其之十 偽りの脱出劇

 前哨ぜんしょう戦といえる赤壁沖の水戦で江東軍が先勝し、夏口の戦いで劉備りゅうび軍が勝利した。大きな戦とはいえなかったが、この二つの勝利は孫劉両軍の士気を上げ、江東の水面下でうごめ曹操そうそうへ内通しようとする不穏な動きを封じ込めるのに効果を発揮した。戦勝ムードに湧く江東軍に蒋幹しょうかんという者が面会を求めていると兵からの報告があった。

子翼しよくか……。通せ」

 周瑜しゅうゆは兵に連れて来るように命じた。走り寄りもせず、座から立ち上がることもせず、周瑜は旧知の蒋幹を冷遇で迎えた。

「久しぶりだな、子翼。貴公が曹操に仕えているのは知っている。旧交を温めるのを口実にして、我が軍の様子を探りに来たのだな?」

 いきなり内心を突かれた蒋幹は渋面じゅうめんを作ると、

「敵対しているとはいえ、私も貴公も漢臣のはずだ。あわれ大都督ともなると、それを忘れ、旧友さえ見下すようになるのだな。だとすれば、私は今の立場で十分だ。凶相ではあるが、貴公の顔を一目見て満足した。これで失礼する」

 拱手を捧げただけで、大仰おおぎょうすそを払って、幕舎を出て行こうとした。

「待て、子翼。すまん、戦時で気が立っていた。許してくれ」

 周瑜が慌てて走り寄って来た。周瑜にしても、それは困るのである。

びの証にすぐうたげを用意させよう。ゆっくりしていってくれ」

「戦勝の宴というのなら、義としてできないぞ」

「いや、これは旧友との再会を祝う私的な宴だ」

「そういうことなら、有り難く受けよう」

 周瑜・蒋幹共に態度を改め、魯粛ろしゅくや孔明も同席して、ささやかな宴がもよおされた。

 周瑜も蒋幹も青年時代の昔話にきょうじ、魯粛も自分と周瑜との関係を話した。

「そうか、魯粛殿は公瑾こうきんの良き友人か。……ところで、私の友人に司馬懿しばいという者がいる。先日こちらを訪れたはずだが、今どこにいる?」

 蒋幹は酒が進んだのを機にそれを問うた。ほろ酔い気分の周瑜が答える。

「ああ、その者ならば、ちょうどこちらで厚遇している。会っていくか?」

「頼む」

「よし、早速参ろう」

 周瑜は上機嫌で、蒋幹と肩を組んで幕舎を出た。


 火見たちが陸口の陣営に軟禁という形で留まってから、すでに十日以上経つ。

 不遇にも動じない司馬懿の忍耐力はさすがだったが、若い曹彰そうしょうのそれは限界に近付いていた。何もできない無力感と吹き抜ける隙間風の冷たさが苛立いらだちを募らせる。

「曹彰様、必ず曹彰様が活躍できる舞台がやって参ります。味方はすぐ側に来ております。もうしばらくのご辛抱を」

「しかし、先生……!」

 曹彰はたかぶる感情で言葉が続かず、うなるだけだった。

「丞相が曹彰様を我等の禦侮ぎょぶ(ボディーガード)とされたのは、勇猛さをお認めになっただけではなく、賢明さと慎重さを身に付けてもらいたいとお考えだからです」

 司馬懿にそうさとされ、曹彰は歯を食いしばりながら、固く結んだこぶしを下ろした。

 そんな二人の会話をよそに、土壁の隙間から外を覗いていた火見は誰にともなく言った。

「何を言っているのかしら? 喧嘩けんかしているみたいだけど」

 外では穏やかならぬやり取りが行われていて、曹彰も火見の隣で外を覗いてみた。まるで自分の代わりのように感情を爆発させている将軍がいた。癇癪かんしゃくを起こしたらしいその老将軍を若い兵士たちがいさめている。

