其之四 長坂坡

  逃げ惑う民衆が戦乱に巻き込まれて次々と倒れていく。劉備りゅうびに従って疎開そかいしようとしていた襄陽じょうようの民衆たちだ。老若男女ろうにゃくなんにょ、その数は十万を超える。それらが家財道具をせた荷車にぐるまを押しながら、でこぼこした悪路を移動しているのである。

 劉備はこれらの民衆を守るように兵を進めたので、その行軍は遅々ちちたるもので、まだ江陵こうりょうへの道程の半分しか来ていない当陽とうようというところで曹操そうそう軍に捕捉された。

 曹操の騎兵隊の一部には荊州の、つまり、元劉表りゅうひょう配下の将兵たちが含まれている。劉備追撃で武功を挙げて、曹操に名を売ろうとする者たちだ。道に詳しいだけに、先頭に立って劉備軍を追撃してきたはいいが、欲に駆られた彼らは付き従う民衆にまで武器を向けて略奪を始めた。道を踏み外したそれらの兵士たちが血飛沫しぶきを上げて大地を転がった。

「民に手をかけるとは、外道げどうめ!」

 その男、憤怒ふんぬの表情の趙雲ちょううんは吐き捨てながら言った。

 趙雲、あざな子龍しりゅう常山じょうざん真定しんていの人で、劉備軍が誇る一騎当千の猛将である。

 趙雲は脱輪して止まっていた劉備夫人の馬車を見つけた。

 御者ぎょしゃらしい男が傍に倒れていて、趙雲はも知れぬ不安に駆られた。

「奥方様!」

 中を覗いたが、車内には誰もいなかった。奥方というのは劉備の妻、夫人とかん夫人のことだ。劉備の嫡子ちゃくしである阿斗あとも一緒に乗っていたはずだった。

 趙雲は劉備夫人を乗せた馬車が一向に見えないのをいぶかしんで、ただ一騎、道を逆走して行方ゆくえを探していたのだった。

「奥方様を見なかったか?」

 助けたばかりの農夫に趙雲が声をかける。

「兵隊さまが連れて行きました」

「どっちだ?」

「あちらです」

「何?」

 その農夫が指差したのは、江陵とは反対の方向である。

「この先に張飛ちょうひ将軍がいる。お前たちは急いで行って、奥方様が連れ去られたと伝えよ」

「は、はい」

 その農夫が立ち上がって走って行った。それを見届けた趙雲は槍を脇に抱え、馬に乗り、また道を逆走して行った。

 趙雲は単騎である。曹操軍の兵士たちが脇をすり抜けていくが、意外と敵だとは気付かれない。もちろん、単騎で敵軍の中を突破しようとするそんな無謀な者がいるなど想像もつかないから、曹操軍の兵士たちも趙雲を見過ごして通り過ぎていった。

「劉備夫人はどこだ?」

 逆になりふり構わぬ趙雲は敵兵に情報を求めた。

「ああ、この先です。荷車で運ばれています」

「荷車だと?」

 それを聞いた趙雲は聞くやいなや、飛ぶように駆けていった。

 この辺りは長坂ちょうはんと呼ばれる。その通り、緩やかな坂がずっと続いている。その坂を駆け下りながら、趙雲はその先に劉備夫人が載せられた荷車を発見した。

「そこの荷車、待て!」

 趙雲の声を聞いた曹操軍の将軍が慌てた。

「まずい、あれは趙雲だ」

 劉備夫人を生け捕ったのは、劉表に仕えていた蔡和さいか蔡中さいちゅうという二人である。

 劉備を襄陽から追いやった蔡瑁さいぼうの甥だ。二人は襄陽を訪れる時は常に劉備の護衛として同行していた趙雲を見知っていた。だが、その武勇を直接目にしたことはない。

「奴を殺せ!」

 蔡和・蔡中の命令で三十騎の荊州兵が趙雲に向かっていったが、全く相手にならなかった。あっという間に全員が槍で突き殺され、叩き落とされ、趙雲が肉薄した。

「せっかくの戦利品を奪い返されてたまるか!」

 劉備夫人を戦利品と口走った蔡和の失言は趙雲の怒りを買った。二人は無謀にも槍を片手に立ち向かっていったが、

「無礼者め!」

 趙雲の疾風しっぷうの如き槍さばきに胸を貫かれて、あえない最期を遂げた。次の瞬間、趙雲は驚嘆した。劉備夫人を連れ去ろうとした狼藉者ろうぜきものたちを排除したはいいが、車を抑えていた者たちを失ったことで、荷車は夫人たちを乗せたまま、無防備に坂を下り始めたのだ。夫人たちの悲鳴が聞こえる。

