其之七 柴桑に会す

 零陵れいりょうに向かう劉巴りゅうは長沙ちょうさで別れ、司馬懿しばいと火見の一行は長沙郡から荊州と揚州を分ける峰々みねみねを越え、予章よしょう郡に入った。かつて少年時代の孔明が通ったのと逆のルートである。そして、十日後には予章の郡都・南昌なんしょうに入り、司馬懿たちは孫賁そんふんと面会した。

 孫賁は曹操からの使者ということで、それが何を意味しているのか察しがついたが、儀礼どおり丁重ていちょうに扱った。もちろん、曹操そうそうの息子という立場にもかかわらず、娘婿むすめむことしてわざわざ舅父きゅうふ(嫁の父)を訪ねてきた曹彰そうしょうの存在は大きく、孫賁は郡内の通行許可と孫権そんけんへの面会を保障して、書簡を用意するとともに嚮導きょうどう(道案内)を付けた。桓階は密かに予章の南、盧陵ろりょう郡へと向かった。盧陵太守は孫賁の弟の孫輔そんほである。

 孫輔はあざな国儀こくぎ。孫権の従兄だ。実は荊州を占領し、江陵に入った曹操のもとに孫輔の方から接触があった。嘘かまことか、降伏する用意があるという。桓階は曹操のねんごろな気持ちを伝える一方、その真意を確かめる役目を負っていた。

 司馬懿たちは南昌を出立した後、再び船に乗った。彭蠡沢ほうれいたくを下るのである。

 彭蠡沢(鄱陽湖はようこ)も洞庭湖と並ぶ江水流域の巨大な水瓶だ。贛水かんすい修水しゅうすい盱水くすいなどの河川の水を集め、大海のように広がって江水と繋がる。その淡水の海を果てしなく進む。

 火見はふと後方を振り返って、ハッと息を呑んだ。大火の情景がよみがえるようだった。爺禾支やかしがまた火見の異変に気が付いて、声をかけた。

「あれ……」

 火見に言われて、後方の湖面に目をやる。迫り来る船団。火見たちが乗った小船と比べたら、その速さ、大きさがよく分かる。

 水戦用の軍船、楼船ろうせんである。百人以上の兵士が乗船できる戦闘用に特化したまさに軍艦であり、船団の指揮艦でもある。両舷りょうげんに防壁が備えられ、甲板かんぱんは広く大きい。中央に全面を見渡せる楼閣が設けてあり、指揮官が立つ。

「これは……」

 司馬懿もそれを見てうめいた。楼閣の上に人影があり、追い抜き際にちらりとこちらに視線だけを向けた。容姿端麗な若き武人だ。

 楼船が横を通り過ぎると、それが生み出した波が火見たちが乗った小船を上下させた。楼船の後を追って、数十の闘船とうせん(大型戦闘船)と蒙衝もうしょう(小型戦闘船)が続いた。それらはあの若き指揮官が鳴らした銅鑼どらの音で左右に展開し、水上で陣形を敷いた。また銅鑼の音が響き、それが指揮艦を包み込むように方陣を作る。

「見事だ」

 立ち上がった司馬懿がそれを見て呟いた。高度な船の操舵そうだ技術がなければ、このような芸当はできない。訓練された兵士たちの士気も高い。

「まるで降伏する意志がさらさらないことを示しているようだ」

「やっぱり戦になってしまうの?」

 火見は不安そうに聞いた。

「そうならないようにしたいと思ってやってきたが、もしかしたら、相手方の腹はすでに決まっているのかもしれん……」

 司馬懿の悪い予感は当たっていた。数日前に劉備りゅうびの使者である諸葛しょかつ孔明こうめいが孫権と会談し、孫権は決戦の意志を固めた。今、司馬懿たちが乗った小船の横を追い越していった船団はこの彭蠡沢で訓練していた江東の水軍である。

