其之六 龍と鳳

 間もなくこよみ小雪しょうせつ(冬の初め頃)から大雪だいせつ(冬の中頃)に移り変わる。

 江水(長江)を吹き渡る風はめっきり冷たくなって、江水の水位も下がってきていた。それでも、圧倒的な水量を誇る江水の流れと順風に乗り、樊口はんこうから二日半。

 孔明と魯粛ろしゅくが乗る船は軽やかに江水を下り、江東のあるじ孫権そんけんが滞在する柴桑さいそうまであと数里というところまで来た。二人が船の上から日食を見上げたのはそんな時だった。

曹操そうそうが天子を冒そうとしているあかしですね」

 孔明がそれを見上げて呟いた。日食という現象は陰気(月)が陽気(太陽)を覆うことから、当時は奸臣が君主の威光をさえぎっている証と解釈され、凶兆と見なされた。今や丞相・曹操の力は皇帝が傀儡かいらいと化すほど極まっている。それが天象に現れたのだ。

 孔明は刻々と迫り来る曹操との決戦に勝利する気持ちを一層固くして、日食が終わるのを見つめた。そして、日常が戻り、魯粛と対し直ると、その鍵を握る友の話題を口にした。

「ところで、龐士元ほうしげんが江東にいるはずですが、今、どうしていますか?」

「ああ、士元ですか……」

 魯粛はその人物の話題になって、顔を曇らせた。

 龐統ほうとうあざなを士元。〝鳳雛ほうすう〟の名を持つ逸材である。鳳凰ほうおうひなというのだから、その秘めたる才能は〝臥龍〟孔明にも勝るとも劣らない。龐統も劉表りゅうひょうには仕えず、隠棲と放浪を繰り返した。そして、いち早く荊州の騒乱を予測して、しばらく前に江東に去っていた。

「どうかしましたか?」

「士元は曹操に降るそうだ。もう江東を去ってしまったよ。しかも、江東の宝を持って」

「え、曹操に?」

 それは親友の孔明も知らない事実だった。驚いた孔明はただちにその心を読み解こうと試みた。そこには何か重要なメッセージが込められているはずなのである。

 鳳雛の異名いみょうは遠く江東にも伝わっており、龐統の名を聞いた魯粛たち江東の名士たちがこぞって孫権への仕官を勧めた。孫権は英雄だと言うので、龐統も孫権に面会することになったのだが、孫権は龐統のえない容姿を見て、積極的に登用しようとはしなかった。龐統は背が低く、顔立ちも不細工ぶさいくで、まるで風采が上がらなかったのだ。孫権は二、三龐統と問答もんどうをしただけで、あっさり面談を切り上げた。

 龐統がどんな受け答えをしたかまでは分からなかったが、

「――――公瑾こうきんとは比べようもない」

 孫権はただそう言って、龐統を推薦した魯粛に眉をひそめた。

 孫権陣営で都督ととく(軍事の総責任者)の重責を担っているのが周瑜しゅうゆという男だ。

 典型的な美男子の代表のような顔立ちで、人々からは〝周郎しゅうろう〟と親しまれている。

〝郎〟は若い男子をいう。容姿端麗の上、軍才も知謀も傑出していたので、孫権も周瑜さえいれば、龐統という風采の上がらない男をあえて用いる必要性はなかった。

 周瑜はあざなを公瑾という。廬江ろこうじょ県出身の貴公子である。周家は廬江の名族で、一族からは漢王朝における官僚の最高職、〝三公〟も輩出している。

 周瑜は孫権の兄・孫策そんさくと無二の親友で、義兄弟でもあり、その版図拡大に大きく貢献した。孫権も周瑜を兄のように信頼しており、そのきずな劉備りゅうびと孔明以上のものがある。

