其之九 謀略の前哨戦

 陸口りくこうの対岸である烏林うりん曹操そうそう軍が現れたことで、その狙いも明らかになった。

「何という数だ……」

 ただ数字を耳で聞くのと、実際目で見るのとではまるでインパクトが違う。

 魯粛ろしゅくは江上を埋め尽くす千を超えるであろう曹操軍の軍船の数に素直な感想を漏らす。対して周瑜しゅうゆはその数に驚きながらも、曹操軍の進路を予想して、強気の発言だ。

「ふん、寄せ集めだ。ここに現れたことで真意は知れた。やはり、曹操は水軍に自信がないのだ。陸に上がって勝負したいようだが、そうはさせん」

 勝利の極意ごくい――――ず勝つべかざるを為して、もって敵の勝つべきを待つ。

『孫子』の一節にある言葉――――まず勝利をさせない態勢を作り上げて、その上で敵軍に勝てる時機を待つ。そして、自軍の一番の強みを前面に打ち出して、相手の弱みを突く。曹操も弱みである水戦をできるだけ避けて、自軍の強みである陸上戦に持ちこむために烏林に現れたのだ。その曹操の考えを見抜き、敵に先んじて陸口に布陣した周瑜は、何としても水戦に持ち込むつもりだ。

「江東には一歩たりとも踏み込ませんぞ」

「さすが公瑾こうきん殿は戦をよく知っておられる。この目で公瑾殿の指揮采配を見られることは、よい勉強になります」

 実戦の指揮経験のない孔明の言葉は正直なものだった。

「必ずや勝利の光景をご覧に入れよう」

 周瑜は力強く言った。江東の強さを、周瑜公瑾という男のすごさを見せつけておかなければならない。それは曹操だけにではなく、劉備りゅうびやこの孔明に対してもだ。


 対岸からは曹操と諸官たちが同じ様に陸口に布陣している江東の水軍を遠望していた。

「先に押さえられたか。江東にも頭の切れる奴がいるようだな」

「周瑜でしょう」

 曹操の問いかけに程昱ていいく闊達かったつに答えた。

 程昱、あざな仲徳ちゅうとく。東郡東阿とうあの人である。古くから曹操に仕え、曹操よりも十数歳年長であるため、もうすっかり頭も髭も白くなっている。しかし、その明敏な頭脳の方は健在で、劉備と孫権そんけんの同盟を真っ先に予測した。

「その名は知っている。孫策そんさくが死の間際に内政のことは張昭ちょうしょうに、軍事のことは周瑜に尋ねるように孫権に言い遺したそうだな。小橋しょうきょうの夫だとも聞いた」

「江東の主戦派の代表でもあるらしいですな」

 曹操側には江東の内情が伝わっていた。廬陵ろりょう太守・孫輔そんほからのものである。

「剛直だな。性格が似ているから、仲徳なら周瑜の腹が読めるかもしれんな」

 昔、曹操の勢力がまだ小さかった頃、強大な袁紹えんしょうから恭順を迫られたことがあった。曹操が今の孫権の立場だったのだ。その時、あくまでも抗戦を主張したのが程昱だった。

「周瑜は劉備を警戒しているはずです。一旦我々が引き揚げれば、止むを得ず手を取った関係なぞ簡単に破綻はたんするでしょう。周瑜は劉備を攻撃するに違いありません」

 程昱は郭嘉かくかと同じ様に劉備の才能を警戒し、すぐに殺すように進言した男でもある。

二虎競食にこきょうしょくの計か。いい案だが、引き揚げはしない」

 劉備と孫権を互いに争わせ、そのどちらか、あるいは双方が疲弊ひへいしたところを攻撃する。最良の計略であることは認めたものの、曹操はやはり撤退を否定した。

「では、夏口かこうを攻めてはいかがでしょうか? すでに文聘ぶんぺいが江夏の大半を制圧したという報告が入っています。一軍を差し向け、文聘軍と挟撃させるのです。夏口を占領してしまえば、我等は柴桑さいそうの鼻先に拠点を得ることになり、周瑜もここを守る意味を失います」

