其之十 偽りの脱出劇
「
「久しぶりだな、子翼。貴公が曹操に仕えているのは知っている。旧交を温めるのを口実にして、我が軍の様子を探りに来たのだな?」
いきなり内心を突かれた蒋幹は
「敵対しているとはいえ、私も貴公も漢臣のはずだ。
拱手を捧げただけで、
「待て、子翼。すまん、戦時で気が立っていた。許してくれ」
周瑜が慌てて走り寄って来た。周瑜にしても、それは困るのである。
「
「戦勝の宴というのなら、義としてできないぞ」
「いや、これは旧友との再会を祝う私的な宴だ」
「そういうことなら、有り難く受けよう」
周瑜・蒋幹共に態度を改め、
周瑜も蒋幹も青年時代の昔話に
「そうか、魯粛殿は
蒋幹は酒が進んだのを機にそれを問うた。ほろ酔い気分の周瑜が答える。
「ああ、その者ならば、ちょうどこちらで厚遇している。会っていくか?」
「頼む」
「よし、早速参ろう」
周瑜は上機嫌で、蒋幹と肩を組んで幕舎を出た。
火見たちが陸口の陣営に軟禁という形で留まってから、すでに十日以上経つ。
不遇にも動じない司馬懿の忍耐力はさすがだったが、若い
「曹彰様、必ず曹彰様が活躍できる舞台がやって参ります。味方はすぐ側に来ております。もうしばらくのご辛抱を」
「しかし、先生……!」
曹彰は
「丞相が曹彰様を我等の
司馬懿にそう
そんな二人の会話をよそに、土壁の隙間から外を覗いていた火見は誰にともなく言った。
「何を言っているのかしら?
外では穏やかならぬやり取りが行われていて、曹彰も火見の隣で外を覗いてみた。まるで自分の代わりのように感情を爆発させている将軍がいた。
「この仕打ち、我慢ならん!」
「お止めください、将軍」
「
「大都督に聞こえますぞ」
「構うものか!」
騒いでいるのは
黄蓋、
「何が大都督じゃ。あんな小僧が大将とは我が軍の負けは決まったようなものじゃ!」
どうやら黄蓋の憤慨の理由は火見らの監視という仕事があてがわれたことにあるようだった。
「黄将軍、何を騒いでいる?」
ちょうど蒋幹を伴った周瑜がやってきて、軍規を乱す黄蓋を叱責するように問い
「ふん」
「軍規を乱す者は誰であろうと死罪に処すと厳命していたはずだ」
「ふん、小僧の命令など聞けるか」
「将軍、不敬ですぞ」
周瑜の横に立っていた魯粛が黄蓋を叱った。蒋幹はこの突然の騒動を
「お前たちこそ不敬ではないか。先代に仕えて以来、常に先陣を切ってきたこの儂にこんな
「大都督は将軍のお
「余計な世話じゃ。戦場こそ我が持ち場。こんな任務は戦を知らんお主がやればよい」
「ぐっ……」
魯粛もそんなことを言われて
「私は主君の命によって大都督を拝命したのだ。その私を侮辱するとは、主君に対する侮辱である。もはや容赦ならん。この老骨を斬れ」
「おお、斬れるものなら斬るがよい」
黄蓋が開き直って、堂々とその場に座した。
「それはなりません。敵と戦う前だというのに、味方を斬るのは不吉。この者は儂と共に先代の頃より仕えてきた。どうかご容赦を」
「大都督、これまでの公覆の功績を
黄蓋と共に孫堅の代から仕える
二人は同じ北方の幽州出身で、孫家に仕えて二十余年。黄蓋と長年苦労を分かち合ってきた。周瑜や魯粛ら若手諸将からも尊敬を集め、
「……ならば、戦に勝利した後で首を
周瑜の厳命で、黄蓋は木に
「済まんな、子翼。見苦しいものを見せてしまった」
「いや、軍規は大事だ。それはどこの軍でも同じこと」
蒋幹の相手をする周瑜のもとに兵がやってきて報告した。
「大都督、
「何、
周瑜は反抗の黄蓋を打ち捨てて、身を翻した。
「公瑾、司馬懿に会わせてくれないのか?」
「おお、そうだった。あの小屋が見えるか。あそこにいる。勝手に話してよいぞ」
周瑜が兵糧倉庫のような小屋を指差して、蒋幹に言った。
「あの小屋にか?」
周瑜は
二人の兵が黄蓋の体を抱え、火見や司馬懿らが入れられた小屋に放り込んだ。
「やっぱりこれは牢屋ではないか!」
刑罰を受けたと
「ひどい……大丈夫ですか?」
火見がうつ伏せに倒れ込んだ黄蓋に寄り添って声をかけた。その背中は痛々しい。
「放っておけ。軍規を破るとは、
曹彰は自らも
低い
「そなたらは曹公の下から派遣されてきたのだったな……。儂を曹公の下まで連れて行ってくれまいか。