「主君がつれない態度を取ったのは悪かったと思うが、りに選って、江東の宝を持って曹操に降るとは、見下げたものだよ」

 魯粛は首を振りながら、渋面じゅうめんを作って孔明を見た。龐統の友人である孔明を代わって責めるように。その孔明は難しい顔で沈黙している。

〝江東の宝〟という文句を二度も聞き流したばかりか、関心さえ示さなかった。

「江東を去ってしまったのですか。会って話そうと思っていたのに」

 孔明と龐統は同門の仲だ。お互いに荊州のために曹操と対抗する意志は確認した。そんな龐統が曹操の下に行ったというのなら、そこには何か特別な訳があるはずなのだ。

「曹操に襄陽じょうようを抑えられたとはいえ、こうもすぐに曹操に従う気になれるものか?」

 龐統は襄陽出身だが、それが理由ではないのは確かだ。龍は魯粛の話を半分聞き流しながら、なおも自由に飛ぶおおとりの心の内を探る。

 魯粛はそれに気付いたのかどうか、また顔をしかめて言った。

「あの才能が敵となるとは、恐ろしい……」

「敵になるとは限らないでしょう」

「曹操に仕えるということは、敵になるということと変わらないではないか」

討虜とうりょ将軍のように士元を登用しないかもしれませんよ」

「そう考えたいのは山々だが、曹操の人材集めにかける情熱は敵ながら感心するものがある。我に嘉賓かひん有らば、しつしょうを吹かん。明明として月の如きも、いずれの時にか採るべし。憂いは中より来たりて、断絶すべからず。はくを越えせんわたり、げてって相存そうぞんす。契闊談讌けいかつだんえんし、心に旧恩をおもう……」

 おもむろに魯粛の口かられたのは、曹操がうたった『短歌行』という詩の一片。

 私のもとを良き客が訪れたなら、私は琴をかなで、笛を吹いてもてなすだろう。

 明るく輝く月の光をこの手ですくい取ることができないように、その思いを叶えることは難しい。不安は心の内から湧き上がってきて、断ち切ることができない。

 それでも、君は遠く険しい道のりを越え、無理をおして会いに来てくれた。

 久しぶりに酒をみ交わし、昔のよしみを温め直そうではないか――――。

「……月明らかにして星まれに、烏鵲うじゃく南へ飛ぶ。樹をめぐること三匝さんそういずれの枝にかき。山は高きをいとわず、海は深きを厭わず。周公はを吐きて、天下は心をしたり。……君は知っているか、この曹操の詩を?」

 魯粛はいささか興奮しながら、孔明に尋ねた。

 月は明るく輝いて星が稀な夜、カササギは南へ飛び立つ。木々の上を三度回って、止まるべき枝を探し求めている。山は高ければ高いほどよく、海は深ければ深いほどよい。昔、周公のたんは食事中でも、食べかけた物を吐き出してまで、訪ねてきた士人をもてなした。だから、天下の人々も立派だと思って、周公に心を寄せたのだ――――。

 周公は孔子が理想とした君子であり、名君の模範である。

「もちろん、知っていますよ。明主は人を厭わず、故にく其の衆を為す、ですね」

 孔明は『管子かんし』の一片を披露ひろうして、その意味を理解していることを告げた。

『管子』は孔明が自身と比較した春秋時代のせいの名宰相、管仲かんちゅうの著書を指す。

 曹操は実質的に天下の覇者である。その動向、一挙一動は全国へ伝わる。

 当然、曹操の詠んだ詩はその見事さから荊州の片田舎かたいなかにも伝わった。

 この詩は曹操の良き人材を集めることに対する熱量をうるわしく表現したものとして理解されている。

 曹操はとにかく人間の才能をでた。優れた才能さえあれば、自分をののしった者も許し、敵に内通しようとした裏切り者さえ変わらず重用するほどであった。

 敵対している劉備もまたしかりである。優れた人材を高く、深く、広く求め、その人材たちが国を強く、大きく、豊かにするということを曹操は他の誰よりも知っているのだ。

 襄陽を得た曹操は劉表に仕えていた蒯越かいえつら荊州の有能な人材をそっくりそのまま手に入れた。その中には睡虎すいここと徐庶じょしょもいる。そして、鳳雛こと龐統もいた。


