業火のゆくえ 4


 火などなかった。

 そもそも火元になるものなど、周囲にはなかったはずだ。

 しかし、人間ひとりを飲み込める程に大きな火柱が、そこにはあった。


 音もなく燃え上がった火は三つ。

 悲鳴を上げながら逃げ出した男達三人を赤々と揺らめく炎が包み込み、放り出されたシェリアが地面に崩れ落ちる。しかし、舐めるように地面を這い回る火は、彼女には触れない。


 立ち上がる炎に照らし出された銀の髪が、煌々と金に染まる。

 その光景にテオドールは言葉を失い、呼吸も忘れて立ち尽くした。


「――……」


 怯えてうずくまることしかできない姿は、あの日――酒場の裏口を開いた瞬間の姿と重なる。無力で、成す術を持たず、無抵抗で、弱々しい。

 だが、それと同時に銀の髪が、あの日と同じように色合いを変える。


 金色に――魔女の色に、見えてしまう。


 冷たく笑う美しい魔女と、憂いげな彼女は似ても似つかない。

 だが、同じだ。


 同じ顔に、見えてしまう。


 暴れ狂う火柱は、まるでせせら笑うかのように男達を追い掛け回している。熱さと痛みに耐えかねて悲鳴を上げて地面に転がり、必死になって逃げようとする身体にまとわりついて離れない。

 罪が消えるまで、業が溶け落ちるまで、焼き尽くそうとしているかのようですらあった。呼吸ができず苦しげに呻く声。逃れて逃れて、必死に炎から遠ざかろうとする動き。払おうとしては熱に触れ、その苦痛によって悲鳴が上がる。


 顔を上げることさえもできない彼女と、命を踏みにじって微笑んだ魔女。

 あまりにも異なるふたつがひとつに重なって、背筋に悪寒が走ると同時にぞわりと肌が粟立った。


「ひっ……!」


 すぐ傍に男の一人が倒れ込んだ。

 その瞬間にシェリアが悲鳴を上げたことで、テオドールはハッと我に返った。


 男がいくらじたばたと暴れても、炎は消えるどころか火の粉さえも散らない。図書館の火とは、まるで異なる。それが、ただの炎ではないことなど明らかだった。


「シェリア、……シェリア! 見るなッ!」


 彼女のもとに駆け寄ったテオドールは、震え上がって小さくなるばかりの身体を抱き締めた。そして、その小さな身体を抱き上げ、路銀入りの革袋が入った鞄を拾って駆け出す。

 錯乱状態の男達から距離を取るために、テオドールは無我夢中で走った。彼女の後ろ頭に手を添えて、その顔を肩に押し付けながら坂を駆け上がる。


「──っ、わ、私じゃないの、私、私、何も……」

「分かっている」

「ほんと、本当に、私、違うの、私……何も、何もしてないのに……」

「分かっているから……」


 テオドールは、腕の中で泣きじゃくるシェリアを強く抱き締めた。

 火柱が立ち上がった瞬間は見ていない。だが、彼女に魔法が扱えるとも思えなかった。

 もしも、魔法が使えるのであれば、もっと早く使っていたはずだ。

 もしも、魔法を隠しておきたいのなら、今ここでは使わないはずだ。


 可能性を無視したくて、どうしても否定したくて。

 テオドールは、頭の中で幾度も幾度も"魔女ではない"理由を作り上げていた。


 そんなことは、有り得ないのだ。

 彼女が魔女であるはずがない。

 魔女が彼女であるはずがない。


 なだらかな坂の上から振り返れば、暗い中で男達が方々に逃げていく様子が見えた。

 暗い。そう、暗いのだ。

 周囲を照らし出すほど強く燃え上がっていた炎は、もうなくなっていた。


 まるで、役目を終えたかのように。


「……」


 テオドールは、どうすればいいのか分からなくなっていた。

 しかし、震えて泣くばかりの少女を降ろすこともできない。

 自分の手が触れている少女の頭は、その髪は、暗がりでも分かる銀色だ。

 到底、金には見えない。


 もしお守りとして渡されたペンダントの力なのであれば、馬車から引きずり出された瞬間に起きてもおかしくないだろう。

 いいや、その推測自体が間違っている可能性はある。

 何が引き金になったのかなど、魔法に疎いテオドールでは考えたところで分からない。


 荒い呼吸と共に肩を上下させたテオドールは、道の先へと視線を転じた。

 緩やかに続く下り坂。

 その向こう側には、小さな町が見えている。

 森を抜けたすぐ先の街道沿い。宿場町だろう。

 見えている範囲に町があった事実に、テオドールは安堵の吐息を漏らした。


 男達の様子からするに、荷物は散乱していることだろう。馬車も放置されている。

 だが、戻ろうとは思えなかった。


 幸いにも、必要なもの――剣も路銀も取り戻している。

 他に持っていたものなど、必ず必要となるものでもない。

 あとから買い足しても、問題がないものばかりだ。

 そもそも、自分達の荷物自体が少ない。


「……」


 ――言い訳だった。


 火柱が立ち上がった現場に戻りたくない、陳腐で稚拙な言い訳。


 テオドールは歯噛みして、シェリアの身体を強く抱き締めた。

 炎は、彼女の身体を避けるように動いたように見える。しかし、それは単純に男達が駆けずり回っていたせいでもあるだろう。

 彼女だけではない。テオドール自身にも、火は迫って来なかった。


 緩やかに通り過ぎる風に乗って、焼け焦げた臭いが鼻を掠めた――ように感じられる。


「……シェリア」


 テオドールは、彼女の名を呼んだ。

 努めて冷静に平静に、何でもないことのように。

 これ以上、彼女を怯えさせないために。

 普段通りの声を出そうと、テオドールは何とか喉を震わせた。


「もう、大丈夫だ」


 それは、テオドールが自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。

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