「この仕打ち、我慢ならん!」

「お止めください、将軍」

わしは孫家三代に仕える宿老、敵も恐れる驍将ぎょうしょうだというに、こんな侮辱ぶじょくが許されるのか! あの若造め、調子に乗りおって。ただでは済まさんぞ!」

「大都督に聞こえますぞ」

「構うものか!」

 騒いでいるのは黄蓋こうがいという老将だった。

 黄蓋、あざな公覆こうふ零陵れいりょう泉陵せんりょうの人で、孫堅そんけんの代から仕える硬骨こうこつの武人だ。

「何が大都督じゃ。あんな小僧が大将とは我が軍の負けは決まったようなものじゃ!」

 どうやら黄蓋の憤慨の理由は火見らの監視という仕事があてがわれたことにあるようだった。

「黄将軍、何を騒いでいる?」

 ちょうど蒋幹を伴った周瑜がやってきて、軍規を乱す黄蓋を叱責するように問いただした。

「ふん」

「軍規を乱す者は誰であろうと死罪に処すと厳命していたはずだ」

「ふん、小僧の命令など聞けるか」

「将軍、不敬ですぞ」

 周瑜の横に立っていた魯粛が黄蓋を叱った。蒋幹はこの突然の騒動を唖然あぜんとして見つめた。すっかり酔いもめてしまった。

「お前たちこそ不敬ではないか。先代に仕えて以来、常に先陣を切ってきたこの儂にこんな閑職かんしょくを押し付けおって!」

「大都督は将軍のお身体からだを気遣って……」

「余計な世話じゃ。戦場こそ我が持ち場。こんな任務は戦を知らんお主がやればよい」

「ぐっ……」

 魯粛もそんなことを言われてくちびるを噛んだ。周瑜が酔った勢いで果断を下す。

「私は主君の命によって大都督を拝命したのだ。その私を侮辱するとは、主君に対する侮辱である。もはや容赦ならん。この老骨を斬れ」

「おお、斬れるものなら斬るがよい」

 黄蓋が開き直って、堂々とその場に座した。

「それはなりません。敵と戦う前だというのに、味方を斬るのは不吉。この者は儂と共に先代の頃より仕えてきた。どうかご容赦を」

「大都督、これまでの公覆の功績をんで、寛大な処置を願いたい」

 黄蓋と共に孫堅の代から仕える宿老しゅくろうの将軍、程普ていふ韓当かんとうが助命を願い出た。

 右北平うほくへい土垠どぎんの人、程普、あざな徳謀とくぼう遼西りょうせい令支れいしの人、韓当、字を義公ぎこう

 二人は同じ北方の幽州出身で、孫家に仕えて二十余年。黄蓋と長年苦労を分かち合ってきた。周瑜や魯粛ら若手諸将からも尊敬を集め、此度こたびの戦いにあたって、程普は副都督として江東軍を統括する立場にある。この二人から言われると、周瑜も顔を立てずにはいられない。

「……ならば、戦に勝利した後で首をねてくれる。今はむち打ち五十の刑に処す。軍規を犯せば、たとえ歴戦の将軍であろうとこうなると、皆に示すのだ」

 周瑜の厳命で、黄蓋は木にくくり付けられた。将兵たちが見守る中、その背に容赦ない鞭の一撃が幾度も打ち込まれた。その背中を血まみれにしながらも、黄蓋は歯を食いしばって、悲鳴を呑み込み、鼻息荒く、不服従の姿勢と硬骨の武人の気概を示した。