 荀攸じゅんゆうが地図を指でなぞって、臨機応変の策を進言した。

 荀攸、あざな公達こうたつ荀彧じゅんいくの甥にあたるが、荀彧よりも六歳年長の謀士である。

 これまで何度も敵を撃ち破る奇計を進言してきて、軍略面では特に曹操の信頼が厚い。

「いい考えだ。軍を分ける。趙儼ちょうげんを都督、于禁うきんを主将にして七軍を向かわせる」

 夏口は長年黄祖こうそが対江東の最前線基地としてきたところで、港湾施設が充実していた。夏口には劉備軍が逃げ込んでいるが、その兵力は多くはない。

 だが、劉備は曹操も認める手強い相手だ。曹操は主力である陸軍の大半を夏口攻略のためにくことにした。夏口が陥落するまで自分がおとりとなって、周瑜軍を繋ぎ止めておけばよい。

「参軍は仲徳に任せる。文聘の水軍と協力して一月ひとつきで夏口を取れ」

「はっ。我が軍の移動を周瑜に見せつけてやります」

 程昱が曹操の意図を明察して答えた。陸軍の大半を移動させれば、おのずと目立つことになる。それに釣られて、周瑜も軍を分けるに違いない。

 程昱がその場を後にするのを見届け、曹操は話題を切り替えた。

「仲達から連絡はあったか?」

「いえ」

 曹丕そうひが心配そうに首を振った。面は割れていないだろうが、弟の曹彰そうしょうも一緒だ。

「心配するな。交渉や謀略の道具にされることはあっても、殺されることはない。逃げおおせているか、監禁されているか……。誰か人をやって、確かめさせよう」

「その役目でしたら、私が。私と周瑜とは幼馴染おさななじみの仲。旧交を温めるのを理由にして周瑜に近付き、使者の安否を確かめて参ります」

 名乗りを上げたのは、九江郡九江の人、蒋幹しょうかんあざな子翼しよくという文官である。

 九江郡と周瑜の出身地である廬江郡は隣接していた。この淮南わいなん地方の二郡は曹操と孫権の間での係争地となっていて、二郡の出身者も曹操勢力と江東勢力に分かれていた。現在も廬江郡では李典りてん諸葛謹しょかつきんと、九江郡では陳登ちんとうが張昭とそれぞれ対峙中である。

「よし。早速、蔡瑁さいぼうの軍に加われ。向こうに疫病が蔓延まんえんしているかも見て来るのだ」

「はっ」

 蒋幹が拱手して立ち去っていった。曹操が一同に告げる。

「我が水軍の錬度を見るよい機会だ。双方の手並みを拝見するとしよう」

 一気の渡河計画をはばまれても、曹操はまだ余裕だった。荊州水軍と江東水軍の観戦を決め込んで、強風が吹きすさぶ河岸を離れた。

 その曹操の背後でどんどんと霧が晴れていた。龐統ほうとうふところから熱を帯びた霊気が放出されていて、それが霧を蒸発させていたことを曹操軍の誰もが気付いていなかった。


 曹操水軍が出撃したと急報が届いて、周瑜は迎撃を指揮するために自ら軍船に乗り込んだ。副都督の程普ていふに陸口の守備を任せ、蒋欽しょうきん周泰しゅうたい甘寧かんねい呂蒙りょもう凌統りょうとう全琮ぜんそうらの諸将を率いて、江水を少し遡ったところにある赤壁まで進軍して敵を待ち構えた。上流から迫り来た船団は〝蔡〟と〝張〟の旗を掲げている。

「ふん、相手は蔡瑁と張允ちょういんか。曹操の水軍を任されて意気盛んなようだが、所詮は劉表りゅうひょういぬだった奴らだ。ろくに地形も知るまい」

 一般的に水戦では勢いを得られる上流に位置する方が有利である。が、先んじて地の利を占めた周瑜は何も知らずに勢いだけで迫って来る敵を嘲笑あざわらう余裕があった。孫堅そんけんの時代から坤禅の地として赤壁を守護してきたこともあって、周瑜もこの近辺の地形は熟知している。

「荊州水軍の力を思い知らせてやる。矢をつがえよ!」

 蔡瑁は自分の立場を分かっていた。これからも自分の身を保つためには、曹操に対して自分の価値を証明しなければならない。

「放て!」

 蔡瑁の号令で一斉に矢が放たれた。大量の矢が下流に向かう風に乗って飛んでいく。

「盾を構えろ!」

 先陣を務める凌統の船にそれが雨のように降り注いだ。

 凌統はあざな公績こうせきという。呉郡余杭よこう出身の若手の将軍だ。江東兵たちは命令通り盾に身を隠して、矢の攻撃に耐えた。兵の持つ盾に次々と矢が突き刺さり、運悪くそれをくぐり抜けた矢に当たって数人の兵が倒れた。  