呻き声を交えながら、黄蓋が一行に脱走をもちかけた。
それを聞いた曹彰が
「あ、そうでしたか。
味方はすぐ側まで来ている――――。その司馬懿の言葉を誤解して、曹彰が尋ねた。蒋幹がそんな彼らに声をかけたのはそんな時だった。
烏林の河岸に陣を敷き、本営を設けた曹操軍は相変わらず疫病に付きまとわれていた。先日の戦いによって、江東の水軍が予想以上に強力であることも分かった。
時を費やし過ぎず、本格的な冬の到来を前に敵を打ち砕くという当初の構想は改めざるを得なくなっていた。夏口攻略の報も未だ届かない。
「積極的な水戦は避けた方がよさそうだな」
曹操は
「
「……よし。
「はっ」
荀攸がその命令を伝えるために場を後にした。すでに
「丞相、
荀攸がいなくなったのを見計らって、
「分かっておる。いたずらに時をかけては不利になる。だが、水戦は見ての通りだ。船病も流行っていることだしな……」
船酔いもまた病と見られていた。自身も軽い頭痛に襲われ、
「一つ病を防ぐ方策がございます。この時期は波が荒く、兵の船病が酷い。ですが、船同士を互いに繋ぎ合わせて強固にすれば、少々の波では動じることはなくなり、安定します。これは水上に陸地を作るようなもので、これに多くの兵と物資を乗せれば、水上の要塞と化すだけでなく、一気に輸送が叶います」
「それはよい考えだ。早速そうさせよう」
曹操は額に手をやったまま、再び龐統の方策を採用した。
「
烏角こと、
「数日前と比べて、明らかに霧は薄くなっています」
「ならば、見通しは
それを聞いた曹操は気のせいか、痛みが退いていくのを感じた。
「……いえ、この陰気は濃くなり過ぎて、邪気と言ってよいほどに
まるでそのタイミングを待っていたかのように、霧の向こうから左慈が現れた。
「腹がすいた。この場で
撤退する意志のない曹操は驚くでもなく、あえてそんな不可能な条件で左慈を迎えた。
松江は現在の上海の南辺りである。鱸魚は江水下流域で捕れる大魚で、大変美味だという。鱸魚の
「それでは……」
その曹操の条件に左慈は腰に下げてあった
「おお……!」
それを見た将官たちのどよめきが起こる。縄の中にだけ
左慈は近くの木の枝を折って、それを釣り
「釣り上げないのですか?」
曹丕が我慢できず、声をかけた。左慈は竿尻を地面に突き立てたまま、動かない。
「あ……、まさか、お主、
曹操は突然声を上げた。子供時代の記憶が
それを見る限り、かなりの大物である。
「何が掛かったかは分かりません。釣り上げますかな?」
左慈が再び判断を曹操に
どんな運命が待ち受けていようと、
曹操が釣り上げるという強い意志を発すと、見えない気の糸は一気に巻き上げられて、水面から大魚が現れた。五尺(約一メートル)はあろうかという、立派な鱸魚だった。
「おお、丞相、お見事!」
曹操がそれを釣り上げると、諸官から
周瑜は幕舎に戻って、拱手で孫尚香を迎えた。
二十歳の尚香は小柄ながら、みずみずしく健全な体で周瑜に対した。顔立ちも
「尚香様、よくお出で下さいました」
「……公瑾様、お酒臭いわ」
「これは申し訳ございません。旧友が訪ねてきたものですから。どうぞ、お入りください」
周瑜は一歩下がって尚香から距離を取ると、幕舎へと導き入れた。
戦場にわざわざ女性が訪ねて来るだけで異例なのに、尚香の武装した
「……ご主君の妹君だ。無礼のないように」
魯粛が耳打ちで忠告した。
麗しい顔立ちなのだが、その出で立ちから分かるように、彼女の性格は男勝りだ。当主・孫権の妹という立場もあって、気も強い。決して余計なことを口にしてはいけない――――魯粛の意思を察して、孔明が静かに頷いた。
周瑜は主席を尚香に譲り、魯粛と共にその脇に腰を下ろした。対面に孔明が座る。
「そちらは?」
「
尚香の問いに答えて、魯粛が孔明を紹介した。座したままだが、孔明が
「尚香様、この後の段取りは覚えておいででしょうか?」
「もちろんでございます」
周瑜の質問に尚香が即答した。孔明は周瑜が言うその段取りを知らない。
「――――私も孫文台の子、兄上たちと一緒に戦います!」
