其之序 再会
時を千八百年ほど
大陸の東の海に浮かぶ島国は、その当時、〝
その倭の国(日本)のある地域に〝
そして、その国を治めていたのは〝
この頃の倭国には、幾多の小国家が乱立しており、武力による衝突が絶えず、互いに争い合って混乱を極めていた。一方で、祭祀による国家運営が行われていて、神々や霊魂の存在を信じ、国の方針は神や精霊と通じた
それは必然的に国家の中枢に身を置くこととなった彼らの権威を増大させ、国政に大きな影響力を与えるようになった。邪馬台国は男王の下で戦を続けて国が乱れ、カリスマ的巫女であった卑弥呼はそのような事情で女王に選ばれたのだ。
卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代、中国は約四百年続いた漢王朝が倒れ、
それから十余年、すでに初代皇帝の曹丕は亡く、二代目の
倭国では早くから中国に朝貢して、王印を授けられた王が強権を以って統治することが行われてきた。大乱の今こそ、強権と統治の正当性を振りかざして、これをまとめなければならない。祈祷師の託宣を受けて、卑弥呼は倭国で長く続く戦乱の時代を終わらせるため、魏に使節団を派遣することを決めた。
倭は周囲を海に囲まれた島国であり、倭国の人々は高度な航海技術を持っていた。卑弥呼の使節団が海を渡り、〝
帯方太守は
倭国からやってきた使節団は
漢魏の時代、先進的だった中国に引き寄せられてやってくる外国人はそれほど珍しい存在ではなかった。西域からはシルクロードを通じて、遥々通商に訪れるイラン系商人たちがいたし、仏教を広めるためにインド方面からやってきた僧侶たちもいた。
後漢の
当時、世界の中心は西のローマ帝国、東の漢帝国であった。
一方で、さらに東の国々からやってきた外国人の記録も残っている。
それは、
また、
邪馬台国の卑弥呼が使節団を魏に派遣した目的の一つは、それら先例に
「もう
その
「よくお分かりで」
「以前
「もうしばらく行けば、海沿いの道に出ます。そう言えば、あなたは以前にも海を渡って来られたそうですね」
「思えば、あの時から遼東は不穏であった。この先どのように進むつもりですか?」
「遼東情勢が不穏なせいで、ここ
護衛兼嚮導役を務めることになった
倭の一行が乗船してきた船は帆が折れ、浸水もひどかった。それは彼らの航海が死と隣り合わせであったことを物語っていた。そのせいもあって、楽浪郡からは陸路を行く
「なるほど。しかし、どうしても遼東を抜けることになりますな」
倭国の使節団の代表である白髪の
難升米は中国来訪は初めてではないし、梯儁が説明したルートもよく知っていた。
「幸い公孫淵は前年から魏の討伐軍と対陣中ですから、遼東の兵は
「そう願いたいものです。今回は公孫氏は素通りですからね。見つからないことに越したことはない」
梯儁の言葉に答えたのは、
実はこの時、遼東半島一帯を支配していた公孫淵が魏から独立して、〝
公孫淵、
倭国の使節団が上洛する場合、経路として必ず遼東を通過することになるのだが、この頃から公孫氏に
それから三十余年、孫の公孫淵の時になって、ついに独立を宣言し、反旗を
ところが、その甲斐も
「楽浪郡に対する国境警備兵でしょうかな?」
危機迫る渦中にあっても冷静な難升米が
魏は公孫淵対策のため、公孫淵に加担する楽浪郡に鮮于嗣を派遣してこれを
「皆様はお下がりください。我等がお守り致します」
緊張が走る。梯儁は剣を抜いて、戦闘も辞さない構えだ。難升米がそれを制して言う。
「お待ちあれ。戦いになれば、勝ち目はない。ここはおとなしく降りましょう」