「済まんな、子翼。見苦しいものを見せてしまった」

「いや、軍規は大事だ。それはどこの軍でも同じこと」

 蒋幹の相手をする周瑜のもとに兵がやってきて報告した。

「大都督、妹君まいくんがお見えになりました」

「何、尚香しょうこう様が? ……もういい、その者を牢にぶち込んでおけ。妹君をお迎えする」

 周瑜は反抗の黄蓋を打ち捨てて、身を翻した。

「公瑾、司馬懿に会わせてくれないのか?」

「おお、そうだった。あの小屋が見えるか。あそこにいる。勝手に話してよいぞ」

 周瑜が兵糧倉庫のような小屋を指差して、蒋幹に言った。

「あの小屋にか?」

 周瑜はわずらわしそうにうんうんと頷きながら、蒋幹を置いて、そそくさと去って行った。黙ってこの騒動の成り行きを見守っていた孔明も周瑜に続いた。

 二人の兵が黄蓋の体を抱え、火見や司馬懿らが入れられた小屋に放り込んだ。

「やっぱりこれは牢屋ではないか!」

 刑罰を受けたとおぼしき老人が乱暴に放り込まれてきたのを見て、曹彰は一人いきどおった。

「ひどい……大丈夫ですか?」

 火見がうつ伏せに倒れ込んだ黄蓋に寄り添って声をかけた。その背中は痛々しい。皮膚ひふが破れて、血がにじみ出ている。

「放っておけ。軍規を破るとは、自業自得じごうじとくだ」

 曹彰は自らも生粋きっすいの武人であるので、軍規違反の敵将に同情をかけなかった。

 低いうめき声を漏らして、黄蓋は顔だけを火見に向けた。

「そなたらは曹公の下から派遣されてきたのだったな……。儂を曹公の下まで連れて行ってくれまいか。恥辱ちじょくまみれて死ぬよりも、曹公に降った方がましじゃ。こんな様じゃが、儂は名のある江東の将軍。ここを抜け出す手筈てはずくらいは整えられる……」

 呻き声を交えながら、黄蓋が一行に脱走をもちかけた。

 それを聞いた曹彰がひらめく。

「あ、そうでしたか。老驥ろうき先生がおっしゃったことはこういう意味でございましたか。それにしても、いつの間に調略されたのですか?」

 味方はすぐ側まで来ている――――。その司馬懿の言葉を誤解して、曹彰が尋ねた。蒋幹がそんな彼らに声をかけたのはそんな時だった。


 寒風かんぷう吹き抜ける烏林うりん。河岸に波が打ち付け、飛沫ひまつが風に飛ばされて舞った。

 烏林の河岸に陣を敷き、本営を設けた曹操軍は相変わらず疫病に付きまとわれていた。先日の戦いによって、江東の水軍が予想以上に強力であることも分かった。

 時を費やし過ぎず、本格的な冬の到来を前に敵を打ち砕くという当初の構想は改めざるを得なくなっていた。夏口攻略の報も未だ届かない。

「積極的な水戦は避けた方がよさそうだな」

 曹操はひたいを押さえるような仕草をしながら言った。

桓階かんかいから廬陵ろりょう孫輔そんほの意志を確認したとの報告が届きました。これを利用致しましょう。荊南諸郡もこぞって恭順したと報告がありましたし、孫輔の蜂起に合わせて長沙から侵攻するのがよいかと思われます」

 荀攸じゅんゆうがそんな献策をした。先駆けて荊南に派遣した桓階・劉巴りゅうはらは劉表りゅうひょうが任命した荊南四郡の太守たちを説得し、辞任させた。曹操は新たな太守たちを諸郡に送り、実質支配を始めたばかりだ。長沙から予章郡に侵攻して、陸路、南から柴桑さいそうを目指す。多少遠回りにはなるが、このルートなら陸戦だけでよいし、周瑜に対する牽制けんせいにもなる。

「……よし。公明こうめいに命じて、それに当たらせよ」

「はっ」

 荀攸がその命令を伝えるために場を後にした。すでに徐晃じょこうの一軍に要地である巴丘はきゅうを確保させてある。徐晃、あざなを公明。曹操軍の中核を担う良将だ。

「丞相、荀公達じゅんこうたつの策は現況にかないません」

 荀攸がいなくなったのを見計らって、龐統ほうとうが進言した。巴丘を抑えるよう進言したのは龐統自身である。が、それは長沙から侵攻させるためではない。

「分かっておる。いたずらに時をかけては不利になる。だが、水戦は見ての通りだ。船病も流行っていることだしな……」

 船酔いもまた病と見られていた。自身も軽い頭痛に襲われ、憂悶ゆうもんの表情の曹操に龐統が方策を示す。

「一つ病を防ぐ方策がございます。この時期は波が荒く、兵の船病が酷い。ですが、船同士を互いに繋ぎ合わせて強固にすれば、少々の波では動じることはなくなり、安定します。これは水上に陸地を作るようなもので、これに多くの兵と物資を乗せれば、水上の要塞と化すだけでなく、一気に輸送が叶います」

「それはよい考えだ。早速そうさせよう」

 曹操は額に手をやったまま、再び龐統の方策を採用した。

烏角うかく先生は首尾よくやってくれただろうか?」

 烏角こと、左慈さじ仙人はこの辺りに蔓延する陰気を晴らすために姿を消した。

「数日前と比べて、明らかに霧は薄くなっています」

 曹丕そうひが辺りを見回して言った。

「ならば、見通しはくな」

 それを聞いた曹操は気のせいか、痛みが退いていくのを感じた。

「……いえ、この陰気は濃くなり過ぎて、邪気と言ってよいほどにたけり狂っております。すでに数百里四方に広がっており、私一人の手には負えません。一刻も早くこの地を離れることをお勧めいたします」

