。だが、それを恐れてうろたえていては勝利はつかめん」

「なるほど。泰山盤石ばんじゃくの構え――――それこそが丞相の強さでございますな」

 泰山のようにどっしりと落ち着き、揺るがない。曹操は大きな山だ。

 龐統がその山のふもとから離れようとして言った。

「……黄蓋の真意を確かめるため、私が様子をうかがって参ります」

「よかろう。蔡瑁さいぼうの水軍に同乗せよ」

「はっ」

 腹に一物いつもつふところに霊宝を秘めた龐統を乗せた船団が出港して、沖へと向かっていった。

「我等も様子を見るとしよう」

 曹操は曹丕そうひと諸官を伴って、停泊する旗艦きかんの楼閣に上り、月下の江上に目をらした。篝火かがりびいた蔡瑁の船団が進む先からすっと霧が拡散していくのが見えた。

 その上の冬の夜空には赤く輝く星があった。少し離れたところに青白く光る星があり、その二つの星の間に三つ星が並んでいる。オリオンの星座だ。小枝でそれを指しながら、

「オレと玄徳の戦いに文台の息子が入ってきたか……」

 曹操が独り言を呟いた。その後ろで、篝火の炎が何かの前兆のようにふくらんで高く立ち昇った。

 

 夜の闇を映し込んだ江上で二つの船団が邂逅かいこうする。

「迎えがやってきたぞ。これで安心だ」

 味方の船団の登場に曹彰が言って、立ち上がった。

「尚香様、ご用意を」

 それに続く黄蓋の言葉に尚香が頷いた。尚香が腰の武器に手をやった。曹彰は味方の船に目がいっていて、気付かない。

「曹彰様はおられますか?」

 蔡瑁の船団が小船に接触した。船の上から蔡瑁が小船の乗員に声をかけた。

「おお、私だ」

「水軍都督の蔡瑁でございます。早くこちらに乗り移りください」

 梯子はしごが下ろされ、それを伝って曹彰が蔡瑁の闘船へ乗り移った。黄蓋が続き、孫尚香に手を差し出す。尚香と兵士たちが蔡瑁の船に乗り終えた途端、反乱劇が始まった。

 兵の一人が悲鳴を上げて倒れた。曹彰、蔡瑁が振り返る。曹彰が見たのは剣を振り下ろす黄蓋の姿。咄嗟とっさにそれをかわした曹彰が黄蓋の裏切りを知ってののしった。

「何をするか、貴様ぁ!」

 曹彰が手にした剣を振るう。それは再び剣を振り上げた黄蓋を斬ったが、鎧のせいで致命傷には至らなかった。

「何だ?」

 斬った曹彰が戸惑ったように言ったのは、黄蓋を斬った瞬間に火花が飛び散り、それが小さな火鳥となって暗闇の中を飛んで行ったからだ。

『あの時の火か……?』

 黄蓋の脳裏に朱雀鏡を坤禅した時の出来事が過った。だが、その記憶を十分に蘇らせることはできない。黄蓋は剣を落とし、胸を押さえてつんのめった。

 任務を果たすためにずっと気丈きじょうに振る舞っていた黄蓋だったが、胸と背中の傷がうずいてもう限界だった。黄蓋はつんのめった勢いで蔡瑁に組み付いて、

「江東兵の強さを見せてやれ! 幼平ようへい興覇こうは、尚香様を頼む……!」

 最後にそう号令を発した後、敵将を道連れに水中へ没した。その見事な玉砕ぎょくさいぶりは江東の兵士たちを奮い立たせた。黄蓋に代わって先陣を切り、敵兵を斬った男が叫ぶ。

「黄将軍の命を無駄にするな! 一人で十人を斬れ!」

 顔に大きな傷を持つその兵の武勇は飛び抜けていて、有言実行、次々と蔡瑁軍の兵を斬り倒した。九江きゅうこう下蔡かさいの人、周泰しゅうたいあざなを幼平。曹彰と同様、一兵卒をよそおっていたが、実は江東の将軍である。

