其之二 老驥出馬
倭国の使節団は許に上洛し、皇帝に
そして、七月を迎え、ついに許都に出発することになった。驚いたことに、
倭国の使節団には送迎の馬車が用意され、丞相・曹操が乗る専用馬車の後方に付くという待遇ぶりである。が、またも火見だけが曹操に呼ばれた。
「
「え?」
「息子の話し相手になってほしいのだ」
その息子とは、十三歳になる
「わしはそなたの母と交流があった。わしの息子と火見にも交流を持ってほしいと思う」
それは曹操の親心だ。曹操は幼少の頃から西域からやってきた異国人と交流をし、見識を深めると共に想像力を養った。曹操が常識を超越する英雄に育ったのは、
「喜んで」
火見が再び曹操の頼みを受け、曹沖の馬車に乗り込んだ。
「そなたが火見か」
白面の少年が声をかけた。知性が顔に
「はい。倭の国の火見でございます。よろしくお願い致します」
「なるほど。これか」
曹沖は火見の衣装をまじまじと見て言った。
「何でしょう?」
「父上が
「そうでございましたか。それで司馬懿様は私を見て驚いたような表情をされていたのですね」
その言葉で火見は司馬懿に初対面した時の態度を理解した。
「それで司馬懿様はどうなりましたか?」
「そなたの占断を聞いて、出仕の心を決めたみたいだ。父上はまだ会っていないようだけど」
出仕して曹操に仕えることになった司馬懿はこの許都への移動に同行することになっていた。が、その姿は見えない。
「それはどうしてですか?」
「やり返したいんだよ。司馬懿が散々出仕を拒否したから、父も無視し返すつもりなんだよ。許に着くまでは会わないんだってさ。子供みたいだろ?」
子供の曹沖が火見の方を向いて、けらけらと笑った。
「
曹操の号令一下、大軍が南へ進発を開始した。曹操にとって許都は通過点だ。真の目的はさらに南方の荊州と江東を平定することである。
火見は馬車の窓から想像を絶する数の兵士を目にして、一層不安を募らせた。
見たこともない数の兵士たち。どこまでも続くその行進がとてつもなく悪い未来を想起させる。火見は一言の言葉も発せず、静かに両手で自分の体を抱いていた。
曹操の背後に見えたあの炎は何だったのか――――。
「緊張しているね。何か怖いことでもあるのかい?」
曹沖がそんな火見の様子を察して言った。
「大きな戦があるのでしょう?」
「そうなるだろうね。荊州はともかく、江東の
少年ながら、曹沖は事態を冷静に分析して言った。
「私の母は私と同じくらいの時、海を渡ったと言っていました。その時も大きな戦があったといいます。いつでもどこでも戦ばかりですね……」
「天下が父のもとに統一されなければ、民は安まらない。これは世に太平をもたらすための戦なんだよ」
父の心をよく知る曹沖は火見と自分に言い聞かすように言った。
曹操は倒壊寸前の漢王朝を保持する英雄と評される一方で、漢王朝を乗っ取ろうとする奸雄という悪名が定着してしまっている。曹沖はそれが
父がいなければ、当の昔に漢は滅び、戦乱はもっと酷くなっていたはずなのだ。
「孫権がまた珍しい贈り物でも用意して、おとなしく従ってくれればいいんだけどね。火見は象を知ってる?」
曹沖が火見の緊張を和らげようと、機転を利かして話題を変えた。
「象?」
「うん。鼻がこんなに長くて、耳がこんなに大きい。牛の倍くらいある巨大な動物さ」
曹沖が身ぶり手ぶりを交えて説明した。
「いいえ、見たことも聞いたこともありません」
「南方の動物らしくてね、何年か前に孫権が朝貢品として贈ってきた。許に着いたら、見られるよ」
「それは楽しみです」
昔から諸外国が漢への朝貢品として珍獣を贈ることはよくあった。漢王朝では、それらを
「その時、孫権はね、象の目方を教えてほしいと言ってきたんだ」
「そんな大きな動物の目方をどうやって量るのですか?」
諸官も頭を悩ませるこの難題を解決したのが少年・曹沖の知恵である。これで
「船を使うのさ。すぐに河水を渡ることになるから、その時に詳しく教えてあげるよ」
やがて、眼前に濁った水を
「何て大きな川……」
膨大な水量、広大な川幅。火見は唖然とした。難升米たちも感嘆の声を上げている。火見ら倭人にとって、中国の万物はすべてスケールが
「ほら、こうやって重さで船が沈むだろ。象を載せ、この水面と同じ高さのところに線を引く。その後で象を降ろし、今度は同じところに水面がくるまで石を船に載せていくんだ。後はその石の重さを個別に量っていけば、象の目方が分かるってわけさ」
