其之八 煙る悪霧

 曹操そうそうは冬の冷たい風が吹きつける江陵の港に旧友の変わり果てた姿を出迎えた。

「おお、子文しぶん……。三十年ぶりに貴君に会えると楽しみにしていたのに、こんなことになるとは……」

 骸布がいふにくるまれた友。もう動くことも、語ることもない。彼は亡くなったのだ。

 ひざをついた曹操の目がしらから悲涙ひるいこぼれ落ちて、頬を伝った。

 王儁おうしゅんあざなを子文。汝南じょなんの人で、まだ曹操が世に出ていない頃から曹操の才能を評価してくれた先輩である。

「我を知る者が次々とってしまう……」

 珍しく曹操の口から嘆きの言葉が漏れた。

 王儁は州郡や朝廷からの招聘に応じず、天下の騒乱を避けて、荊州の武陵に移り住んだ。曹操は荊州侵攻前に王儁に手紙を送り、荊州制圧後に自分が為すべき宿業に王儁の力を借りようとした。王儁は政治の浄化運動を志した〝清流派〟と呼ばれたかつての正義派官僚、范滂はんぼう岑晊しんしつと交流があり、自身も清流を胸に抱いていた人物である。

「父上……」

 息子の曹丕そうひが悲嘆にくれる父を抱え起こそうとした。曹操は息子たちにさえ自分の宿業、為すべき天命を伝えていない。若かりし自分に課した使命――――。

 それはやはり自分が生きているうちに成し遂げなければならないことなのだ。

 改めてそれを噛みしめて立ち上がった曹操は曹丕に命じた。

「王子文は我がともがらだ。この地に丁重ていちょうほうむれ。墓碑銘ぼひめい梁公りょうこうに頼みたい。子建しけん行方ゆくえを探させるのだ」

「畏まりました」

 梁鵠りょうこくあざな孟黄もうこうは三十年以上も昔、人事をつかさど選部せんぶ尚書りょうしょという役職に就いていた時に曹操を洛陽北部尉に取り立てた人物である。

 中原ちゅうげんが戦火に包まれていたのをよそに荊州は平穏であったため、多くの士人、知識人、民間人たちの疎開、避難の場となった。曹操は以前からその梁鵠が荊州の劉表りゅうひょうの下にいるという噂を聞いていたが、荊州陥落後、梁鵠は行方をくらませていた。曹操にとっては官吏の道を開いてくれた恩人であったし、書道の腕に特に優れていたので、碑文を書かせるにはうってつけの人物であった。


 荊州の江水流域に疫病が流行のきざしを見せていた。

 王儁はすでに六十を越えた高齢であったが、このタイミングでの死は、それに巻き込まれたのかもしれない。愛息の曹沖そうちゅうも微熱を出し、曹操を不安にさせていた。

 曹操は気を取り直し、諸官を引き連れて軍を慰問いもんしながら、状況を確認した。

 疫病に侵されたおびただしい数の兵士たちが地べたに寝かされ、それを介護する兵と医者たちが慌ただしく動いていた。曹操がそれを見ながら尋ねる。

「随分ひどいようだな。死者はどれくらい出た?」

「二千に届くかと……。症状の軽い者には薬を与え、重症化させないように手を尽くしておりますが、それでも、重篤じゅうとくの者はなお多く……」

 慰問に同行していた曹仁そうじんが顔を曇らせて報告した。

 曹仁はあざな子孝しこうという。曹操の一族であり、曹一族でも特に頼れる将軍である。

「いや、それでも大分落ち着いてきた方でございます。仲景ちゅうけい先生がおらねば、今頃もっと大変なことになっていたでしょう」

「そうか。張仲景はまさに天が与えた名医だな」

「まさに名医です。仲景先生のお陰で回復した将兵も多ございます」

 曹操の賛辞に曹仁が同意した。

 無名であった頃の曹操の才能を見抜いたのは王儁だけではない。許劭きょしょうという人物鑑定の第一人者も曹操を高く評価し、許劭のその言葉は今でも曹操の胸に熱く刻まれている。さらに、二橋にきょうの祖父である橋玄きょうげん何顒かぎょうも曹操を後の英雄だと評した。