「船を制圧しろ! 尚香様、鈴のから離れませんように!」

 腰に下げた鈴を鳴らして勇躍し、大言したのは臨江りんこうの人、甘寧かんねいあざなは興覇。

 この男もまたけた外れに強い。二人は共に江賊こうぞく上がりで、船上の戦いに通暁つうぎょうしていた。それに続く決死隊の兵士たちも全て甘寧がりすぐった武勇と水戦に優れた猛者もさたちだ。両将に守られながら、尚香も弓矢を放って敵兵を次々と射落とす。

 蔡瑁の船団に乗り込んだ江東兵たちは二十人に満たないながら、奇襲効果も手伝って、奮闘した。そうしているうちに追随ついずいしてきた走舸そうかが蔡瑁の船団に肉薄した。

「火を付けろ! 突っ込め!」

 これまた兵卒を装った蒋欽が号令を発す。蒋欽しょうきんあざな公奕こうえき。九江郡寿春じゅしゅんの人で、周泰と同様に江賊上がりの江東の将軍である。

 積荷の魚膏ぎょこうを注いだかやに火をつけ、火船と化した走舸が敵船に次々と体当たりした。

「あっ!」

 予期せぬ事態――――船縁ふなべりを小走りに移動していた尚香は激突の衝撃でバランスを崩し、そのまま船から落ちてしまった。喚声の中、周泰・甘寧両将は目前の敵を排除するのに懸命で、まさか背後の尚香がいなくなっているとは気付かなかった。


 蔡瑁船団の最後尾に付け、黄蓋の佯降が現実となったのを目撃した龐統は、

「巻き添えはかなわん。船を下流へ」

 輔匡ほきょうと数人の兵士に命じて、乗船した走舸を江東船団から離脱させた。

 輔匡、あざな元弼げんひつ。襄陽の人で、まだ二十代の半ばの下級武官である。荊州陥落と同時に一時的に曹操軍中にあったが、実は龐統の協力者であった。

 この走舸の船床には〝河図かと〟という魔法陣が描かれていた。古代、河水から龍馬りゅうばが現れたという伝説があり、河図とはその背に描かれていた文様をいう。

 またの名を〝龍図りゅうず〟。占卜法である八卦はっけの元になったと伝えられる魔方陣である。一説では、仙界に続く出入口にもなるという。

 冬至。陰気の満ちた夜。龐統が湘山しょうざんで孔明が見せた召喚しょうかん術を真似まねる。

「皆、声を出さぬよう」

 赤壁の沖に一そうだけたたずむ形となり、龐統はふところから神器を取り出した。

 朱雀鏡。磨き上げられた鏡面と翼を広げた紅玉ルビーの朱雀が鮮やかに彫刻された背面、その周囲には緻密ちみつ鳥文ちょうもんが彫り込まれていて、格調を高めている。

 鳥文とは鳳凰をデザインした紋様をいう。それが赤い霊気を帯びて、微かに発光しているようだった。

 一年前。南華山なんかさん醴泉れいせんという霊水が湧く伝説の山。神器を求め、龐統はその山にいた。幻想を見た冬至の夜。夢幻から覚めたかすみ漂う朝。神器は醴泉の前に落ちていた。龐統は霊気をみなぎらせた朱雀鏡を天に掲げ、

「……あしたじん蒼梧そうごに発し、ゆうべ県圃けんぽに至る。しばら霊瑣れいさに留まらんと欲するも、日は忽忽こつこつとして其れまさに暮れんとす……」

 屈原くつげんの詩『離騒りそう』の一節を詠い上げる。讒言ざんげんで国を放逐された屈原がしゅんの霊廟にもうでた後、胸に憂いを抱えながら天上遍歴の旅に出るという内容だ。

「……望舒ぼうじょを前にして先駆せしめ、飛廉ひれんを後にして奔属ほんぞくせしむ。鸞皇らんこう、余が為にかいし、雷師らいし余に告ぐるに未だそなわらざるをもってす。われ鳳凰をして飛騰ひとうせしめ、又之に継ぐに日夜を以てす。飄風ひょうふうあつまりて其れ相離あいはなれ、雲霓うんげいひきいてきたむかう……」

 神獣を呼び覚ます呪文。願いを捧げる祝詞のりと言霊ことだまを帯びたそれが天へと放たれ、江上に響き、赤壁へと向けられた。不安定な足場に禹歩うほを踏む。時は陰気が満ちる冬至の夜。