 まるでそのタイミングを待っていたかのように、霧の向こうから左慈が現れた。

「腹がすいた。この場で松江しょうこう鱸魚ろぎょを釣り上げて見せてくれたら、考えよう」

 撤退する意志のない曹操は驚くでもなく、あえてそんな不可能な条件で左慈を迎えた。

 松江は現在の上海の南辺りである。鱸魚は江水下流域で捕れる大魚で、大変美味だという。鱸魚のなますは江南では有名な料理だ。

「それでは……」

 その曹操の条件に左慈は腰に下げてあった麻縄あさなわを取り出し、端と端を結んで輪を作った。そして、それを地面に置く。次に左慈は空中の霧を両手で抱え込むようにしてつかむと、それを地面に置かれた縄の輪に送り込んだ。

「おお……!」

 それを見た将官たちのどよめきが起こる。縄の中にだけ忽然こつぜんと水面が出現したのだ。

 左慈は近くの木の枝を折って、それを釣り竿ざおに見立てて、竿先を縄の池の上に向けた。糸はない。しかし、左慈はそれを気にすることなく、獲物が掛かるのを待った。間もなく竿先が大きくしなって、それがまた左慈の仙術を見守る諸官を驚かせた。

「釣り上げないのですか?」

 曹丕が我慢できず、声をかけた。左慈は竿尻を地面に突き立てたまま、動かない。

「あ……、まさか、お主、凶魚きょうぎょを釣った……」

 曹操は突然声を上げた。子供時代の記憶がよみがえったのだ。よく見ると、この老いた釣り人は幼少の頃に洛陽の近くで見た釣り人とそのたたずまいがそっくりであった。ぐぐっという大きな感触があって、竿先が水面に引き込まれそうになった。

 それを見る限り、かなりの大物である。

「何が掛かったかは分かりません。釣り上げますかな?」

 左慈が再び判断を曹操にゆだねた。曹操は自ら左慈のもとへと歩み寄って、竿を取った。

 どんな運命が待ち受けていようと、ひるまず前に進む――――それが曹操孟徳の生き方だ。

 曹操が釣り上げるという強い意志を発すと、見えない気の糸は一気に巻き上げられて、水面から大魚が現れた。五尺(約一メートル)はあろうかという、立派な鱸魚だった。

「おお、丞相、お見事!」

 曹操がそれを釣り上げると、諸官から喝采かっさいが上がった。


 周瑜は幕舎に戻って、拱手で孫尚香を迎えた。

 二十歳の尚香は小柄ながら、みずみずしく健全な体で周瑜に対した。顔立ちもうるわしかったが、それよりも目を引いたのはあでやかな着物の上から軽装の鎧を着込み、両腰には弓と矢をぶら下げているその勇ましい格好だった。

「尚香様、よくお出で下さいました」

「……公瑾様、お酒臭いわ」

「これは申し訳ございません。旧友が訪ねてきたものですから。どうぞ、お入りください」

 周瑜は一歩下がって尚香から距離を取ると、幕舎へと導き入れた。

 戦場にわざわざ女性が訪ねて来るだけで異例なのに、尚香の武装したで立ちはさらに異様さを際立たせた。その姿を物珍しそうに見つめる孔明に、

「……ご主君の妹君だ。無礼のないように」

 魯粛が耳打ちで忠告した。

 麗しい顔立ちなのだが、その出で立ちから分かるように、彼女の性格は男勝りだ。当主・孫権の妹という立場もあって、気も強い。決して余計なことを口にしてはいけない――――魯粛の意思を察して、孔明が静かに頷いた。

