其之五 湘山の幻影
江夏太守として
それも束の間、孔明は休む間も惜しんで江東行きを願い出た。無論、
「昔、徐州から疎開する旅の途中、ちょうど
孔明が魯粛子敬という人物に出逢ったのは、故郷の徐州を離れて南へ疎開する旅路の最中、魯粛の郷里である
「時は流れたが、君の想像は実現しようとしている。
魯粛が冗談めかしく言いながらも、立派に成長した孔明を改めて見つめた。
蘇秦とは戦国時代の
「まさか。自分でもこのような展開になって驚いていますよ」
孔明が微笑みながら白い
しかし、孔明は自分が大きな運命に導かれてここにいることを自覚していた。
そういう意味では、まだ十四の少年だった自分が何気なく想像したことも、魯粛が言ったように時代を見越していたということになるのかもしれない。
そして、あの時の想像が正しいとするならば、今度の予想も当たるはずだ。
『間もなく
張儀は蘇秦と同学の論客で、合従説に対抗する
「兄が討虜将軍に仕えたのも、子敬殿の存在が大きかったのでしょうね」
ふと、孔明は追憶の
手紙の往来こそあったが、孔明は兄とはもう十年以上会っていない。
「確かにそうかもしれないな。思えば、不思議な縁だ」
「兄は慎重な人間です。その兄が仕えたというのなら、討虜将軍は大層見所がある人物なのでしょうね」
孔明は兄の性格を思い出して、そこから孫権を評価してみた。
「ああ、実に聡明な御方だ。補佐するに足る立派な人物だよ。君が劉予州に引かれたように、私はご主君に引かれた」
「どんな人となりか聞いておきたいのですが」
兄との文通ではお互いの近況を知らせ合うだけで、政治の話はなかった。
孫権の人物評は世論を聞けば耳にすることができたが、それは大概、
「広く学問に通じ、お父上の勇敢さを
「よく人の話を聞き、熟考するということは戦うか降伏するか、まだ決めかねているのでしょうね」
熟考タイプの人間はあれこれ考えてしまうので、答えが出るのに時間がかかる。
その上、人の話を良く聞くことは、場合によっては考えが影響されて揺れがちになる。危急存亡の一大事ともなれば、結論が簡単に落ち着くはずもない。
江東は日々、
「降伏論者が多い。彼らの動きを封じるためにも、荊州との同盟が不可欠なのだ」
魯粛は主戦論者だ。だからこそ、積極的に劉備との同盟を進言し、自らその締結のために荊州に向かった。
『荊州と同じか。主は荊州と違って骨があるようだが……』
孔明は孫権の心情を想像しながら、その人柄を分析した。
『降伏論が圧倒的多数を占める中で一気に降伏に決しないところは、孫権の心の奥に曹操と戦おうという意志が隠れているからだ』
孫権は実は好戦的な人物だ。父・
「気性の方はどうですか? 討逆将軍のように気性が激しかったら、私は殺されてしまうかもしれませんが」
孫策は気に食わない者はすぐに殺してしまう傾向があった。それが
「それはない。似ているところもあるが、抑えが
孫権は父や兄の攻撃的な気質とは異なり、守勢の人物と見られていたが、本質的には父の血を引き、兄の野望を受け継いでいる。
ただ他の群雄たちの争いに積極的に加担せず、江南の安定を図り、地盤固めを優先させてきたに過ぎない。自らをよく抑えて、富国強兵を図ってきた。
孫権の本心は曹操を破り、曹操に代わって覇を唱え、天下を収めることだと孔明は見ている。心の奥にその野望の火が
元々魯粛は劉備との軍事同盟を提言した張本人であり、義侠の生き方に理解を持った人物である。その魯粛の心を劉備サイドに強く引き寄せたことに、孔明は自信を持っていた。
魯粛は当陽から劉備軍と苦難の逃避行を共にした。苦難を共有した者たちが運命共同体として親近感を
「子瑜殿の弟だけあって、君とは大いに気が合いそうだ」
少年時代の孔明を知る魯粛は、自分でも知らないうちに立派に成長した孔明本人の魅力にも引かれていた。
孔明と魯粛が江水を下っている頃、その上流で同じように江水を下る
桓階、
劉巴は
曹操は勝利の先を見据えていた。まだ自身の直接的な支配力が及んでいない荊南諸郡の調略のために、曹操は桓階や劉巴ら荊南出身の家臣数名を送り出していた。
江水は江陵から蛇行を繰り返して南下し、南から北流してきた
他にも
そこに入った彼らを迎えたのは、湖面を吹き渡る強風と荒波の洗礼である。
それはだんだん激しくなって、船は前に進むことさえ難しくなった。それは倭国の一行に中国に渡るための航海で味わった苦難を思い出させた。
「これは海?」
まさに海と
「
火見の問いに地元出身の桓階が答えた。湖の東岸は長沙郡である。
