其之八 煙る悪霧
「おお、
「我を知る者が次々と
珍しく曹操の口から嘆きの言葉が漏れた。
王儁は州郡や朝廷からの招聘に応じず、天下の騒乱を避けて、荊州の武陵に移り住んだ。曹操は荊州侵攻前に王儁に手紙を送り、荊州制圧後に自分が為すべき宿業に王儁の力を借りようとした。王儁は政治の浄化運動を志した〝清流派〟と呼ばれたかつての正義派官僚、
「父上……」
息子の
それはやはり自分が生きているうちに成し遂げなければならないことなのだ。
改めてそれを噛みしめて立ち上がった曹操は曹丕に命じた。
「王子文は我が
「畏まりました」
荊州の江水流域に疫病が流行の
王儁はすでに六十を越えた高齢であったが、このタイミングでの死は、それに巻き込まれたのかもしれない。愛息の
曹操は気を取り直し、諸官を引き連れて軍を
疫病に侵された
「随分ひどいようだな。死者はどれくらい出た?」
「二千に届くかと……。症状の軽い者には薬を与え、重症化させないように手を尽くしておりますが、それでも、
慰問に同行していた
曹仁は
「いや、それでも大分落ち着いてきた方でございます。
「そうか。張仲景はまさに天が与えた名医だな」
「まさに名医です。仲景先生のお陰で回復した将兵も多ございます」
曹操の賛辞に曹仁が同意した。
無名であった頃の曹操の才能を見抜いたのは王儁だけではない。
何顒は
曹操の視線の向こうで地面に横たわった兵がぶるぶると体を震わせていた。
頭巾で髪を覆い、白い
この人物こそ、後世〝医聖〟と称される張仲景である。
張機、
「いわゆる〝傷寒〟というやつか?」
「はい。最初はただの
張仲景が状況と予防法を合わせて答えた。傷寒とは、いわゆるチフスを指す。
そもそも万物は木、火、土、金、水の
張仲景は著書である『傷寒雑病論』の中で、そう記している。
つまり、肉体の疲労や恐怖、緊張といった精神的なストレスが人の体内を巡っている陰陽の気のバランスを乱し、そこに
「
烏角――――本名は
「烏角先生はどこへ行かれた?」
「この周囲の邪気を鎮めると言って、出て行かれました」
張仲景が答えた。
「そうか。烏角先生の仙術と仲景先生の医術があれば、これ以上の憂いはなくなるな」
「最善を尽くします」
張仲景がその言葉に力を込めた。張仲景は宗族のほとんどをこの傷寒によって、亡くしていたのである。傷寒と戦うことは彼にとっての
曹操は頷いて、諸官と共に引き返した。その諸官の中に
軍の慰問を終えた曹操は官府に戻った。官府の門前に見知った男が立っていて、主君を迎えて、優雅に
「陛下からの勅命を受け、慰問に参りました。荊州の平定、おめでとうございます」
「うむ」
「疫病が
「そのつもりはない。もうそなたも知っているであろう。左慈と張仲景が天から遣わされた。天の助けがあるのに、退くことはない」
曹操は前を見据えていた。荀彧とは目も合わさず、その横を通り過ぎるように歩を進めた。荀彧がそれに従った。
曹操が群雄割拠する中で勝利を得てこられたのは、荀彧という存在があったればこそである。彼は曹操にとっての
天下の覇者となるために荀彧という存在は必要不可欠であった。だからこそ、彼の献策の数々は曹操を
荀彧はあくまでも漢の臣下として天下を収めることを曹操に期待しているのであって、臣下の制を超えてはならないという立場である。
その荀彧の考えを察している曹操はより自分に近い
「
韓遂は
「文約のことは分かっている。だからこそ、速戦即決で江東を
曹操が
「はい、そうでした……」
曹操のその言葉は荀彧を黙らせた。荀彧は曹操のために数々の有能な人物を推挙したが、
「そなたは
荀彧は勅令を奉じて来たと言った。ならば、皇帝の意志を含んで来たとも受け取れる。漢室復興を掲げて戦う
「あくまでも私の献策にございます」
荀彧は曹操の
「だとしたら、そなたには珍しい愚策だな」
「申し訳ございません」
荀彧は顔を曇らせて頭を下げた。年を取ったせいなのか、気苦労がそうさせているのか、荀彧の整った
それを知ってか知らずか曹操が冷たく問う。
「ただ慰問に参っただけか、
「二、三、併せてご報告を。
「分かった。文姫にはすぐに会おう。金印の件は火見が帰ったら、オレが知らせる」
曹操には
また、曹操は倭国の使節団の朝貢に対して、「倭国之王」の金印を与えることを約した。その完成を待つ間、曹操は火見たちをこの南征軍に留めたのだった。
「そなたは漢の下におった方が居心地がよいだろう。命を下す。
それは愛息・曹沖の心配であって、荀彧の心配ではない。
「……畏まりました」
この時、消沈して答えた荀彧の体に陰気が入ってしまったのは仕方のないことだった。
船上の司馬懿は船窓から霧に煙る江水の
「――――
『史記』にある一文。聞いて、司馬懿はハッとした。その一言で
「――――司馬懿殿は
范蠡は春秋時代に越王・
韓信は軍略に優れ、前漢を興した高祖・
「――――その通りだ。だが、たとえ戦になったとしても、丞相が負けるとは考えにくい」
「――――ですから、私に一時協力していただきたい」
「――――何をすればよいのだ?」
「――――簡単なこと。戦の間、貴殿がその俊才をお出しにならなければ、それで結構」
孔明との密約。だが、これでよかったのだろうか?