 何顒はあざな伯求はくきゅうといい、南陽郡襄郷じょうきょうの人である。清流派に属する士人で、若かりし頃の曹操と親交があった。何顒は人物鑑定にも優れていた人物で、荀彧じゅんいくを王佐の才、同郷の張機ちょうきを見ては、後の名医と評した。

 曹操の視線の向こうで地面に横たわった兵がぶるぶると体を震わせていた。

 頭巾で髪を覆い、白いひげを垂らした医者がその兵に薬を含ませると、曹操に気付いて歩み寄ってきた。

 この人物こそ、後世〝医聖〟と称される張仲景である。

 張機、あざなを仲景。南陽郡の人で、後世に残る医学書『傷寒しょうかん雑病ざつびょう論』をあらわしながら、数年前まで長沙太守を務めていた。太守を辞任してからは襄陽の荊州学府で教鞭きょうべんを取りつつ、医術の道に専念していた。

「いわゆる〝傷寒〟というやつか?」

「はい。最初はただの下痢げりですが、弱った体に邪気が入って傷寒をわずらう者が後を絶ちません。残暑を避け、水に気を付ければ、下痢は防げます。ですが、体に入ってくる邪気まではどうしようもありません」

 張仲景が状況と予防法を合わせて答えた。傷寒とは、いわゆるチフスを指す。

 そもそも万物は木、火、土、金、水の五行ごぎょうの気を受けて存在し、人々はこれら五行の気を受けて五蔵を蔵している。気には陰と陽があり、陰陽の気の変化は極めて玄妙げんみょうで奥深く、千変万化せんぺんばんかする様子を追求し尽くすことは困難である――――。

 張仲景は著書である『傷寒雑病論』の中で、そう記している。

 つまり、肉体の疲労や恐怖、緊張といった精神的なストレスが人の体内を巡っている陰陽の気のバランスを乱し、そこに瘴気しょうきや邪気といった強い陰気が入ってきて、病気を引き起こすのだ。

烏角うかく先生とやらも、この疫病の根源は辺りに満ち溢れる陰気だと言っていたな」

 烏角――――本名は左慈さじあざな元放げんぽう。張仲景をともなって、ふらりと曹操の前に現れた自称・仙人。湘山しょうざんで司馬懿に加護を与えた老人。左慈はこれ以上の死者は邪気をたけらせると告げ、名医・張仲景を紹介した。

「烏角先生はどこへ行かれた?」

「この周囲の邪気を鎮めると言って、出て行かれました」

 張仲景が答えた。

「そうか。烏角先生の仙術と仲景先生の医術があれば、これ以上の憂いはなくなるな」

「最善を尽くします」

 張仲景がその言葉に力を込めた。張仲景は宗族のほとんどをこの傷寒によって、亡くしていたのである。傷寒と戦うことは彼にとってのとむらい合戦なのだ。

 曹操は頷いて、諸官と共に引き返した。その諸官の中に龐士元ほうしげんの姿があった。


 軍の慰問を終えた曹操は官府に戻った。官府の門前に見知った男が立っていて、主君を迎えて、優雅に拱手きょうしゅの礼を取った。南征軍の慰問に訪れた王佐の才、荀彧である。

「陛下からの勅命を受け、慰問に参りました。荊州の平定、おめでとうございます」

「うむ」

「疫病がひどいようでございますな。荊州を手に入れたことですし、一旦軍を退き、機を改めてはいかがですか?」

「そのつもりはない。もうそなたも知っているであろう。左慈と張仲景が天から遣わされた。天の助けがあるのに、退くことはない」

 曹操は前を見据えていた。荀彧とは目も合わさず、その横を通り過ぎるように歩を進めた。荀彧がそれに従った。

 曹操が群雄割拠する中で勝利を得てこられたのは、荀彧という存在があったればこそである。彼は曹操にとっての張子房ちょうしぼうであり、大業を成すために欠かせない能臣であった。

