其之六 龍と鳳
間もなく
江水(長江)を吹き渡る風はめっきり冷たくなって、江水の水位も下がってきていた。それでも、圧倒的な水量を誇る江水の流れと順風に乗り、
孔明と
「
孔明がそれを見上げて呟いた。日食という現象は陰気(月)が陽気(太陽)を覆うことから、当時は奸臣が君主の威光を
孔明は刻々と迫り来る曹操との決戦に勝利する気持ちを一層固くして、日食が終わるのを見つめた。そして、日常が戻り、魯粛と対し直ると、その鍵を握る友の話題を口にした。
「ところで、
「ああ、士元ですか……」
魯粛はその人物の話題になって、顔を曇らせた。
「どうかしましたか?」
「士元は曹操に降るそうだ。もう江東を去ってしまったよ。しかも、江東の宝を持って」
「え、曹操に?」
それは親友の孔明も知らない事実だった。驚いた孔明は
鳳雛の
龐統がどんな受け答えをしたかまでは分からなかったが、
「――――
孫権はただそう言って、龐統を推薦した魯粛に眉をひそめた。
孫権陣営で
典型的な美男子の代表のような顔立ちで、人々からは〝
〝郎〟は若い男子をいう。容姿端麗の上、軍才も知謀も傑出していたので、孫権も周瑜さえいれば、龐統という風采の上がらない男をあえて用いる必要性はなかった。
周瑜は
周瑜は孫権の兄・
「主君がつれない態度を取ったのは悪かったと思うが、
魯粛は首を振りながら、
〝江東の宝〟という文句を二度も聞き流したばかりか、関心さえ示さなかった。
「江東を去ってしまったのですか。会って話そうと思っていたのに」
孔明と龐統は同門の仲だ。お互いに荊州のために曹操と対抗する意志は確認した。そんな龐統が曹操の下に行ったというのなら、そこには何か特別な訳があるはずなのだ。
「曹操に
龐統は襄陽出身だが、それが理由ではないのは確かだ。龍は魯粛の話を半分聞き流しながら、なおも自由に飛ぶ
魯粛はそれに気付いたのかどうか、また顔をしかめて言った。
「あの才能が敵となるとは、恐ろしい……」
「敵になるとは限らないでしょう」
「曹操に仕えるということは、敵になるということと変わらないではないか」
「
「そう考えたいのは山々だが、曹操の人材集めにかける情熱は敵ながら感心するものがある。我に
おもむろに魯粛の口から
私のもとを良き客が訪れたなら、私は琴を
明るく輝く月の光をこの手で
それでも、君は遠く険しい道のりを越え、無理をおして会いに来てくれた。
久しぶりに酒を
「……月明らかにして星
魯粛は
月は明るく輝いて星が稀な夜、カササギは南へ飛び立つ。木々の上を三度回って、止まるべき枝を探し求めている。山は高ければ高いほどよく、海は深ければ深いほどよい。昔、周公の
周公は孔子が理想とした君子であり、名君の模範である。
「もちろん、知っていますよ。明主は人を厭わず、故に
孔明は『
『管子』は孔明が自身と比較した春秋時代の
曹操は実質的に天下の覇者である。その動向、一挙一動は全国へ伝わる。
当然、曹操の詠んだ詩はその見事さから荊州の
この詩は曹操の良き人材を集めることに対する熱量を
曹操はとにかく人間の才能を
敵対している劉備もまた
襄陽を得た曹操は劉表に仕えていた
江水に別の船が浮かんでいる。乗っているのは二人。徐庶が小舟を
「士元、そろそろ本音を聞かせてくれるか? お前の考えはどうもよく分からん」
徐庶が龐統を遊船に誘って江水上に出たのは、盗聴を避け、二人きりになるためだ。微風が下流の方に吹いている。大声で叫びさえしなければ、声は岸には届かない。徐庶がこうしてじっくりと龐統と話すのは実に三年ぶりだ。
「
彼らの学友だった
「孫討虜に用いられませんでした」
龐統がぽつりと結論を言って、広い
「
今年の春、孫権が再び軍を動かし、江夏太守の
それによって、孫権はついに亡父・
しかし、それは孔明と龐統が描いた荊州と江東の連携プランをおじゃんにする出来事でもあった。