「ですが、あなた方を無事に上洛させるのが私の役目……!」
「生きてさえいれば、また機会はあるでしょう。我等は今までずっと公孫氏に朝貢してきました。
公孫淵は拘束した一行に倭国の使節団がいると知って、以前と同じように自分に朝貢するものだと思った。使節団の代表の難升米が機転を
とはいえ、戦時中で厳戒態勢が敷かれていたために解放はされず、燕の都である襄平の官舎に留め置かれて
「朝貢品を全て召し上げられたとあっては、無事解放されて洛陽へ赴いたところで、目的が果たせぬかもしれませんな」
「全てではない。ここに一つ残しておいた」
その問いに難升米が言って、腰にぶら下げた小さな革製の袋に視線を落とした。
「おお、
使節団の一人である
「うむ。
邪馬烏薬。それは難升米の更なる機転で収奪を
漢魏時代の名医・
難升米がぶら下げているのは、徐福が求めたという神の山で採れた烏薬を屠蘇散に加え、酒に浸した薬酒、屠蘇酒である。
神の山は「不死の山」とも呼ばれた。〝不死〟と〝富士〟はリンクしている。
彼らは神の山原産の烏薬を入手して、生薬に加工した。それが邪馬台国産の烏薬、邪馬烏薬である。倭国製屠蘇酒に邪馬烏薬は欠かせない。
それが本当に不老不死の効力があるのかどうかは難升米たちにも分からない。
だが、邪馬台国の女王・卑弥呼はこの屠蘇酒を日々服用しており、すでに
その事実を考えたら、卑弥呼自身が特別な存在であることを差し引いても、この邪馬烏薬の屠蘇酒は確かに不老不死の効果があるのではないかと難升米には思えてくる。
「これがあれば、念願は叶うであろう」
難升米が革袋に手をやって、自信気に
「確かにその屠蘇酒は、今や我が国一番の宝と言ってもよいですからな」
伊声耆が頷いて、難升米に同意した。
「……しかし、
都市牛利が脳裏に刻まれていた言葉を思い出し、納得したように
難升米たちは倭国を出発する前に火見という巫女の占断を受けていた。
今回の使節団の派遣について卑弥呼が吉凶を占わせたのだ。
その占断は、「鬼門に見えざる淵藪あり」という一句から始まる。火見は炎を使った
おぼろげながらに見える幻想的かつ断片的なイメージを筋道の通った言葉に起こすのは難しく、火見自身にもそのイメージが何を
「この地は鬼門なれど、決して
難升米は動揺する使節団の一行に振り向いて、冷静に言った。以前の経験から、難升米は「鬼門の淵藪」という一句を公孫淵関連のものだろうと何となく予測できていたのだ。
〝鬼門〟とは東北の方角をいう。陰陽道では、陰気や邪気が集まり出入りするところとされる。確かに魏の都・洛陽から見れば、遼東はまさしく東北の方角に当たる。
「確かに。後は静平に努めておれば、道は開けるのでしたな」
伊声耆が言った。火見の占断には続きがあった。
――――淵に
つまり、吉である。思うようにはすんなり運ばないが、慶事があって、最終的には目的を果たせる。火見のその予見があったからこそ、卑弥呼も使節団の派遣を決定したのだ。
「……しかし、亀も馬も何のことかわからない。誰か人のことを言っているのだろうか?」
都市牛利は新たに生じた疑問、いや、ずっと前から気になっていた疑問を呈した。
「そうだとしても、この地の太守ではないことは確かだな」
難升米が言った。一行の身柄を安堵されたとはいえ、太守の公孫淵が態度を一転させて厚遇したり、帯方太守の劉夏のように護衛兵や嚮導を付けて一行の上洛を助けてくれたりはしないだろう。公孫淵の顔にはいかにも
「
伊声耆が公孫淵の反乱劇を非難するように言って、周りに持参した清めの塩を