 指揮官は周瑜しゅうゆ公瑾こうきん――――。

 周瑜は会戦を決めた孫権から呼ばれて、船団を率いて柴桑さいそう遡上そじょうする途中であった。


 西に名峰・廬山ろざんの峰々を臨み、江水との合流地点から百里(約四十キロメートル)ほどさかのぼれば、孫権が軍事拠点を構える柴桑へ到着する。

 司馬懿と火見たちは周瑜船団から遅れること二日、ついに柴桑に入った。

 柴桑直下まで船舶用の水路が引かれており、小船であれば、水門をくぐってそのまま城内に入ることができた。

「何とも便利だな」

 水路網を利用したその水上交通システムに、倭人の難升米なそめは感心して呟いた。

「この国には〝南船北馬〟という言葉がある。南方では船が馬の代わりなのだ」

 そう答える司馬懿だったが、中原ちゅうげん育ちの司馬懿にとっても、水上交通の利便性は体感してはじめて納得できることであった。それと同時に、船を操るその技術にも感心した。

 子供の頃から水に親しんでいる彼らは水戦に絶対の自信を持っている。それが一戦も辞さないという覚悟にさせる要素に成り得る。

「ゆっくり休めるかしら」

 火見が体調が回復しない爺禾支を心配して言った。心配をかけないために、大丈夫だと言って強情ごうじょうに振る舞っているが、明らかに元気がない。

 倭国を出発して以来、ずっと移動を繰り返してきた。本来なら、務めを果たして帰国の途についているはずだが、自分の予見が自分と仲間をこんな南の地に導いてしまった。長旅の疲れと心労から、火見自身も心底休息を必要としていた。

「早々に追い返されないようにしてみるつもりだが」

 新たな重圧を背負うことになった司馬懿が顔をこわばらせて言った。


 柴桑の街はぎょうきょほど発展しているわけでもなければ、洗練されてもいない。

 しかし、そんな田舎の地方都市の中心に築かれた官府はなかなか豪奢ごうしゃで、他にも高楼大館が並んでいて、鄴・許の両都を知る司馬懿には、それはいかにもミスマッチに映った。

『確か孫権は三十にもなっていない若い君主だ。周りから軽んじられないように、見栄みえを張っているのだろう。態度も大きく出るはずだ』

 頭脳明晰めいせきで、文武に優れ、勇敢である。有能の士と忠言を集め、それを御し、果断を決す――――孫権の人となりは遠く中原まで聞こえてきた。

 大概優れているものばかりで、人知れず後継者選びに頭を悩ませていた曹操も孫権の英才を認めて、

「――――仲謀ちゅうぼうの姓が〝曹〟なら、よかったんだがな」

 そう言ったという。孫権のあざなは仲謀といった。

 大衆の評価はえてして一番正直だ。確かに孫権が名君であることは間違いがなかった。司馬懿もそれを耳にしていたが、孫権の意思を反映した宮殿の様子を見て、早くもその短所を見抜いたのである。

 火見たち倭国の一行と曹彰を残し、司馬懿は一人で孫権と面会した。

 四角い顔に二つの碧眼へきがん、顎に紫髯しぜんを生やした孫権は、堂々たる体躯たいくで司馬懿を迎えた。傍にはあの若き指揮官・周瑜とその対面にもう一人が控えていた。

 張昭ちょうしょうはいない。張昭、あざな子布しふ。江東の文官諸官をまとめる元勲げんくんにして、降伏論者の筆頭。その張子布がこの場から排斥はいせきされているということは、すでに答えは決まっているのだろう。その証拠に曹操からの書簡を読む孫権の顔はみるみるうちに紅潮こうちょうした。

――――近ごろ天子の辞を奉じて罪あるものをつ。旌旗せいき南を指し、劉琮りゅうそう手をつかねたり。いま水軍八十万の衆を治め、まさに将軍と呉にいて会猟かいりょうせん――――。