孫権が曹操との決戦を決めたその夜、それを聞き付けた尚香は兄の屋敷に押しかけて、
「――――駄目だ、お前は
「――――江東の存亡がかかった時ですのに、そんな
「――――とにかく、駄目だ。女は女らしく、おとなしくしておれ。そうでなければ、本当に嫁の
「――――私はもう嫁に行くつもりはありません」
「――――何を言っているのだ。話は終わりだ」
「――――でしたら、兄上、勝負です」
尚香は部屋に飾り立てられてあった刀剣を二つ手に取ると、一つを兄へと放り投げた。武術の勝負で自分の言い分を認めさせようというのである。
尚香の武術の腕は確かである。そこいらの兵士よりはずっと腕が立つ。とはいっても、男の孫権が本気になれば、勝負にならない。
「――――馬鹿な
「――――以前の私とは違うのです。日頃の
「――――そんな鍛錬ばかりしておるから、男から恐れられるのだ」
孫権はこのおてんばに過ぎる妹に手を焼いた。江東の将兵たちもその身分に加えて、父譲りの豪胆なその気質を知って、尚香に
「――――ですから、私が戦に出れば、味方の将兵は勇気付けられ、敵は
尚香が
「――――尚香様の言うことも一理あります」
そんな派手な
「――――公瑾様!」
尚香は一転して剣を収め、優雅に拝礼した。
「――――ちょうどよい。公瑾からも言ってやってくれ」
「――――公瑾様、話を聞いてください」
兄妹は同時に周瑜に言って、周瑜は二人の言い分に耳を傾けた。そして、周瑜は尚香の気持ちを
「尚香様にこのような役目をお願いするのは心苦しいばかりですが」
恐縮する周瑜に尚香が首を振って答える。
「いえ、よいのです。公瑾様が言われるのなら、喜んで」
「では、黄将軍が事を起こすまで、しばらくお休みください」
「分かりました。ご案内してくださいますか?」
「もちろんです」
『周郎も罪な男だ……』
微笑みを浮かべた孔明は羽扇を揺らしながら、独りごちだった。
火見は黄蓋のために塗り薬と包帯を要求した。それはすぐに給付されて、火見は黄蓋の手当てをしてやった。手当ての最中、火見はふと黄蓋の体の中に小さな火が揺れているのに気が付いた。
「怒りの火というのでしょうか。それが収まるどころか、ますます大きくなっているようなのです。あれだけの仕打ちを受けたのですから、当然なのでしょうが……」
それを司馬懿に告げると、
「……なるほど。私も少し気になっていたのだが、これで確信を得た」
司馬懿はただそう言って小さく頷くだけだった。火見も黄蓋の酷い傷の方に気を取られてか、それ以上気に留めることもなかった。
三日が過ぎたが、黄蓋の傷が全快するにはさらに数十日はかかりそうだった。それでも、顔を
「今、周瑜は主君の妹君の世話で忙しい。すぐにでも決行した方がよい」
「よし、やろう」
血気盛んな曹彰は乗り気で答え、黄蓋が頷いて脱出作戦が開始された。
黄蓋がおもむろに見張りの兵に声をかけ、兵士二人が近寄ってきたところで黄蓋・曹彰二人の両手が兵士の首根っこを捕まえた。そして、そのまま小屋に引きずり込むと、剣を奪い取る。まず、武装した黄蓋と曹彰が小屋を出、司馬懿と火見たちが続く。
「黄将軍、何をしておられるのです?」
脱走に気付いた兵たちが黄蓋に声をかける。
「うるさい。ご主君のもとへいく。道を開けよ」
黄蓋の勇名は全軍に知れ渡っていることだし、尊敬する宿老の将軍にそう一喝されて剣を向けられては、兵士たちも手出しできない。
それでも只ならぬ様子に何人かが取り押さえようと集まってきたが、
「邪魔立てするな!」
それに対しては曹彰が武勇を発揮して、その全てを難なく打ち倒した。
小屋を抜け出た一行は、堂々と進む黄蓋に従う形で陣内を移動した。
しかし、門が見えたところで、兵から報告を受けた周瑜たちがその前に立ちはだかった。その中に孫尚香もいた。魯粛が黄蓋の行動を非難した。
「黄将軍、気でも違ったか!」
「お前たちに何を言っても無駄なら、ご主君に
「兄上もそんなことは認めませんよ」
尚香が進み出て、黄蓋に告げる。それを見た黄蓋は、
「かくなる上は、尚香様……御無礼、お許しくだされ」
突然尚香の腕を
「黄将軍、一体何のつもりですか!」
「ご主君にも理解いただけないなら、こうするしかござらん!」