 天下の覇者となるために荀彧という存在は必要不可欠であった。だからこそ、彼の献策の数々は曹操をうなずかせ、その進言に曹操は従ってきた。だが、皇帝をようし、えん氏を打倒して、実質的な覇者となった曹操が目指すものと荀彧が目指すものの間に微かな相違が生じてきた。曹操は自分に強権を集中させ、天下を収めることが漢の存続に繋がると考えている。しかし、荀彧は皇帝を傀儡かいらい化するような曹操の強引なやり方に〝冠履倒易かんりとうえき〟を感じている。冠履倒易とは、かんむりくつの位置が逆さになるという意味で、上下が逆転して秩序が乱れることをいう。

 荀彧はあくまでも漢の臣下として天下を収めることを曹操に期待しているのであって、臣下の制を超えてはならないという立場である。

 その荀彧の考えを察している曹操はより自分に近い司馬懿しばいという存在を見出したからか、荀彧の忠言には耳を傾けなくなっていた。

西涼せいりょうの動向が気になります。馬騰ばとうが入朝したとはいえ、韓遂かんすいが軍をまとめています。丞相の留守が長引けば、きっとまた反乱を画策するでしょう」

 韓遂はあざな文約ぶんやく。涼州の軍閥ぐんばつで、馬騰とは義兄弟の仲だ。二人は二十年以上前から涼州に割拠かっきょし、反乱と恭順を繰り返している。曹操と韓遂は旧知だった。

「文約のことは分かっている。だからこそ、速戦即決で江東をくだすのだ。それに西方は元常げんじょうがよく抑えておる。そもそも元常はそなたが推薦したのだぞ」

 曹操が憮然ぶぜんとして言った。

「はい、そうでした……」

 曹操のその言葉は荀彧を黙らせた。荀彧は曹操のために数々の有能な人物を推挙したが、潁川えいせん長社ちょうしゃの人、鍾繇しょうようあざな元常もその一人である。鍾繇は荀彧の推薦で西部対策に起用され、この度も馬騰を懐柔かいじゅうして入朝させることに成功した。

「そなたはしきりに撤退を勧めるが、それはそなた自身の献策か。それとも、陛下の命か?」

 荀彧は勅令を奉じて来たと言った。ならば、皇帝の意志を含んで来たとも受け取れる。漢室復興を掲げて戦う皇叔こうしゅく劉備りゅうびを討たせたくないのが皇帝の本音ほんねだ。

「あくまでも私の献策にございます」

 荀彧は曹操の詰問きつもんにきっぱりと答えて、嫌疑けんぎ一蹴いっしゅうした。

「だとしたら、そなたには珍しい愚策だな」

「申し訳ございません」

 荀彧は顔を曇らせて頭を下げた。年を取ったせいなのか、気苦労がそうさせているのか、荀彧の整った容貌ようぼうにも苦悩のあとが見て取れる。

 それを知ってか知らずか曹操が冷たく問う。

「ただ慰問に参っただけか、文若ぶんじゃく?」

「二、三、併せてご報告を。蔡文姫さいぶんきをお連れしました。それと、金印が出来上がりましてございます」

「分かった。文姫にはすぐに会おう。金印の件は火見が帰ったら、オレが知らせる」

 蔡琰さいえんあざなを文姫。曹操も世話になった大学者・蔡邕さいよう愛娘まなむすめであり、女流作家でもある。異民族の匈奴きょうどに捕らわれ、その単于ぜんう渠帥きょすい)の妻となっていた彼女は、曹操の尽力で十数年ぶりに帰漢することができた。この時、誘拐された挙句に異国で暮らすことになった運命に対する憤慨とそこに遺してきた我が子を悲哀して詠った『悲憤詩ひふんし』を遺している。