 旌旗は旗の総称のことで、軍隊を比喩している。会猟とは一緒に狩りをすることだが、開戦を婉曲えんきょく的に言った言葉でもある。

 孫権は前文の件からそれが宣戦布告だと捉えていきどおったのだ。

「ふん……用件は分かった。わざわざ戦をあおるとは、いかにも傲慢ごうまん不遜ふそんな曹操らしい。今にその鼻っ柱をへし折ってやると帰って伝えよ!」

 孫権は立ち上がると使者である司馬懿の前にその書簡を投げつけて、怒りをあらわにした。司馬懿が驚いてその書簡を拾い、目を通す。そして、頷く。

「恐れながら申し上げます。私が察するところ、これは丞相が討虜とうりょ将軍を試しておられるのでございましょう」

「試すだと?」

「はい。丞相は賢人を愛す御方。討虜将軍が賢い選択をするのか、それとも、判断を誤り、滅亡の道を選ぶのか、それをこの書簡で見極めようというのでしょう」

 才能を見極めるというのは曹操がよくやることだ。かくいう司馬懿自身も、そのために江東にいる。降伏勧告とも宣戦布告とも取れる〝会猟〟という言葉を使って、孫権がどんな反応をするのか、態度と本心を遥か江陵から見極めようというのだ。それを見極める役が司馬懿である。

愚見ぐけんを申し上げます。討虜将軍はすぐに丞相に恭順きょうじゅんの意志を表明すべきでございます。丞相が率いるのは、皇帝陛下の命を受けた王軍でございます。これに抵抗の意を示すなら、すなわち逆賊となり、朝敵となりまする」

「逆賊は曹操の方ではないか。みかどもてあそび、専横を極めておる」

 早速孫権が言い返した。雄飛の大志を何もせずに黙って捨て去ることはできない。若いが故に、尚更なおさらその気持ちが強い。司馬懿が反駁はんばくする。

「それは物の見方の違いでございます。久しく漢の政治は乱れ、その乱れは正されぬまま、黄賊こうぞくの乱と董卓とうたくの暴挙を招きました。帝はまるで人形のように扱われ、漢朝の威権は地にちて、各地に群盗ぐんとうが起こり、田畑は荒れ、城邑じょうゆうは打ち壊され、民衆は土地を追われて、苦毒くどくの中を彷徨さまよったのです。誰もが漢の命運は尽きたと思う中、漢の再生を諦めなかった英雄がいた。それが曹操孟徳でございます。関東に義士有り。兵をおこして群凶ぐんきょうを討つ……」

 司馬懿は息つく暇もなく、そこで曹操の詩の一節を詠い上げた。

 それは『蒿里行こうりこう』と題する詩だ。曹操が中心となって結集した反董卓軍に臨んだ時の心境を切々とうたったものである。

「丞相のいつわりなき衷心ちゅうしん詩賦しふとなって人口に膾炙かいしゃしており、丞相が発した忠義の檄文げきぶんは群雄の義心をき立てました。将軍のお父上も遠く離れた長沙から義軍に駆け付けたのはご存知の通りです。かつて破虜はりょ将軍は丞相と志を共にしながら丞相を信頼され、丞相もまた破虜将軍を深く信頼されておりました……」

 その昔、董卓という暴君がいた。皇帝を人質同然にして専横を振るった男である。そして、董卓の暴挙に対抗するために諸侯は結束し、反董卓軍を立ち上げた。

 この時、曹操と孫堅そんけんはまさしく同志であった。破虜将軍とは孫権の父、孫堅のことだ。司馬懿の語るのは真実であり、紛れもなく曹操の代弁であった。

 父のことを持ち出され、孫権はふんっと鼻を鳴らしながらも、反論しなかった。

「董卓が誅殺ちゅうさつされて以後も各地に群雄が割拠し、互いに覇をとなえては争い合いましたが、流浪の陛下を誰よりも早くお迎えする忠義を示したのは丞相でございます。奸賊を誅して戦禍を収めてきたのは、丞相が民衆を憂い、漢朝に忠義を貫いていることの何よりの証左しょうさです。丞相自ら権勢を取り、威厳を四方に示しているのは、弱体化した漢を立て直し、再び強国へと導くため。傍若無人ぼうじゃくぶじんの董卓とは違います。結果、中原には数十年ぶりの平穏がもたらされ、離れてしまった民心が戻りました。討虜将軍は丞相を逆賊だと申しましたが、中原の民は丞相こそ救国の英雄だと諸手もろてを上げて称賛しております」