 第二射が飛んできた。敵の船団はまだ射程距離ではない。

「まだ動くな。敵を引き付けろ!」

 凌統が再び叫んで兵に命じた。また数人の兵が矢に射られて倒れた。

 一方、その様子を眺めていた蔡瑁は防戦一方の敵勢に気を大きくした。

 自軍は上流風上の優位にある。敵は風下のため、弓で反撃できない。

「青二才め、血気にはやって風も読まずに突き進んできたか」

 江東の周郎はおのが才覚をたのみ、自ら曹操との決戦を買って出た――――州境を越えて聞こえてきた周瑜のそんな評判を蔡瑁は誤解した。そして、勝利を確信して江上に留まる江東船団を凝視する余り、水流の変化を見逃した。それが敗北に繋がる。

「このまま一気に殲滅せんめつしろ!」

 蔡瑁の船団が勢いを速めて江東船団に接近した。と思いきや、意図せず船が横へ流れた。

「何をしている、真っ直ぐ進まぬか!」

 予期せぬ船の動きに蔡瑁はぎ手の兵士たちを叱ったが、それは彼らの責任ではない。赤壁の近くには小さな湾があって、岩壁に当たった水がうずを巻いていた。

 そのせいで、水流が変化していたのである。それを知らずに近付こうとした蔡瑁の船団は操船を誤り、江東水軍の前で無防備な姿をさらしてしまったのだ。

「罠にはまったな。全琮の水牛ていを前へ!」

 周瑜の号令で現れたのは舳先に巨大な一対の鉄角を生やした突撃艇だ。

 率いるのは凌統と同じく将来を期待されている若手の武官、呉郡銭唐せんとうの人、全琮、あざな子璜しこう走舸そうかの快速を生かして、全琮隊が蔡瑁船団の横っ腹に突撃した。

 激しい衝突音と共に鉄角が船腹に突き刺さって穴を開ける。そこから浸水が始まった。

「船に乗り込め!」

 全琮は兵を率いて敵船によじ登り、交戦を開始した。勝機。それを悟った周瑜は後方に留めていた蒋欽・周泰・甘寧・呂蒙らの部隊を繰り出して逆襲に出た。

 張允の船団が弓を射かけようにも、蔡瑁船団が邪魔になってままならない。

 結果、蔡瑁船団は数隻が沈没し、蔡瑁と張允は敗走した。周瑜も深追いはせず、緒戦の勝利を確実なものにした。


 恐らく曹操軍が出てきたのだろう。江東軍が出撃したらしいことは兵たちの慌ただしい様子で察することができた。周瑜も不在なようだ。司馬懿たちに対する警戒は薄い。脱出を企てるには絶好のチャンスである。

 火見と司馬懿しばいたちが押し込まれた幕舎は軍需物資の倉庫が並ぶその隣にあり、倉庫群と同様に土壁と茅葺かやぶきの屋根で作られた簡易な造りだった。ないよりはましだが、曹彰はこの待遇に我慢ならないようだった。外には許可なく出ることも許されず、軟禁状態と言ってもおかしくなかった。

「こんなところに押し込めるとは、まるで囚人扱いではないか!」

「戦時ですからな。私たちのために急造したのでしょう。それに敵方の人間を厚遇するのも変です。時を待って、しかるべき行動を取りましょう」

老驥ろうき先生、呑気に言っている場合ではありませんぞ。今が時です。警備も薄くなっています。逃げ出すなら、私が一暴れ致しますぞ」

「私も力になります」

 曹彰が手を打ち鳴らして司馬懿に訴え、病み上がりの爺禾支やかしも答えた。

「いや、無理は禁物。いくら警備が薄くなっているとはいえ、たった二人で我等を守りながら敵陣を突破するのは難しい。火見を危険に晒すわけにはいきません」

 しかし、司馬懿は火見のことを懸念けねんして慎重だった。火見はそれを聞いて安堵の表情を浮かべた。火見たち倭国の一行は使命を果たして国へ帰らなければならないのだ。司馬懿はそれをよく理解していた。少なくとも、おとなしくしていれば殺される危険性はない。