龐統は頭の中で孔明の思考と議論した結果、ある思いを胸に秘めて江陵に赴いた。ただ才のみを愛す曹操は鳳雛の異名を持つ人物が江陵にいると知って喜んで召し抱えた。もちろん、龐統が孫権に用いられなかったことは江東に放っていた
「それにしても
それは、どうして曹操ではなく劉備の下に行かなかったのかという意味だ。
「私が江東に行ったのは、あえて孔明と同じ動きをしないためです。それなのに、ここで私が劉予州の下へ行けば、それも意味がありません。劉荊州も亡くなって、襄陽も江陵も落ちました。計画は練り直しです。……ところで、
「孔明に付いていったようだぞ」
「そうですか」
〝潜鯉〟は彼らの学友の一人、
「皆、ばらばらになってしまいましたね」
予期していたことだが、荊州学府で学んだ学友たちの進路は曹操の荊州進出で命運を分けた。何事もずっと同じわけにはいかない。そう言ったのも龐統だった。
「孔明と潜鯉以外は曹操の下にいるのだから、会おうと思えば会える」
龐統はちゃぷちゃぷと
「……違うのか?」
「西河殿たちとは立場が違いますから。睡虎殿とは近いようだが、同じでもありません」
龐統は言葉を濁すようにして言った。以前から龐統が物事をはっきり言わないことがあるのを知っている徐庶だったが、なんとなく龐統の心が理解できたような気がした。自分と近いというのなら、自分が考えていることに近いことを龐統も考えているということだ。しかし、徐庶が考えていることは、孔明は知らない。
龐統に聞いてみる。
「計画が練り直しと言ったが、士元がこちらに来た意味を孔明は知っているのか?」
「いえ、知らないと思います。ですが、すぐに察するでしょう」
その問いにも、確かかどうか分からない推測の形で答える龐統だった。
孔明と龐統は遠く離れ、直接顔を突き合わせていないが、それぞれの行動と行為によって会話を交わしている。
風が弱まり、霧が去り、再び洞庭湖に浮かんだ司馬懿と火見たち一行。湘水を
「最初に見えたのは、背が高い男の人と、背が低い男の人、そして、女の人が司馬懿様たちのように湘君に拝礼しているところ。そして、背の高い人があのお爺さんと同じような
「湘君は医術の神でもあるのですか? なるほど、それで」
気のせいか爺禾支は自分の体調が回復しているような気がしたのだが、
「それは聞いたことがない」
桓階は爺禾支の問いに首を
「屈原の詩を
火見の話に登場した人物に司馬懿が興味を持って聞いたが、火見はこくんと
「恐ろしいものを見たのだろう。凶兆を避けることが我等の身の安泰につながる。それを話してくれ」
難升米の注文に火見は覚えている限りのことを話し始めた。
――――猛烈な風雨が吹き荒れていた。水面が荒々しく波打ち、濁流が溢れる。
設営した幕舎に掲げてあった〝
兵士たちがこの暴風雨に騒然とする中、激しい突風を全身に受けながらも、憤然とそれに立ち向かう男の姿があった。天下を統一し、戦国時代を終わらせた男。
そして、初めて〝皇帝〟の称号を冠した男――――始皇帝。
始皇帝は激しい風雨にも微動だにしない野心を
「――――おのれ、余の覇業を邪魔するか。この程度の方術など封じてくれる」
不老不死の色とされる紫色の
「――――出でよ、
始皇帝の強烈な意志を受けて、その円形の何かから炎の
そして、その炎の翼を羽ばたかせると、
「――――はははは。見たか、皆の者。余は天下だけでなく、天上をも
始皇帝は自分こそが世界の絶対的支配者であることを公言して、高らかに笑った。途端にその笑いが
「――――お前が余の覇業を邪魔しようというのだな。消えろ!」
始皇帝の意志を受けた火の鳥が急降下して、猛然と迫ってきた。
激しい熱波と戦慄に襲われ、思わず身を
舞い散る火の粉が降り注ぎ、船団が燃え上がって、巨大な火柱が上がった。
それは水上を覆い尽くしていた船団を丸ごと呑み込み、まさに火の海となって荒れ狂う。ゴウゴウと炎が燃え盛る音と人々の悲鳴が聞こえてきて、恐ろしくなって耳を覆った。気が付けば、あれほど激しく降り注いでいた雨はすっかり止んでいた。