 微かな熱を含んだ司馬懿の弁舌を涼しげに聞き入る者がいた。

 周瑜の対面に座している男。目を閉じ、微かに頷きながら、羽扇うせんをひらひらさせている。司馬懿はその男の仕草しぐさが少し気になったが、続けた。

「荊州は実に聡明な判断を下しました。民を戦禍にさらすことなく、丞相の下で安寧を得ました。討虜将軍の名は中原にも広く聞こえており、明果めいか勇断ゆうだんの君主として、知られております。一戦して、天下を賭けたいお気持ちも分かりますが、八十万の大軍と戦うのは余りにも無謀。血気にはやらず、先のことをよく見通していただきたい。降伏ではありません。恭順でございます。その時は今まで通り、丞相は討虜将軍に江東の地を任せるでしょう。丞相は破虜将軍に対する時と同じ様に、討虜将軍とも志を同じくして、天下の大計を図りたいとお考えです。不義ふぎ早計そうけいに惑わされず、是非とも御明断を下されますように」

 司馬懿の説く会猟の意味は共に天下を治めようというものだ。それを聞いた孫権の心に微かな迷いが生じた。主君のそれを見て取った周瑜が口を開いた。

「御使者の口上はよく分かった。宿舎を用意してあるので、ひとまずそちらにて休まれよ。御返答は後ほどいたす」

「畏まりました」

 司馬懿は頭を下げて後ずさり、部屋を退席した。

 宮殿を出て、外廊を歩いていた時だ。司馬懿を追いかけてくる者がいた。

「開戦に決した討虜将軍の心を再び惑わすとは、見事な弁舌でございました」

 そう言って声をかけてきたのは、会談を黙って聞いていた羽扇の男だ。

「貴殿は?」

「これは失礼いたしました。私は劉予州に仕えております、諸葛孔明と申します」

 司馬懿はその名を聞いて、声を上げた。

「おお。彼の臥龍がりゅう先生ですな。蘇秦そしんのお役目ですか?」

「いかにも。私をご存知で?」

「荊州で睡虎すいこ先生から聞きました」

「ああ、なるほど」

「予州殿の使者が先立って来ておられたとは。江東と手を組まれたのですかな?」

「……のはずでしたが、あなたの弁舌のせいでどうなるか分かりません」

 言って、孔明は苦笑した。

 この男が張儀ちょうぎだ。孫劉の合従がっしょうを切り崩す連衡れんこう説の論客。

 司馬懿は意外だった。孔明のその印象もそうだが、敵である自分にこうも易々やすやすと実情を打ち明けるとは。

「ところで、私に何か用かな?」

「ええ、曹操軍の実情を教えていただきたいと思いましてね」

 臥龍はまた意外なことを言う。

「予州殿は丞相の敵ですぞ。私がわざわざ敵の使者に情報を漏らすとお思いなのか?」

「はい。あなたの命がかかっていますから」

「それは承知の上で来た」

「いえ、あなたの命を狙っているのは、討虜将軍でも、江東の者でもありませんよ」

 臥龍は三度みたび意外なことを言った。司馬懿は意味を図りかねて、眉をひそめた。


 孔明に与えられた宿舎と司馬懿らに用意された宿舎は同じ一角にあり、箱庭を囲む回廊で繋がっていた。孔明は魯粛ろしゅくに断って、急遽きゅうきょ司馬懿と二人での会見の場をセッティングしてもらった。

「本当に聞き出すことができたら、必ず私にも聞かせてくれ」

 魯粛が孔明に念を押した。司馬懿から曹操軍の情報を聞き出すということだったが、荊州で自分の腹をいとも簡単に見透かしたように、洞察力に優れる言葉巧みな孔明なら、何らかの有用な情報を探り出すことができるかもしれない。