 周瑜は主席を尚香に譲り、魯粛と共にその脇に腰を下ろした。対面に孔明が座る。

「そちらは?」

諸葛子瑜しょかつしゆ殿の弟で、諸葛孔明殿です。劉備殿の下からいらっしゃいました」

 尚香の問いに答えて、魯粛が孔明を紹介した。座したままだが、孔明が微笑ほほえみながら、尚香に対して拱手の礼をとった。尚香が頷く。

「尚香様、この後の段取りは覚えておいででしょうか?」

「もちろんでございます」

 周瑜の質問に尚香が即答した。孔明は周瑜が言うその段取りを知らない。

「――――私も孫文台の子、兄上たちと一緒に戦います!」

 孫権が曹操との決戦を決めたその夜、それを聞き付けた尚香は兄の屋敷に押しかけて、直々じきじきに訴え出た。

「――――駄目だ、お前は女子おなごではないか。いくら父上の子であっても、女子を戦場に出すなど、人手不足なのかと笑われるわ」

「――――江東の存亡がかかった時ですのに、そんな些細ささいなことを気にされるのですか?」

「――――とにかく、駄目だ。女は女らしく、おとなしくしておれ。そうでなければ、本当に嫁のもらい手がなくなるぞ」

「――――私はもう嫁に行くつもりはありません」

「――――何を言っているのだ。話は終わりだ」

「――――でしたら、兄上、勝負です」

 尚香は部屋に飾り立てられてあった刀剣を二つ手に取ると、一つを兄へと放り投げた。武術の勝負で自分の言い分を認めさせようというのである。

 尚香の武術の腕は確かである。そこいらの兵士よりはずっと腕が立つ。とはいっても、男の孫権が本気になれば、勝負にならない。

「――――馬鹿な真似まねはよせ」

「――――以前の私とは違うのです。日頃の鍛錬たんれんの成果を見せて差し上げます」

「――――そんな鍛錬ばかりしておるから、男から恐れられるのだ」

 孫権はこのおてんばに過ぎる妹に手を焼いた。江東の将兵たちもその身分に加えて、父譲りの豪胆なその気質を知って、尚香に畏怖いふの念を覚えた。

「――――ですから、私が戦に出れば、味方の将兵は勇気付けられ、敵は怖気おじけ付くのだと申しているのでしょう!」

 尚香が剣舞けんぶのように身をひるがえして、剣先を兄に突き付けた。

「――――尚香様の言うことも一理あります」

 そんな派手な兄妹きょうだい喧嘩の最中に現れたのが周瑜だった。

「――――公瑾様!」

 尚香は一転して剣を収め、優雅に拝礼した。

「――――ちょうどよい。公瑾からも言ってやってくれ」

「――――公瑾様、話を聞いてください」

 兄妹は同時に周瑜に言って、周瑜は二人の言い分に耳を傾けた。そして、周瑜は尚香の気持ちをむ形で、孫権にある謀略を進言したのである。

「尚香様にこのような役目をお願いするのは心苦しいばかりですが」

 恐縮する周瑜に尚香が首を振って答える。

「いえ、よいのです。公瑾様が言われるのなら、喜んで」

「では、黄将軍が事を起こすまで、しばらくお休みください」

「分かりました。ご案内してくださいますか?」

「もちろんです」

 凛々りりしい周瑜の瞳に見つめられて、尚香が少し照れくさそうに答えた。

 あこがれの周瑜に頼られていることが何よりうれしいのである。

『周郎も罪な男だ……』

 微笑みを浮かべた孔明は羽扇を揺らしながら、独りごちだった。


 火見は黄蓋のために塗り薬と包帯を要求した。それはすぐに給付されて、火見は黄蓋の手当てをしてやった。手当ての最中、火見はふと黄蓋の体の中に小さな火が揺れているのに気が付いた。

「怒りの火というのでしょうか。それが収まるどころか、ますます大きくなっているようなのです。あれだけの仕打ちを受けたのですから、当然なのでしょうが……」

 それを司馬懿に告げると、

「……なるほど。私も少し気になっていたのだが、これで確信を得た」

 司馬懿はただそう言って小さく頷くだけだった。火見も黄蓋の酷い傷の方に気を取られてか、それ以上気に留めることもなかった。

 三日が過ぎたが、黄蓋の傷が全快するにはさらに数十日はかかりそうだった。それでも、顔をゆがめながらも動けるようになった黄蓋が、

「今、周瑜は主君の妹君の世話で忙しい。すぐにでも決行した方がよい」

 怪我けがをおして促すので、司馬懿も火見たちもいつでも脱走できるように気持ちを整えた。時は夕刻を迎え、辺りは暗くなりつつある。

「よし、やろう」

 血気盛んな曹彰は乗り気で答え、黄蓋が頷いて脱出作戦が開始された。

 黄蓋がおもむろに見張りの兵に声をかけ、兵士二人が近寄ってきたところで黄蓋・曹彰二人の両手が兵士の首根っこを捕まえた。そして、そのまま小屋に引きずり込むと、剣を奪い取る。まず、武装した黄蓋と曹彰が小屋を出、司馬懿と火見たちが続く。