「しまった!」

 趙雲は急いでそれを追いかけた。荷車は悪路に激しくバウンドし、夫人たちは悲鳴を上げながらも、投げ出されないように懸命に車にしがみついていた。

 趙雲が槍を放り投げる。それは車輪の間を貫いて、坂道の土手に鋭く突き刺さった。

「きゃああっ!」

 趙雲の槍は何とか転げ落ちる車を道の中腹に繋ぎ止めたが、片側の車輪が土手に乗り上げる形になって、勢いで夫人たちは荷車の上から放り出された。

 そして、もう一つ。宙を飛ぶ小さな影。

「とあっ!」

 趙雲は馬の背からジャンプして、羽織っていたマントでその小さな体を空中で受け止めると、それを胸の中に柔らかく抱えて、華麗に着地した。同時に胸の中の嬰児えいじの安否を確かめる。

「阿斗様!」

 阿斗が何事もなかったかのようにすやすやと眠っているのを見て、趙雲は安堵した。趙雲はマントをつかみ取って、そのまま阿斗の小さな体を包み込んだ。

 投げ出された夫人たちは無事であったが、麋夫人の方はわき腹に重傷を負っていた。着物が血でにじんでいる。

「この傷は?」

 趙雲は自分のせいかと一瞬動揺したが、

「姉上は敵兵に襲われたのです」

 甘夫人がよろよろと歩み寄ってきて、真相を告げた。

「すぐに兄上のもとへお連れします。どうぞ馬にお乗りください」

 趙雲は甘夫人に自分の乗馬を勧めた。

「姉上はどうするのです?」

「ご心配なく。私がこの荷車で運びます」

「……それは……無茶です」

 趙雲の計画に首を振ったのは麋夫人だった。

「議論している暇はありません。御免!」

 趙雲は強引に甘夫人を馬に押し上げると、槍で馬の尻を引っぱたいた。馬が驚いて、猛然と走り出す。一方で、趙雲は重傷の麋夫人を抱えて荷車の荷台に乗せ、阿斗をくるんだマントを体に結び付けると、自ら車を引こうとした。

 しかし、趙雲を敵と認めた曹操軍の兵士たちが取り囲んでそれをさせなかった。

「邪魔をするな!」

 趙雲は荷車の後部に槍を突き立てて、ストッパー代わりにすると、素手で敵兵に立ち向かった。敵の騎兵が槍を突き出したところを摑んで落馬させると、槍と同時に馬を奪う。すると、趙雲は取り囲む敵兵を次々と突き殺していった。荷車に近付いた敵兵に対しては、手にした槍を再び放り投げ、それを串刺しにした。そして、また敵の槍を奪い、敵兵を突き殺す。

 獅子奮迅ししふんじんの趙雲を囲む敵兵は優に百を超える。しかも、刻一刻と後続が追いついてくる。

「どりゃあ!」

 その囲みの一角が豪快に開いた。孤軍奮闘する趙雲のもとに現れた力強い援軍。

 張飛、あざな翼徳よくとく。虎のような勇猛さと熊のような堂々たる体躯たいくの劉備の義弟。

 張飛は力自慢の五人の兵を連れて来た。

「話は聞いた。子龍、姉上を運べ。敵は俺が引き受けた!」

 そう言うと、張飛が猛然と敵中に突入した。張飛が連れて来た兵士たちが荷車を引く。趙雲はそれを護衛するようにして、敵兵を一人たりとも寄せ付けない。

「この糞野郎どもめ、この張飛を相手に死ぬ覚悟はできてんだろうな!」

 張飛が虎鬚とらひげを震わせて叫ぶ。まさに猛獣だ。張飛の豪勇は趙雲のものとは質が違う。全てをぎ倒すかのような圧倒的な武勇に加え、雷のような大声が敵の心胆を震え上がらせる。張飛がいとも簡単に十数人を突き殺すと、敵兵は恐れおののいて、それ以上手を出さなくなった。

 張飛は一にらみして敵兵をその場に凍りつかせると、堂々と退却を始めた。

 長坂の丘の下には南漳水なんしょうすいが流れていて、小さな橋が架かっていた。長坂橋ちょうはんきょうという。劉備軍の殿軍しんがりを務めていた張飛はここに殿軍を待機させて、追撃してくる曹操軍を今や遅しと待った。