 魯粛はそれを期待した。

「それはもちろん。では、子敬しけい殿は討虜将軍のお気持ちが変わらぬように、よろしく取り計らってください」

「ああ、分かっている」

 魯粛は孔明に言われて、あるじの迷いを打ち消すために急いだ。孔明はそれを見送って司馬懿の待つ部屋へと入り、司馬懿と対面するように腰を下ろした。

 そして、一息つくなり、

「……それでは早速ですが、司馬懿殿、できるだけ詳しくお教え願いたい」

 単刀直入、孔明は図々ずうずうしくも司馬懿に情報を求めた。

「なぜ私から話すのだ。誘ったのは君だ。君から話したまえ」

「私から話してもよいですが、司馬懿殿が約束をたがえないかと心配です」

 孔明は相変わらず羽扇うせんを揺らして、人をくったようにいう。

「では、私から話したとして、君が約束を違えないという保障はどこにあるのだ? そもそも全ては私の気を引くための君の口車だということも考えられる」

「睡虎先生から聞いていないのですか。私が義理固く、決して信頼を裏切らない人間だということを」

「あいにく、そのようなことは聞いていない。君が切り出さないのなら、私はこれで失礼する」

 釣れない態度の司馬懿が席を立とうと腰を上げたので、孔明もつまらない牽制けんせいを止めた。

「……仕方ありません。それでは、私から先に話しましょう。その後で司馬懿殿にも話していただきましょうか」

 孔明は司馬懿の情報を徐庶から得ている。司馬懿は一つの凶兆を気にして、許から荊州へ駆けつけてきた。徐庶はそんな司馬懿と襄陽で会見して、曹操が何年もかけて手に入れたという老驥ろうきの才能に注目していた。

「それは話の内容次第だ。本当に君が私を納得させられたら、私も君の申し出に応じよう」

「分かりました。司馬懿殿は類稀たぐいまれな見識をお持ちの方だとお見受け致す。ここは余計なことは申さず、一言だけ忠告させていただきましょう。ゆっくりと話している時はありませぬゆえ……」

 そう言って、孔明は本当にたった一言だけを司馬懿に投げかけた。

 それはその一言の中に司馬懿の命を狙う者の名と、その理由を包括ほうかつしていた。

 司馬懿はそれを聞いてハッとした。瞬時に己のあやまちに気が付き、力が抜けたかのように腰を下ろした。それを見届けた孔明は確信となるような説明を付け加え、司馬懿はそれを驚愕と共に聞いた。無言の司馬懿に孔明が問う。

「……どうですか、ご理解されましたか?」

「……確かにその通りだ。目が覚めた」

 司馬懿は頷いて、あっけなく答えていた。

 敵である孔明の口から本当に有用な話は聞けないだろうとたかをくくっていた司馬懿だったが、その予想を裏切る忠告であった。

 戦乱という巨大かつ不透明なベールに覆われて、見えなくなっていた真理。

 それを知ったからには、今までの方針を百八十度転換しなければならない。

「これで司馬懿殿も何をすべきかお分かりになったことでしょう」

 司馬懿は微かに息を吐き出しながら、また無言で頷いた。

「では、一時的に協力していただきたい」

「何をすればよいのだ?」

「まずは、約束どおり、対価にあたいするような有用な話をお聞かせ願いましょう」

「ふ~……、いいだろう」

 司馬懿は一つ大きな溜め息をついて、孔明の申し出に応じた。


 孔明との会談を終えて、司馬懿は孫権が用意した客舎に戻った。

「火見、これを爺禾支に与えるといい。この地の熱病にはこれが一番よいそうだ」

 司馬懿はそう言って漢方薬を火見に手渡した。

 司馬懿は孔明に見返りの情報として、爺禾支の病の話を切り出した。そして、それとなく、曹操軍中にも疫病えきびょうが流行していることを明かした。

 曹操の兵士たちは江陵に入って間もなく風土の違いに苦しみ出した。

 江陵付近は湿地帯の上、江水に面していて、乾燥した北の風土と比べて湿潤しつじゅんである。季節の変わり目に体調を崩しやすいのは今も昔も変わらない。

 折しも冬に差しかかる頃で、湿気を含んだ冷気が兵の体に入って、それを傷付けた。それを話したところ、孔明が昔の記憶をもとにいくつか漢方薬の名前を挙げた。そして、魯粛に頼んで、それらを用意してもらったのだ。