「黄将軍、何をしておられるのです?」

 脱走に気付いた兵たちが黄蓋に声をかける。

「うるさい。ご主君のもとへいく。道を開けよ」

 黄蓋の勇名は全軍に知れ渡っていることだし、尊敬する宿老の将軍にそう一喝されて剣を向けられては、兵士たちも手出しできない。

 それでも只ならぬ様子に何人かが取り押さえようと集まってきたが、

「邪魔立てするな!」

 それに対しては曹彰が武勇を発揮して、その全てを難なく打ち倒した。

 小屋を抜け出た一行は、堂々と進む黄蓋に従う形で陣内を移動した。

 しかし、門が見えたところで、兵から報告を受けた周瑜たちがその前に立ちはだかった。その中に孫尚香もいた。魯粛が黄蓋の行動を非難した。

「黄将軍、気でも違ったか!」

「お前たちに何を言っても無駄なら、ご主君に拝謁はいえつしてお前たちの横暴を訴える」

「兄上もそんなことは認めませんよ」

 尚香が進み出て、黄蓋に告げる。それを見た黄蓋は、

「かくなる上は、尚香様……御無礼、お許しくだされ」

 突然尚香の腕をつかんで引き寄せると、背後から自分の腕を尚香の首に回した。

「黄将軍、一体何のつもりですか!」

「ご主君にも理解いただけないなら、こうするしかござらん!」

 黄蓋が尚香を人質に取って、周瑜に豪語した。

「気が変わった。儂は曹操に降る。周瑜よ、妹君を連れ去られては、お前もご主君に対して会わす顔もなかろう。死してその罪をつぐなうしかあるまい」

 それは屈辱のあまり、狂乱した者の台詞せりふだ。なりふり構わない行動に出て、周瑜への恨みを晴らそうというのだ。

「道を開けろ。さもなくば、尚香様の命はないぞ」

 黄蓋が手に持った剣を尚香の首筋に当てるようにして、江東諸将を恫喝どうかつした。

「……!」

 周瑜、魯粛、その他の将軍たちもそれを言われては、言われた通りにするしかなかった。

 黄蓋が尚香をその腕にしっかりと抱き、周瑜の脇を進む。曹彰が剣を構えて牽制けんせいし、その後に司馬懿と火見と難升米なそめが、最後尾を病み上がりの爺禾支やかしが固めた。

「こんな若造に率いられては江東が負けるのは目に見えておる。死にたくない者は儂に続け。曹公に降って、命を長らえようぞ!」

 黄蓋のげきに賛同する兵たちが彼のもとに続々と集まった。その数、ざっと三百人。

 陣の目前に江水がある。門と港は直結しており、江東水軍の大小の軍船が停泊していた。

「尚香様、お乗りください」

 黄蓋に促され、尚香を先頭に一行は係留されていた走舸そうか(小型快速艇)に乗り込んだ。出港する船の上から司馬懿は港の周瑜と孔明を睨んで目を離さなかった。

「裏切り者を逃すな、追え!」

 周瑜は迅速に指示を出し、凌統りょうとうが率いる江東水軍の走舸隊が緊急発進した。

 孔明は顔に微笑を浮かべながら、羽扇をゆらゆら揺らして、司馬懿を見送っている。江東の水軍が追走してきてはいるが、血迷った黄蓋の活躍により、一行は無事に脱出を果たした。司馬懿は振り返って、黄蓋の様子を窺った。

 黄蓋は再び尚香に無礼を詫び、尚香は黄蓋の怪我の様子に気を配っている。

 曹彰は脱出に成功したことに興奮しており、火見たち倭国の一行は安堵の息をついている。ただ司馬懿だけが黄蓋の行為が血迷った上でのものではないことを見抜いていた。


 黄蓋の脱走を見届けた周瑜は自らも指揮官用の大型軍艦・楼船ろうせんに乗り込んだ。

 もう空には夕闇が訪れて、月も出ている。夜襲するには都合がいい。

 だが、風向きが悪い。やや北西の風。風下かざしもの江東軍にとっては、不利な風向きである。

「まだ風は逆か……」

 周瑜がたなびく旗を見やって呟いた。一抹いちまつの不安はそこにある。しかし、もう待っている時間はない。孔明は勝機は冬至にあると言った。その冬至の季節が訪れている。すでに様々な謀略がられ、実行に移された。後は運を天と孔明に任せ、勝利を摑み取るだけだ。表情を引き締めた周瑜が気合いを込めて号令をかける。