「賢いのですね」
火見は感心して言った。こんな少年でさえ、高い知能、豊かな知識を有している。
教育レベルも高いのだ。火見はこの目で見た物、この耳で聞いたこと全てを記憶に焼きつけて倭へ帰らなければならないと実感した。
河水を渡って休息を挟み、再び馬車での移動が始まった。しばらく南下すると、西に
「ほら、あれが天下五岳のうちの
曹沖が指差して、丁寧に火見に教えた。火見はそれを聞いて、火占いで見た巨大な炎の映像は洛陽が焼き尽くされるものなのかと、一瞬考えた。だが、それは遠い過去の出来事だ。それは違うと、すぐに考え直した。
「五岳のうちの
今度は反対側を指しながら、曹沖が説明した。
「聞いたことがあります。私の母は泰山で霊力を得たと言っていました」
「何といっても、天下一の霊山だからね。仙人を目指す方士たちやご利益を求める民衆たちが全国から集まってくる。『気は泰山に集まる』という言葉があって、泰山は命を
曹沖がそんな知識を披露しながら、泰山を紹介した。
封禅というのは、天地の神を
「昔は泰山の辺りは物騒だったというけれど、今は安全になって民も喜んでいる。火見もせっかくこの国にやって来たんだから、帰国する前に泰山に
曹沖が火見にそう勧めた。
天下が乱れ始めると山賊たちの
曹操はその影響を南へ広げようとしている。この軍隊はそのためのものなのだと理解した火見ではあったが、やはり、不安は
結局、火見の心を覆う暗雲は晴れぬまま、しかし、倭を離れて一年、無事に漢の皇帝が住まう
馬車を下りた曹操は曹沖を伴い、百官を後ろに引き連れながら官府に入った。
「丞相、ついに
百官の長である
荀彧は
「――――我が
と称された有能な謀臣であり、抜群の能吏であった。
子房とは、前漢の建国に多大な貢献をした
「うむ」
曹操は短く答えただけで、喜びを表情には表さなかった。
「仲達にはどのような役目をお考えですか?」
「それは直接話してから決める。まずは倭国の使者たちの世話を命じておけ」
「は……」
荀彧は曹操が司馬懿と未だに顔を会わせていないことは知らない。
「
「はい。子を遺すことを条件に
さすが有能な荀彧は任された仕事をしっかり整え、てきぱきと曹操の質問に答えた。二人の話題は
「仕方あるまい。漢のためだ。文姫には泣いてもらう」
曹操は冷淡に言った。彼女が蔡邕の娘でなかったなら、親子の情を無理矢理切り裂いてまで帰国させようと努めなかっただろう。曹操にとって、蔡邕は知人というだけでなく、そのあらゆる分野にわたる学識は国の宝というべきものであった。
その知識を受け継ぐ蔡琰には、やってもらわなければならないことがある。
国家を担う立場にある曹操が一個人の女性の心情を
「それから文若、倭国の使者の陛下への謁見を許可する。速やかに
「はっ、直ちに」
荀彧が拱手して答えた。荀彧が一礼して去ろうとする時、曹沖が聞いた。
「文若先生、彼女に上林苑を案内してあげたいのですが、よろしいですか?」
「上林苑ですか……分かりました。そちらも許可を取っておきましょう」
荀彧は曹沖の要請にも明朗に答え、すぐさまその場を後にした。
火見ら倭国の使者たちは宿舎に案内され、正式な謁見の日取りが決まるまで、そこでの休息を命じられた。大願成就まであと数日である。
翌日、司馬懿がやってきた。
「……
司馬懿は火見以外の初対面の倭人たちに挨拶すると、火見に向き直って言った。
「曹沖様のお取り計らいで上林苑を見学できるそうだ。行ってみるか?」
「はい、是非。他の者たちもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
司馬懿に伴われ、倭国の一行は許郊外の敷地に設立された帝立動物園・上林苑を見学した。いくつかの柵で仕切られた苑内には倭人たちが見たこともない珍しい動物たちが飼育されていた。いずれも諸外国からの献上品である。これらは国の権威を示している。が、今は漢という一国家ではなく、曹操という一個人の権威の象徴だ。
「わぁ、美しい鳥ね」
火見は
束の間の息抜き。重い使命を背負った少女も、この時だけは普通の少女に返る。
「
「あの背中に山がある馬は?」
爺禾支が目を丸くして指差した。
「あれは
「こっちのは鹿に似ているな」
反対側では難升米が草を
「それは
他にも虎や
そして、一行が最も驚いたのが巨大な体と長大な鼻を持った動物である。
「わぁ、これが象?」
「そのようだな。私も初めて見る……」