「しっ、誰かやってきます」

 土壁の隙間から外の様子を窺っていた難升米なそめが一同に告げ、緊張が走った。

 その男、諸葛孔明は羽扇うせんを揺らして、隣の魯粛と話していた。

「いったい何をしようというのかね?」

「いえ、何でもいいから、再び曹軍の情報を聞き出せないかと思いましてね……」

 孔明は魯粛の問いをそうはぐらかした。孔明も周瑜が留守なのを見計らって動き出していた。

「ただでさえ軟禁に等しい待遇なのですから、江東の人間がいたらまずいでしょう。子敬しけい殿はここで結構です。私の代わりに我が主君の見送りに行ってもらえませんか?」

 孔明はあっさり魯粛の同行を制して言った。

「分かった。何か情報を得られたら、今度も私にも教えてくれ。孫家と劉家は同盟関係、私と君も交友を結んでいるのだから、情報は共有すべきだ」

 魯粛の念押しに孔明は頷いて、

「それは、もちろん。それより、一刻も早く討虜とうりょ将軍に夏口の件をご報告ください」

「分かっている」

 魯粛も頷いて、きびすを返した。孔明は先日と同じ様に魯粛をていよく追い払うと、司馬懿らが押し込められている幕舎に急いだ。


 孔明は見張りの警備兵には目もくれず、幕舎の中に入っていった。

 そして、開口一番、

「良かった。まだおられましたか。もう逃げてしまわれたかと思っていました」

 司馬懿たちの心を見透かすように言って、容易にその気分を害した。

「何の用か?」

 司馬懿は苦々しい顔つきで孔明に聞いた。曹彰もいる。こんなところで、例の一時的協力関係の話を持ち出されてはたまらない。

 孔明も司馬懿の側にひかえる若武者がまさか曹操の息子だとまでは知らないので、司馬懿の期待を裏切って切り出した。

「困ったことに、曹公が夏口を攻めるという情報が入りました」

「何?」

 司馬懿は孔明を手で制しつつ、その言葉に反応した曹彰に刺すような視線を送った。曹彰が押し黙る。自分の正体を悟られぬようにという司馬懿の配慮だ。

 孔明もこの若者が二人の密約を知らないのだと察して、言葉を選ぶ。

「……どうして、それを私に教えるのだ?」

 二人を制した司馬懿が一呼吸置いて、探るように聞いた。

「あなたの知謀は曹公も認めたほど優れていると聞きました。ですから、この窮地を脱する方策を頂けないかと思いまして……」

「それなら早々に城を捨てて逃げることだ。できるだけ遠くがよい。交州まで逃げれば、そこまで丞相も追っては来まい」

 曹彰を意識して、司馬懿が言葉に毒を含めて即答した。

 交州とは後漢十三州の最南端。開発も進んでいない、ほとんど異国の地である。

 司馬懿の軍略の才を確かめにきた孔明は、そんなありきたりの方策に納得しない。二人だけの体裁ていさいを保ちながら、稀大きだいの軍略家二人が会話を続ける。

「逃げるのは私でも簡単に思いつく下策。逃げないで済む方策はないでしょうか?」

「……ならば、書簡を二通用意すればよい」

「ほう。どのような書簡ですか?」

「一通は文聘ぶんぺいへ。一通は孫権へ。文聘は道理を知り、忠義をわきまえる人物だ。劉琦りゅうきを前に出して降伏を願い出れば、悪いようにはしまい。それに加え、孫権に降伏を促すのだ。江東単独では抗しきれないのは孫権にも分かるだろう。孫権を説き伏せることができたら、その功をもって、劉備も命だけは助かるであろう」

「……なるほど。では、戦って勝つ方策は?」

「ふははは……何を言っているのだ。そんなものはない」

 司馬懿はいかにもおかしいといった感じで大仰おおぎょうに首を振りながら、

「丞相は戦の天才にして、八十万の大軍を有している。察するところ、夏口へ向けられた兵力も大軍であろう。直接戦えば、仮に私がどのように対策を練ろうが敗北しか見えぬわ」