中国の大地はあまりにも広大であるため、内陸の人はほとんど海を知らない。
「この風と霧じゃ、これ以上行くのは無理ですだ。船を岸に付けますんで、風が収まるのを待ちやしょう」
「岸なんてどこにある?」
曹彰が聞いた。が、その答えを待つまでもなく、前方に霧の中に浮かぶ巨大な幻影が見えた。島影だった。ゴツンと船底が岸辺に乗り上げる感触がした。
「ここは?」
「
湘山とは小高い山であり、洞庭湖に浮かぶ島のことである。
洞庭湖は乾季と雨季でその水量が大きく変わる。乾季には湘山は対岸と陸続きになることもあった。その時は島というより、山といった方がしっくりくる。
霧に
「湘山といえば、湘君の
湘君とは古代中国で聖人とされる五帝の一人、
遥か昔、
舜は荊南を巡行中、
湘水は九疑山のある
それからずっと時は下って、秦の時代――――。
天下統一を果たした始皇帝が各地を巡行して、洞庭湖の付近で江水を渡ろうとした。ところが、突然大風が吹き始めて始皇帝は渡河できず、危うく船が転覆しそうになった。湘君の二神は風雨波浪を呼び起こすといわれ、これが湘君の
「……『史記』にそんな話がある」
博識の司馬懿が湘君の伝説を一同に語って聞かせた。
『史記』とは、
司馬遷は
「では、この風もその湘君の仕業なのですか?」
「それは単なる昔の伝説だ。始皇帝は暴君であったが、丞相は違う。偶然、大風が吹いたくらいで丞相の命を放り出すわけにはいかん」
思わぬことに、司馬懿は江東への使者を命じられた。
「――――せっかく来たのだ。お前にふさわしい役目を与えよう。江東へ行き、降伏を勧めて参れ」
曹操は司馬懿に死地へ入るように言った。孫権に降伏を勧告するのだ。
当然、孫権のみならず、それをよしとしない江東諸官の感情を
何も曹操は司馬懿を殺したいわけではない。有能だと知っているからこそ、敵地に入る役目を任せたのだ。その証拠に息子の曹彰をそのままボディーガードに付けた。
曹彰の妻は
曹家と孫家が婚姻関係を結んだのは十年ほど前のことである。当時、北方の袁氏と対立していた曹操は、南の孫氏を懐柔するために、政略結婚で自分の息子の嫁に孫賁の娘を迎えたのだった。孫賁は江東の重鎮であり、
「――――火見、仲達がわしの言葉を伝えて江東を降伏させる。そなたも付いて行って、それを見届けるがよい。倭国の争乱を収めるための良き事例を目にすることになるだろう。何かあれば、その能力で仲達を助けてやってくれ」
しかし、その能力ゆえに司馬懿の江東行きに付き合わされる形になった火見はあらゆることを凶兆と結び付けてしまう。ずっと同行している
「やっぱり不吉だわ。この大風が船を進ませないように吹き付けているのは、この先に良くないことが起きる
「では、事のついでに湘君に今後の幸運を願うことにしてはいかがですか? 長沙では、湘君は水神だと信じられています」
桓階が司馬懿と倭国の一行に提案した。桓階はかつて長沙太守となった孫堅の下にいたので、孫賁を含め江東には旧知の者が多い。その経歴を買われて、長沙郡の調略を行った後に江東に入るように命を受けていた。
長沙の東に隣接するのが予章郡であり、現予章太守が孫賁なのである。
「そうしてみるか」
湘山の伝説に興味を持った司馬懿が桓階の提案に乗って、一言呟いた。
一行が小高い丘のような湘山を登るのに、そう時間はかからなかった。
湘君廟は大きな礼拝堂が一つあるだけの素朴な造りながら、
その下に祭壇があり、祭壇の前に置かれた
「ほぅ、こんな小さな娘さんじゃったか」
老人が振り向いて火見を見た。その言葉に敏感に反応した司馬懿が問う。
「ご老人、どういう意味ですか?」
「いや、今まで感じたことのないような特別な気配を感じましてな。それがいったい誰のものかと思って待っておったのですよ」
その老人の
司馬懿もその老人が
「ご老人はただの
「長く生きておりますとな、何となく分かるんですな。世の中の気の流れというものが」
その老人は年のせいだけでなく、その身に
「お尋ねするが、この風と霧は湘君が起こしておるのでしょうか?」
桓階が先程の難升米の疑問を代弁して聞いた。
「湘君というよりは、これは一種の天の警告でありましょう」
「天の警告?」
「この霧は陰気の集まりでございます。争いばかりをやっておると、世の中に陰気が満ちるんですな。特に戦争なんかすると、人がたくさん死にますでしょう。そうすると、陰気が辺りに充満して、濃霧のようになって目に見えるのですよ」
長坂で戦があったばかりだ。人がたくさん死んだ。