「確かなことは分からないが、昔も同じようなことがあった」
官舎の窓から外を見つめ、難升米は脳裏に昔日の出来事を思い出しながら言った。
それは今から三十年前のことだ。若き難升米は三十年前もこうして遼東にあった。
当時の遼東太守は
「その時に我等を助けてくれたのは
勘が
司馬懿、
海を渡り、外国からやってきた難升米が魏国の動向を知るはずもないのだが、難升米のその言葉どおり、この時、司馬懿の大軍がすぐ近くまで迫っていた。
司馬懿が公孫淵討伐の勅命を受け、四万の兵を率いて遼東に到達したのは、景初二(二三八)年六月のことである。緒戦に大勝して遼東郡内に侵攻した魏軍であったが、
司馬懿は遼水西岸に陣を設け、将軍の
「どうした?」
「報告致します。川の水位がどんどん上がっており、このままですと、数日中にも
胡奮、
司馬懿は実戦経験を積ませるために、胡遵や
「水没か……」
司馬懿は何かを思い起こすように呟いた。長雨で、辺りは陰気で覆われている。
そんな中にあるせいか、ここのところ昔日に思いが巡る。過去とは、陰。
毌丘倹が司馬懿に尋ねた。毌丘倹、
「このままここに留まるのですか?」
「当たり前だ。誰が退くと言った」
司馬懿は安易に退却を口走る若き将軍に不退転の決意を見せた。
戦況の
すでに曹操に従って戦の経験を積んだ将軍たちのほとんどが世を去り、魏軍の中にその軍略を知る者は少なくなっている。
「しかし、この異常な天候はどうも我等に天運がないと言われているようで……。 長雨のせいで病兵が増えております。昨年もこのように長雨が続き、病兵の増加と河川の氾濫で進軍が
弱気の毌丘倹が空を暗く覆う雲のように顔を曇らせた。
「病まで
司馬懿は特に感慨なく言った。結末が見えた戦いである。
幕舎の中で毌丘倹と対していた司馬懿は屋根の際まで歩いていくと、そこから手を出し、雨の感触を確かめた。しとしととした
「いかに地勢があるとはいえ、
司馬懿と共に対蜀戦線で戦った胡遵が司馬懿の隣に立って、無言で頷いた。
司馬懿が思い出しているのは宿命のライバル、蜀の
司馬懿は人生でたった二人、自分より才覚が優れていると思った人物と出会った。その一人が諸葛孔明である。その英才を〝龍〟と例えられた孔明は一足先に天へ昇った。四年前のことだ。
良きライバルを失った司馬懿はこのところ感傷的になって、昔を懐かしむことが多かった。あの頃は自分も若く、敵味方問わず、周囲には才覚に
「戦が長引けば、呉の
「おお、孫権か……」
毌丘倹の
孫権の真意を見抜いていた司馬懿は毌丘倹の提言を一笑に付す。
「奴も馬鹿ではない。
呉の
残念ながら、両将軍は何も発見できずに帰国し、怒った孫権は二人を処刑した。
「倭国の者とですか?」
「まぁ、詳しく知らずともよい」
司馬懿は説明するのを避けて、胡奮に命じた。
「陣営を回り、兵を落ち着かせよ。公孫淵は兵を
前年と同じ様に、長雨に
「こんなはずでは……」
司馬懿の強気が公孫淵の弱気を誘う。これは司馬懿と公孫淵の精神力の勝負だ。
青ざめた顔の公孫淵は明らかにそれに負けていた。唯一の希望に視線を落とす。
「
公孫淵が大事そうに両手に抱えるのは、亀をあしらった
所有者に地勢の加護を与えるという神器の一つ、
だが、神器の力が霖雨となって発揮されても、公孫淵が
公孫淵は神器の力に頼るあまり、城内に十分な兵糧さえ蓄えていなかった。
それらを口にしながら、なお頑強に籠城を続けていたが、今度は病気が
「もう、おしまいだ……」
生気を失った公孫淵は弱弱しく言って、
そもそも公孫淵が燕を建国し、魏から独立するという判断に至ったのは、所有者に加護を与えるという仙界の秘宝を手にした