 橋の上には張飛一騎。そこに曹操軍の本隊が合流して大挙して押し寄せた。

「へっへへ、大軍だな」

 張飛は全く動じない。むしろ、敵の多さに笑みさえ浮かべる。

「俺は燕人えんひと・張飛だ。死にたい奴はかかってこい!」

 天をとどろかす大音声だいおんじょう。その言葉はまるで雷鳴のように空気をびりびりと震わせて辺り一面に伝播でんぱした。万丈ばんじょうの覇気を受け、曹操軍の騎馬が一様にビクッと体を硬直させて、急停止した。何人もの兵士たちが落馬する。一気に追撃の気運が削がれる。曹操軍に戦慄と動揺が走る。

「こけおどしが!」

 無謀な一人が張飛に立ち向かったが、あえなく張飛の蛇矛だぼう餌食えじきとなった。蛇のようにうねった矛先がその男の胸にみ付いて、吐き出された肉体が血飛沫と共に派手に宙を舞い、川へ落ちて大きな水飛沫を上げた。

「次はどいつだ?」

 張飛が豪語して、敵軍を見渡した。だが、余りの強さをの当たりにして、誰も続こうとしない。恐怖に支配されて、黙し、固まるだけだ。睨みつける張飛の視線の先にふと、赤い直垂ひたたれの男が捉えられた。

 忘れるはずがない、鋭い目つきのあの顔は――――。

「曹操!」

 鬼の形相ぎょうそうに変わった張飛が馬の腹を蹴り、蛇矛を突き出して猪突猛進してきた。

 曹操を守る近衛兵たちがそれを防ごうと道をふさごうとこころみる。

 しかし、張飛が突進するその先では、兵たちはいとも容易たやすく突き殺されるか、蛇矛に弾き飛ばされて落馬するか、あるいは、迫り来る張飛の迫力に恐慌をきたして逃げ出すか。その人の能力を凌駕りょうがしたような鬼神の如き強さを恐れて、軍が真っ二つに割れていく。まるで大地が裂けるようである。

玄徳げんとくめ、殿軍に一万の兵を残しておったか」

 曹操が思わずうなった。万人の敵――――一人で一万人の兵を相手にすることができる。かつて郭嘉かくかが劉備の義弟であり、驍将ぎょうしょうである関羽かんうと張飛を評した言葉である。

「たかが一人、恐れることはありません。この私が奴を討ち取ってみせましょう」

 そう豪語したのは曹操のボディーガードを務める、許褚きょちょあざな仲康ちゅうこうという巨漢の男だ。曹操と同郷のはいしょう県の出身で、膂力りょりょくが並はずれているが、普段はおっとりした性格であるので、〝虎癡こち〟というあだ名がある。

 強敵を前に虎の野性的本能が目覚める。許褚がゆっくりと馬で進み出て、無人の野を行くような張飛の前に立ちはだかった。

「何だ、てめぇは! どきやがれ!」

 張飛が無謀な敵に罵声を浴びせかけながら、はげしく蛇矛を突き出した。

「ぬんっ!」

 許褚はそれを長刀で豪快に弾いて、逆に張飛に斬りかかった。

「何ィ!」

 張飛は自分の一撃がかわされたことに驚きながらも、こちらも許褚の長刀の重い一閃を弾き返して、手強てごわい邪魔者の登場に一層鼻息を荒くした。

 それから張飛と許褚の壮絶な一騎討ちが始まった。兵たちはそのすさまじい迫力に息を呑んだ。激しい打ち合いが数十合も続き、互いのかけ声と武器と武器がぶつかる金属音が辺りに響く。そこだけ隔絶された別世界のようだ。