 江水に別の船が浮かんでいる。乗っているのは二人。徐庶が小舟をいで、少しだけ岸から離れたところでかいを置き、ようやく龐統に尋ねた。

「士元、そろそろ本音を聞かせてくれるか? お前の考えはどうもよく分からん」

 徐庶が龐統を遊船に誘って江水上に出たのは、盗聴を避け、二人きりになるためだ。微風が下流の方に吹いている。大声で叫びさえしなければ、声は岸には届かない。徐庶がこうしてじっくりと龐統と話すのは実に三年ぶりだ。

西河せいが殿や公威こうい広元こうげんが北寄りなのは知っていたが、士元の心の内がそうだったとは知らなかった。江東行きはどうなった?」

 彼らの学友だった崔州平さいしゅうへい孟建もうけん石韜せきとうらも荊州が曹操に降伏したのにともなって、曹操に出仕することを決めた。彼らは以前から曹操を評価していたところがあったので、それは何も驚くことではない。だが、徐庶が曹仁そうじんらの後続軍に同行して江陵こうりょう入りしてすぐ、龐統が曹操陣営にいるのを目撃して、これには徐庶も驚いたものだった。江東に旅立ったはずの龐統がどうして戻ってきたのか。しかも、曹操の招聘に応じたというのだから、なおさらせない。

「孫討虜に用いられませんでした」

 龐統がぽつりと結論を言って、広いひたいでた。

魯子敬ろしけいを通じて荊州を攻めないように忠告したのですが、私の言葉を聞く耳を持っていないようです。それでは江東にいる意味がありません」

 今年の春、孫権が再び軍を動かし、江夏太守の黄祖こうそを攻めて、これを殺した。

 それによって、孫権はついに亡父・孫堅そんけんの仇討ちを成し遂げたのである。

 しかし、それは孔明と龐統が描いた荊州と江東の連携プランをおじゃんにする出来事でもあった。

 龐統は頭の中で孔明の思考と議論した結果、ある思いを胸に秘めて江陵に赴いた。ただ才のみを愛す曹操は鳳雛の異名を持つ人物が江陵にいると知って喜んで召し抱えた。もちろん、龐統が孫権に用いられなかったことは江東に放っていた斥候せっこうの報告で知っていたのだが、この辺の対応は孫権とは大違いである。

「それにしてもに落ちんな。士元の考えは孔明と近かったはずだ」

 それは、どうして曹操ではなく劉備の下に行かなかったのかという意味だ。

「私が江東に行ったのは、あえて孔明と同じ動きをしないためです。それなのに、ここで私が劉予州の下へ行けば、それも意味がありません。劉荊州も亡くなって、襄陽も江陵も落ちました。計画は練り直しです。……ところで、潜鯉せんりはどうしましたか?」

「孔明に付いていったようだぞ」

「そうですか」

〝潜鯉〟は彼らの学友の一人、習禎しゅうていに与えられた雅号である。名付けたのは龐統だ。

「皆、ばらばらになってしまいましたね」

 予期していたことだが、荊州学府で学んだ学友たちの進路は曹操の荊州進出で命運を分けた。何事もずっと同じわけにはいかない。そう言ったのも龐統だった。

「孔明と潜鯉以外は曹操の下にいるのだから、会おうと思えば会える」

 龐統はちゃぷちゃぷと船縁ふなべりに当たる江水の波を見つめるだけで、何も答えなかった。

「……違うのか?」

「西河殿たちとは立場が違いますから。睡虎殿とは近いようだが、同じでもありません」

 龐統は言葉を濁すようにして言った。以前から龐統が物事をはっきり言わないことがあるのを知っている徐庶だったが、なんとなく龐統の心が理解できたような気がした。自分と近いというのなら、自分が考えていることに近いことを龐統も考えているということだ。しかし、徐庶が考えていることは、孔明は知らない。