火の鳥が完全に雨雲を掻き消したのだ。大火が夜空を赤々と照らす。火の鳥は船団を焼き尽くすと甲高い鳴き声を発し、星空の
火見は見えた
「あれは始皇帝という人だと思います。司馬懿様からお話を聞いて、その影響でそんな風に見えてしまったのかもしれません。以前見えていた光景とごちゃ混ぜになって見えてしまいましたが、船団が焼け落ちる結末は同じでした……」
火見が湘山で見た
「要はそれが敵の船団か、味方の船団かということですか」
「それによって、吉か凶か、判断が分かれる……」
桓階と劉巴が火見の話を聞いて、口々に呟いた。司馬懿は、
「私にとって凶兆であるのは確かなようだ。これから降伏を勧めに参るのに、戦の光景が見えるとは、勧告がうまく行かないと言われているようなものだ」
そう言って、天を仰いだ。日食もこの目で見たことだ。司馬懿はまた慎重になる。
「申し訳ございません」
「火見のせいではない。私の宿命がそういうふうに定められているのだろう」
司馬懿は火見を気遣って言った。あの日食を自分なりに解釈してみる。
『丞相の中に私がある。それは丞相が私の命運を握っているということだろう』
司馬懿は曹操を太陽、自らを月に
『火見は丞相に仕えることを大吉と占断した。ならば、この先江東で待ち受けている自分の運命は酷いものにはならないと解釈していいのではないか』
ふと、司馬懿が火見に尋ねてみる。
「倭では、日食をどのように占断するのだ?」
「母が言っていました。日が欠けるのは、凶なる知らせ……」
「やはり、凶か……」
また司馬懿は天を仰いだ。もう太陽はその姿を隠したことを忘れたかのように、いつものように大地と人々を、船上の司馬懿たちを照らしている。
江水(長江)に面する江陵に入城した曹操はそこを拠点にして、水軍の訓練を始めた。
だが、曹操はそんな高度なところまで求めていなかった。短期間の付け焼き刃的なもので、勝負を決しようとは
江陵の港に建つ望楼。その上から、曹操は膨大な江水の流れに
孫権が司馬懿の勧告に応じておとなしく降れば、それも杞憂に終わる。江東が従うなら、残る脅威は劉備のみ。劉備の軍勢は少ない。大軍で攻めれば、今度こそ再起不能に追い込めるだろう。そうなれば、司馬懿の才能はもはや必要ない。
だが、そうならなかった場合。劉備、あるいは孫権が残ったままで自分が死に追いつかれた場合。戦乱がなおも続く。年長の曹丕に覇業を継がせるとして、その補佐の大任を誰に任せるべきか――――。
『やはり、仲達か……』
政才、軍才、権謀術数、全てを兼ね
しかし、それだけに恐ろしい。司馬懿は自分とよく似ている。才能も野心も、その思考もだ。万能の男がいつまでも人の下に甘んじていられるだろうか。
司馬懿は体を動かさず、首を真後ろに向けることができた。〝
司馬懿が自分を恐れているのは知っている。自分が生きているうちは忠誠を尽くすだろうが、自分の死後、奴がどう動くか……。飼い主の自分がいなくなれば、途端に狼の本性を現わすかもしれない……。
曹操は思う。司馬懿もまた、〝治世の能臣、乱世の奸雄〟だと――――。
国が安定しているうちは司馬懿もその輔政に才覚を発揮するだろう。
しかし、国が大きく乱れ、揺れ動いた時、その野心が目を覚ますに違いない。
戦乱はまだ続いている。それを収められる卓越した能力を買って登用した以上、あえて殺すつもりはないが、この先の命運はもう一人の自分、司馬懿仲達に託してある。
「――――聞き入れぬ場合は、江東に留まり内情を探れ」
曹操は江東に入った司馬懿なら、窮地に
「父上」
ふと、この南征に同行している息子の
「
「いえ、私も詩想に
「今、わしが想っていたのは詩ではない。戦のことよ」
「は、そうでしたか……」
曹植は