 突如、朱雀鏡から立ち昇る赤い気が弾けたか思うと、それが一条の帯となって一直線に赤壁へ向かっていった。そして、赤壁の岩肌に当たるとその赤い気は炎となって燃え上がり、中から火の鳥が生まれ出た。炎の翼を広げたそれは、勢いよく闇夜を飛翔した。


 北の空がにわかに明るくなった。それに気付いた司馬懿が振り返る。

 江上が燃えていた。夜空と水面みなもを赤々と照らして。江上で燃えるものがあるとすれば、それは船でしかない。それも一隻や二隻の規模ではない。船団が燃えている。

「火攻めか!」

 江水の北岸と南岸、互いに離れた位置にいる曹操と司馬懿が同時に叫んだ。

 曹操も司馬懿も味方の船団が燃えているのだと分かった。

「おのれ、周瑜め!」

 曹操が敵将をののしる。曹操水軍で一番頼れる蔡瑁軍が敗れるのは痛手ではあるが、それは決定的な敗北に繋がるものでもないことも分かっていた。

 風は順風。蔡瑁の船団とは距離が離れているため、火の粉が飛んでくることもない。火攻めを一番警戒していた曹操は天候に常に気を配っていた。

「水門を閉める準備はしておけ」

 曹操は兵に命令した。烏林の河岸に築かれた曹操の水陣には船を利用した巨大な水門が備え付けられていた。ふと、曹操の視線の先を光る何かがよぎった。

 俄に風向きが変わった。東南の風。熱を帯びた風。

 曹操がそれを起こしたものを視界に捉える。天高く舞い昇って、燃え盛る翼を広げたそれは――――朱雀。

 後漢の許慎きょしん編纂へんさんした『説文解字せつもんかいじ』にある鳳凰の姿は、頭はにわとりくちばしつばめあごを合わせたもの、胴体には龍の鱗、背中は亀に似ており、魚の尾を持つと著され、羽毛は五色と解説されている。曹操がの当たりにした朱雀は全てがその表現に当てはまるものではなかったが、

「これは幻想か……?」

 司馬懿もそれを山の斜面から遠望した。信じられないが、おのれが目にしているのは、まさしく火の鳥。炎をまとった霊鳥、鳳凰である。

「いいえ、現実よ。これだったんだわ、私が見た凶兆……」

 火見が呟いた。何度も目にしてきた凶兆が、今、現実となって双眸そうぼうに映っている。

「山頂へ向かおう」

 司馬懿はそれをもっとよく見たいと欲して、さらに上へ急いだ。

 小さな山である。山のいただきにはすぐに辿り着いた。

「あっ」

 火見が声を上げた。月光と篝火かがりびに照らし出された長身の男。思い出した。湘山で見た幻影に登場したその男がそこにいた。


 南屏なんぺい山の山頂には河図かとが描かれた祭壇が築かれていて、その中心に道士服に身を包んだ孔明が立っていた。その周りを白と黒の衣装に身を包んだ兵士たちが取り囲んでいる。

屈原くつげん殿、力をお貸しくだされよ』

 孔明はそう仙界に念を送った。戦国時代の楚に仕えた屈原は秦に対抗する手段として、政治家として斉との合従を唱え、詩人として言霊ことだまを含ませた詩を詠んだ。孔明の足下には江水の水を入れた青龍爵が置かれており、孔明は剣先をその江水に浸し、

われ幽篁ゆうこうりて、ついに天を見ず。みち険難にして、独りおくれ来る……」

 孔明が屈原の『山鬼さんき』(山の女神)という詩の一節を暗唱しながら、手にした剣を天にかざし、地に振り下ろした。その水滴を天地に飛ばし、そして、八方向へ飛ばした。龐統がしたのと同じように、口は祝詞のりととなえながら、足は禹歩のステップを踏む。禹歩は地下に封じられた陰気を解放する独特な足さばきだ。なおも孔明が祈祷を続ける。その言霊と意志は時空を飛び越えて、湘山の女神へと捧げられる。