「分かったわ。早速、せんじてみる」

 火見は手渡された薬を持って、奥へ走って行った。曹彰が司馬懿の成果を尋ねた。

「ところで、会談はどうなりましたか?」

「まだ答えは出ていません。熟慮するということですが……」

 答える司馬懿は少し言葉を濁した。考えをひるがえした司馬懿にとっては、戦になった方がよいのである。孫権に言葉を尽くして降伏を説いたのは誤りであった。

「曹彰様はやはり、戦をお望みなのでしょうな」

「もちろんでございます。せっかく戦場にやってきたのに、荊州では肩すかしを食らいました。老驥先生には悪うございますが、この上江東にまで降伏されたら、私が腕を振るう機会がなくなってしまいます」

「どうやら劉備と孫権は同盟を組んだようでございます」

「何ですと?」

「劉備の使者が先んじて柴桑に入っております。孫権に開戦を求めているようです」

「おお、それはいい。戦で一気にけりを付けた方がすっきりする」

「確かに憂いを残すよりはその方がよいかもしれませんな」

 司馬懿はうそぶくように言って、その夜、客舎の使用人に筆とすずりを用意させた。

 孫権に宛てた書状を用意して、決戦へと導くのだ。


 同じ頃、孔明も客舎に戻って新たに周瑜・魯粛と会談をしていた。孔明が問う。

「討虜将軍のお気持ちはどうですか?」

「困ったことになった。江東を保てる選択肢を与えられて、また考えが揺れ始めたようだ」

 魯粛は孫劉合従で曹操に立ち向かうという孫権の気持ちが翻意しないよう、言葉を尽くしたが、一人で考えたいと追い返されてしまっていた。

「それにしても、あの使者め、弁が立つ。りに選って先君の話を持ち出すとは……」

 魯粛と孫権の説得に当たった周瑜が端正な顔を静かに怒らせて言った。

「総勢八十万とは豪語したものだ。孔明殿はどう思う?」

 魯粛が司馬懿と接触した孔明に意見を求めた。が、孔明が答える前に周瑜が、

「八十万など嘘偽りに決まっている」

 そう断じて、吐き捨てた。

「荊州だけを見てはいけません。恐らく廬江ろこう広陵こうりょうにも陽動のために支軍が出張ってきているはずです。許や鄴の守軍と各郡兵、予備兵を併せれば、八十万どころか、百万に達するでしょう」

 孔明がまたもや涼やかに状況分析を述べる。確かに廬江郡や広陵郡といった曹操勢力と隣接する地域では、孔明が言ったように曹操軍の別働隊が荊州本隊と連動して侵攻を開始していた。そのため、張昭と孔明の兄の諸葛謹しょかつきんは廬江方面の守備へ派遣されていたのだ。

「曹軍はだいたい二十万程度といったところです。ですが、襄陽と江陵の守備兵を差し引いて、実際の戦闘要員は約十五万。その内の半分が荊州兵ですが、曹操に降ったばかりで心服しておりませんから、命がけで戦う気などありません。曹操が率いてきた兵も四分の一が疲労と慣れない風土のために病を発しており、使い物になりません。となれば、実際は七、八万程度の軍を相手にするのと同じです」