「見ろ。林に伏兵を潜ませている」

 冷静沈着な曹操は川の向こうの林から滲み出る殺気を感じ取って言った。

「劉備は張飛に時間を稼がせる気だ。子和しわ虎豹騎こひょうきを率いて迂回うかい路を行け。劉備軍は無視していい。先に江陵へ入れ」

 曹操はそれを見て、騎兵隊の中でも一番の精鋭に進撃を命じた。

「はっ」

 曹純そうじゅんが号令をかけ、駿馬と精鋭揃いの騎兵隊〝虎豹騎〟を率いて進撃を開始した。曹純はあざなを子和、曹操の一族で、曹仁の弟である。

 張飛は怒濤どとうの勢いでしばらく曹操軍の足止めに成功していたが、虎豹騎が川の上流方向へ移動し始めたのを見て、唾を飛ばし、激しく毒付いた。

「畜生、どこ行きやがる!」

 考えることはあまり得意でない張飛にも、それが迂回しようとしての行動だと察しがついた。背後に回られては意味がない。何しろ、殿軍は僅か二十騎なのだ。

 張飛は一騎討ちを中断して、撤退を決めた。馬首を返して橋に駆け戻る。

「突っ込んできたくせに逃げるのか!」

 背後から許褚が罵声を浴びせた。

「うるせぇ、また今度だ!」

 橋に戻った張飛が直下に渾身こんしんの一撃を叩き込むと、丸太を結び止めていただけの小さな橋はいとも容易く分断された。橋を落としてしまえば、さらに時間を稼げる。

 まだ暴れ足りない張飛であったが、兄の一行を追うために再び馬首を返して林の向こうに消えていった。

 その前方、五里(約二キロメートル)――――。

 当陽の南郊を逃げ進んでいた劉備の前に突然、予期せぬ訪問者が現れた。

「失礼ながら、劉皇叔でございますか?」

「そうだが」

「ああ、お会いできてよかった。私は江東に仕える魯粛ろしゅくと申します」

 そう名乗った文官風の男が馬を下りて拱手の礼を取った。

 魯粛、あざな子敬しけい下邳かひ東城とうじょうの人で、孫権そんけんに重用されている壮年の文官である。孫権とは江東に威を張る群雄の一人だ。その魯粛が劉備を「皇叔こうしゅく」と呼ぶのは、敬意を表してというよりはおべっかの意味合いが強い。

「江東の者がどうしてこんなところにいる?」

「私は主君・孫権の名代みょうだいとして、劉荊州の弔問のために襄陽へ向かうところでした。皇叔、これからどこへ向かわれるおつもりですか?」

 魯粛の唐突な問い。劉備が率直に答える。

「江陵だ」

僭越せんえつながら、申し上げます。曹操が目指すのもまた江陵でしょう。皇叔が江陵に入ったとしても、孤立したまま曹操の大軍を迎え撃たねばならなくなります。それでは余りにも分が悪い。江東は江水の天険に恵まれ、物資も豊富。強兵は十万を誇ります。我があるじ・孫権は聡明誠実にて、広く賢者を求めています。いかがですか、江東に身を寄せては?」

 魯粛は的確に状況を分析して、柔らかな口調で整然と述べた。

「その申し出は嬉しい限りだが、江東は遠すぎる。見ての通り、私を慕って付いてきている民は疲れ果てており、とても江東まで連れて行けない」

 劉備は慈愛の目で自分に付き従う民を見渡した。

 劉備軍には襄陽の民たち数万が随行していた。劉備が江陵に向かうと知って、急ぎ家財をまとめ、着の身着のままで従っているのだ。

 曹操の支配を恐れ、劉備を慕ってのことではあるが、孔明は民を随行させることには反対した。しかし、劉備は民を見捨てられないと言って、あえて苦難の道を選んだのである。

「さすがにこれだけの民を共に連れていくのは無理でしょうが、皇叔の軍だけなら……」

「民を見捨てることはできない」

 劉備がきっぱりと言った。魯粛が粘る。

「皇叔が目指しているのは曹操に捕らわれている陛下をお助けし、漢室を復興することではないのですか? 曹操を倒し、大業を成すためには我が主君、孫討虜とうりょと力を合わせるのが一番良い方法です。民を守るその決意は結構ですが、今は小義を捨て、大義をとるべきではありませんか」

 江東を慰撫いぶしようとした曹操の上奏によるものであるが、孫権は討虜将軍という官職を与えられている。

「言いたいことは分かるが、民をてる者に天は味方すまい」

 簡単に説得できると思っていたのに、魯粛は思惑が外れて、言葉を失った。

 単純な論理、明らかな道理ではないか。この期に及んで、なぜ劉備はそれを承知しないのだ? 理解に苦しむ魯粛は更なる言葉を探さねばならなくなって、内心あせった。

 魯粛の考慮に欠けているのは、感情というものは単純に割り切れるものではないということだ。特に劉備は小さくとも、義にこだわる性格である。拘るが余り、常人には理解できないような判断をする。劉備はそのために何度も雄飛の機会を逃し、しなくてもいいはずの苦労をしてきた。つい何日か前も襄陽攻略のチャンスを棒に振ったばかりである。しかし、それがまた彼の魅力なのである。

