其之九 謀略の前哨戦
「何という数だ……」
ただ数字を耳で聞くのと、実際目で見るのとではまるでインパクトが違う。
「ふん、寄せ集めだ。ここに現れたことで真意は知れた。やはり、曹操は水軍に自信がないのだ。陸に上がって勝負したいようだが、そうはさせん」
勝利の
『孫子』の一節にある言葉――――まず勝利をさせない態勢を作り上げて、その上で敵軍に勝てる時機を待つ。そして、自軍の一番の強みを前面に打ち出して、相手の弱みを突く。曹操も弱みである水戦をできるだけ避けて、自軍の強みである陸上戦に持ちこむために烏林に現れたのだ。その曹操の考えを見抜き、敵に先んじて陸口に布陣した周瑜は、何としても水戦に持ち込むつもりだ。
「江東には一歩たりとも踏み込ませんぞ」
「さすが
実戦の指揮経験のない孔明の言葉は正直なものだった。
「必ずや勝利の光景をご覧に入れよう」
周瑜は力強く言った。江東の強さを、周瑜公瑾という男のすごさを見せつけておかなければならない。それは曹操だけにではなく、
対岸からは曹操と諸官たちが同じ様に陸口に布陣している江東の水軍を遠望していた。
「先に押さえられたか。江東にも頭の切れる奴がいるようだな」
「周瑜でしょう」
曹操の問いかけに
程昱、
「その名は知っている。
「江東の主戦派の代表でもあるらしいですな」
曹操側には江東の内情が伝わっていた。
「剛直だな。性格が似ているから、仲徳なら周瑜の腹が読めるかもしれんな」
昔、曹操の勢力がまだ小さかった頃、強大な
「周瑜は劉備を警戒しているはずです。一旦我々が引き揚げれば、止むを得ず手を取った関係なぞ簡単に
程昱は
「
劉備と孫権を互いに争わせ、そのどちらか、あるいは双方が
「では、
荀攸、
これまで何度も敵を撃ち破る奇計を進言してきて、軍略面では特に曹操の信頼が厚い。
「いい考えだ。軍を分ける。
夏口は長年
だが、劉備は曹操も認める手強い相手だ。曹操は主力である陸軍の大半を夏口攻略のために
「参軍は仲徳に任せる。文聘の水軍と協力して
「はっ。我が軍の移動を周瑜に見せつけてやります」
程昱が曹操の意図を明察して答えた。陸軍の大半を移動させれば、
程昱がその場を後にするのを見届け、曹操は話題を切り替えた。
「仲達から連絡はあったか?」
「いえ」
「心配するな。交渉や謀略の道具にされることはあっても、殺されることはない。逃げおおせているか、監禁されているか……。誰か人をやって、確かめさせよう」
「その役目でしたら、私が。私と周瑜とは
名乗りを上げたのは、九江郡九江の人、
九江郡と周瑜の出身地である廬江郡は隣接していた。この
「よし。早速、
「はっ」
蒋幹が拱手して立ち去っていった。曹操が一同に告げる。
「我が水軍の錬度を見るよい機会だ。双方の手並みを拝見するとしよう」
一気の渡河計画を
その曹操の背後でどんどんと霧が晴れていた。
曹操水軍が出撃したと急報が届いて、周瑜は迎撃を指揮するために自ら軍船に乗り込んだ。副都督の
「ふん、相手は蔡瑁と
一般的に水戦では勢いを得られる上流に位置する方が有利である。が、先んじて地の利を占めた周瑜は何も知らずに勢いだけで迫って来る敵を
「荊州水軍の力を思い知らせてやる。矢をつがえよ!」
蔡瑁は自分の立場を分かっていた。これからも自分の身を保つためには、曹操に対して自分の価値を証明しなければならない。
「放て!」
蔡瑁の号令で一斉に矢が放たれた。大量の矢が下流に向かう風に乗って飛んでいく。
「盾を構えろ!」
先陣を務める凌統の船にそれが雨のように降り注いだ。
凌統は
第二射が飛んできた。敵の船団はまだ射程距離ではない。
「まだ動くな。敵を引き付けろ!」
凌統が再び叫んで兵に命じた。また数人の兵が矢に射られて倒れた。
一方、その様子を眺めていた蔡瑁は防戦一方の敵勢に気を大きくした。
自軍は上流風上の優位にある。敵は風下のため、弓で反撃できない。
「青二才め、血気に
江東の周郎は
「このまま一気に
蔡瑁の船団が勢いを速めて江東船団に接近した。と思いきや、意図せず船が横へ流れた。
「何をしている、真っ直ぐ進まぬか!」