それよりも、孔明はどうやって丞相の大軍を破るつもりなのだろうか?
司馬懿は
『自分なら、どうやって丞相の大軍を撃破する? 大差を
『疫病の
『いや、これくらい丞相なら、万事お見通しだ。兵力的にもまだ圧倒的有利なうちに、丞相は速戦を採るだろう……。涼州を
『丞相はその防策として、馬騰を人質に取って、
深く思考の奥淵を探ってみた司馬懿だったが、結局、これといった妙策に辿り付けず、その心は晴れなかった。
その頃、孔明は同盟成立を報告するために夏口へ戻っていた。
「孔明、御苦労だった」
主君・劉備が孔明を出迎えて、その手を取った。
「
「はは、それは褒め過ぎでございます。まだ、戦に勝ったわけでもない」
江東側の使者として、孔明に同行して夏口入りした
「私が不在の間、何か変わったことはございましたか?」
孔明が劉備に尋ねた。劉備が顔を曇らせて言う。
「
劉表の長子、
「やはり、速戦ですね……」
孔明は確信するように呟いた。魯粛が
「孔明殿、勝利の布石を打っておいたと言っていたが、あれは
「ええ、もちろん。二年前から」
「二年も前から?」
「その時は我が君と劉荊州の協同作戦を想定しておりましたが、ご存じの通り、劉荊州は亡くなり、荊州も
「君は二年も前から曹操を破る
驚きを隠せない魯粛は改めて孔明に問い直した。
「私だけではありませんよ。曹操の南下は荊州の誰もが予想していたことでしたから。私は同志たちと知恵を出し合い、我が君からはその可能性を貸し与えて頂きました」
「私から?」
それを聞いた劉備自身が
「はい。これでございます」
孔明は
「おお、それは私が
「神器……? 伝説の四神器ですか?」
孫家に仕える魯粛はその言葉に敏感に反応して、青銅の爵を凝視した。孔明は頷いて、
「私は水鏡先生からこの神器を託されました。そして、この神器の力を荊州の安寧のため、漢の再興のために使おうと考えたのです」
水鏡先生――――
神器というのは、東西南北の四方の大地を守護する力を持つといわれる伝説の霊宝であり、〝
十年前、袁氏の一族で
だが、一度、その神器が劉備を救ったことがあった。二年ほど前のことだ。
劉備の存在を
「秘密が漏れるのを危ぶんだためとはいえ、今まで話さずにおり、申し訳ございません」
孔明が主君の劉備に謝罪した。劉備は驚いた。孔明が謝罪したことにではない。
漢の復興を祈って託したはずの神器が孔明を通じて自分のもとに戻ってきたことにだ。しかも、その力を取り戻して。
「気にするな。話す時期が来た時に話してくれればいい。そう言ったのは私だ」
言いながら、劉備はこの戦の勝利に自信を深めた。まさに今がその時なのだ。
「あ、では
魯粛も神器を見て、ようやく気が付いた。孔明が無言で頷いた。
火見は司馬懿らと
船室で横になって目をつぶっていた火見は頭の中で呟いた。
『……母もこんな経験をしたのかしら?』
火見はここ最近、
だが、
『きっとあの幻想が現実になる時が近いんだわ……』
そんな確信だけはあった。そして、
『今、私が乗っているこの船……あの焼け落ちる船団の中にあるのかしら? でも、運命はどうにも変えられない。これが私の
司馬懿も同じだ。自分の宿命というものを感じて、あがきながらも、結局はそれに従うほかないのだという、その運命を受け止めつつある。
火見の横で静かに横になって、耐え忍ぶ時の長さを感じていた。
この処遇は二橋のことを持ち出して、周瑜の怒りに火を付けた結果だろうが、司馬懿は同時にこれから戦になろうとしているのを前に、その脱出方法を思案していた。このまま水戦に突入することはないだろう。一旦どこかに上陸して設陣するはずだ。
「あの周瑜という奴を討ち取れば、私の戦功は第一となるでしょうな」
その曹彰が軟禁の
周瑜は将兵に「
「いけません。仮に周瑜を討ち取っても、皆殺されて終わりです。火見たちの安全を確保するのが、丞相が曹彰様に課した使命。その使命を果たせば、丞相を喜ばせることができますし、功労も認められるでしょう。軽はずみな行動はお控えください」
司馬懿は横になったままで曹彰の軽率な考えを
「……分かりました」
曹彰は何かを呑み込むように言って、乱暴に体を横にした。
火見にも、司馬懿にも、曹彰にも、耐え忍ばなければならない時であった。
周瑜の水軍が江水を