 曹操には孫権そんけんを破り、荊南を平定した後、漢の丞相としてやるべきことがあった。蔡邕の博学多才ぶりを受け継ぐ彼女にはその手助けをしてもらうつもりで、匈奴と交渉を重ね、その身をあがなったのである。

 また、曹操は倭国の使節団の朝貢に対して、「倭国之王」の金印を与えることを約した。その完成を待つ間、曹操は火見たちをこの南征軍に留めたのだった。

「そなたは漢の下におった方が居心地がよいだろう。命を下す。倉舒そうじょを連れて許都へ戻るのだ。ここに長く留まれば、邪気を吸い込んで病を得るぞ」

 それは愛息・曹沖の心配であって、荀彧の心配ではない。

「……畏まりました」

 この時、消沈して答えた荀彧の体に陰気が入ってしまったのは仕方のないことだった。


 船上の司馬懿は船窓から霧に煙る江水の水面みなもを眺めながら、孔明との会談を回想していた。その脳裏に自身を目覚めさせた一言がよみがえる。

「――――蜚鳥ひちょう尽きて良弓りょうきゅうかくされ、狡兎こうと死して走狗そうくらる。この言葉をご存知でしょうか?」

『史記』にある一文。聞いて、司馬懿はハッとした。その一言で豁然かつぜんと己の間違いを悟った。それは、敵国が滅んだ後、功臣は用済みとして殺されるという故事である。

「――――司馬懿殿は范蠡はんれい韓信かんしんの立場におられます。曹公は劉予州と孫討虜とうりょがいるから、軍略に優れた貴殿を重んじているのです。裏を返せば、お二人が討伐された時点で貴殿の役目も終わりを迎えることになります。劉予州単独では曹公に対抗できない。江東に降伏を勧めることは御自身の命を縮めることと同じでございます」

 范蠡は春秋時代に越王・勾践こうせんに仕えた軍師で、数々の献策で勾践を春秋五覇の一つたらしめた。しかし、その後は勾践の変心を恐れ、越を逃亡した。

 韓信は軍略に優れ、前漢を興した高祖・劉邦りゅうほうに仕えて、大将軍にまで昇り、大功を立てた。ところが、戦乱が終わり、漢が建国されると、今度はその卓抜した才覚を恐れられて、謀殺ぼうさつされてしまうのである。

「――――その通りだ。だが、たとえ戦になったとしても、丞相が負けるとは考えにくい」

「――――ですから、私に一時協力していただきたい」

「――――何をすればよいのだ?」

「――――簡単なこと。戦の間、貴殿がその俊才をお出しにならなければ、それで結構」

 孔明との密約。だが、これでよかったのだろうか?

 それよりも、孔明はどうやって丞相の大軍を破るつもりなのだろうか?

 司馬懿はおのれと臥龍・孔明との知謀を比較しようと、孔明の策を推測してみようとした。

『自分なら、どうやって丞相の大軍を撃破する? 大差をくつがえすにはどう手を打つ?』

『疫病の蔓延まんえん兵糧ひょうろう枯渇こかつを待つのが最良……持久戦に持ち込むつもりだろうか?』

『いや、これくらい丞相なら、万事お見通しだ。兵力的にもまだ圧倒的有利なうちに、丞相は速戦を採るだろう……。涼州を扇動せんどうして、背後をおびやかすという手もあるが……』