 二人の傍らで様子を見ていた孔明が口を挟む。

「魯粛殿、諸葛しょかつ孔明こうめいです。危急の時ゆえ、馬上にて失礼」

「おお、子瑜しゆ殿の弟御おとうとごか。立派になったものだ」

 魯粛が馬上の孔明を見上げて言った。二人は十数年前に一度出会っている。

 孔明がまだ少年の頃、徐州から江南へ避難する最中のことであった。孔明の兄の諸葛瑾しょかつきんあざな子瑜は孔明らと別れて江東に移住し、孫権に出仕していた。

「今は昔話をしている時ではありません」

「うむ、そうだった。そなたなら、私の言を理解できるであろう」

 感傷から一転、魯粛は真顔になって孔明に理解と後押しを求めた。

 対する孔明は魯粛の考えに理解を示す一方で、アドバイスを送る。

「魯粛殿、我が君を説くには信義がなくてはなりません。信義なき言葉は我が君の心には響かぬのです」

「信義ある言葉のつもりだが」

 思わぬ孔明の言葉の冷たさに魯粛は憮然ぶぜんとして言った。

「そうでしょうか? 弔問とは表向き、真の目的は我等の実情を探るためではないですか?」

 涼しげに言う孔明は魯粛の目的を事前から分かっていた風である。

「実情?」

 劉備が孔明に聞いた。

「はい。江東も荊州の次に狙われるのが自分たちであることは百も承知のはず。のどから手が出るほどに味方を欲しています。ですが、孫討虜は江夏を攻めたばかり。そのことを気にして、弔問を口実にして様子を探りにきたのです」

 建安十三(二〇八)年春、孫権は父のかたきである劉表配下、江夏太守の黄祖こうそを攻めて、これを殺した。曹操南下の直前のことである。

「その通りでございます。しかし、皇叔と力を合わせ、曹操に対抗しようという意志は本意にございます」

 孔明にあっさりと真意を突かれて、魯粛はまた焦った。必死に弁解を試みると、当の孔明がそれを擁護して言った。

「その通りでしょう。つまり、魯粛殿が言いたいのは、江東だけの兵力では曹操に対抗し得ないので、我が方との共闘を望んでいる。そのためにも我が軍にここで壊滅されては困るということです。我が軍の勝敗如何いかんは江東の命運をも左右するのです。魯粛殿はそれを伝えるために危険を冒して我々のもとにやってきたのです」

「……いかにも」

 いとも簡単に腹を見透かされて、魯粛はそう絞り出すのが精一杯だった。

 魯粛は自ら劉備説得を孫権に申し出てやってきたのだ。簡単に説き伏せられると思っていた。それなのに、劉備は首を縦に振らない。魯粛の代わりに孔明が決断を迫った。

「曹操の追撃が迫っています。江陵は諦めましょう」

「江陵を諦めてどうするのだ? 江東に向かうのか?」

 劉備は孫権に身を寄せることには気乗りしなかった。できれば、したくない。

 これまで、曹操・袁紹えんしょう・劉表と身を寄せてきたが、それぞれ厚遇される一方で警戒され、自由を奪われてきた。劉備はそんな中で相手に気を使い、随分気苦労してきたのである。

 孔明はそんな劉備の気持ちをよく分かっていた。そして、劉備の性格も熟知している。なので、此度のチャンスを逃させまいと言葉を選ぶ。

「いいえ。東に向かい、夏口かこう君を頼ります」

 劉表の長子・劉琦りゅうきは殺された黄祖の後任として、江夏太守となって赴任していた。

 漢水と江水(長江)が合流する夏口に一万程の兵を擁して駐屯しているのだ。

「民は……」

 劉備の言わんとするところを理解する孔明は、劉備に逡巡しゅんじゅんするいとまを与えないよう言う。

「民は江陵に向かわせます。曹操に一時預けるのです。徐州の時とは違います。此の度は曹操も無抵抗の民を無闇に殺しはしないでしょう。むしろ、我が軍と行動を共にした方が戦禍に巻き込んで、被害を増大させてしまいます」

 曹操という人物は戦をよく心得ている。劉備軍を物資の蓄えられた江陵へ入れさせないために、きっと軽騎兵で急追してくる。行軍が遅くなれば、江陵に辿りつけないばかりか、途中で捕捉されて壊滅してしまいかねない。