「……あの火の鳥は孔明の仕業しわざなのか?」

 圧倒的兵力差をくつがえす勝利の秘策。想像を絶する神獣・朱雀の召喚。

「奴は仙術をろうせるというのか……?」

 それは自分と孔明との圧倒的能力差でもある。司馬懿はおのずとそんな答えに辿り着いて、言葉を失った。司馬懿がまた江上を振り返った。

 火の鳥が羽ばたくたびに突風が巻き起こり、火の粉が舞い散る。それは蔡瑁の船団の上に降り注ぎ、火と突風にあおられた船団が曹操の陣営がある北岸へと押し流された。

「見よ、天は我等に味方した。何も恐れることはない。全軍進め、賊軍を殲滅せんめつするのだ!」

 大都督・周瑜の号令が発せられ、進軍を告げる太鼓のが響き渡った。

『龐統め、こんなことができるのか……!』

 周瑜はこの火の鳥を召喚したのが鳳雛こと、龐統士元だと分かった。坤禅を解き、江東の宝である朱雀鏡を持って行った男である。今こそ曹操に勝利するために持ち去ったのだと分かったが、龐統は孫権に採用されなかった経緯がある。

 そんな男が勝利した後におとなしく神器を返すだろうか?

 朱雀鏡が返還されず、こんな能力を持った男が敵になれば、末恐ろしいことになる。

「ええい!」

 周瑜がかぶりを振った。今はそれどころではない。尚香の役割は佯降を演じて、黄蓋と共に曹操水軍の先鋒に奇襲をかけるまでであり、この時点で周瑜は尚香の身柄を回収する手筈てはずであった。ところが、尚香の姿がどこにもない。

「尚香様を探せ!」

 いくらこの大戦で勝利を手にしても、そのために主君の妹を失ったとあっては、どのつら下げて凱旋出来ようか。

「副都督の命でこの辺りは我々が捜索致します。大都督は敵の追撃をとの言伝ことづてです!」

 そう進言したのは左舷さげんから接近してきた走舸に立つ孫匡そんきょうだった。

 孫匡は、あざな季佐きさという。孫権の弟、尚香の兄で、尚香とは一番年が近い。

 江東は総動員だった。武人肌ではないが、孫匡もこの江東の存亡がかかった一大決戦に孫権の代理として参画している。長水ちょうすい校尉こういという一将軍の立場で、副都督・程普の下で走舸隊を率いていた。確かにスピードが出、小回りが利く走舸隊の方が捜索には適している。

 左舷を行く程普の船団が太鼓を激しく打ち鳴らしていた。進軍をうながしているのだ。

「頼む」

 周瑜が言って、孫匡にそれを託した。自分は大都督としての責務を果たさなければならない。が、勝利を目前にしながらも、周瑜が心に抱えた憂いは大きくなるばかりだった。


 江上に浮かぶ炎の壁が迫ってきた。炎に包まれた蔡瑁の船団が流されてきているのだ。

「急ぎ水門を締めよ!」

 曹操が叫んだ。火の鳥の羽ばたきのせいで、風上にあったこちらが一転して風下になった。東南風。曹操の水軍を危機にさらす凶風。曹操の宿命を押し返す試練の逆風。

 曹操の判断で炎のかたまりと化した蔡瑁の船団が係留された数百の曹操船団に突っ込む前に水門は閉じられた。流されてきた船がゴツンゴツンと水門に衝突する音が響く。

 しかし、脅威は続く。火の鳥は曹操の水陣の上を飛翔して、降り注いだ火の粉が水門の内側に並ぶ曹操水軍を焼いた。そこに周瑜率いる江東水軍が迫り来た。

「突っ込め!」

 先陣を切った凌統の走舸隊が満載した萱に火を付け、炎を纏って水門に体当たりした。水門に火が移り、強風に煽られてごうごうと燃え始める。

 間もなく水門は突破され、江東船団が水門内にひしめく曹操船団に肉薄した。

「ありったけの矢を放て!」

 周瑜の命令で大量の矢が射かけられた。矢が孤を描くその上を火の鳥が滑空して、熱風に晒された矢に次々と火が付く。火矢の雨。それが風に乗って互いに固く連結され、身動きが取れない曹操船団に降り注いだ。