疫病のせいで予定よりも一カ月以上遅れての進発である。江陵の守備に曹仁・
華容道は江陵から夏口方面へ通じる唯一の街道である。道は前日の雨でいくつもの水たまりを作り、ところどころぬかるんでいた。
「鳳雛先生は急ぐことはないと
ぬかるんだ道に車輪をとられて、遅々とする行軍に曹操が嘆息した。
龐統は曹操に本隊の進軍を延期するよう進言していた。病気の蔓延もあったし、天候の問題もあった。何より、孔明から冬至の時期まで遅延させるように密書を受け取っていた。曹操軍を包み込む霧に紛れ込んで、孔明から発せられた意思が密かに龐統とコンタクトを取る。騎馬で曹操の馬車のすぐ横に付いていた龐統が、違和感を覚えて辺りを見回した。
「……どうされた、鳳雛先生?」
「いえ、何か心を
「ははは、私はしょっちゅう覗かれていますぞ。覗いているのは天でしょう」
曹操は軽妙に笑って言った。それは冗談のようであるが、そんな
「天ですか……」
「私の場合、天に覗かれますと決まって頭が痛くなります。ああ、仲景先生に
曹操はそう打ち明けて、すっかり忘れていたことだが、そうしなかったことを今さらながらに後悔した。
「
「少なくとも、私の頭痛の原因はそうではない。人の死が陰気を生む一因だということは承知していますが、この霧は、実際はこの辺りの風土が起こしている現象に過ぎないのではないですかな」
曹操は華容道の様子を見ながら、自らの分析を付け加えた。
江陵近辺は江水の支流伏水が多く、もともと〝
夏水は江水と漢水の間を抜け、湿原を形作りながら漢水に繋がる一方、一部は分かれて江水に出る。華容道はその夏水の流路に沿った道であり、道の両側に湿原が広がっている。
「確かに湿原は陰の地形、陰気が多いのはこの地の特徴です。この時期は雨の日も多い。一たび大雨が降れば、夏水と江水が
龐統はハッとした。自分の言った言葉で孔明の意図に気が付いた。孔明はこの地形と冬至の季節を利用するつもりなのだ。
「病が流行り、軍を撤退させるべきだという声がありますが、それは私を理解していない者の言葉です。私としては何としても、南征をやり
曹操の決意は強い。自分に宿った命運。それを確かめるように、軽く胸を叩いた。
周瑜の率いる水軍は霧の中を進軍して、
曹操軍の脅威は何と言っても、その陸軍の強さにある。江陵に達した曹操軍が水上戦を避け、その陸軍を孫権の軍事拠点である柴桑に差し向ける場合、陸口に上陸させることが最良であった。陸口からは湿地帯と山岳地帯を抜けつつ、柴桑まで最短距離で陸路を取ることができる。
ひとまず曹操軍に先んじて地の利を占めることに成功した周瑜であったが、満足する様子は
相変わらず江上をすっぽり覆った霧の海。まるで視界は
「ごほ、ごほっ……」
不吉に漂う冷えたそれを吸い込んで、周瑜は思わず
「坤禅が解かれてから、明らかに霧の日が多くなった。あの裏切り者め……」
周瑜は孫家の務めをないがしろにした龐統を
朱雀崖での一件からすぐ、龐統は江東から姿を消した。主君・孫権から歓迎されなかったのを
朱雀の力を奪い、江東の加護を失わせた。孫権の覚えも良くないし、江東に仕えるには肩身が狭い。だから、曹操に降ったのだ――――と。
「
魯粛がやってきて、周瑜をなだめた。かく言う魯粛自身も、つい先程まで龐統の行動を
「誤解?」
「敵を
魯粛と一緒に現れた孔明がそう言って、魯粛の言葉を裏付けした。
劉備と孔明は周瑜軍と合流して、陸口にいた。軍議のためである。
「曹操の
「士元が朱雀の
「それが曹操軍の内部に潜り込んで、内応することか」
さすがに周瑜は龐統の思惑に達して言った。孔明が頷く。
「誰にも仕えぬ士元だからこそ、考えられた
孔明が霧の中に目を
「子敬殿が共闘のお
「よく分かった」
周瑜は短く答えた。臥龍も鳳雛も、敵となれば恐ろしい存在だが、今は味方だ。
「それにしても、これでは何も見えませんね」
河岸から対岸を遠望しようにも、霧のせいで何も見えない。言いながら、孔明は何を思ったか、手にした
「そんなことでこの霧が晴れるのなら、この戦も苦労しないな」
周瑜はその仕草を
周瑜も魯粛も目を見開いて対岸を見た。孔明が
「いやぁ、偶然というものは怖いものです」
対岸の江上を
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