『丞相はその防策として、馬騰を人質に取って、馬超ばちょうを南征に加えた。仮に馬超が反旗しても、その数は取るに足らない……』

 深く思考の奥淵を探ってみた司馬懿だったが、結局、これといった妙策に辿り付けず、その心は晴れなかった。


 その頃、孔明は同盟成立を報告するために夏口へ戻っていた。

「孔明、御苦労だった」

 主君・劉備が孔明を出迎えて、その手を取った。

あらかじ子敬しけい殿が下準備してくれていたお陰です。この戦に勝利したなら、その最高の殊勲しゅくん者は子敬殿でございます」

「はは、それは褒め過ぎでございます。まだ、戦に勝ったわけでもない」

 江東側の使者として、孔明に同行して夏口入りした魯粛ろしゅくは謙遜しながらも、素直にうれしそうだった。魯粛が望んだように同盟は成ったのだ。

「私が不在の間、何か変わったことはございましたか?」

 孔明が劉備に尋ねた。劉備が顔を曇らせて言う。

琦君きくんが病に倒れた。兵士たちの間にも疫病が流行はやり始めたようだ」

 劉表の長子、劉琦りゅうきはもともと体が強くなかったが、父の死と荊州の失陥しっかんに胸を痛めて、陰気を取り込んだらしかった。

「やはり、速戦ですね……」

 孔明は確信するように呟いた。魯粛が柴桑さいそうでの会話を思い出して聞いた。

「孔明殿、勝利の布石を打っておいたと言っていたが、あれはまことでしょうな?」

「ええ、もちろん。二年前から」

「二年も前から?」

「その時は我が君と劉荊州の協同作戦を想定しておりましたが、ご存じの通り、劉荊州は亡くなり、荊州も易々やすやすと曹操のものとなってしまいました。この時はさすがに頭を悩ませましたが、子敬殿のお陰で劉荊州の代わりに討虜将軍が共闘してくれることになって、少々、役者は代わりましたが、兵力は十分足るでしょう。病の蔓延も我等に利あり。冬至の頃が曹操を破る最大の機運となります」

「君は二年も前から曹操を破るはかりごとを巡らせていたのか?」

 驚きを隠せない魯粛は改めて孔明に問い直した。

「私だけではありませんよ。曹操の南下は荊州の誰もが予想していたことでしたから。私は同志たちと知恵を出し合い、我が君からはその可能性を貸し与えて頂きました」

「私から?」

 それを聞いた劉備自身が怪訝けげんな様子で聞いた。

「はい。これでございます」

 孔明はふところにしまっていたものを出して見せた。青銅のしゃくに見事な龍の彫刻が巻き付いている。龍の体は碧玉ジャスパーでできており、両眼にはラピスラズリが光っている。

「おお、それは私が水鏡すいきょう先生に託した神器じんぎだ」

「神器……? 伝説の四神器ですか?」

 孫家に仕える魯粛はその言葉に敏感に反応して、青銅の爵を凝視した。孔明は頷いて、

「私は水鏡先生からこの神器を託されました。そして、この神器の力を荊州の安寧のため、漢の再興のために使おうと考えたのです」

 水鏡先生――――司馬徽しばきあざな徳操とくそう。予州潁川の人で、孔明と龐統の師である。

 神器というのは、東西南北の四方の大地を守護する力を持つといわれる伝説の霊宝であり、〝地宝ちほう〟とも呼ばれる。四つが存在し、それぞれ青龍せいりゅう白虎びゃっこ朱雀すざく玄武げんぶの神獣があしらわれていて、強大な霊力を秘めると伝えられる。

 いにしえから伝わるこれらの神器は各王朝の興廃に関与してきたとされ、後漢の時代でも、この神器の奪い合いが歴史の影に存在した。

 十年前、袁氏の一族で袁術えんじゅつという男が四神器の一つである青龍爵を手に入れ、淮南わいなんの地で皇帝を称した。それを討伐したのが劉備である。劉備は青龍爵を回収して、神器の加護を当てにして東の徐州で曹操に反旗をひるがえしたが、敗れて遁走とんそうした。劉備は漢の復興のためにこの神器の力を使いたいと思っていたが、曹操に敗れた理由が分からず、荊州に来てからも脾肉ひにくたんかこつ日々だった。