「応戦しろ、矢を射返せ!」

「すぐに連結を外せ!」

「火の付いた船から離すんだ!」

 折しも、翌朝の出撃に向けて多くの将兵が水上の要塞に物資を積載せきさいする作業に従事していた。曹操軍の諸将が慌てて兵たちに応戦と消火、そして、連結の解除を命じたものの、あちこちに火の手が上がり、混乱も手伝って全てが追いつかない。船が燃え落ちる音と兵たちの喚声で諸将らの号令もき消される。

 そのうち、桟橋さんばしにも火が付いて動揺が広がった。吹き荒れる熱風。止まない火矢の雨。それはまさに夜空からちてくる炎の流星群。

 それらが大火に包まれた船上を逃げ惑う曹操軍の兵士たちを包み込み、その身に容赦なく突き刺さった。もはや水中にしか逃げ道が残されていないことを悟った曹操軍の兵士たちは止むなく水中へ飛び込んだが、北方出身の兵士たちは泳ぎの経験がほとんどないために岸へ辿り着く前におぼれた。大混乱である。

 これほど統制が乱れてしまっては、立て直しはもう不可能だ。冬の冷気を掻き消すような灼熱が曹操の肌を焦がした。負ける――――曹操は直感した。

「何故だ!」

 曹操は思わず自分の邪魔をしようとする上空の朱雀にいきどおった。

「オレは赤い宿命を負っているのだぞ!」

 赤い火の鳥が天から敗北を運んできた。それがせない。

 火の鳥は散々炎と災禍さいかき散らした後、急上昇して、曹操がにらみつける中、花火が弾けるようにして消え、大量の火の粉が舞い散った。

「父上、危ない!」

 曹丕が曹操の体を脇に押しやった。曹操の楼船にも無数の火の粉が降ってきた。

 今、曹操がいた場所にも火の粉が落ちてきて、バチッとぜた。

『――――少年さん、悪い火あります』

 その火を振り返った曹操の脳裏に少年時代の思い出が甦ってきた。

 遠い過去の記憶。洛陽。白馬寺はくばじ。ローマ人の魔術師に言われた。

 火難かなんの相があると――――。


 漆黒しっこくの天。紅蓮ぐれんの炎。墨汁ぼくじゅうを溶かし込んだかのような水面に大火の煌々こうこうとした明かりが揺らめく。それは火見を遥かな未来へといざなう。

 明々と輝く大きな火の壁を背にした司馬懿に火見が呟く。

「司馬懿様、この大火の光景を決して忘れないで」

「……?」

 火見が垣間かいま見た未来の光景は司馬懿には分からない。孔明が将来の宿命のライバルとなることも未だ知らない司馬懿だが、それを予感させるように孔明の仕草を注視した。

だ独り山の上に立てば、雲は容容として下にり……」

 孔明は依然、屈原の詩を唱えながら、青龍爵の江水を周囲に振り撒いている。

『これ以上は……』

 司馬懿は孔明と密約を結んだが、それはあくまでも一時的なものだ。

 曹操に認められて世に出たからには、曹操のもとで実力を発揮しなくてはならない。それが自分が生き残る道なのだ。しかし、そのためには曹操軍が圧倒的勝利を得ても駄目だし、逆に再起不能に陥るような打撃をこうむってしまっても、その機会を失う。もっとも困るのは自分の才能を一番よく理解している曹操に死なれることだ。

 一書生であった孔明が雄飛するのに劉備が必要であったように、権威がない今の自分が実力を発揮するには曹操の力が必要だった。すでに孫・劉軍の勝利は決定的になったのだし、曹操を失う事態は何としても防がなければならない。