予期せぬ船の動きに蔡瑁は
そのせいで、水流が変化していたのである。それを知らずに近付こうとした蔡瑁の船団は操船を誤り、江東水軍の前で無防備な姿を
「罠にはまったな。全琮の水牛
周瑜の号令で現れたのは舳先に巨大な一対の鉄角を生やした突撃艇だ。
率いるのは凌統と同じく将来を期待されている若手の武官、呉郡
激しい衝突音と共に鉄角が船腹に突き刺さって穴を開ける。そこから浸水が始まった。
「船に乗り込め!」
全琮は兵を率いて敵船によじ登り、交戦を開始した。勝機。それを悟った周瑜は後方に留めていた蒋欽・周泰・甘寧・呂蒙らの部隊を繰り出して逆襲に出た。
張允の船団が弓を射かけようにも、蔡瑁船団が邪魔になってままならない。
結果、蔡瑁船団は数隻が沈没し、蔡瑁と張允は敗走した。周瑜も深追いはせず、緒戦の勝利を確実なものにした。
恐らく曹操軍が出てきたのだろう。江東軍が出撃したらしいことは兵たちの慌ただしい様子で察することができた。周瑜も不在なようだ。司馬懿たちに対する警戒は薄い。脱出を企てるには絶好のチャンスである。
火見と
「こんなところに押し込めるとは、まるで囚人扱いではないか!」
「戦時ですからな。私たちのために急造したのでしょう。それに敵方の人間を厚遇するのも変です。時を待って、しかるべき行動を取りましょう」
「
「私も力になります」
曹彰が手を打ち鳴らして司馬懿に訴え、病み上がりの
「いや、無理は禁物。いくら警備が薄くなっているとはいえ、たった二人で我等を守りながら敵陣を突破するのは難しい。火見を危険に晒すわけにはいきません」
しかし、司馬懿は火見のことを
「しっ、誰かやってきます」
土壁の隙間から外の様子を窺っていた
その男、諸葛孔明は
「いったい何をしようというのかね?」
「いえ、何でもいいから、再び曹軍の情報を聞き出せないかと思いましてね……」
孔明は魯粛の問いをそうはぐらかした。孔明も周瑜が留守なのを見計らって動き出していた。
「ただでさえ軟禁に等しい待遇なのですから、江東の人間がいたらまずいでしょう。
孔明はあっさり魯粛の同行を制して言った。
「分かった。何か情報を得られたら、今度も私にも教えてくれ。孫家と劉家は同盟関係、私と君も交友を結んでいるのだから、情報は共有すべきだ」
魯粛の念押しに孔明は頷いて、
「それは、もちろん。それより、一刻も早く
「分かっている」
魯粛も頷いて、
孔明は見張りの警備兵には目もくれず、幕舎の中に入っていった。
そして、開口一番、
「良かった。まだおられましたか。もう逃げてしまわれたかと思っていました」
司馬懿たちの心を見透かすように言って、容易にその気分を害した。
「何の用か?」
司馬懿は苦々しい顔つきで孔明に聞いた。曹彰もいる。こんなところで、例の一時的協力関係の話を持ち出されては
孔明も司馬懿の側に
「困ったことに、曹公が夏口を攻めるという情報が入りました」
「何?」
司馬懿は孔明を手で制しつつ、その言葉に反応した曹彰に刺すような視線を送った。曹彰が押し黙る。自分の正体を悟られぬようにという司馬懿の配慮だ。
孔明もこの若者が二人の密約を知らないのだと察して、言葉を選ぶ。
「……どうして、それを私に教えるのだ?」
二人を制した司馬懿が一呼吸置いて、探るように聞いた。
「あなたの知謀は曹公も認めたほど優れていると聞きました。ですから、この窮地を脱する方策を頂けないかと思いまして……」
「それなら早々に城を捨てて逃げることだ。できるだけ遠くがよい。交州まで逃げれば、そこまで丞相も追っては来まい」
曹彰を意識して、司馬懿が言葉に毒を含めて即答した。
交州とは後漢十三州の最南端。開発も進んでいない、ほとんど異国の地である。
司馬懿の軍略の才を確かめにきた孔明は、そんなありきたりの方策に納得しない。二人だけの
「逃げるのは私でも簡単に思いつく下策。逃げないで済む方策はないでしょうか?」
「……ならば、書簡を二通用意すればよい」
「ほう。どのような書簡ですか?」
「一通は
「……なるほど。では、戦って勝つ方策は?」