 孔明が頭の中に用意している軍略は単純なものではないし、不都合が生じた時のための代替案は常に考えてある。当然、江陵を放棄する場合の算段もできている。

『十万の民が江陵に入れば、それだけ食糧を消費してくれる』

 民を生かしつつ、曹操軍を悩ませる――――この真意を劉備に告げるのは伏せた。それを知ってか知らずか、劉備は、

「分かった。預けるのだな。民にはいつか江陵で再会しようと約しておこう。一応、曹操にもよろしく言っておこうか。曹操が民を殺すことはないだろうが、念のために……」

 それがどういうことか孔明にも分からなかった。

 敵対しているにもかかわらず、どうやら、劉備と曹操の間には孔明にも分からないような一種の信頼関係があるらしかった。


 劉備軍は当陽から東へ進路を変えて、南流する漢水へ向かった。

 涼州の騎馬隊が追撃してきたが、不要な荷駄で街道をふさぎ、張飛がそれを率いる馬超ばちょういどみかかって、劉備らが逃げる時間を稼いだ。

 敗走を重ねる劉備軍は多数の被害を出しながらも漢水の岸辺に達し、襄陽の軍船を率いて待機していた関羽と合流した。孔明は諸事情から最初から江陵に入るのは難しいと見て、あらかじめ関羽に合流ポイントを指示しておいたのだ。

 何とか曹操軍の追撃をかわした劉備軍であったが、多くを失い、江陵にも落ち着くことができず、その悲惨な現実は将兵皆を意気消沈させた。一番応えたのは麋夫人の死である。

 趙雲は行方不明になっていた甘夫人と阿斗を救出してきてくれたが、重傷を負った麋夫人は満足に動くこともできず、自ら井戸に身を投げて果てたのだという。

「申し訳ございません。少し目を放した間に……」

「……そうか。こんな私に嫁いだばかりに……」

 劉備も言葉を詰まらせた。麋竺びじく麋芳びほうは涙を流している。

 東海国県の人、麋竺、あざな子仲しちゅう。麋芳、あざな子方しほう。二人は麋夫人の兄である。劉備が徐州ぼくとなった時からの家臣で、苦労を共にしてきた。

「子龍、すまなかった。私のためにこんな傷だらけにさせてしまって……」

 劉備がひざまずく趙雲の手を取って、その苦労をねぎらうように優しく声をかけた。

 庶民出の劉備が他の君主と大きく違うのは、このように情に厚いところである。

 それが家臣や民の心をき付けるのだ。

「いえ、兄上のためなら……」

 趙雲が涙声で答えた。趙雲も劉備にれ込んで臣従を誓った。劉備が徐州牧になる前のことなので、もう二十年近く前のことだ。その関係はただの主従関係ではなく、関羽や張飛と同じような義兄弟の間柄だ。劉備は趙雲を末弟のように思い、趙雲も劉備を兄と呼ぶ。

 そんな情景を切り裂くように敵が現れた。張飛と互角に渡り合った強敵。

西涼せいりょう錦馬超きんばちょう見参けんざん! 劉備はどこだ?」

「しつこい野郎だ。すかしやがって!」

 張飛が馬超の声を聞いて、再び目をき、虎髭とらひげを震わせた。

「兄上、曹操の追手がやってきました。私が迎え撃ちましょう。行って姉上の無念を少しでも晴らして参ります」

 何もできなかった無念を押し殺し、寡黙かもくに徹していた関羽が曹操軍の襲来を聞いて、こらえきれずに言った。劉備は黙したまま、関羽の進言にうつむいた。

 落ち延びた将兵たち全員が船に乗り込むために、いくらか時を稼がなければならない。それにやられ続けて終わるのはしゃくだ。

「俺も行くぜ。あだ討ちだ」

 激戦続きだというのに、微塵みじんも疲れを見せない張飛が賛同して続いた。

 孔明はそれを見送った。発奮した二人を合わせると、これは二万の兵力に等しい。

『不運であっただけだ。我が軍は決して弱くはない……』

 追撃してきた曹操軍はそれを思い知ることになるだろう。

 傷心の麋竺・麋芳は悲しみに暮れながらも、傷付いた兵士らを船に乗り込ませていた。これら兵士の中にも敗戦と流浪るろう続きの劉備を見限らずにずっと従ってきた者が多い。

きょうの心。義理人情で固く結ばれたこの紐帯ちゅうたいが不屈の強さを生み出す……』

 関羽・張飛に率いられた精鋭兵は数で劣りながらも、涼州騎馬隊を食い止めて、完璧な防壁となっていた。劉備陣営に身を投じたばかりの孔明はその戦況を見つめながら、冷静に自軍の強みを分析していた。