「これ以上はやらせん……!」

 木々の暗がりに身を潜めて孔明の祈祷を見守っていた司馬懿が曹操軍の敗北を悟って、孔明の術の妨害に入ろうとした。

 と、その行動をたしなめるように火見が司馬懿の腕をつかんでうめいた。

「う……」

「どうした?」

 火見は額を押さえている。一瞬だけ、幻影が脳裏を過った。大火の光景直後の映像ビジョン

「……雨になるわ」

 火見が確信するように言った。信じられないといった表情で司馬懿が火見を見やる。

「雨だって?」

 頭上は晴天だ。すっかり霧が晴れて、闇夜に満天の星が輝いている。

よう冥冥として、ああ、昼もくらく……」

 その間にも孔明は同じ所作しょさを繰り返していた。だが、ついに変化が起こる。

 振り撒いた江水の飛沫ひまつが地面に落ちず、ふわりと宙に留まった。月明かりに照らされて光るそれが、ぷるぷると柔らかに、かすかに震動しながらも、重力に逆らって宙に浮いている。先に地面に落ちたものまで、時が逆行するようにしずくとなってふわふわと宙に上がっていき、互いにくっついてより大きな水玉を形作った。同時に孔明の足下の青龍爵に満たされていた江水も何かに引っ張られるように一つの大きな球体となってゆっくりと孔明の頭上に浮かんでいった。それにともなって、八方向にできた八つの水玉がその大きな水玉に吸い寄せられるように中央へ集まっていく。それを覆うように霧が集まってきた。

 その下で、盤龍ばんりゅう――――爵に巻き付いていた龍の彫刻が動き出し、ぐるぐるとそのふちを巡った。そして、青龍爵自体が一頭の龍となってほどけた。両眼に埋め込まれたラピスラズリに霊力が宿り、青くきらめく。術者の意思を得たその小さな龍は頭を上にして宙に昇り、空中の水球に飛び込んだ。

「東風ひるがえりて、神霊雨をふらす……」

 白と黒の衣装を纏って孔明の祈祷に協力している江東の兵士たちが立ちつくしたまま、口々に驚嘆の声を上げた。未知なる奇跡を目にする動揺。統率が乱れる。

 警護の兵士を含め、その場にいた全ての視線が宙に浮いた球体に集中して周囲への警戒が薄れた。そこへ司馬懿がいよいよ飛び出そうとした時、

「動くな! 動いた者は斬る!」

 孔明が剣を振って厳命したため、兵士も司馬懿も金縛かなしばりにあったように動きを止めた。孔明が一瞬集中を切らしたため、頭上に浮いた水球も束縛を離れた。

 抑えつけられていたものが勢いよく弾けるようにして、細長く伸びながら天へ昇る。それは例えるなら、空気の抜けた風船が飛んでいくような軌跡を描いて、江中へ没した。

「孔明殿!」

 崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ孔明のもとに魯粛が走り寄る。勝利の神獣を召喚した孔明は精神力を使い果たして、意識を失っていた。


 炎の海に焼かれ、江水に溺れ、曹操軍は壊滅状態となった。

 曹操が乗る楼船にも火の手が回り、逃げ場を失う。天命から決して逃げることをせず、己を貫いて生きてきた乱世の奸雄の命運も、もはやこれまでかと思われた。

「天よ、オレを殺すか!」

 曹操は赤く染まった天空を仰いで叫んだ。胸が熱くなった。高ぶる感情のせいか。……いや、違う。これは。曹操がふところに左手を差し込んだ。

 赤火珠せっかじゅ。陰陽五行の力を秘めた五つある仙珠の一つ。袁氏を討伐して手に入れた、漢の命運を左右する宝珠。五仙珠は四神器と並ぶ仙界の秘宝だ。

 地宝といわれる神器が所有者に地勢を与えるならば、天宝である仙珠は所有者に天運を授けるという。それが着物の下で赤く輝いていた。

 青年時代に人相見にんそうみ許子将きょししょうから告げられた宿命――――。

「――――そなたの瞳の深淵に赤い星が見える……」

 曹操の脳裏にその言葉が鮮やかに甦ったのと同時に、右手に握りしめていた小枝の竿さおがぐんとしなって、とてつもない震動が全身に伝わってきた。

「何だ……!」

 言いながらも曹操は決して竿を離さず、その強烈な引きに耐えた。

「これは……!」

 曹操の瞳に驚くべき光景が映る。炎に照らされた江水の水面が盛り上がったと思うと、大きな水飛沫をあげて、龍が出現したのだ。青龍爵から解き放たれた小さな水龍は膨大な江水の水をうろことして体に纏った巨龍となって現れ出た。