曹操と同様、曹植も後世に名を残す詩人であるが、まだ十七の少年に過ぎない上、武芸や軍務には全く興味を持たず、従って、このピリピリした戦場の雰囲気を肌で理解することもできない。
曹操は戦いの中に生きてきた。文字通りの戦場だけでなく、権謀術数が渦巻く政治の舞台もまた戦場だった。曹操はそんな戦いの中で強さを身に付け、生き残る知恵を
曹操が息子たちをこの南征に従軍させたのは、それぞれの軍務の素質、軍略の才能を見極めるためである。いや、実際には曹植に限って、それを見極めようとしている。
曹彰は武芸に優れ、将軍の才能もある。父の気質を引いて、危険な任務にも臆することがない。司馬懿の護衛として江東へ行かせたのも、そんな曹彰の武勇を見込んでのことだ。確かに曹彰は武勇の面では父譲りであったが、肝心の政才がからっきし駄目であった。
曹丕は曹彰と曹植を足して、二で割ったような才能だ。軍才、政才、文才、どの分野でも高いバランスがとれているが、特に突出したものはない。
曹沖は才知に神童ぶりを発揮していて期待は高いが、早熟が怖い。ともあれ、まだ十三であり、判断するには早過ぎる。戦というものを見せるために連れてきているだけだ。
曹植は文才には特に優れているが、武芸はできない。その軍才は未知数だ。
「まるで戦場に似つかわしくないな。
曹操はこの戦で一軍を曹植に授けてそれを確かめようとしていたのだが、そんな父の思いをよそに、曹植は相変わらず
「
〝紫髯〟とは孫権のことを指す。孫権は
ちなみに、曹彰は
「まだ江東が降伏するとは限らんぞ」
授けた兵を宴の準備に使っていると知って、曹操は眉をひそめた。
「たとえ戦になろうと、父上の勝利は決まったようなものです。私に必要なのは、剣でも鎧でもなく、父上を迎える戦勝の詩でございます」
曹植は優雅さと機知を示したつもりだったが、それは父を失望させる発言であった。
「そうか。では、よい詩を作っておけよ」
「もちろんでございます」
微かに首を振ってその場を立ち去ろうとする父の背中に、曹植の返事は
密談を終えた二人を乗せた小舟が江陵の岸に接岸した。徐庶と別れた龐統が港の桟橋を歩いていたところ、ちょうど望楼から下りてきた曹操と出くわした。
曹操は召し抱えたばかりの龐統に声をかけた。
「これは鳳雛先生。お散歩ですかな?」
「ええ。ぶらぶらしながら、周瑜を破る戦略を考えていました」
「ほう、それは興味深い。少し聞かせてもらえませんか?」
「もちろんです」
孔明の天下三分の計は龐統も知っている。龐統は立ち止まって、その孔明の遠謀を手助けする一手を曹操に披露した。
「孫権にとって荊南長沙は先代の頃から縁の深い地。特に周瑜は
「おお、それは良い策だ。さすが鳳雛先生。
〝碧眼児〟も孫権のことを言う。孫権は瞳が青みがかっていたという。
気分をよくした曹操が自身の『短歌行』を江水に向かって軽やかに詠い始めた。
「酒に対して
「ええ、喜んで」
龐統は曹操の誘いに応じながら、孔明がこの動きも察して動いてくれるだろうと信じた。
その頃、江水を下る船上で、魯粛は曹操の『短歌行』の詩をもう一度口ずさんで、
「月明らかにして星
「偶然ですよ」
「だが、こんな詩を詠むくらいだ。曹操が士元を抱えないわけがない」
「ああ、なるほど……確かに、それもそうですね」
孔明はその詩を聞いて龐統の心に気が付いた。龐統が魯粛に行き先を告げたのは、自分にその情報が伝わるように考えてのことだろう。当然、江東からは裏切り者扱いされる。
それでも、龐統が曹操の下に行った理由――――それを理解した孔明は
「でも、烏鵲は
答えを得た孔明は冗談半分、また謎かけのように魯粛に言って、返答を困らせた。
烏鵲はカササギ、そのカササギはどの枝にとまろうか、ぐるぐると樹上を巡っている。匝は巡ることをいう。三匝だから、三度巡るのだ。
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