 龐統に聞いてみる。

「計画が練り直しと言ったが、士元がこちらに来た意味を孔明は知っているのか?」

「いえ、知らないと思います。ですが、すぐに察するでしょう」

 その問いにも、確かかどうか分からない推測の形で答える龐統だった。

 孔明と龐統は遠く離れ、直接顔を突き合わせていないが、それぞれの行動と行為によって会話を交わしている。


 風が弱まり、霧が去り、再び洞庭湖に浮かんだ司馬懿と火見たち一行。湘水をさかのぼりながら、火見が湘山で見た幻想を言葉にまとめて話していた。

「最初に見えたのは、背が高い男の人と、背が低い男の人、そして、女の人が司馬懿様たちのように湘君に拝礼しているところ。そして、背の高い人があのお爺さんと同じような祝詞のりとを口にして、お祈りが終わると、女の人がとても美しくなっていたの。お祈りの前は顔をわずらっていた様子だったけれど」

「湘君は医術の神でもあるのですか? なるほど、それで」

 気のせいか爺禾支は自分の体調が回復しているような気がしたのだが、

「それは聞いたことがない」

 桓階は爺禾支の問いに首をひねって、それを否定した。

「屈原の詩をそらんじるのなら、相当な知識人だろう。その先客、誰かまでは分かりはしないだろうな?」

 火見の話に登場した人物に司馬懿が興味を持って聞いたが、火見はこくんとうなずいた。

「恐ろしいものを見たのだろう。凶兆を避けることが我等の身の安泰につながる。それを話してくれ」

 難升米の注文に火見は覚えている限りのことを話し始めた。

 ――――猛烈な風雨が吹き荒れていた。水面が荒々しく波打ち、濁流が溢れる。

 設営した幕舎に掲げてあった〝しん〟の王旗が折れて、吹き飛ばされていった。

 兵士たちがこの暴風雨に騒然とする中、激しい突風を全身に受けながらも、憤然とそれに立ち向かう男の姿があった。天下を統一し、戦国時代を終わらせた男。

 そして、初めて〝皇帝〟の称号を冠した男――――始皇帝。

 始皇帝は激しい風雨にも微動だにしない野心をあらわにして、全てを跳ね返そうとする。

「――――おのれ、余の覇業を邪魔するか。この程度の方術など封じてくれる」

 不老不死の色とされる紫色のころもに身を包んだ始皇帝はふところからある物を取り出し、暗黒の空に掲げた。同時に稲妻がとどろいた。その稲光いなびかりが円形のシルエットを浮かび上がらせた。

「――――出でよ、朱雀すざく!」

 始皇帝の強烈な意志を受けて、その円形の何かから炎のかたまりがまばゆい光と熱気を帯びて飛び出した。それはみるみるうちに巨大化して、上空で具現化して火の鳥となる。火の鳥は上空高く舞い上がると、暗く閉ざされた世界を照らした。

 そして、その炎の翼を羽ばたかせると、灼熱しゃくねつが天を覆う暗い雲の塊を蒸発させて、全てをき消していった。

「――――はははは。見たか、皆の者。余は天下だけでなく、天上をもべる者ぞ!」

 始皇帝は自分こそが世界の絶対的支配者であることを公言して、高らかに笑った。途端にその笑いがんだ。こちらに視線を向けて叫ぶ。

「――――お前が余の覇業を邪魔しようというのだな。消えろ!」

 始皇帝の意志を受けた火の鳥が急降下して、猛然と迫ってきた。

 激しい熱波と戦慄に襲われ、思わず身をひるがえしてしゃがみ込み、両手で頭を覆った。火の鳥がすぐ横をかすめて通り過ぎて行ったのが分かった。恐る恐る顔を上げる。火の鳥はまた天空へ昇った。その強烈な明かりが暗くうごめく水面とその上にひしめく船団の姿を浮かび上がらせる。火の鳥は遥か向こうで、その船団の上空を旋回していた。甲高かんだかい鳴き声を発した火の鳥の羽ばたきで無数の火の粉が生まれた。