 普段は決して見えることのない気の糸が炎と月明かりに照らされて、龍の口元にまで伸びているのが見えた。曹操がその龍を釣った直後、小枝の竿は乾いた音をたて、真ん中でぽっきり折れて、竿先は勢いよく水中へ引き込まれていった。

 咆哮ほうこうと共に江水のふちから姿を見せた龍が天地を切り裂く。龍は巨体をうねらせ、江水の水を大量に巻き上げながら、天へ昇る。その姿は江東船団からも目撃された。

「な、何だあれは……!」

 神獣である龍の出現に上がる驚嘆の声。龍の作り出した大波が押し寄せて、両軍の船団が大きく上下した。大波の震動を耐えようと、両軍の将兵たちが必死に船にしがみつく。

「船首を上流へ向けよ!」

 この状況にも周瑜は動じずに兵に命令した。横から高波を受けると、転覆してしまう。

 龍が天空へ昇るのに伴い、竜巻のように巻き上げられて霧状になった江水がたちまち暗い雲を作ると、激しい雨となって周囲に降り注いだ。

「おおおっ……!」

 これには曹操軍の将兵たちが驚嘆と歓喜が入り混じった喚声を上げる。

「くそ、よりによって今になって……!」

 周瑜は思わず天と龍を仰いで、そう毒付かずにはいられなかった。突然の豪雨は目前に迫った勝利を洗い流そうとしている。

 周瑜の視線が恨めしく龍の行方を追った。天空で暴れた龍は今度は巨体をくねらせると、勢いよく下降して、江水に没した。

「大都督!」

 兵の声。迫り来る巨大な津波。

「退避だ! かねを鳴らせ!」

 周瑜の指示で激しく鉦が打ち鳴らされた。江東船団がそれに応じて素早く退避行動を取る。孔明の制御を離れたその巨龍の暴れように、江上に浮かぶ船などひとたまりもない。逃げるしか為すすべがなかった。朱雀を解放した龐統を乗せた船にも高波が押し寄せた。

「退避だ、陸へ戻れ!」

 輔匡が叫んで、船を岸へ付けるように兵士に命令したが、押し寄せた高波に船体ごと持ち上げられ、もうどうにも制御はかなかった。

 龍はそんな下界の様子を微塵みじんかえりみず、咆哮を上げながら、再び天に昇ると、天空でぐるぐると回転してとぐろを巻いた。龍がその巨体を動かす度に江水で作られたその巨体から無数の水滴が飛び散り、雲からは大粒の雨が地上へ降り注ぐ。まるで天上の水瓶みずがめをひっくり返したような激しさだ。それは燃え盛る曹操船団の上にも降り注いで、ことごとく炎を鎮めていった。

「火見の言う通りになった……」

 司馬懿がその光景を遠望しながら茫然ぼうぜんとした。その顔が江水の雨に濡れる。

「……しかし、孔明め。どういうつもりなのだ?」

 この召龍しょうりゅう術は孔明によるものだ。それが大火で壊滅状態の曹操軍に恵みの雨をもたらしている。ひとしきり雨を降らすと、龍はまた江中に没した。そして、巨体をうねらせながら曹操の本陣の方へ泳いでいった。曹操の乗船する楼船のすぐ脇で大きな水飛沫が上がると、三度巨龍が現れ出る。

「なっ……?」

 曹操は激しく傾く楼船の楼閣のへりにしがみつきながら、咆哮を上げて天に昇る龍を茫然と見上げた。その頭上で、龍の鱗が一枚剥げ落ちて、巨大な水滴となって曹操の楼船に降り注いだ。それは曹操のすぐ側まで迫った炎を完全に消し去ってくれた。