「出陣!」

 大量の荷を積んだ百余そうの走舸隊、大都督・周瑜、副都督・程普を乗せた二隻の楼船、そして、江東諸将を乗せた数十隻の蒙衝もうしょうが烏林の曹操本営目指して進発した。時に、建安十三(二〇八)年、冬十二月――――。

 それを見送った孔明が魯粛に尋ねた。

「子敬殿、祭壇さいだんの用意はできていますか?」

「ああ、できている」

「では、案内してください」

「よし、参ろう」

 魯粛は孔明と陣の後方にある南屏なんぺい山へと向かった。


 江東軍から逃げる船。曹彰や爺禾支は背後の追走部隊を気にしていたが、女性たちは意外にもリラックスした雰囲気で会話していた。

「あなた、漢人じゃないわね?」

 尚香は異国情緒に満ちた火見ので立ちを見て聞いた。

「ええ、倭から来ました」

「聞いたことない国だわ」

「海の向こうにある国です」

「そんな遠いところから……。じゃあ、あなたはいろいろな街や景色を知っているのね。うらやましいわ」

 火見も尚香の異様な出で立ちを見て聞き返す。

「あなたは武者むしゃなのですか?」

「武者? ……ああ、これのことね。そうね、私は江東の女武者よ」

 尚香が鎧をでながら言った。

「きれいな首飾りね」

 月の光にきらめいた火見のネックレスを尚香が指差した。玉の形がともえ形で独特である。好んで武具を身に付けるような尚香だから、宝飾品のたぐいは普段は身に付けないし、ほとんど持ってもいない。その代わりに帯びているのは父の愛刀・古錠刀こていとうだ。

勾玉まがたまといいます。母にもらいました。倭国に伝わる魔除まよけです」

「魔除け……。神秘的な力があるのね」

 尚香はそれを聞いて父の形見である古錠刀の柄を握りしめ、持ち去られた朱雀鏡のことを思い浮かべた。それからも火見と尚香の会話は続いた。

 そんな二人のやりとりをじっと見ていた司馬懿が疑心を深める。

 互いに同じ年頃の娘たちだ。通じ合うのは分かる。しかし、孫尚香がいくら男勝りできもの座った女性とはいえ、人質にされたこの状況で動揺した様子が見られないのは……。

「岸につけてくれ」

 唐突に司馬懿が船をぐ兵士たちに言った。

「どうしたのですか、老驥先生?」

「私は丞相から江東の様子を探るようにおおせつかっております。我々は戦では足手まとい。こちらに留まって様子を窺います。曹彰様はこのまま本営へお戻りください」

「分かりました。接岸させてくれ」

 曹彰が黄蓋に言う。曹操陣営に鞍替くらがえしようという黄蓋は断るわけにもいかず、それを認めた。ここでのトラブルは避けたい。

 接岸した船を下りながら、疑惑を確かめるべく司馬懿が尋ねる。

「黄将軍、もう人質の用は成した。その女子おなごも解放してやってはどうだ?」

「いや、この方はご主君の妹君、尚香様だ。曹公は尚香様をお求めだと聞いた。降伏するのに手ぶらというわけにはいかんじゃろう?」

 黄蓋はもっともらしく答えたが、それが司馬懿を納得させた。孫権の妹を曹操が求めているというのは、司馬懿が勝手に創作した話だ。それが黄蓋に知られているのは、周瑜か魯粛の口から伝わったに違いない。そして、戦陣に孫尚香が現れた。

 タイミングが良過ぎる。偶然にしても出来過ぎだ。作為的なものを感じる。

苦肉くにくの計か。周瑜め、なかなかの策士だ。孫権の妹が現れなかったら、私もだまされていたかもしれない……』

 司馬懿に促され、火見と難升米、爺禾支も同様に船を下りた。

「老驥先生、お気を付けて」

 曹彰の気遣いに対し、司馬懿が小声で曹彰に告げる。

「曹彰様こそ。あの黄蓋という男、信用できません。お目を離さぬよう」

 だが、司馬懿は黄蓋の投降が周瑜の仕組んだ佯降ようこう(偽って投降する)だと見抜きながらも、孔明との一時的協力を重視して、それ以上は口を閉ざした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る