 舞い散る火の粉が降り注ぎ、船団が燃え上がって、巨大な火柱が上がった。

 それは水上を覆い尽くしていた船団を丸ごと呑み込み、まさに火の海となって荒れ狂う。ゴウゴウと炎が燃え盛る音と人々の悲鳴が聞こえてきて、恐ろしくなって耳を覆った。気が付けば、あれほど激しく降り注いでいた雨はすっかり止んでいた。

 火の鳥が完全に雨雲を掻き消したのだ。大火が夜空を赤々と照らす。火の鳥は船団を焼き尽くすと甲高い鳴き声を発し、星空の彼方かなたへ飛び去って、やがて見えなくなった――――。

 火見は見えた映像ビジョンをできるだけ整然と話した。そうすることで、自身の気持ちも整理することができる。

「あれは始皇帝という人だと思います。司馬懿様からお話を聞いて、その影響でそんな風に見えてしまったのかもしれません。以前見えていた光景とごちゃ混ぜになって見えてしまいましたが、船団が焼け落ちる結末は同じでした……」

 火見が湘山で見た映像ビジョンをそう解説した。

「要はそれが敵の船団か、味方の船団かということですか」

「それによって、吉か凶か、判断が分かれる……」

 桓階と劉巴が火見の話を聞いて、口々に呟いた。司馬懿は、

「私にとって凶兆であるのは確かなようだ。これから降伏を勧めに参るのに、戦の光景が見えるとは、勧告がうまく行かないと言われているようなものだ」

 そう言って、天を仰いだ。日食もこの目で見たことだ。司馬懿はまた慎重になる。

「申し訳ございません」

「火見のせいではない。私の宿命がそういうふうに定められているのだろう」

 司馬懿は火見を気遣って言った。あの日食を自分なりに解釈してみる。

『丞相の中に私がある。それは丞相が私の命運を握っているということだろう』

 司馬懿は曹操を太陽、自らを月にたとえた。それを曹操に囚われていると採るか、曹操に守られていると採るか。

『火見は丞相に仕えることを大吉と占断した。ならば、この先江東で待ち受けている自分の運命は酷いものにはならないと解釈していいのではないか』

 ふと、司馬懿が火見に尋ねてみる。

「倭では、日食をどのように占断するのだ?」

「母が言っていました。日が欠けるのは、凶なる知らせ……」

「やはり、凶か……」

 また司馬懿は天を仰いだ。もう太陽はその姿を隠したことを忘れたかのように、いつものように大地と人々を、船上の司馬懿たちを照らしている。


 江水(長江)に面する江陵に入城した曹操はそこを拠点にして、水軍の訓練を始めた。ぎょうの玄武池で行ったのは基本的な船の扱い方など、あくまでも初歩的な訓練に過ぎない。池と違い、川は流動している。水の動きと風の向きを知り、その強弱と方向、波濤はとうの有無に合わせて船を自在に動かしてこそ、水上戦で真価を発揮できる。

 だが、曹操はそんな高度なところまで求めていなかった。短期間の付け焼き刃的なもので、勝負を決しようとははなから考えていない。ある程度、川の流れに従って船を操舵することができれば、それでいい。何とか水戦にのぞめる程度の体裁ていさいが整えば、それでいいのだ。錬度の低さは物量でカバーすればいい。決戦は陸戦になる。

 江陵の港に建つ望楼。その上から、曹操は膨大な江水の流れにさえぎられ、遠く対岸にかすむ荊南の大地をにらんだ。

 孫権が司馬懿の勧告に応じておとなしく降れば、それも杞憂に終わる。江東が従うなら、残る脅威は劉備のみ。劉備の軍勢は少ない。大軍で攻めれば、今度こそ再起不能に追い込めるだろう。そうなれば、司馬懿の才能はもはや必要ない。

 だが、そうならなかった場合。劉備、あるいは孫権が残ったままで自分が死に追いつかれた場合。戦乱がなおも続く。年長の曹丕に覇業を継がせるとして、その補佐の大任を誰に任せるべきか――――。