『歳寒くして、しかる後に松柏しょうはくしぼむにおくるるを知る……』

 それは『論語』の中の言葉だ。寒く厳しい季節が来てはじめて松やかしわが散らずに残ることがわかる。同じように、危機に際してはじめて誰が真に力を持っているかがわかる。

 劉備は何度負けても、何故か潰れない。それどころか何かと他人の援助を得て、また立ち上がる。その要因はひとえに劉備という人物が持つ人徳にある。

 義侠心。義理人情……。目に見えないその力は人を集め、引力のように引き付けて結び付ける。劉備に従う者たちは知らず知らずそんな魅力に触れ、感化されて集まっているのだ。それは自分もそうだと孔明は自覚している。

 習禎しゅうていもいる。馬良ばりょうもいる。劉表に仕えていた伊籍、向朗しょうろう陳震ちんしん霍峻かくしゅんといった者たちも劉琮りゅうそうには従わずに劉備に付いてきた。劉表の長子の劉琦もそうだ。

 彼は弟とその取り巻きに家督を奪われた哀れな人物であるが、今では劉備を叔父上と呼んで頼りにしている。江夏郡に兵を帯びて駐屯している劉琦はこちらにとっても頼りになる存在だ。そして、その向こう。

『この魯粛も我が君の引力に引かれるだろう……』

 押し黙った魯粛は上辺を飾った自分の言葉に信義が足りなかったことを自覚して、自分を恥じていた。孔明はそんな魯粛の人柄を見て思う。

「君の兄上に言われていた。弟に会うことがあったら、どんな人物になったかよく見て教えてほしいと……。帰ったら、全てを見越せるとんでもない人物になっていたと伝えなければならないな……」

 当陽での会見以来、口数の少なくなっていた魯粛が孔明に言った。

「魯粛殿。私だけでなく、よく見ておいてください。我が軍の強さを」

 孔明はその時、兄の顔を一瞬思い浮かべただけで、まずは目の前の魯粛を引き寄せることを優先させた。


 当陽に到着した曹操は劉備が東行して逃げたと聞いて、

「また生き延びたか」

 そう言って、満足そうな笑みを浮かべた。涼州の騎馬隊を追撃隊として送ってはみたが、江陵奪取が本命である。本気で劉備軍を壊滅に追い込むだけの戦力ではない。劉備は土壇場どたんばのところで必ず正しい選択をする。この場面で判断を誤って江陵に向かっていたら、曹操軍に呑み込まれて一巻の終わりだったろう。

 そこが劉備という男の何とも面白いところだ。

『奴も天に愛されておるな……』

 天に選ばれたと自覚する曹操にはそれが分かる。

「丞相、兵がこんなものを見つけたそうです。街道の木の枝に結び付けられていたとか」

 許褚が一枚の布切れを持ってきた。それは劉備が残した曹操へのメッセージである。

 ――――左将軍より漢丞相へ。漢の民と皇帝陛下をよろしく――――

 劉備に従って南行した民たちの保護と皇帝の面倒を曹操に託した内容である。

 曹操にとっては、大きなお荷物を押しつけられたようなものだ。

 だが、漢の丞相を名乗る以上はこれを放り出すわけにはいかない。

「ははは、玄徳め」

 それを見た曹操が思わず声を上げて笑い、劉備の置き手紙を放って火にくべた ――――火見はそんな光景を見た。

「何だか嬉しそう」

 戦火で焼けた民家の一部がまだ燃えていた。火見は屈んだままその炎を見つめて言った。そして、焼け跡をほじくりながら、映像ビジョンの中で曹操が捨てたものを探した。

「勝ち戦だからな。父上も上機嫌だろう」

 丞相が笑っていると聞いて、曹丕そうひは当然のように答えた。

 曹丕は火見が勝利の未来を見たのだと思っていた。司馬懿しばいは火見が何かを拾い上げるのを見て聞いた。

「何をしている?」

「これです。丞相が見たのは」

 火見が差し出したのは、焼け残った布切れの一部である。司馬懿はそれを受け取ったが、ただのゴミにしか見えなかった。それにしるされてあった曹操と劉備の関係性を表す根拠はすでに消失して灰になっていた。

 司馬懿は当然それを知るよしもないが、ハッとして聞いた。

 つまりはこういうことだ。

「……過去の光景も見えるのか?」

「少しだけなら」

 火見は短く答えた。遠くない過去の光景。司馬懿はここに来てはじめて知った。

 火見には未来だけではなく、過去を見る能力もあるのだと――――。


 江陵に入城した曹操は当面の目標であった軍船と武器食糧を確保して、ようやく軍をいこわせることにした。一方で、早速水軍の都督ととくに蔡瑁を、副都督に張允ちょういんを任命して調練に当たらせた。二人は劉表時代から荊州水軍の司令官であった。

 もちろん、この調練は江東水軍との実戦を想定したものである。曹操は江水の岸辺からそれを観察した。

 江東軍の軍事拠点は柴桑さいそうというところである。江水は大きく蛇行しているので、川を下る場合、風向きにもよるが、江陵からは数日を要す。陸路を取ることも考えてはいるが、江水の沿岸部は湿原と湖沼こしょう地帯が広がっていて、大軍が進むのは難しい。内陸部はほとんど開発されていないので、細い街道を進み、場合によっては鬱蒼うっそうと茂った森と原野の中を切り開いて進まなければならない。物資の輸送を考えれば、やはり、水路を採るのが妥当だ。

 上流から流れ下った勢いで、江東の水軍を緒戦にて破る。そして、柴桑の北から上陸し、精強の陸軍で一気に孫権軍を壊滅させる――――。

 水軍の扱いに慣れた彼らが降伏してきたことは曹操にとって、大きなプラス要素であった。ぎょうの玄武湖で水軍の訓練をしたものの、それは取って付けたようなものでしかない。

 曹操軍は陸軍である。大軍ではあるが、ほとんどが水戦を経験したことがない北方の兵士たちである。しかし、荊州の水軍と武将を丸ごと手に入れ、唯一の不安材料も解消されたわけだ。曹操の視線はいつしか江水の滔々とうとうたる流れに注がれている。

「去りし日ははなはだ多し。たとえば江水のごとし。人生幾何いくばくぞ。譬えば朝露あさつゆの如し……」

 さわやかに詩賦しふの風が吹き始める。それは曹操の頭の中で行われる詩賦の調練のようなものだ。しかし、それはどこか悲風をはらんでいる。自分の人生に残された日々が決して多くないことを曹操は感じている。少々無理をしてでも、急がなければならない。

 そうこうしているうちに後続の軍が続々と合流し、それに従って司馬懿と火見らも江陵に到着した。火見ら倭国の者たちを伴って司馬懿が到着したと聞いた曹操はいったい何事かと思って、すぐに司馬懿を呼び付けた。

「丞相、司馬懿でございます」

仲達ちゅうたつ、いったいどうした? 火見も連れて来たそうだな」

「はい。どうしても丞相のお耳に入れたきことがあり、急ぎ参りました」

「言うてみよ」

 曹操は水軍の様子に目をやったまま耳を傾けた。

「はい。火見が占視せんししたところ、南方に大きな火の気があり、不吉だということでした。火見は船団が大火に包まれる光景を見たそうです。また丞相の御身おんみの背後にも炎が見えたと……。無用な心配かもしれませんが、私めは臆病者ゆえ、此度の戦に関わることではないかと、どうにも気掛かりでならず、こうして急ぎ駆けつけたというわけでございます」

「ははは、そういうことなら、それは勝利の大火よ」

 曹操は司馬懿の懸念を一笑に付した。

「オレは孟冬もうとう(冬の初め頃)が過ぎるのを待って江東の船団に火攻めを仕掛けるつもりだ。その頃になれば、この辺りは上流から下流に風が吹く。上流に位置している我等が火攻めを仕掛けるには順風、江東がこちらに火攻めを仕掛けるには逆風。火見が見た焼け落ちる船団というのは江東勢のものということだ」

 曹操は自信満々に言った。事前に荊州の地形、気候、風土など綿密に調査・報告させていて、それに基づいて戦略を立てているのだ。それら全てのデータを頭に入れて、作戦を立て、曹操は群雄との戦を勝ち抜いてきた。曹操の頭には常に勝利のイメージがある。

「火見が見たものはわしの頭の中の光景であろう」

 自信に満ちた曹操の言葉は確かに司馬懿の憂慮を吹き飛ばすものではあった。

「それにオレは生まれた時から火をまとっている。火見にはそれが見えたのであろう」

 曹操がまだ世に出る前、人物鑑定の第一人者である許子将きょししょうに告げられた一言。

 ――――赤い宿星しゅくせいを抱く者。

 それは強く曹操の耳朶じだに残っている。心震える衝撃とともにおのれの宿命を知った瞬間。以来、三十有余年、己の宿命と向き合うように、曹操は意識して赤い衣装を着るようにしてきた。漢は火徳かとく、そのシンボル・カラーは赤なのだ。

 漢の丞相となった曹操はまさにその身に火を纏っているのである。


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