火見が感嘆の声を上げ、司馬懿も驚きの目でその巨体を見上げた。浅黒い肌をした南方系の人間がその世話をしていた。
「天下は広い。その昔、遥か西の
司馬懿はそう言って曹操を称えた。大秦国とは、ローマ帝国のことである。
その言葉を待っていたかのように、遅れて曹沖が現れた。
「これは曹沖様」
拝礼する司馬懿に曹沖が告げた。
「先生、父がお呼びです」
ついにその時がきた。通達を受けた司馬懿は身が引き締まる思いがした。
「
司馬懿は短く答えて、天下の中心に座る男のもとへ急いだ。
曹操は丞相府で司馬懿を待っていた。司馬懿はその前に平伏して曹操に対面した。
「司馬懿仲達、丞相に
「うむ。仲達、こちらへ参れ」
「はっ」
司馬懿は腰を低くして曹操の前に進むと、再び平伏した。
「病は
「はい。丞相のくださった薬が効きました」
司馬懿が恐縮して答えると、曹操は身を乗り出してその目をじっと覗き込んだ。
「な、何か?」
「オレは人を見る眼があると自負しているが、どう思うか?」
突然の質問に、司馬懿は少々うろたえながらも答えた。
「丞相が天下の才人を広く集めていらっしゃるのは皆が知っております。その幕下には英才俊傑が満ちており、丞相の
司馬懿のその答弁に満足しながらも、曹操は断言した。
「オレは昔、ある人物に『
唐突な曹操の言葉に司馬懿は
益々恐縮の度を増して答える。
「お
「虚言だな」
謙虚を取り
「そのようなことは……」
また取り繕おうとした司馬懿であったが、今度は言葉が続かなかった。
司馬懿のそれは本心である。厳密に言えば、
実は曹操は若かりし頃、
そして、その評価は士人たちの間を渡り歩いて、
司馬防、
司馬懿は幼少の頃から、曹操は英雄だと父から聞かされてきた。司馬懿自身も曹操を新時代を切り開く真の英雄として見ている。それだけに、自分の才能が放つ輝きは曹操のものと比べるにはか弱過ぎて、それが曹操の招聘を
例えるなら、曹操は天空に
「オレとお前が違うのは、オレはその言葉を聞いて喜び、お前はそうやって臆病になって縮こまっていることだ」
「まさしく私は丞相の言葉を恐れております」
「それこそお前の病よ。心を見透かされるというのは怖いものだ。それに
「その通りでございます」
「しかし、それも一つの才能だ。オレは戯れでお前を起たせたのではないぞ。臆病を
司馬懿は自分の心を見透かすような曹操の言葉とその視線にまるで心臓を握られるような冷たい感触を覚えた。もう逃げも隠れもできない。
「韜光の訳を聞かせてもらおう」
曹操が目を鋭くして詰問した。
「丞相はすべてをお見通しのご様子。恐れながら、包み隠さず申し上げます」
司馬懿は観念して、自分の心の内に
「私は幼い頃より、丞相は英傑だと父から聞かされてきました。それからというもの、
司馬懿が心に隠していた真意――――それは曹操を超えたいという野心。仕えるよりは戦ってみたかった。自分が救国の英雄になってみたかった。
「はははは。ようやく
曹操は司馬懿の告白を笑い飛ばした。
「そういうことなら、さっさと袁紹か
「それはできませんでした。私の父は丞相を救国の英雄だと見ており、丞相に敵対する者に仕えることは認めません。それに、袁紹は人の言葉を聞くものの決断力がなく、劉備はあまりにも力が弱い。仮にどちらに仕えたとしても、丞相には勝てなかったでしょう」
司馬懿は頭の中であらゆる可能性を考えてみたが、結局、曹操には対抗できなかった。
「的確な判断だな。では、オレと戦うことは諦めて能臣の生き方をすると心を決めたのか?」
「……はい。我が心を知って、丞相が私を用いられるかどうかは分かりませんが……」
「用いるさ」
司馬懿の不安をよそに、曹操は鮮やかに即決した。
「
曹操は前年、若き天才軍師・
郭嘉、
「――――奉孝だけが自分の真意を理解している」
郭嘉を得た曹操は非常に喜び、そう言って、郭嘉に全面の信頼を置いた。
郭嘉の洞察力は深奥にして、その進言は的確、間違ったことは言わなかった。
曹操が最大のライバルであった袁紹を打倒して、
「――――奉孝はまだ若く、天下のことが終われば、後事を託すつもりであったのに……」
曹操がそれを嘆いたのは言うまでもない。同時に郭嘉に代わる新たな才能を求めなければならなくなった。曹操が曹沖を寵愛しているのは、その才知が郭嘉に並ぶかもしれないという期待からである。自分が認めた英雄・劉備は諸葛孔明という若手軍師を登用したと聞いた。噂では、その男は〝