『やはり、仲達か……』

 政才、軍才、権謀術数、全てを兼ねそろえているのが、司馬懿である。

 しかし、それだけに恐ろしい。司馬懿は自分とよく似ている。才能も野心も、その思考もだ。万能の男がいつまでも人の下に甘んじていられるだろうか。

 司馬懿は体を動かさず、首を真後ろに向けることができた。〝狼顧ろうこの相〟である。

 司馬懿が自分を恐れているのは知っている。自分が生きているうちは忠誠を尽くすだろうが、自分の死後、奴がどう動くか……。飼い主の自分がいなくなれば、途端に狼の本性を現わすかもしれない……。

 曹操は思う。司馬懿もまた、〝治世の能臣、乱世の奸雄〟だと――――。

 国が安定しているうちは司馬懿もその輔政に才覚を発揮するだろう。

 しかし、国が大きく乱れ、揺れ動いた時、その野心が目を覚ますに違いない。

 戦乱はまだ続いている。それを収められる卓越した能力を買って登用した以上、あえて殺すつもりはないが、この先の命運はもう一人の自分、司馬懿仲達に託してある。

「――――聞き入れぬ場合は、江東に留まり内情を探れ」

 曹操は江東に入った司馬懿なら、窮地におちいった場合でも、機知を働かせてうまく切り抜けるだろうと信じていた。

「父上」

 ふと、この南征に同行している息子の曹植そうしょくが望楼に現れて声をかけ、父の頭の中で行われていたシミュレーションを途絶えさせた。

子建しけんか、どうした?」

「いえ、私も詩想にふけようかと思いまして」

「今、わしが想っていたのは詩ではない。戦のことよ」

「は、そうでしたか……」

 曹植はあざなを子建という。曹丕・曹彰の弟である。曹操の武勇を最も受け継いでいるのが曹彰なら、その文才を最も強く受け継いでいるのが、この曹植だ。

 曹操と同様、曹植も後世に名を残す詩人であるが、まだ十七の少年に過ぎない上、武芸や軍務には全く興味を持たず、従って、このピリピリした戦場の雰囲気を肌で理解することもできない。

 曹操は戦いの中に生きてきた。文字通りの戦場だけでなく、権謀術数が渦巻く政治の舞台もまた戦場だった。曹操はそんな戦いの中で強さを身に付け、生き残る知恵をみがいた。自分の後を継ぐには、それらの才能が必須である。恐らく、自分の死はそう遠くない。

 曹操が息子たちをこの南征に従軍させたのは、それぞれの軍務の素質、軍略の才能を見極めるためである。いや、実際には曹植に限って、それを見極めようとしている。

 曹彰は武芸に優れ、将軍の才能もある。父の気質を引いて、危険な任務にも臆することがない。司馬懿の護衛として江東へ行かせたのも、そんな曹彰の武勇を見込んでのことだ。確かに曹彰は武勇の面では父譲りであったが、肝心の政才がからっきし駄目であった。

 曹丕は曹彰と曹植を足して、二で割ったような才能だ。軍才、政才、文才、どの分野でも高いバランスがとれているが、特に突出したものはない。

 曹沖は才知に神童ぶりを発揮していて期待は高いが、早熟が怖い。ともあれ、まだ十三であり、判断するには早過ぎる。戦というものを見せるために連れてきているだけだ。

 曹植は文才には特に優れているが、武芸はできない。その軍才は未知数だ。

「まるで戦場に似つかわしくないな。鎧甲がいこうまとって兵と共に過ごし、その心をつかむのも、将に必要な心得こころえだぞ」

 曹操はこの戦で一軍を曹植に授けてそれを確かめようとしていたのだが、そんな父の思いをよそに、曹植は相変わらずみやび装束しょうぞくに身を包み、自由気ままに過ごしている。よろいはおろか剣さえ帯びていない。戦を控えながら、緊張感に欠ける。これでは士気を乱しかねない。

老驥ろうき江東をせ、紫髯しぜんを乗せて帰る……。老驥先生を降伏勧告の使者としたと聞きました。鎧を脱いで、美酒でお迎えするのがよいではありませんか。我が兵には江水を臨むよき景観の地を選んで、うたげの準備をさせております。その時の余興として、私も美詩を披露したく思います」