 だが、一度、その神器が劉備を救ったことがあった。二年ほど前のことだ。

 劉備の存在をこころよく思わない劉表配下の蔡瑁さいぼうが劉備の暗殺をたくらんだ。劉備はそれを察して逃げ出したのだが、途中、檀渓だんけいという急流にはばまれて絶体絶命の危機に陥った。乗馬を急流に進み入れて、何とか渡河を試みたが、人馬諸共もろとも劉備はおぼれそうになった。その時、川の下から水柱みずばしらが立って劉備を馬ごと押し上げ、龍のように昇って、対岸の絶壁の上へと運んでくれたのである。それが神器の力だったとは知らない劉備は、そのまま道を迷い、意識を失った。気が付いた時、水鏡先生こと司馬徽の屋敷にいた。司馬徽という賢人に出会った劉備は事の次第を話し、司馬徽は劉備に臥龍がりゅう鳳雛ほうすうという大才の存在を教え、劉備は無知な自分の代わりに青龍爵を司馬徽に託して去ったのである。

「秘密が漏れるのを危ぶんだためとはいえ、今まで話さずにおり、申し訳ございません」

 孔明が主君の劉備に謝罪した。劉備は驚いた。孔明が謝罪したことにではない。

 漢の復興を祈って託したはずの神器が孔明を通じて自分のもとに戻ってきたことにだ。しかも、その力を取り戻して。

「気にするな。話す時期が来た時に話してくれればいい。そう言ったのは私だ」

言いながら、劉備はこの戦の勝利に自信を深めた。まさに今がその時なのだ。

「あ、では士元しげんは……」

 魯粛も神器を見て、ようやく気が付いた。孔明が無言で頷いた。


 火見は司馬懿らと周瑜しゅうゆの率いる船団の一隻に軟禁される形で同行していた。

 船室で横になって目をつぶっていた火見は頭の中で呟いた。

『……母もこんな経験をしたのかしら?』

 火見はここ最近、頻繁ひんぱんに幻想を見るようになった。占断を意識しないでも、感覚がぎ澄まされているのか、無意識に頭の中に浮かんでくる。理由は分からない。

 だが、

『きっとあの幻想が現実になる時が近いんだわ……』

 そんな確信だけはあった。そして、

『今、私が乗っているこの船……あの焼け落ちる船団の中にあるのかしら? でも、運命はどうにも変えられない。これが私の宿命さだめ……』

 あきらめのような、覚悟のような、そんな思いが火見の中に芽生えてきていて、もうそれらの幻想が火見を動揺させるようなことはなくなっていた。

 司馬懿も同じだ。自分の宿命というものを感じて、あがきながらも、結局はそれに従うほかないのだという、その運命を受け止めつつある。

 火見の横で静かに横になって、耐え忍ぶ時の長さを感じていた。

 この処遇は二橋のことを持ち出して、周瑜の怒りに火を付けた結果だろうが、司馬懿は同時にこれから戦になろうとしているのを前に、その脱出方法を思案していた。このまま水戦に突入することはないだろう。一旦どこかに上陸して設陣するはずだ。さいわい、曹彰そうしょうがいる。彼の武勇があれば、戦の混乱にじょうじて脱出することは可能だろう。

「あの周瑜という奴を討ち取れば、私の戦功は第一となるでしょうな」

 その曹彰が軟禁の屈辱くつじょくに耐えかねて起き上がり、不穏なことを口にする。

 周瑜は将兵に「大都督だいととく」と呼ばれていた。それは孫権そんけんに軍の全権をゆだねられたということだ。つまり、江東軍のトップである。

「いけません。仮に周瑜を討ち取っても、皆殺されて終わりです。火見たちの安全を確保するのが、丞相が曹彰様に課した使命。その使命を果たせば、丞相を喜ばせることができますし、功労も認められるでしょう。軽はずみな行動はお控えください」