硬直した組織の中に新風を取り込む重要性を、曹操は誰よりも分かっている。
司馬懿はそれを知って、神妙に言った。
「私ごときが丞相の
「言っただろう、お前はオレだ。できないはずがない。だが、お前はずっと隠れていたために経験に乏しい。オレの下で様々な経験を積め。そうすれば、オレを超えるような男になれるかもしれないぞ」
「そんな
「つべこべは言わせん。試しに何故この行軍に倭の使節をわざわざ同行させたのか、推し量ってみよ」
強引な曹操の問いに司馬懿は押し黙った。これには何か訳があるのか。
司馬懿は
「思いますに、漢はすでに命運尽きており、次の時代を担うのが丞相であることを知らしめるためではないでしょうか」
曹操はそれには答えず、もう一問用意して司馬懿を試した。
「南征を行う前にやっておかなければならないことがある。それが何か分かるか?」
「西涼の
馬騰と韓遂は西方の涼州一帯を実質支配している群雄だ。
曹操が南に兵を向けたその隙を突いて、彼らが兵を挙げる可能性は十分にある。
「ははは」
曹操はその答えを聞いて、意味深に笑うだけだった。
曹操が許に入って間もなくして、西方から上京してくる者があった。
官職に
漢の官職を受けることは漢王朝への忠誠を誓うのと同じであるから、実質曹操の命に従わなければならない。しかも、衛尉を務めるということは、曹操政権下の許都への上京と滞在を余儀なくされる。それは一時的に己の身を人質として差し出すようなものなのだ。勅令は馬騰の衛尉任命とともに涼州の騎馬兵に南征への随行を命じた。
馬超はそのために五千の軍勢を率いている。馬超もまた南征の間、曹操の監視下に置かれ、その命令に従わなければならない。まさに馬騰の動きを封じ、利用する一石二鳥の策略である。
それを説得して承知させたのが、
「さすがは丞相、すでに手を打っておいででしたか」
曹操と共に城門の上に立って、馬騰の上京を見届けた司馬懿は思わず唸った。
「先を読むのは
馬騰が思った以上に老人であったのを見て、曹操は安心した。
曹操は人を見かけで判断するような男ではない。
馬騰、
馬騰は確かに老齢だ。この上京が己を縛ることになるであろうことを覚悟してきたのもあるだろうが、その気は
「
曹操は馬騰の上京をその目で見届けると、司馬懿にそんな先のことを告げて、すぐに南下を開始した。南方の群雄、荊州の劉表と江東の孫権を屈服させるためである。
鄴から連れて来た兵に加え、許の軍勢と馬超の率いてきた西涼の騎馬兵を併せて、総勢十万の大軍である。火見たち倭国の使節団はそのまま許都に留まった。
曹操の命令が出ていたこともあって、その日のうちに皇帝に謁見できる運びとなった。
「無事に都に着いた。難升米も上殿したことだし、少しは不安も消えたか、火見?」
爺禾支が火見に聞いた。使節団代表の難升米が荀彧に伴われて上殿し、難升米が役目を果たして戻るまでの間、残りの者たちは宿舎でその帰りを待っていた。
「そうね。不吉はもっと南にあるみたい」
「それはどういう意味か?」
司馬懿がその会話を耳にして尋ねた。
「司馬懿殿、火見は占断で、以前から南へ行くのが不吉だと言い続けているのです」
爺禾支が司馬懿に説明した。
「どのように不吉だというのか、詳しく聞かせてほしい」
その話に興味を持った司馬懿が急に険しい顔になって、更なる情報を求めた。
「火見、もう一度占ってくれ」
「ええ、またやるの?」
「いろいろと世話をしてくれている司馬懿殿の頼みなのだ。お前も不吉の原因が何か分からなければ、すっきりしないだろ」
「……分かったわ。じゃあ、どこか静かで高い場所と大きな炎を用意していただけますか。時は夜間がいいです。もっとはっきり
火見はそう条件を付けた。それには司馬懿が応えた。
「私が手配しよう」
翌夜、司馬懿は許都城下の高楼に巨大な
火見は深く息を吸い込み、息を止め、精神を集中して巨大な炎の
しかし、このまどろみこそ現実と夢幻の境界だ。蝋燭の灯が火見の精神状態を示すかのように大きく揺れて、分かれた。闇夜に火の精霊――――小さな火を灯した何匹もの
そして、火見の精神を温かく包み込んで夢幻の彼方へと
暗く閉ざされた世界が火の精霊によってほのかに照らし出され、普段見えない世界が開いた。未来――――。
火見はその光の向こうに、微かな未来を見る。
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