「ふははは……何を言っているのだ。そんなものはない」
司馬懿はいかにもおかしいといった感じで
「丞相は戦の天才にして、八十万の大軍を有している。察するところ、夏口へ向けられた兵力も大軍であろう。直接戦えば、仮に私がどのように対策を練ろうが敗北しか見えぬわ」
そう断言した。曹彰はそれを聞いて、勝ち誇ったように頷いている。
が、ここで司馬懿の目つきが変わった。孔明の
「劉備は軍も少ない。関羽や張飛といった猛将と漢水・江水の天険があるとはいえ、何もできまい。城に縮こまって震えるしかできまい」
「ははは、これは手厳しい」
孔明は笑いながら、手にした羽扇を一振りして、意を得たことを示した。
「……ところで、周瑜は本気で丞相に勝つつもりでいるのだな。
今度は自分の番だとばかり、司馬懿が見返りを求めて聞いた。孔明がそれに応える。
「ええ。ご自身の軍略と水軍の強さに絶対の自信を持っています。曹軍を破って江陵を奪取すると息巻いていますよ」
「ははは、江陵か……。
孔明は神妙な顔つきで深く頷きながら、
「
そう
「当たり前だ」
司馬懿はあくまでも敵対する立場を
「それでは失礼致します。逃げ出すなら、今ですよ。周郎が留守です」
孔明がからかうようにお節介を焼く。
「そんな誘いには乗らん。間もなく丞相が勝利の軍勢を率いてやってこよう。我等は座してそれを待てばよい」
「ははは、本当に慎重なお方だ……」
孔明はそう言い残し、羽扇を揺らしてその場を後にした。孔明が去って、曹彰が聞いた。
「いったい何だったのでしょう?」
「私たちの様子を探りに来たのでしょう。あの者の話も嘘か真か分かりません」
そう答える司馬懿であったが、孔明が自分の言葉に隠された意味をあっさりと理解したのを知って嘆息した。臥龍の評価は本物だ。
司馬懿の後ろでは、火見が静かに違和感の原因を探っていた。孔明と司馬懿が演じた芝居を見抜いてのことではない。
『あの人、どこかで会ったような気がする……』
そう思って記憶を辿るが、誰だかはっきり思い出せない。声もどこかで聞いたことがあるように思うにもかかわらず……。
夏口に曹操軍が向かっているという情報は孔明が龐統から得たものだった。
軍議のために陸口で周瑜軍に合流していた劉備はそれを聞かされた時はうろたえたが、孔明の方策をもらって、今は落ち着いていた。
「子敬殿、援軍の件、頼みましたぞ」
劉備は慌てる素振りを見せず、船に乗り込みながら、魯粛にそれを依頼した。
「もちろんです。皇叔と我等は今や
魯粛はそれを固く約し、劉備を見送った。すでに早船を柴桑へ向かわせてある。
陸口を離れた船の上で供として随伴していた関羽が聞いた。
「本当に援軍は来るでしょうか?」
「夏口を抑えられたら、孫権も困るだろう。魯粛が説得してくれるはずだ」
すでに親劉備派と言ってよい魯粛は劉備や孔明にとっては有り難い存在だった。
「たとえ援軍が来ないとしても、曹操本人が動いたわけではないようだから、それほど怖くない」
劉備が恐れるのは曹操という男の読心術である。曹操には自分の考えが全て見透かされている気がする。それ故の敗戦を何度も経験してきた。
「軍師は何と?」
「夏口に向かっている曹軍は五万ほどの規模だそうだが、どうやら水軍の本隊は動いていないらしい。文聘の水軍と合流させなければ、渡河できずに立ち往生するしかないから、文聘軍を急襲して船を破壊するようにとのことだ」
関羽の問いに劉備が孔明から授けられた防策を教えた。
文聘は
襄陽の軍船の大半は関羽が接収していたが、文聘は
「それはよい。逃げ続けた挙句、防戦一方では私も
関羽も張飛も攻撃的性分の将軍なので、攻めさせたら強い。
「急いで戻りましょう。翼徳に聞かせたら、きっと喜びます」
劉備に続いて船に乗り込んだ関羽が
孔明は優雅に羽扇を揺らしながら、劉備の見送りから戻ってきた魯粛を幕舎の前で待っていた。それを見た魯粛が尋ねた。
「孔明殿、何か有益な情報は聞き出せたかね?」
「ええ」
「おお。早速、教えてくれ」
魯粛は顔をほころばせて、自分の幕舎に孔明を