〝紫髯〟とは孫権のことを指す。孫権はひげが赤いので、ちまたではそう呼ばれている。

 ちなみに、曹彰はひげが黄色味がかっているので、〝黄鬚児こうしゅじ〟のあだ名がある。

「まだ江東が降伏するとは限らんぞ」

 授けた兵を宴の準備に使っていると知って、曹操は眉をひそめた。

「たとえ戦になろうと、父上の勝利は決まったようなものです。私に必要なのは、剣でも鎧でもなく、父上を迎える戦勝の詩でございます」

 曹植は優雅さと機知を示したつもりだったが、それは父を失望させる発言であった。

「そうか。では、よい詩を作っておけよ」

「もちろんでございます」

 微かに首を振ってその場を立ち去ろうとする父の背中に、曹植の返事はむなしかった。


 密談を終えた二人を乗せた小舟が江陵の岸に接岸した。徐庶と別れた龐統が港の桟橋を歩いていたところ、ちょうど望楼から下りてきた曹操と出くわした。

 曹操は召し抱えたばかりの龐統に声をかけた。

「これは鳳雛先生。お散歩ですかな?」

「ええ。ぶらぶらしながら、周瑜を破る戦略を考えていました」

「ほう、それは興味深い。少し聞かせてもらえませんか?」

「もちろんです」

 孔明の天下三分の計は龐統も知っている。龐統は立ち止まって、その孔明の遠謀を手助けする一手を曹操に披露した。

「孫権にとって荊南長沙は先代の頃から縁の深い地。特に周瑜は巴丘はきゅうを戦略上の要衝として重視しており、過去に巴丘に進出して、港湾設備を充実させていました。丞相はまずここに一軍を送り、長沙から予章をうかがう姿勢を取るとよろしいでしょう。周瑜も孫権もそれを知れば、悔しがってくちびるを噛むのと同時にふところを突かれるのを恐れて、戦々恐々となるに違いありません」

「おお、それは良い策だ。さすが鳳雛先生。碧眼児へきがんじは先生を召し抱えなかった自らの愚行を大いに悔やむことになるでしょうな」

〝碧眼児〟も孫権のことを言う。孫権は瞳が青みがかっていたという。

 気分をよくした曹操が自身の『短歌行』を江水に向かって軽やかに詠い始めた。

「酒に対してまさに歌うべし。人生幾何いくばくぞ。たとえば朝露のごとし。去りゆく日ははなはだ多し。 がいして当にもっこうすべし。幽思ゆうし忘れ難く、何を以てか憂いを解かん。杜康とこう有るのみ。鳳雛先生、これから酒でも飲みませんか?」

「ええ、喜んで」

 龐統は曹操の誘いに応じながら、孔明がこの動きも察して動いてくれるだろうと信じた。

 その頃、江水を下る船上で、魯粛は曹操の『短歌行』の詩をもう一度口ずさんで、

「月明らかにして星まれに、烏鵲うじゃく南へ飛ぶ……。この〝烏鵲〟はまるで士元を言っているようではないか」

「偶然ですよ」

「だが、こんな詩を詠むくらいだ。曹操が士元を抱えないわけがない」

「ああ、なるほど……確かに、それもそうですね」

 孔明はその詩を聞いて龐統の心に気が付いた。龐統が魯粛に行き先を告げたのは、自分にその情報が伝わるように考えてのことだろう。当然、江東からは裏切り者扱いされる。

 それでも、龐統が曹操の下に行った理由――――それを理解した孔明は合点がてんがいったとばかりしきりに頷くのだった。そして、魯粛の意見にも頷いた。

「でも、烏鵲は三匝さんそうすると言っていますよ」

 答えを得た孔明は冗談半分、また謎かけのように魯粛に言って、返答を困らせた。

 烏鵲はカササギ、そのカササギはどの枝にとまろうか、ぐるぐると樹上を巡っている。匝は巡ることをいう。三匝だから、三度巡るのだ。

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