 司馬懿は横になったままで曹彰の軽率な考えをいさめて、自重じちょううながした。

「……分かりました」

 曹彰は何かを呑み込むように言って、乱暴に体を横にした。

 火見にも、司馬懿にも、曹彰にも、耐え忍ばなければならない時であった。


 周瑜の水軍が江水をさかのぼっている頃、曹操軍も進軍を開始していた。

 疫病のせいで予定よりも一カ月以上遅れての進発である。江陵の守備に曹仁・曹純そうじゅん兄弟を残し、馬超の西涼軍も残留させた。徐晃じょこう呂常りょじょうに率いさせた先発隊はすでに洞庭湖岸の要地・巴丘はきゅうに駐屯し、進路を維持している。江陵から発した曹操軍本隊は陸路と水路の二手に分かれた。水軍が物資を積み込んで江水を下る一方、曹操は騎兵と歩兵の大軍を率いて、華容かよう道を南下していた。

 華容道は江陵から夏口方面へ通じる唯一の街道である。道は前日の雨でいくつもの水たまりを作り、ところどころぬかるんでいた。

「鳳雛先生は急ぐことはないとおっしゃっていたが、これでは急ぎようがない」

 ぬかるんだ道に車輪をとられて、遅々とする行軍に曹操が嘆息した。

 龐統は曹操に本隊の進軍を延期するよう進言していた。病気の蔓延もあったし、天候の問題もあった。何より、孔明から冬至の時期まで遅延させるように密書を受け取っていた。曹操軍を包み込む霧に紛れ込んで、孔明から発せられた意思が密かに龐統とコンタクトを取る。騎馬で曹操の馬車のすぐ横に付いていた龐統が、違和感を覚えて辺りを見回した。

「……どうされた、鳳雛先生?」

「いえ、何か心をのぞかれたような感覚がいたしまして……」

「ははは、私はしょっちゅう覗かれていますぞ。覗いているのは天でしょう」

 曹操は軽妙に笑って言った。それは冗談のようであるが、そんな口調くちょうでもない。

「天ですか……」

「私の場合、天に覗かれますと決まって頭が痛くなります。ああ、仲景先生にてもらえばよかった」

 曹操はそう打ち明けて、すっかり忘れていたことだが、そうしなかったことを今さらながらに後悔した。

烏角うかく先生はこの霧は濃い陰気の証だと仰り、仲景先生も陰気や邪気が体に入り込むことが病気の根本的な原因だと仰っていましたが」

「少なくとも、私の頭痛の原因はそうではない。人の死が陰気を生む一因だということは承知していますが、この霧は、実際はこの辺りの風土が起こしている現象に過ぎないのではないですかな」

 曹操は華容道の様子を見ながら、自らの分析を付け加えた。

 江陵近辺は江水の支流伏水が多く、もともと〝雲夢沢うんむたく〟と呼ばれる大湿原地帯だ。大小の湖沼があちこちに点在し、それを繋ぐように夏水かすいが走っている。

 夏水は江水と漢水の間を抜け、湿原を形作りながら漢水に繋がる一方、一部は分かれて江水に出る。華容道はその夏水の流路に沿った道であり、道の両側に湿原が広がっている。

「確かに湿原は陰の地形、陰気が多いのはこの地の特徴です。この時期は雨の日も多い。一たび大雨が降れば、夏水と江水があふれ、この辺り一帯は水びたしになってしまいます」

 龐統はハッとした。自分の言った言葉で孔明の意図に気が付いた。孔明はこの地形と冬至の季節を利用するつもりなのだ。

「病が流行り、軍を撤退させるべきだという声がありますが、それは私を理解していない者の言葉です。私としては何としても、南征をやりげねばならない。それが漢のためにもなるのですから」

 曹操の決意は強い。自分に宿った命運。それを確かめるように、軽く胸を叩いた。


 周瑜の率いる水軍は霧の中を進軍して、陸口りくこうというところに船を集結させ、布陣した。江水の南岸で、赤壁のすぐ近くである。江東にとって、ここを押さえることが絶対的な地の利を占めることになる。