 そう断言した。曹彰はそれを聞いて、勝ち誇ったように頷いている。

 が、ここで司馬懿の目つきが変わった。孔明の双眸そうぼうを真っ直ぐ見つめて言う。

「劉備は軍も少ない。関羽や張飛といった猛将と漢水・江水の天険があるとはいえ、何もできまい。城に縮こまって震えるしかできまい」

「ははは、これは手厳しい」

 孔明は笑いながら、手にした羽扇を一振りして、意を得たことを示した。

「……ところで、周瑜は本気で丞相に勝つつもりでいるのだな。滑稽こっけいだ」

 今度は自分の番だとばかり、司馬懿が見返りを求めて聞いた。孔明がそれに応える。

「ええ。ご自身の軍略と水軍の強さに絶対の自信を持っています。曹軍を破って江陵を奪取すると息巻いていますよ」

「ははは、江陵か……。曹仁そうじん将軍が守っておられる。周瑜の軍略がどんなものか知らぬが、江陵を奪うなどできるはずもない。才能を自負して意気盛んなのは結構だが、思わぬところで足下をすくわれて、丞相の遠望深慮に遠く及ばないことを悟る結果となろう」

 孔明は神妙な顔つきで深く頷きながら、

わずかでも参考になることを聞き出せないかと思ってきましたが、やはり無理でしたか」

 そううそぶいて会話を切り上げようとする。火見はその顔を凝視している。

「当たり前だ」

 司馬懿はあくまでも敵対する立場をよそおって、孔明を鼻で笑った。

「それでは失礼致します。逃げ出すなら、今ですよ。周郎が留守です」

 孔明がからかうようにお節介を焼く。

「そんな誘いには乗らん。間もなく丞相が勝利の軍勢を率いてやってこよう。我等は座してそれを待てばよい」

「ははは、本当に慎重なお方だ……」

 孔明はそう言い残し、羽扇を揺らしてその場を後にした。孔明が去って、曹彰が聞いた。

「いったい何だったのでしょう?」

「私たちの様子を探りに来たのでしょう。あの者の話も嘘か真か分かりません」

 そう答える司馬懿であったが、孔明が自分の言葉に隠された意味をあっさりと理解したのを知って嘆息した。臥龍の評価は本物だ。

 司馬懿の後ろでは、火見が静かに違和感の原因を探っていた。孔明と司馬懿が演じた芝居を見抜いてのことではない。

『あの人、どこかで会ったような気がする……』

 そう思って記憶を辿るが、誰だかはっきり思い出せない。声もどこかで聞いたことがあるように思うにもかかわらず……。


 夏口に曹操軍が向かっているという情報は孔明が龐統から得たものだった。

 軍議のために陸口で周瑜軍に合流していた劉備はそれを聞かされた時はうろたえたが、孔明の方策をもらって、今は落ち着いていた。

 桟橋さんばしを歩く足取りは速かったが、気持ちはそれほど焦ることはなく、

「子敬殿、援軍の件、頼みましたぞ」

 劉備は慌てる素振りを見せず、船に乗り込みながら、魯粛にそれを依頼した。

「もちろんです。皇叔と我等は今や唇歯しんし間柄あいだがら、必ずやご主君は援軍を派遣するでしょう」

 魯粛はそれを固く約し、劉備を見送った。すでに早船を柴桑へ向かわせてある。

 陸口を離れた船の上で供として随伴していた関羽が聞いた。

「本当に援軍は来るでしょうか?」

「夏口を抑えられたら、孫権も困るだろう。魯粛が説得してくれるはずだ」

 すでに親劉備派と言ってよい魯粛は劉備や孔明にとっては有り難い存在だった。

「たとえ援軍が来ないとしても、曹操本人が動いたわけではないようだから、それほど怖くない」

 劉備が恐れるのは曹操という男の読心術である。曹操には自分の考えが全て見透かされている気がする。それ故の敗戦を何度も経験してきた。

「軍師は何と?」

「夏口に向かっている曹軍は五万ほどの規模だそうだが、どうやら水軍の本隊は動いていないらしい。文聘の水軍と合流させなければ、渡河できずに立ち往生するしかないから、文聘軍を急襲して船を破壊するようにとのことだ」

 関羽の問いに劉備が孔明から授けられた防策を教えた。

 文聘はあざな仲業ちゅうぎょうという。南陽郡えん県の人で、元は劉表に仕えていた将軍である。夏口には劉琦が江夏太守として駐屯しているが、荊州を治めた曹操側の江夏太守として派遣されたのが文聘だった。

 襄陽の軍船の大半は関羽が接収していたが、文聘は蒯越かいえつの献策に従って、襄陽以外に分散配置してあった軍船と漁船や貨物船など、船という船をき集め、劉備軍が夏口に押し込められている間に江夏郡の大半を制圧していた。