「反逆しておいて、何が講和だ。戦には五つの選択肢がある。戦意がある時は戦い、戦意がない時は守る。守れなければ逃げる。あとは降るか、死ぬかだ。遼東の蛙にはそのようなことも分からんか。降伏しない公孫淵には死あるのみだ。帰ってそう伝えよ!」
司馬懿は乱暴に玄武硯を奪い取ると、
「お久しぶりでございます。司馬懿様」
難升米が司馬懿の姿を見て、中国式の挨拶、
「ん?」
司馬懿が
「お忘れでございますか? 倭国の難升米でございます」
難升米は流暢な漢語で司馬懿に語りかける。見覚えのあるその顔に司馬懿は思わず目を見張り、厳しかった表情が緩んだ。
「驚いた。本当に難升米か」
「覚えておいででしたか?」
「もちろんだ。大分人相が変わったようだが、忘れるはずがない」
司馬懿は旧友に接するようにそう言って、難升米の手を取り、再会を喜んだ。
「無理もありません。あれから三十年の月日が経ちました。司馬懿様もすっかり年を取られた」
「そうだな。
司馬懿は懐かしそうに言うと、難升米の白髪交じりの頭を見ながら、自分の白く伸びた
「ところで、そなたどうして遼東におったのだ?」
ようやく現実の話題になって、難升米は魏に朝貢に向かう途中で難に遭い、襄平で拘束されていたことを話した。
「そうであったか。火見は壮健でいるか?」
「はい。今は女王・卑弥呼のもとで、
「そうか。あの時の少女が立派になったものだな……」
司馬懿はまた昔の情景を思い出しながら、感慨深げに呟いた。
「話は尽きませんが、また後ほどに致しましょう。司馬懿様はお忙しそうだ」
主将の胡遵が今や遅しと攻撃命令を待っている。難升米が気を
「ああ、済まんな。すぐに片付ける故、ゆっくり待っていてくれ」
「はい。ご武運をお祈りいたします」
難升米が言って辞去した。倭国の使者たちがやってきて、天運ももたらされたようだ。長雨が止んだ。川の水も引いた。玄武の加護が失われた証拠だった。
司馬懿は最後の仕上げに取り掛かり、燕の都・襄平を包囲した。そして、わざと公孫淵に逃げ出すチャンスを与え、公孫淵が逃亡したところで襄平を電光石火に制圧した。
逃げ出した公孫淵は捕えられて殺され、燕は建国僅か二年で滅びたのである。
「東のかた
司馬懿が自分より優れていると思うもう一人の人物が、かつての主君・曹操である。玄武硯を手にしながら、司馬懿は曹操が三十年前に遼東のすぐ近くまで遠征したことを
太陽であった曹操が没した後、月である自分の威光が国を照らしている。
しかし、陽光に比べると、月光はあまりにも弱く、心もとない。それでも、やらなければならない。
戦後処理。司馬懿は鬼の所業を断行するために襄平に入った。
遼東は長年公孫氏に支配され、独自の法が敷かれていた。それを一新しなければならない。司馬懿は布告文を書かせるために
虞松は
「
「は……これは何とも見事な硯でございますな」
司馬懿から玄武の硯を受け取った虞松がそれを見て思わず感嘆した。
玄武硯は神器というのを抜きにしても、芸術品として一級の
反逆に加担した兵を全員処刑し、敵兵の死体を集めて
その様子を検分していた司馬懿は再び難升米を呼んだ。難升米もその炎に目を向ける。
「難升米、思い出さぬか? 儂は炎を見る度にあの光景を思い出す……」
「そうですな。あれはたいへんな戦でございました……」
「昔、火見に言われたのだ。あの大火の光景を忘れるなと……」
司馬懿の記憶が再び三十年前に
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