黄蓋が尚香を人質に取って、周瑜に豪語した。
「気が変わった。儂は曹操に降る。周瑜よ、妹君を連れ去られては、お前もご主君に対して会わす顔もなかろう。死してその罪を
それは屈辱のあまり、狂乱した者の
「道を開けろ。さもなくば、尚香様の命はないぞ」
黄蓋が手に持った剣を尚香の首筋に当てるようにして、江東諸将を
「……!」
周瑜、魯粛、その他の将軍たちもそれを言われては、言われた通りにするしかなかった。
黄蓋が尚香をその腕にしっかりと抱き、周瑜の脇を進む。曹彰が剣を構えて
「こんな若造に率いられては江東が負けるのは目に見えておる。死にたくない者は儂に続け。曹公に降って、命を長らえようぞ!」
黄蓋の
陣の目前に江水がある。門と港は直結しており、江東水軍の大小の軍船が停泊していた。
「尚香様、お乗りください」
黄蓋に促され、尚香を先頭に一行は係留されていた
「裏切り者を逃すな、追え!」
周瑜は迅速に指示を出し、
孔明は顔に微笑を浮かべながら、羽扇をゆらゆら揺らして、司馬懿を見送っている。江東の水軍が追走してきてはいるが、血迷った黄蓋の活躍により、一行は無事に脱出を果たした。司馬懿は振り返って、黄蓋の様子を窺った。
黄蓋は再び尚香に無礼を詫び、尚香は黄蓋の怪我の様子に気を配っている。
曹彰は脱出に成功したことに興奮しており、火見たち倭国の一行は安堵の息をついている。ただ司馬懿だけが黄蓋の行為が血迷った上でのものではないことを見抜いていた。
黄蓋の脱走を見届けた周瑜は自らも指揮官用の大型軍艦・
もう空には夕闇が訪れて、月も出ている。夜襲するには都合がいい。
だが、風向きが悪い。やや北西の風。
「まだ風は逆か……」
周瑜がたなびく旗を見やって呟いた。
「出陣!」
大量の荷を積んだ百余
それを見送った孔明が魯粛に尋ねた。
「子敬殿、
「ああ、できている」
「では、案内してください」
「よし、参ろう」
魯粛は孔明と陣の後方にある
江東軍から逃げる船。曹彰や爺禾支は背後の追走部隊を気にしていたが、女性たちは意外にもリラックスした雰囲気で会話していた。
「あなた、漢人じゃないわね?」
尚香は異国情緒に満ちた火見の
「ええ、倭から来ました」
「聞いたことない国だわ」
「海の向こうにある国です」
「そんな遠いところから……。じゃあ、あなたはいろいろな街や景色を知っているのね。
火見も尚香の異様な出で立ちを見て聞き返す。
「あなたは
「武者? ……ああ、これのことね。そうね、私は江東の女武者よ」
尚香が鎧を
「きれいな首飾りね」
月の光に
「
「魔除け……。神秘的な力があるのね」
尚香はそれを聞いて父の形見である古錠刀の柄を握りしめ、持ち去られた朱雀鏡のことを思い浮かべた。それからも火見と尚香の会話は続いた。
そんな二人のやりとりをじっと見ていた司馬懿が疑心を深める。
互いに同じ年頃の娘たちだ。通じ合うのは分かる。しかし、孫尚香がいくら男勝りで
「岸につけてくれ」
唐突に司馬懿が船を
「どうしたのですか、老驥先生?」
「私は丞相から江東の様子を探るように
「分かりました。接岸させてくれ」
曹彰が黄蓋に言う。曹操陣営に
接岸した船を下りながら、疑惑を確かめるべく司馬懿が尋ねる。
「黄将軍、もう人質の用は成した。その
「いや、この方はご主君の妹君、尚香様だ。曹公は尚香様をお求めだと聞いた。降伏するのに手ぶらというわけにはいかんじゃろう?」
黄蓋はもっともらしく答えたが、それが司馬懿を納得させた。孫権の妹を曹操が求めているというのは、司馬懿が勝手に創作した話だ。それが黄蓋に知られているのは、周瑜か魯粛の口から伝わったに違いない。そして、戦陣に孫尚香が現れた。
タイミングが良過ぎる。偶然にしても出来過ぎだ。作為的なものを感じる。
『
司馬懿に促され、火見と難升米、爺禾支も同様に船を下りた。
「老驥先生、お気を付けて」
曹彰の気遣いに対し、司馬懿が小声で曹彰に告げる。
「曹彰様こそ。あの黄蓋という男、信用できません。お目を離さぬよう」
だが、司馬懿は黄蓋の投降が周瑜の仕組んだ
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