「それはよい。逃げ続けた挙句、防戦一方では私も翼徳よくとく鬱憤うっぷんが溜まりますからな」

 関羽も張飛も攻撃的性分の将軍なので、攻めさせたら強い。

「急いで戻りましょう。翼徳に聞かせたら、きっと喜びます」

 劉備に続いて船に乗り込んだ関羽が美髯びぜんをしごいて笑った。


 孔明は優雅に羽扇を揺らしながら、劉備の見送りから戻ってきた魯粛を幕舎の前で待っていた。それを見た魯粛が尋ねた。

「孔明殿、何か有益な情報は聞き出せたかね?」

「ええ」

「おお。早速、教えてくれ」

 魯粛は顔をほころばせて、自分の幕舎に孔明をいざなった。が、孔明の話を聞いた途端、その表情は硬く険しいものに一変した。

 足下を掬われる――――孔明は司馬懿のその言葉を江東勢力の中に曹操軍と通じようとする者がいるのだろうと解釈した。それもかなり大きな力だということを臭わせている。謀略家である曹操がすでに調略の手を回していることは十分考えられたし、実際、孫一族の廬陵太守の孫輔が密かに曹操と書簡を往復させる怪しい動きを見せていた。

「江東に裏切り者がいるというのか?」

 魯粛は孔明の指摘に驚いたものの、抗戦が決定される前まで降伏派が過半数を占めていたことは周知の事実である。江東も決して一枚岩ではないのだ。

「それはすぐに精査せねば……」

「曹操はそれを待っているのかもしれません。事が起こる前に速戦で勝利を摑まなければ、江東が二つに割れる可能性がありますね。荊州の二の舞になることも考えられます」

 荊州は降伏派が多数を占めて、あのような結果となった。抗戦派は劉備に従っている。累卵るいらんの危うき事態は江東もまた同じである。

「それを抑え込むためにも、夏口の勝敗は重大、子敬殿の責務も重大ですぞ。我等の書簡が勝敗の鍵を握るのです」

 そんな孔明の念押しに、

「分かっている。もう一度、援軍の派遣をご主君に催促さいそくしよう」

 魯粛は事の重大さに不安に駆られて、再び孫権へ向けた書簡をしたためることにした。


しゅう多しといえども、闘い無からしむべし。書簡を用いることといい、司馬懿も私と同じ考えであったか……』

 魯粛の幕舎を出た孔明は司馬懿の確かな軍才を評価していた。

 司馬懿はあえて言葉を裏返して孔明に防策を伝えた。

「――――一通は文聘へ。一通は孫権へ。文聘は道理を知り、忠義をわきまえる人物だ。劉琦を前に出して降伏を願い出れば、悪いようにはしまい。それに加え、孫権に降伏を促すのだ」

 てる相手はそのままに、書簡の内容を裏返せばよい。つまり、文聘の不義を指弾しだんし、孫権には救援を請う。

「――――劉備は軍も少ない。関羽や張飛といった猛将と漢水・江水の天険があるとはいえ、何もできまい。城に縮こまって震えるしか策はない」

 これは軍は少なくとも猛将がいる。それを生かせということだ。籠城ろうじょうして城に縮こまるのとは逆に、敵の油断を突いて出撃することをしとする。

 それは奇襲にほかならない。その相手は曹操の七軍ではない。文聘である。

 さらに言明して言えば、文聘の水軍だ。

 釜底抽薪ふていちゅうしんの計――――燃料のたきぎを取り除いて、かまの沸騰を止める。釜が于禁ら七軍、薪が文聘水軍の船団である。文聘軍が持つ船団を急襲して破壊すれば、于禁らの大軍は渡河の手段を失い、漢水と江水を前にして立ち往生するしかない。敵の数が多くとも、戦えないようにしてしまえばよいのだ。

 孔明が劉備に指示した作戦はすぐに実行に移された。病気に伏せっている劉琦に代えて、伊籍いせきと武将の霍峻かくしゅんに夏口の守備を任せ、劉備は主な諸将と五千余の兵を連れて北へ進攻した。それと呼応するように江東から派遣された援軍が現れてくれた。孫皎そんこうの水軍が夏口から百五十里(約六十キロメートル)のちゅう県の辺りまで遡上そじょうしてきて、夏口が攻められれば、すぐにでも救援できる態勢をとった。