 それでも、孫劉兵力の二倍である。だが、当初よりも随分数が減った。

「曹操軍に疫病が流行はやっているというのは、本当か?」

 思わぬ吉報に、周瑜が身を乗り出して聞いた。

 周瑜は主戦派の代表的人物である。開戦と聞いて、孫権から呼び出され、自慢の水軍を率いて遡上してきたのである。

「ええ、確かな情報です。隠そうとしているようですが、すでに隠しきれないほどに被害が広がっています」

 孔明が澄まして答えた。これも曹操軍中に潜む徐庶からの情報である。司馬懿から聞き出した情報を裏付けるものだ。

「それならば、時を待てば、曹操軍が撤退することも考えられよう。我等はそれを待って追撃を敢行かんこうすれば、勝利は間違いない」

 魯粛が手を打って言った。それは最も確実な勝利の方略であったが、

「それは曹操もお見通しのはず。曹操は戦の達人です。みすみす目の前の勝機を放って、撤退することはないでしょう。これ以上、病が広がる前に決戦に踏み切ると思います」

 孔明は魯粛の淡い期待を即座に否定する一方で、

「……ですが、曹軍の水軍はほとんどが荊州兵。戦意は低い。先の江夏の戦で江東水軍の強さを知っていますから、此度も緒戦の水戦で勝利すれば、荊州兵に動揺が広がるのは間違いありません。夏口にはもとの主人である劉荊州の嫡子ちゃくし劉琦りゅうき殿がおりますし、我が君も劉荊州の信望厚かった御方でありますから、こちらに寝返る兵が出てくると思います」

 戦は兵の数で決まるのではないことを雄弁に語って、勝利を決定付けた。

「同感だ。我等は地の利がある上に人の和と天の時も得た。戦うなら、今しかない」

 周瑜は戦にけた人物だ。強い決意をみなぎらせて、そう断言した。

 天の時――――敵軍に広がる疫病の猛威。

 地の利――――江水の天険。

 人の和――――孫劉同盟。

 これだけの有利な条件が揃っている。それに加え、水戦なら絶対の自信がある。

「公瑾殿のおっしゃるとおり。すでに策も講じてあります。後は討虜将軍の決断次第」

 勝利の策――――埋伏まいふくの毒。孔明も龍鳳の合策がっさくに絶対の自信を見せて言った。


 孫権の決断――――それは翌朝、届けられた。決戦である。

 笑顔の魯粛が孔明の客舎までやってきて、まるで吉報のように孔明に伝えた。

「あの司馬懿という使者、墓穴を掘った。恭順を認める曹操の条件とやらを突き出して、我が主君の怒りを買った」

「条件ですか?」

「ああ。恭順の証というが、要は人質だ。曹操め、その条件に二橋にきょう妹君まいくんを要求してきた。老いても破廉恥はれんちな奴だ」

 二橋とは、かつて漢の太尉となった橋玄きょうげんの孫娘たちのことを指す。

 姉を〝大橋だいきょう〟、妹を〝小橋しょうきょう〟といい、どちらも絶世の美女として有名であった。孫権の妹については息子の曹植そうしょくの嫁にしたいという理由があったが、二橋については理由はしるされていなかった。それはつまり、曹操のめかけとするという意味に等しい。

「英雄色を好む、ですね。橋公が曹操を高く評価したのは有名な話です。国が乱れた時は自分の一族を頼むとも言ったそうです。曹操は律儀りちぎにそれを守ろうというのでしょう」

「何を感心しているのだ。今やその二橋は亡き孫策様と公瑾殿の奥方だぞ。公瑾殿もそれを知って、烈火れっかのごとくお怒りだ」

「おお、そうでしたか。……まぁ、何はともあれ、これで決戦の意志が揺るぎないものになったわけですから、お互いに良かった」

 孔明はそれが司馬懿の仕業しわざだと感付いて、その機知に感心した。

『さすが元直が注意を促す男だ。うまくやってくれた……』

 当然、司馬懿は二橋のことも、孫権の妹のことも知っていたのだ。

 先の会見では意見を述べずに冷静な顔を見せていた周瑜を怒らせ、そして、当主である孫権を怒らせた。孫権の妹は名を尚香しょうこうといった。まだ十六、七の娘だ。

 孫権にとっては年の離れた異母妹いもうとであるが、とてもかわいがっていた。

「公瑾殿はどちらに?」

「主君の命を受け、これから進発する。あの司馬懿の一行も一緒だ。我々も参ろう」

「そういうことなら、すぐに」

 魯粛の誘いに応じて、孔明はすそを払って席を立った。

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