足下を掬われる――――孔明は司馬懿のその言葉を江東勢力の中に曹操軍と通じようとする者がいるのだろうと解釈した。それもかなり大きな力だということを臭わせている。謀略家である曹操がすでに調略の手を回していることは十分考えられたし、実際、孫一族の廬陵太守の孫輔が密かに曹操と書簡を往復させる怪しい動きを見せていた。
「江東に裏切り者がいるというのか?」
魯粛は孔明の指摘に驚いたものの、抗戦が決定される前まで降伏派が過半数を占めていたことは周知の事実である。江東も決して一枚岩ではないのだ。
「それはすぐに精査せねば……」
「曹操はそれを待っているのかもしれません。事が起こる前に速戦で勝利を摑まなければ、江東が二つに割れる可能性がありますね。荊州の二の舞になることも考えられます」
荊州は降伏派が多数を占めて、あのような結果となった。抗戦派は劉備に従っている。
「それを抑え込むためにも、夏口の勝敗は重大、子敬殿の責務も重大ですぞ。我等の書簡が勝敗の鍵を握るのです」
そんな孔明の念押しに、
「分かっている。もう一度、援軍の派遣をご主君に
魯粛は事の重大さに不安に駆られて、再び孫権へ向けた書簡を
『
魯粛の幕舎を出た孔明は司馬懿の確かな軍才を評価していた。
司馬懿はあえて言葉を裏返して孔明に防策を伝えた。
「――――一通は文聘へ。一通は孫権へ。文聘は道理を知り、忠義をわきまえる人物だ。劉琦を前に出して降伏を願い出れば、悪いようにはしまい。それに加え、孫権に降伏を促すのだ」
「――――劉備は軍も少ない。関羽や張飛といった猛将と漢水・江水の天険があるとはいえ、何もできまい。城に縮こまって震えるしか策はない」
これは軍は少なくとも猛将がいる。それを生かせということだ。
それは奇襲にほかならない。その相手は曹操の七軍ではない。文聘である。
さらに言明して言えば、文聘の水軍だ。
孔明が劉備に指示した作戦はすぐに実行に移された。病気に伏せっている劉琦に代えて、
孫皎は
信任する一族の将軍を
柴桑の守備兵力を割いてでも、夏口を救援しなければならない――――。
魯粛が書面で力説した道理がものを言ったのだろう。孫権自身も水軍を率いて
一方、敵軍にそんな動きがあったことを知らない文聘軍は夏口に向かって進軍中の曹操軍に合流するために移動中であった。劉備軍はその
そして、城に籠って態勢を立て直した文聘にある書簡が送り付けられた。
――――仲業は父も信頼する忠勇の士であったのに、あろうことか蔡瑁一味の虚言を真に受けて共々曹操に降り、この私を攻め滅ぼそうとしている。義士の変貌ぶりに私は日夜心を痛め、今や立ち上がれないほどである。父も冥土からそなたの不義を嘆いているに違いない。もし、誤解があるというのなら、皇叔に味方し、私を助けてほしい。それこそが父の真意、我が願いである――――
この書面は孔明が劉琦を偽って
「文聘よ、琦君はそなたの恩知らずな所業に心痛を発し、病に伏せっておるぞ。そなたは今すぐに琦君に兵を返上し、病床を見舞うべきであろう!」
文聘はその書簡と劉備の叱責を前にして、
張飛・趙雲・
船団を焼くその炎が時空を超えて火見の脳裏に見えていた。
この辺りに充満する濃い陰気のせいか。あるいは、パワー・スポットである湘山の霊力に影響を受けてか、近頃、火見の霊的感覚は日増しに鋭くなっていた。
湘山から以降、火占いをしていないのに脳裏に
逃げ惑う兵たちの悲鳴。
脳内に走るそれらの映像は否応なく凶兆の未来を想起させたが、
『でも、これは違う……』
明らかな規模の違いを感じた火見はそれを伝えるのを止め、脳内に見えていたその映像をシャット・アウトした。
火見はまだ
それは何故かあの諸葛孔明という涼しげな人物が運んでくるような気がした。
『どこで会ったのだろう……?』
それはまだ思い出せないでいた。それを考えているうちに
季節は冬至に差し掛かろうとしている。冬の冷たい風が火見の細い体をかすめ、火見は両手で体を抱えると、そのまま深い眠りについた。
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