 孫皎はあざな叔朗しゅくろうという。孫権の従弟いとこで、護軍校尉の職にある壮年の将軍だ。

 信任する一族の将軍を名代みょうだいに立てて劉備救援を任せたことで、孫劉同盟を重視する孫権の意志が証明された。夏口の劉備軍というクッションを失えば、孫権が軍事拠点とする柴桑に直接戦火が及ぶことになるだけでなく、抑え込んだ降伏派たちの不安を一層掻き立てる事態となる。それは内乱という危機に直面することにほかならない。内部崩壊が表面化すれば、一気に曹操軍に制圧されてしまいかねない。曹操と対峙たいじしている陸口から兵をく余裕はない。

 柴桑の守備兵力を割いてでも、夏口を救援しなければならない――――。

 魯粛が書面で力説した道理がものを言ったのだろう。孫権自身も水軍を率いてがく県まで進出して、内外にその意志を示した。

 一方、敵軍にそんな動きがあったことを知らない文聘軍は夏口に向かって進軍中の曹操軍に合流するために移動中であった。劉備軍はその空隙くうげきを突いて攻撃をかけた。劉備軍には夏口を固く守るしかできないと思っていた文聘は各城に僅かな兵力しか残しておらず、慌てて戻ってきたところを伏兵で打ち破られた。

 そして、城に籠って態勢を立て直した文聘にある書簡が送り付けられた。

――――仲業は父も信頼する忠勇の士であったのに、あろうことか蔡瑁一味の虚言を真に受けて共々曹操に降り、この私を攻め滅ぼそうとしている。義士の変貌ぶりに私は日夜心を痛め、今や立ち上がれないほどである。父も冥土からそなたの不義を嘆いているに違いない。もし、誤解があるというのなら、皇叔に味方し、私を助けてほしい。それこそが父の真意、我が願いである――――

 この書面は孔明が劉琦を偽ってしたためたものである。劉備が叫んで言う。

「文聘よ、琦君はそなたの恩知らずな所業に心痛を発し、病に伏せっておるぞ。そなたは今すぐに琦君に兵を返上し、病床を見舞うべきであろう!」

 文聘はその書簡と劉備の叱責を前にして、くちびるを噛んでいささか恥じ入るものがあった。文聘は元々劉表に仕えていた武将だ。荊州の家督争いには一切関与せず、その実情にも疎かった。荊州が曹操に降伏したのに合わせ、そのまま曹操配下となっていた。書簡の効果は覿面てきめんだったようで、文聘の士気をくじくことに成功した。

 葛藤かっとうを抱えた文聘は降伏しないまでも、激しい応戦をするでもなく後退した。

 張飛・趙雲・陳到ちんとうの部隊がそれを追撃し、大いに撃破した。そうして、陸戦が展開されている間に関羽の水軍が漢水流域に停泊中の文聘の船団を襲撃してそれを焼き、曹操が目論んだ夏口攻略の野望を挫いたのだった。


 船団を焼くその炎が時空を超えて火見の脳裏に見えていた。

 この辺りに充満する濃い陰気のせいか。あるいは、パワー・スポットである湘山の霊力に影響を受けてか、近頃、火見の霊的感覚は日増しに鋭くなっていた。

 湘山から以降、火占いをしていないのに脳裏に映像ビジョンが映し出されることが何度かあった。断片的なものが絡まり合った綢繆ちゅうびゅうとしたもの。占断するには、それらはあまりにも難解で、判断に困ることもしばしばあったが、今夜は違う。

 逃げ惑う兵たちの悲鳴。たける炎。立ち昇る黒煙。赤く染まる水面みなも。焼け落ちる船団……。明らかに今まで何度も見た映像を別角度から見ているような感じ。

 脳内に走るそれらの映像は否応なく凶兆の未来を想起させたが、

『でも、これは違う……』

 明らかな規模の違いを感じた火見はそれを伝えるのを止め、脳内に見えていたその映像をシャット・アウトした。

 火見はまだわざわいの未来が終わっていないことを、独り理解していた。

 それは何故かあの諸葛孔明という涼しげな人物が運んでくるような気がした。

『どこで会ったのだろう……?』

 それはまだ思い出せないでいた。それを考えているうちに睡魔すいまが襲ってきた。

 季節は冬至に差し掛かろうとしている。冬の冷たい風が火見の細い体をかすめ、火見は両手で体を抱えると、そのまま深い眠りについた。

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