 水龍は豪雨を導き、大波を残して、空の彼方へ飛び去っていった。

 乗船する楼船が転覆しにくい構造であるために、周瑜も曹操も、転覆沈没という最悪の事態だけは避けられたが、船ごと津波で押し流された。

 それでも、操船術に長ける江東船団は辛うじて津波をやり過ごすことができていた。しかし、互いに連結され、身動きの取れない曹操船団はそうはいかない。

 津波は水門を直撃、それを破壊すると、曹操船団を丸ごと押し流した。

 それは怒濤どとうの如く河岸の曹操本営にも押し寄せ、陣営と人と物資、全てを呑み込んで、轟音ごうおんと共に後方の湿地帯に雪崩なだれ込んだ。

「……何ということだ」

 つい先ほどまで目の前にあった水門も船団もやぐらも陣営も、全てがなくなった。

 周瑜はその光景とこの術者の能力に戦慄した。

『龐統だけでなく、孔明までこれ程の仙術を身に付けているとは……』

 龐統の召喚した朱雀の大火と孔明の召喚した水龍の津波で曹操軍は壊滅した。

 自分が思い描いた以上の完璧な勝利となった。

『奴らのことは後々考えるとして、今は江陵だ』

 周瑜は江東水軍が無事なのを見て、次なる攻撃目標を示した。

「見たか、江東に天の加護あり! 我等の勝利は決した。次は江陵を取る!」

 龍の出現にも動じない江東の大都督らしい力強い号令が動揺が広がる軍中を落ち着かせ、江東の兵士たちが再び奮い立った。

 

 孔明と江東の兵士たちがいなくなった南屏山山頂の祭壇。

 司馬懿は己の身を保つために口を閉ざしたが、曹操軍が大敗するような展開になって、その心中は穏やかではなかった。

 曹操は端倪たんげいすべからざる君主だ。威厳と才覚に満ち、知謀と軍略は抜きん出ている。まさに竹帛ちくはくに名を垂る英雄だろう。人を見るにも長け、自分を最大限の評価で迎えてくれた。それは司馬懿にとっては、恩義である。

 思考の全てを見透かされるような恐怖を感じる司馬懿だったが、今はその恐怖さえ一つの魅力のように思う。司馬懿は曹操のはかり知れぬ力に魅せられた一人なのだ。

「丞相をお助けせねば……!」

 しかし、言ってはみたものの、自身は川をへだて、遠く離れた山中にある。

 どうにもならない司馬懿の胸に焦燥しょうそう感だけが募る。が、それがスイッチとなった。突然、司馬懿の胸からぶわっと光る霊気が噴出した。

「な、何だ……?」

 訳が分からずうろたえる司馬懿の前で、その霊気は密集して、ある神獣を形作った。一対の長い角を持ち、顔は獰猛どうもうな狼、体は大鹿。しなやかな馬の脚を持ち、尾は牛のよう。全身から黄金こがね色を帯びた輝きが放たれている。麒麟きりん

 聖人の出現を予兆する神獣といわれ、その昔、前漢の武帝が得たと伝わる。

 その麒麟が発現したのだ。麒麟の後ろにはこれまた光り輝く大型の車駕しゃががあり、麒麟と霊気の手綱たづなで繋がっていた。馬車ならぬ、麒麟車である。

 麒麟が何かを訴えるようにいなないた。自分の中から現れ出た神獣である。司馬懿はそれが何を言いたいのか分かった。

「皆、早くこれに乗るのだ」

「乗るって……」

 火見は冷静な司馬懿がそんなことを言って、率先して輝く車駕に乗り込んだのを見て、どうかしたのではないかと思った。

「急げ!」

 しかし、司馬懿は至って正気で、麒麟の出現に茫然と立ちすくむ一行をしかった。

「みんな、早く!」

 火見がそれに反応して、麒麟車に乗り込んだ。光の帯がシート・ベルトのように伸びて、火見の体を座席に結び止めた。火見に釣られて、難升米と爺禾支が慌てて乗り込む。

「よし、行け!」

 司馬懿が手綱を取って、それを打った。麒麟が再びいなないて一度竿立ちするや、猛然と走り出した。しかし、ここは山の頂であって、道らしき道はない。

「きゃあっ……!」

「うわ!」

 倭国の一行が悲鳴を上げ、顔をそむける。火見は思わず手で顔を覆った。

 麒麟は山林に突っ込むかと思いきや、それはその上を駆けていった。

 火見が恐る恐る手を開け、目を開いて見てみると、満天の星空が目に入ってきた。

 天空を駆けていた。麒麟車は道なき天空を飛ぶように駆け抜け、一瞬にして江水を渡った。それはさながら輝く大きな流星のようであった。

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