「陰気の様子がただなりませんな。荒々しく高ぶっております。天はそれを大戦の予兆として見せて、そうならないように警告しておるのですよ。戦はいけません」
「私は戦を防ぐためにも江東へ
任務を全うできれば大戦が避けられると思うと、司馬懿は一層責任感を強くした。
「ほう……。あなた様のお生まれは
「
司馬懿が一層
「なるほど。やはり、中央の気を受けた人物でしたか。天下を治め
「何を
「それも良いでしょう。その思い、
「
老人が何やらぶつぶつと呪文なようなものを
「
落ち着いた旋律。老人の言辞は自然と火見を燭台の炎の中に誘った。
三人が跪いて、湘君に拝礼する。長身の男の方が老人と同じ屈原の歌を捧げる。
「
宙に流れるような言の葉の旋律。それは見えないが、天へ地へ、四方へ放たれ、自然の気と融合し、反応を起こす。礼拝堂が暗くなった。いや、辺り全体が暗くなった感じだ。
「何だ?」
「私が見て来ます」
難升米の疑問に爺禾支が病気の体をおして、外の様子を見に行った。
それは火見には見えていない。火見は幻影を見ている。違う世界を覗いている。
火見が見る
今、老人の前にあるものと同じ馬のような動物を
「
老人の前にあった鼎から煙のようなものが湧き上がってきた。
火見が見る
「
が、そこで老人の言辞が途切れると、火見の幻想もぷつんと途切れた。
「あなた様にこれを差し上げましょう……」
老人は言うと、祭壇に設えられていた鼎の中に手を差し込んだ。そして、立ちのぼる黄色い煙を両手で
「これはいったい何の
「まじないでございますよ。この鼎は
老人が神器というその鼎は馬のような形をしており、三脚がそれぞれ馬脚のデザインとなっている。突き出た頭の部分には二本の角を生やしていて、目には黄金が
老人の詠んだ屈原の詩は『
屈原とは戦国時代末期の
屈原は放浪の最中、有名な『
『楚辞』とは、屈原の詩賦を集めた詩集のことだが、声を高らかに詠う詩歌のスタイルをいう。「辞」とは
つまり、
それらを知る司馬懿であったが、老人の言葉を素直に信じられず、礼を言わなかった。しかし、老人は気にする様子もない。爺禾支が戻ってきて変事を告げた。
「日が欠けています!」
「何だと?」
「先ほど言いました通り、大戦を戒める天の警告でございますよ。戦はいけません」
司馬懿は外に走って出て、それを自分の目で確かめた。
「さて、気になっていた気配が
用を済ませ、老人が霊廟を去ろうとした時だ。爺禾支が火見の様子がおかしいのに気付いた。体が小刻みに震えている。
「……どうした、火見?」
火見は返事をしない。視線は
「おい、火見、どうしたんだ?」
爺禾支が火見の肩を揺すった。不意に現実に引き戻されて我に返った火見は、
「え、ああ……」
おもむろに顔を覆ってしゃがみ込んだ。難升米が心配して、火見の肩を抱き抱えるようにして聞いた。
「また何か見えたのか?」
「ええ。見えたけど……今までにないような感覚だったわ。まるでその場にいたみたい。……うまく説明するのは難しいわ」
火見は苦しそうに顔を
「それでもいい。ゆっくり頭を整理した後で聞かせてくれ。火見の予見は我等の命運を左右する大事な知らせだ」
難升米は火見を
整理するまでもなく、あれは凶兆であることは明らかだった。それをまさに身をもって知っただけに、火見はこの先に待ち構える運命が
「ここは陰気が濃くなっておる。呑み込まれないよう気を付けなされよ。もし、万が一、陰気に呑み込まれて道に迷った時はまたここを訪れなされ」
言われた火見の方は意味が分からずに、きょとんとして老人を見送った。
司馬懿と火見たちが見送る中で老人は濃霧の中に
「火見は落ち着いたか?」
司馬懿が火見の様子を心配して、難升米に聞いた。
「はい。霊感体質が過剰に感応したようで、まだ少し混乱していますが、大分落ち着いてきました」
「そうか。あの老人が言ったように、ここは本当に気が濃くなっているようだ。早く立ち去った方がよいな。外の霧と風はどうなったか?」
「私が見て参りましょう」
無口な性格らしく、ほとんど言葉を発しなかった劉巴が静かに立ち上がって、外の様子を見に行った。司馬懿はもう一度火見に目をやって、その様子を気にかけた。神聖な空気に包まれ、爺禾支に介抱されて、火見はかなり落ち着きを取り戻している。すぐに戻ってきた劉巴の顔に驚きの様子はなかったが、
「驚きました。風が止んで、霧も晴れています」
そんな表情とは真逆の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます