其之二 老驥出馬

 倭国の使節団は許に上洛し、皇帝に謁見えっけんする許可を得ることができたが、しばらくぎょう城内の外国使節団用宿舎に留まるよう命じられた。

 そして、七月を迎え、ついに許都に出発することになった。驚いたことに、曹操そうそうも数万の大軍を率いて許都まで同行することになった。

 倭国の使節団には送迎の馬車が用意され、丞相・曹操が乗る専用馬車の後方に付くという待遇ぶりである。が、またも火見だけが曹操に呼ばれた。

火見ひみはわしの息子の馬車に同乗するように」

「え?」

「息子の話し相手になってほしいのだ」

 その息子とは、十三歳になる曹沖そうちゅうのことである。あざな倉舒そうじょ。大人顔負けの知恵を有する神童で、曹操の寵愛ちょうあいが厚い。

「わしはそなたの母と交流があった。わしの息子と火見にも交流を持ってほしいと思う」

 それは曹操の親心だ。曹操は幼少の頃から西域からやってきた異国人と交流をし、見識を深めると共に想像力を養った。曹操が常識を超越する英雄に育ったのは、天賦てんぷの才能もさることながら、彼ら異国人から受けた刺激も大きく影響している。火見にとっても、漢や曹氏との関係が深められたら、これは倭国にとっての利益となる。

「喜んで」

 火見が再び曹操の頼みを受け、曹沖の馬車に乗り込んだ。

「そなたが火見か」

 白面の少年が声をかけた。知性が顔ににじみ出ている。

「はい。倭の国の火見でございます。よろしくお願い致します」

「なるほど。これか」

 曹沖は火見の衣装をまじまじと見て言った。

「何でしょう?」

「父上が司馬懿しばいに送った声なき言葉さ。我が国では白装束は死を表わす喪服なんだ」

「そうでございましたか。それで司馬懿様は私を見て驚いたような表情をされていたのですね」

 その言葉で火見は司馬懿に初対面した時の態度を理解した。

「それで司馬懿様はどうなりましたか?」

「そなたの占断を聞いて、出仕の心を決めたみたいだ。父上はまだ会っていないようだけど」

 出仕して曹操に仕えることになった司馬懿はこの許都への移動に同行することになっていた。が、その姿は見えない。

「それはどうしてですか?」

「やり返したいんだよ。司馬懿が散々出仕を拒否したから、父も無視し返すつもりなんだよ。許に着くまでは会わないんだってさ。子供みたいだろ?」

 子供の曹沖が火見の方を向いて、けらけらと笑った。


きょへ向かう」

 曹操の号令一下、大軍が南へ進発を開始した。曹操にとって許都は通過点だ。真の目的はさらに南方の荊州と江東を平定することである。

 火見は馬車の窓から想像を絶する数の兵士を目にして、一層不安を募らせた。

 見たこともない数の兵士たち。どこまでも続くその行進がとてつもなく悪い未来を想起させる。火見は一言の言葉も発せず、静かに両手で自分の体を抱いていた。

 曹操の背後に見えたあの炎は何だったのか――――。

「緊張しているね。何か怖いことでもあるのかい?」

 曹沖がそんな火見の様子を察して言った。

「大きな戦があるのでしょう?」

「そうなるだろうね。荊州はともかく、江東の孫権そんけんが簡単に降るなんてことはないだろうから、戦は避けられない」

 少年ながら、曹沖は事態を冷静に分析して言った。

「私の母は私と同じくらいの時、海を渡ったと言っていました。その時も大きな戦があったといいます。いつでもどこでも戦ばかりですね……」

「天下が父のもとに統一されなければ、民は安まらない。これは世に太平をもたらすための戦なんだよ」

 父の心をよく知る曹沖は火見と自分に言い聞かすように言った。

 曹操は倒壊寸前の漢王朝を保持する英雄と評される一方で、漢王朝を乗っ取ろうとする奸雄という悪名が定着してしまっている。曹沖はそれが歯痒はがゆくてならない。

 父がいなければ、当の昔に漢は滅び、戦乱はもっと酷くなっていたはずなのだ。

「孫権がまた珍しい贈り物でも用意して、おとなしく従ってくれればいいんだけどね。火見は象を知ってる?」

 曹沖が火見の緊張を和らげようと、機転を利かして話題を変えた。

「象?」

「うん。鼻がこんなに長くて、耳がこんなに大きい。牛の倍くらいある巨大な動物さ」

 曹沖が身ぶり手ぶりを交えて説明した。

「いいえ、見たことも聞いたこともありません」

「南方の動物らしくてね、何年か前に孫権が朝貢品として贈ってきた。許に着いたら、見られるよ」

「それは楽しみです」

 昔から諸外国が漢への朝貢品として珍獣を贈ることはよくあった。漢王朝では、それらを上林苑じょうりんえんという帝立動物園に集めて、王族貴族の鑑賞用とした。

「その時、孫権はね、象の目方を教えてほしいと言ってきたんだ」

「そんな大きな動物の目方をどうやって量るのですか?」

 諸官も頭を悩ませるこの難題を解決したのが少年・曹沖の知恵である。これでまたたく間に曹沖の聡明さが知れ渡った。

「船を使うのさ。すぐに河水を渡ることになるから、その時に詳しく教えてあげるよ」

 やがて、眼前に濁った水をたたえた河水がすい(黄河)が見えてきた。

「何て大きな川……」

 膨大な水量、広大な川幅。火見は唖然とした。難升米たちも感嘆の声を上げている。火見ら倭人にとって、中国の万物はすべてスケールがけた違いだ。

 棘津きょくしんという渡し場で、火見は曹操らと共に用意されていた大型の渡し船に乗り込んだ。馬車も一緒に載せたので、その重量で船が沈む。曹沖は船縁ふなべりから下をのぞき込み、指差して言う。

「ほら、こうやって重さで船が沈むだろ。象を載せ、この水面と同じ高さのところに線を引く。その後で象を降ろし、今度は同じところに水面がくるまで石を船に載せていくんだ。後はその石の重さを個別に量っていけば、象の目方が分かるってわけさ」

「賢いのですね」

 火見は感心して言った。こんな少年でさえ、高い知能、豊かな知識を有している。

 教育レベルも高いのだ。火見はこの目で見た物、この耳で聞いたこと全てを記憶に焼きつけて倭へ帰らなければならないと実感した。


 河水を渡って休息を挟み、再び馬車での移動が始まった。しばらく南下すると、西に嵩山すうざんの山並みが見えてきた。

「ほら、あれが天下五岳のうちの中岳ちゅうがく・嵩山だよ。この国には五つの聖なる山があって、その一つさ。あの山の向こうに旧都・洛陽らくようがある。ずっと漢の都だったんだけど、戦乱で焼失してしまったんだ。その大火は一カ月も消えなかったという。僕が生まれる前のことだよ。でも、今は父の手で再建中なんだ」

 曹沖が指差して、丁寧に火見に教えた。火見はそれを聞いて、火占いで見た巨大な炎の映像は洛陽が焼き尽くされるものなのかと、一瞬考えた。だが、それは遠い過去の出来事だ。それは違うと、すぐに考え直した。

「五岳のうちの東岳とうがく泰山たいざんっていうんだ。ここからずっと東に行ったところにある。五岳のうちで最もとうとい山だよ」

 今度は反対側を指しながら、曹沖が説明した。

「聞いたことがあります。私の母は泰山で霊力を得たと言っていました」

「何といっても、天下一の霊山だからね。仙人を目指す方士たちやご利益を求める民衆たちが全国から集まってくる。『気は泰山に集まる』という言葉があって、泰山は命をつかさどる山でもあるんだ。だから、どんな覇王や賢者も泰山を拝むことを忘れなかった。かつて始皇帝や武帝は泰山に登って封禅ほうぜんの儀式を行い、孔子も度々泰山を訪れたんだって」

 曹沖がそんな知識を披露しながら、泰山を紹介した。

 封禅というのは、天地の神をまつることをいう。泰山の麓で地の神を祀り、山頂に登って天の神を祀る。泰山を祀ることは神を祀ることに等しい。民衆の間でも泰山もうでは大人気で、巡礼者は各地からやって来る。

「昔は泰山の辺りは物騒だったというけれど、今は安全になって民も喜んでいる。火見もせっかくこの国にやって来たんだから、帰国する前に泰山におもむいて、母上の足跡を辿ってみるのがいいと思うよ」

 曹沖が火見にそう勧めた。

 天下が乱れ始めると山賊たちの巣窟そうくつにもなった泰山であるが、現在は泰山がある地域は曹操が支配する。その絶対的な影響下にあるので、治安面で不安はなかった。

 曹操はその影響を南へ広げようとしている。この軍隊はそのためのものなのだと理解した火見ではあったが、やはり、不安はぬぐえなかった。


 結局、火見の心を覆う暗雲は晴れぬまま、しかし、倭を離れて一年、無事に漢の皇帝が住まう仮初かりそめの都・許都に到着した。曹操は城門前の街道両脇に居並ぶ百官の出迎えを受け、火見は改めて漢丞相・曹操の凄さを思い知った。

 馬車を下りた曹操は曹沖を伴い、百官を後ろに引き連れながら官府に入った。

「丞相、ついに仲達ちゅうたつたせたとお聞きしました。おめでとうございます」

 百官の長である荀彧じゅんいくがまずそれを祝賀した。荀彧も司馬懿を推薦した一人である。

 荀彧はあざな文若ぶんじゃく潁川えいせん潁陰えいいんの人である。彼もまた曹操に、

「――――我が子房しぼうなり」

 と称された有能な謀臣であり、抜群の能吏であった。

 子房とは、前漢の建国に多大な貢献をした張良ちょうりょうあざなである。荀彧は曹操不在の間、許の監督を任されていた。

「うむ」

 曹操は短く答えただけで、喜びを表情には表さなかった。

「仲達にはどのような役目をお考えですか?」

「それは直接話してから決める。まずは倭国の使者たちの世話を命じておけ」

「は……」

 荀彧は曹操が司馬懿と未だに顔を会わせていないことは知らない。

匈奴きょうどとの交渉はうまく運んだと聞いたが」

「はい。子を遺すことを条件にあがなうことはできました。こちらに住まわせておりますが、ずっとふさぎ込んでおります。あの様子で大任を任せられるかどうか……」

 さすが有能な荀彧は任された仕事をしっかり整え、てきぱきと曹操の質問に答えた。二人の話題は蔡文姫さいぶんきという女性だ。

 蔡琰さいえんあざなを文姫。大学者・蔡邕さいようの娘で、十数年前に匈奴族に連れ去られて以来、ずっと異国の地にあった。そこで、匈奴王との間に二子を設けたが、今度は曹操の命令で我が子と別れて帰国しなければならなくなった悲劇の女性である。

「仕方あるまい。漢のためだ。文姫には泣いてもらう」

 曹操は冷淡に言った。彼女が蔡邕の娘でなかったなら、親子の情を無理矢理切り裂いてまで帰国させようと努めなかっただろう。曹操にとって、蔡邕は知人というだけでなく、そのあらゆる分野にわたる学識は国の宝というべきものであった。

 その知識を受け継ぐ蔡琰には、やってもらわなければならないことがある。

 国家を担う立場にある曹操が一個人の女性の心情をかえりみている時ではない。

「それから文若、倭国の使者の陛下への謁見を許可する。速やかに手筈てはずを整えよ」

「はっ、直ちに」

 荀彧が拱手して答えた。荀彧が一礼して去ろうとする時、曹沖が聞いた。

「文若先生、彼女に上林苑を案内してあげたいのですが、よろしいですか?」

「上林苑ですか……分かりました。そちらも許可を取っておきましょう」

 荀彧は曹沖の要請にも明朗に答え、すぐさまその場を後にした。


 火見ら倭国の使者たちは宿舎に案内され、正式な謁見の日取りが決まるまで、そこでの休息を命じられた。大願成就まであと数日である。

 翌日、司馬懿がやってきた。

「……此度こたび、そなたたちの世話役を仰せつかった司馬懿と申す」

 司馬懿は火見以外の初対面の倭人たちに挨拶すると、火見に向き直って言った。

「曹沖様のお取り計らいで上林苑を見学できるそうだ。行ってみるか?」

「はい、是非。他の者たちもよろしいでしょうか?」

「もちろんだ」

 司馬懿に伴われ、倭国の一行は許郊外の敷地に設立された帝立動物園・上林苑を見学した。いくつかの柵で仕切られた苑内には倭人たちが見たこともない珍しい動物たちが飼育されていた。いずれも諸外国からの献上品である。これらは国の権威を示している。が、今は漢という一国家ではなく、曹操という一個人の権威の象徴だ。

「わぁ、美しい鳥ね」

 火見はあでやかな羽を広げた鳥を見つけて駆け寄ると、目を輝かせて、それを見つめた。

 束の間の息抜き。重い使命を背負った少女も、この時だけは普通の少女に返る。

孔雀くじゃくという。その美しい羽を使った装飾品が人気だ」

「あの背中に山がある馬は?」

 爺禾支が目を丸くして指差した。

「あれは駱駝らくだという。西域の動物だ。馬のように人を乗せることもできるし、荷物を運ぶこともできる」

「こっちのは鹿に似ているな」

 反対側では難升米が草をむ動物を見て言った。

「それは四不像しふぞうだ。頭は馬、体は驢馬ろばひづめと尾は牛で、鹿のような角がある」

 他にも虎やわにといった猛獣も飼われていて、倭人たちにとっては驚きの連続であった。

 そして、一行が最も驚いたのが巨大な体と長大な鼻を持った動物である。

「わぁ、これが象?」

「そのようだな。私も初めて見る……」

 火見が感嘆の声を上げ、司馬懿も驚きの目でその巨体を見上げた。浅黒い肌をした南方系の人間がその世話をしていた。

「天下は広い。その昔、遥か西の大秦国だいしんこくからも朝貢があったという。丞相はその者たちに会って話したそうだ。漢は天下の中心、そして、まさしく丞相こそが天下の中心だ」

 司馬懿はそう言って曹操を称えた。大秦国とは、ローマ帝国のことである。

 その言葉を待っていたかのように、遅れて曹沖が現れた。

「これは曹沖様」

 拝礼する司馬懿に曹沖が告げた。

「先生、父がお呼びです」

 ついにその時がきた。通達を受けた司馬懿は身が引き締まる思いがした。

かしこまりました」

 司馬懿は短く答えて、天下の中心に座る男のもとへ急いだ。


 曹操は丞相府で司馬懿を待っていた。司馬懿はその前に平伏して曹操に対面した。

「司馬懿仲達、丞相に拝謁はいえつ致します」

「うむ。仲達、こちらへ参れ」

「はっ」

 司馬懿は腰を低くして曹操の前に進むと、再び平伏した。

「病はえたようだな」

「はい。丞相のくださった薬が効きました」

 司馬懿が恐縮して答えると、曹操は身を乗り出してその目をじっと覗き込んだ。

「な、何か?」

「オレは人を見る眼があると自負しているが、どう思うか?」

 突然の質問に、司馬懿は少々うろたえながらも答えた。

「丞相が天下の才人を広く集めていらっしゃるのは皆が知っております。その幕下には英才俊傑が満ちており、丞相の炯眼けいがんは言わずと知れたところでございます」

 司馬懿のその答弁に満足しながらも、曹操は断言した。

「オレは昔、ある人物に『乱世らんせ奸雄かんゆう治世ちせ能臣のうしん』だと言われたが、お前もそのたぐいだな」

 唐突な曹操の言葉に司馬懿はふところえぐられるような衝撃を感じて動悸どうきを速めた。

 益々恐縮の度を増して答える。

「おたわむれを……。丞相が昔、そう評されたのは存じています。しかし、私は愚鈍にて浅学非才、とても丞相と比べられるような才器ではございません」

「虚言だな」

 謙虚を取りつくろうような司馬懿の言葉を曹操は一蹴した。

「そのようなことは……」

 また取り繕おうとした司馬懿であったが、今度は言葉が続かなかった。

 司馬懿のそれは本心である。厳密に言えば、おのれの才覚は多少自負するところはあるのだが、比較対象が曹操なだけに一向に自分の才覚の大きさに自信が持てないだけだ。  

 実は曹操は若かりし頃、許子将きょししょうという人相見にんそうみの第一人者に評価され、自身の心の奥底に眠る才覚を意識した。言葉として聞いて、それを強く意識し出したのである。

 そして、その評価は士人たちの間を渡り歩いて、尚書しょうしょ右丞うじょう(人事院副官)を務めていた司馬防しばぼうという人物の耳に入り、曹操は彼の強い推薦によって官職を得た。

 司馬防、あざな建公けんこう。司馬懿の父である。

 司馬懿は幼少の頃から、曹操は英雄だと父から聞かされてきた。司馬懿自身も曹操を新時代を切り開く真の英雄として見ている。それだけに、自分の才能が放つ輝きは曹操のものと比べるにはか弱過ぎて、それが曹操の招聘を韜光とうこうという形で断ることになった。

 例えるなら、曹操は天空に煌々こうこうと輝く巨大な太陽。自分はそのまばゆい陽光に隠されて見えない日中の月――――。

「オレとお前が違うのは、オレはその言葉を聞いて喜び、お前はそうやって臆病になって縮こまっていることだ」

「まさしく私は丞相の言葉を恐れております」

「それこそお前の病よ。心を見透かされるというのは怖いものだ。それに委縮いしゅくして、心を隠そうとすると、弱気を誘う」

「その通りでございます」

「しかし、それも一つの才能だ。オレは戯れでお前を起たせたのではないぞ。臆病をわずらう者は常に慎重に振る舞い、何事にも警戒をおこたらない。その上、お前は観察眼に優れ、情報分析に長けている。当然、オレのこともよく分析しているはずだ」

 司馬懿は自分の心を見透かすような曹操の言葉とその視線にまるで心臓を握られるような冷たい感触を覚えた。もう逃げも隠れもできない。

「韜光の訳を聞かせてもらおう」

 曹操が目を鋭くして詰問した。

「丞相はすべてをお見通しのご様子。恐れながら、包み隠さず申し上げます」

 司馬懿は観念して、自分の心の内にわだかまるものを吐き出すように話し始めた。

「私は幼い頃より、丞相は英傑だと父から聞かされてきました。それからというもの、おそれ多くも私は丞相を意識するようになり、おのが才能が丞相にかなうかどうかを比べることが常となりました。頭の中で群雄の一人となっては丞相と戦い、官渡かんとにおいては、袁紹えんしょう側に立って策を練りました。私は丞相にあこがれつつも、丞相を超えることを考えてきたのでございます。それ故、この心を見透かされるのではないかと、それを恐れておりました……」

 司馬懿が心に隠していた真意――――それは曹操を超えたいという野心。仕えるよりは戦ってみたかった。自分が救国の英雄になってみたかった。

「はははは。ようやく本音ほんねを聞けたな。どうせそんなことではないかと思っていた」

 曹操は司馬懿の告白を笑い飛ばした。

「そういうことなら、さっさと袁紹か劉備りゅうびあたりに仕えておればよかったものを」

「それはできませんでした。私の父は丞相を救国の英雄だと見ており、丞相に敵対する者に仕えることは認めません。それに、袁紹は人の言葉を聞くものの決断力がなく、劉備はあまりにも力が弱い。仮にどちらに仕えたとしても、丞相には勝てなかったでしょう」

 司馬懿は頭の中であらゆる可能性を考えてみたが、結局、曹操には対抗できなかった。

「的確な判断だな。では、オレと戦うことは諦めて能臣の生き方をすると心を決めたのか?」

「……はい。我が心を知って、丞相が私を用いられるかどうかは分かりませんが……」

「用いるさ」

 司馬懿の不安をよそに、曹操は鮮やかに即決した。

奉孝ほうこうを失った。お前には奉孝の代わりとして、オレを理解してもらわなければならない」

 曹操は前年、若き天才軍師・郭嘉かくかを亡くした。

 郭嘉、あざなは奉孝。潁川えいせん陽翟ようてきの人である。郭嘉を推薦したのも、また荀彧じゅんいくであった。

「――――奉孝だけが自分の真意を理解している」

 郭嘉を得た曹操は非常に喜び、そう言って、郭嘉に全面の信頼を置いた。

 郭嘉の洞察力は深奥にして、その進言は的確、間違ったことは言わなかった。

 曹操が最大のライバルであった袁紹を打倒して、中原ちゅうげんを制覇することができたのは郭嘉の功績が大きかった。そんな曹操の期待の大きかった郭嘉であったが、袁氏討伐に従軍した折、その地で病にかかって急逝きゅうせいした。享年三十八。

「――――奉孝はまだ若く、天下のことが終われば、後事を託すつもりであったのに……」

 曹操がそれを嘆いたのは言うまでもない。同時に郭嘉に代わる新たな才能を求めなければならなくなった。曹操が曹沖を寵愛しているのは、その才知が郭嘉に並ぶかもしれないという期待からである。自分が認めた英雄・劉備は諸葛孔明という若手軍師を登用したと聞いた。噂では、その男は〝臥龍がりゅう〟と称されるほどの天才軍略家だという。

 硬直した組織の中に新風を取り込む重要性を、曹操は誰よりも分かっている。

 司馬懿はそれを知って、神妙に言った。

「私ごときが丞相の遠謀深慮えんぼうしんりょを理解できましょうか?」

「言っただろう、お前はオレだ。できないはずがない。だが、お前はずっと隠れていたために経験に乏しい。オレの下で様々な経験を積め。そうすれば、オレを超えるような男になれるかもしれないぞ」

「そんな滅相めっそうもない……」

「つべこべは言わせん。試しに何故この行軍に倭の使節をわざわざ同行させたのか、推し量ってみよ」

 強引な曹操の問いに司馬懿は押し黙った。これには何か訳があるのか。

 司馬懿はしばし思慮を巡らせた上で答えた。

「思いますに、漢はすでに命運尽きており、次の時代を担うのが丞相であることを知らしめるためではないでしょうか」

 曹操はそれには答えず、もう一問用意して司馬懿を試した。

「南征を行う前にやっておかなければならないことがある。それが何か分かるか?」

「西涼の馬騰ばとう韓遂かんすいを封じ込めることです」

 馬騰と韓遂は西方の涼州一帯を実質支配している群雄だ。

 曹操が南に兵を向けたその隙を突いて、彼らが兵を挙げる可能性は十分にある。

「ははは」

 曹操はその答えを聞いて、意味深に笑うだけだった。


 曹操が許に入って間もなくして、西方から上京してくる者があった。

 衛尉えいいに任じられた馬騰とその息子・馬超ばちょうである。衛尉は宮中警護を担当する上級官職である。

 官職にあずかることは栄誉なことであるが、これは勅令ちょくれいを自在に操れる漢の丞相・曹操が画策した罠だ。皇帝の命令である勅令をこばめば、逆賊とみなされて討伐の対象になる。

 漢の官職を受けることは漢王朝への忠誠を誓うのと同じであるから、実質曹操の命に従わなければならない。しかも、衛尉を務めるということは、曹操政権下の許都への上京と滞在を余儀なくされる。それは一時的に己の身を人質として差し出すようなものなのだ。勅令は馬騰の衛尉任命とともに涼州の騎馬兵に南征への随行を命じた。

 馬超はそのために五千の軍勢を率いている。馬超もまた南征の間、曹操の監視下に置かれ、その命令に従わなければならない。まさに馬騰の動きを封じ、利用する一石二鳥の策略である。

 それを説得して承知させたのが、鍾繇しょうようあざな元常げんじょうという人物で、彼もまた潁川人であり、荀彧が曹操に薦めた能吏であった。

「さすがは丞相、すでに手を打っておいででしたか」

 曹操と共に城門の上に立って、馬騰の上京を見届けた司馬懿は思わず唸った。

「先を読むのは容易たやすい。難しいのは先の先を見通すことよ。お前も先の先を読むことを心掛けよ」

 馬騰が思った以上に老人であったのを見て、曹操は安心した。

 曹操は人を見かけで判断するような男ではない。 

 馬騰、あざな寿成じゅせい右扶風ゆうふふう茂陵ぼうりょうの人である。漢の名将・馬援ばえん後裔こうえいだというが、この時代にはすでに没落していて、馬騰自身は西方異民族のきょう族の血が入った荒くれ者である。馬騰はかつて朝廷に反旗をひるがえして軍を起こし、騎馬軍団をようして西方に威を張った群雄の一人だ。曹操はそんな馬騰が発する気が弱弱しいものであるのを感じて安心したのだ。

 馬騰は確かに老齢だ。この上京が己を縛ることになるであろうことを覚悟してきたのもあるだろうが、その気はえた老人のものであった。老い先長くない男が身の安泰を計って、招聘に応じたのだ。少なくとも、曹操はそう感じ取った。

劉表りゅうひょうの気も近いうちに消えるであろう」

 曹操は馬騰の上京をその目で見届けると、司馬懿にそんな先のことを告げて、すぐに南下を開始した。南方の群雄、荊州の劉表と江東の孫権を屈服させるためである。

 鄴から連れて来た兵に加え、許の軍勢と馬超の率いてきた西涼の騎馬兵を併せて、総勢十万の大軍である。火見たち倭国の使節団はそのまま許都に留まった。

 曹操の命令が出ていたこともあって、その日のうちに皇帝に謁見できる運びとなった。

「無事に都に着いた。難升米も上殿したことだし、少しは不安も消えたか、火見?」

 爺禾支が火見に聞いた。使節団代表の難升米が荀彧に伴われて上殿し、難升米が役目を果たして戻るまでの間、残りの者たちは宿舎でその帰りを待っていた。

「そうね。不吉はもっと南にあるみたい」

「それはどういう意味か?」

 司馬懿がその会話を耳にして尋ねた。

「司馬懿殿、火見は占断で、以前から南へ行くのが不吉だと言い続けているのです」

 爺禾支が司馬懿に説明した。

「どのように不吉だというのか、詳しく聞かせてほしい」

 その話に興味を持った司馬懿が急に険しい顔になって、更なる情報を求めた。

「火見、もう一度占ってくれ」

「ええ、またやるの?」

「いろいろと世話をしてくれている司馬懿殿の頼みなのだ。お前も不吉の原因が何か分からなければ、すっきりしないだろ」

「……分かったわ。じゃあ、どこか静かで高い場所と大きな炎を用意していただけますか。時は夜間がいいです。もっとはっきりたいので」

 火見はそう条件を付けた。それには司馬懿が応えた。

「私が手配しよう」

 翌夜、司馬懿は許都城下の高楼に巨大な蝋燭ろうそくを運ばせて、火見を招いた。火見は司馬懿も下がらせ、高楼に独り座る。闇と静寂に包まれた空間にただ一つの光源。

 火見は深く息を吸い込み、息を止め、精神を集中して巨大な炎のともしびを注意深く見つめた。不規則な炎のゆらめきは催眠効果となって、いつしか火見の意識をまどろませる。

 しかし、このまどろみこそ現実と夢幻の境界だ。蝋燭の灯が火見の精神状態を示すかのように大きく揺れて、分かれた。闇夜に火の精霊――――小さな火を灯した何匹ものほたるが舞う。それらが火見の視界の中を、火見の体の周りを飛び交った。

 そして、火見の精神を温かく包み込んで夢幻の彼方へといざなう。

 暗く閉ざされた世界が火の精霊によってほのかに照らし出され、普段見えない世界が開いた。未来――――。

 火見はその光の向こうに、微かな未来を見る。

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