 曹操軍の脅威は何と言っても、その陸軍の強さにある。江陵に達した曹操軍が水上戦を避け、その陸軍を孫権の軍事拠点である柴桑に差し向ける場合、陸口に上陸させることが最良であった。陸口からは湿地帯と山岳地帯を抜けつつ、柴桑まで最短距離で陸路を取ることができる。

 ひとまず曹操軍に先んじて地の利を占めることに成功した周瑜であったが、満足する様子は微塵みじんもなく、河岸の岩の上に立って、険しい表情で江上をにらんだ。

 相変わらず江上をすっぽり覆った霧の海。まるで視界はかない。

「ごほ、ごほっ……」

 不吉に漂う冷えたそれを吸い込んで、周瑜は思わずせき込んだ。それと同時に、周瑜の耳に一年前に魯粛から聞いた話が甦って、感情を高ぶらせた。

「坤禅が解かれてから、明らかに霧の日が多くなった。あの裏切り者め……」

 周瑜は孫家の務めをないがしろにした龐統をののしった。

 朱雀崖での一件からすぐ、龐統は江東から姿を消した。主君・孫権から歓迎されなかったのをうらんだのだとう噂が広がっていたが、周瑜と魯粛の見方は違った。

 朱雀の力を奪い、江東の加護を失わせた。孫権の覚えも良くないし、江東に仕えるには肩身が狭い。だから、曹操に降ったのだ――――と。

公瑾こうきん殿、それは我等の大きな誤解だったかもしれません」

 魯粛がやってきて、周瑜をなだめた。かく言う魯粛自身も、つい先程まで龐統の行動を邪推じゃすいで見ていたのだが。

「誤解?」

「敵をだますにはまず味方から、と申します。江東でそれほど裏切り者の評判が立っているということは、うたぐり深い曹操の耳にも届いているでしょう。曹操にとっては取り立てやすいということになります」

 魯粛と一緒に現れた孔明がそう言って、魯粛の言葉を裏付けした。

 劉備と孔明は周瑜軍と合流して、陸口にいた。軍議のためである。

「曹操のふところに入り込むためにやったことだというのか。しかし、断りもなく江東の力をいだ男を信じられるのか?」

「士元が朱雀の坤禅こんぜんを解いてしまったというのは、偶然です。ですが、龐士元は実に臨機応変の方策に優れています。その偶然を必勝の策に変える奇策を考え出しました」

「それが曹操軍の内部に潜り込んで、内応することか」

さすがに周瑜は龐統の思惑に達して言った。孔明が頷く。

「誰にも仕えぬ士元だからこそ、考えられた詭計きけいとでもいいましょうか……」

 孔明が霧の中に目をらすようにして言った。詭計とは、敵をあざむく方法をいう。

「子敬殿が共闘のおぜん立てを行い、私と士元がそれぞれ詭計で戦勝のお手伝いをします。後は公瑾殿の采配が勝負を決するでしょう」

「よく分かった」

 周瑜は短く答えた。臥龍も鳳雛も、敵となれば恐ろしい存在だが、今は味方だ。

「それにしても、これでは何も見えませんね」

 河岸から対岸を遠望しようにも、霧のせいで何も見えない。言いながら、孔明は何を思ったか、手にした羽扇うせんでぱたぱたとあおいでみた。

「そんなことでこの霧が晴れるのなら、この戦も苦労しないな」

 周瑜はその仕草を滑稽こっけいなものとして、冷めた目で見た。もちろん、そんなことですぐに霧が晴れることはなかったのだが、偶然にしても出来過ぎで、大して時間を置かずに霧が晴れてしまった。

 周瑜も魯粛も目を見開いて対岸を見た。孔明がうそぶくように言った。

「いやぁ、偶然というものは怖いものです」

 対岸の江上をおびただしい数の曹操の船団が埋め尽くしていたのである。

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