業火のゆくえ 3


 ――それは、水の中だった。

 淡く上がっていく気泡が見えている。

 吐息を漏らせば、更に気泡が増えていく。

 見つめる先の水面から、キラキラと光が差し込んでいた。


 ゆっくりと、少しずつ沈んでいく。

 息は苦しくない。だが、声も出せないままだ。

 四肢は動かない。指先一本たりとも、力が入らなかった。

 少しずつ、少しずつ、ただ水面が遠ざかっていく。


  ――シェリア――


 彼の、テオドールの呼ぶ声が聞こえた気がした。

 そこにいるの。どこにいるの。どうして。ここはどこなの。

 声にならない言葉を出して、水面に手を伸ばそうとした時だ。


 真後ろから伸びてきた二つの白い手が、口許を覆った。

 水中で揺らぐ銀の髪に、金色が混ざり込む。

 息を飲むことさえできないまま目を瞠る。


 シェリアは、逆さまに覗き込んできた誰かの顔を見た。


『――ほら。御覧なさい。なんて無様なのかしら? ……ああ、本当に。くだらないわね』


 笑っているのは、金の双眸。

 水中に広がっていくのは、金色の髪。

 笑みを形作る唇。そして、冷たい手と白い肌。


 開いた唇からは、細かな気泡が固まりとなって水面へと舞い上がって――




「――……っあ」


 水中へと引きずり込まれた瞬間――目が覚めた。

 夢だ。あの夢は、知っている。いや、本当にそうなのかは分からない。

 ただ、図書館で火が出る直前に見ていた夢とよく似ていた。

 起き上がれば、宿の一室ではなく馬車の中だ。

 一瞬ばかり、今の状況を理解できなかった。


 確か馬車に乗って。

 水を飲んだら、眠たくなって。

 それから。

 それから――どうだったか。


 激しく暴れる鼓動を抑えながら、視線を巡らせていく。


 しかし、テオドールの姿はない。


 もう日が暮れたのだろうか。

 周囲は、少し薄暗くなっていた。

 前方にいたはずの御者もいなくなっている。

 停止した馬車の中に、取り残されたようだ。


「テオ……?」


 何も言わずに彼がいなくなったことなど、今までにはなかった。

 妙な静けさが不安で、そっと呼びかけてみる。

 そこでやっと、馬車の外に人の気配があることに気が付いた。


 一、二、いや、三人か。

 それならば、同行者と明らかに人数が合わない。馬車に乗っていたのは、自分達と御者だけだ。

 外から聞こえて来た声は、テオドールのものでも御者のものでもない。


 乱暴に引き上げられた幌の向こう側にいたのは、見知らぬ男二人組だ。


「オイオイ、まだ荷物が残ってんぞ」

「やっぱ嘘ついてやがったな!」


 げらげらと、品のない笑い声が周囲に響く。

 身を竦ませたシェリアは、指で示された瞬間に喉が詰まる心地を覚えた。


「ほら見ろ、やっぱオンナだ」

「あァ? まだガキじゃねェか」

「初物の方が高いっていうだろ?」

「そりゃ好き者の話だろうがよッ!」


 何が起きているのかも分からないまま、腕を引っ張られた。

 僅かばかりの抵抗など何の意味もない。

 呆気なく馬車の外へと引っ張り出されたシェリアは、あまりの恐怖に声も出せなくなっていた。


 見る限り、男達は商人でもなければ旅人でもなさそうだ。

 ならば、何なのか――。脳裏に浮かんだのは、御者が口にしていた「盗賊」の文字。


 手首を掴む男に差し出された先で、髭面の男に顔を覗き込まれたその時だ。


「――触れるなッ!」


 テオドールの怒鳴り声が響き渡り、何かを地面に叩きつける音がした。

 頬に触れようとしていた髭面男の太い指先が止まる。

 振り返った男の向こう側。

 そこには、二人組とはまた別の、細身の男を地面に叩き付けたテオドールの姿があった。


「テオ……!」

 

 堪らずにシェリアが声を上げるが、手首を掴む男は手を離すどころか力を込めた。締め付けられるような痛みに眉を寄せて視線を持ち上げれば、男はニヤニヤと笑っている。


「オイオイ、兄ちゃん。乱暴はよくねェぜ。うちの三男坊を離してやってくれや」


 髭面男は、動かなくなってしまった細身の男について心配した様子などない。

 むしろ、揶揄の材料にしている有様だ。


「荷物はソレで全部って言ったよなぁ? じゃあ、こいつは何だろうなぁ?」


 手首を掴んでいる男もまた同様だ。

 逃げてしまったのだろうか。周囲に御者の姿はなかった。

 シェリアの手首を掴む男、その脇にいる髭面の男、そして傍らで棒立ちになっている中年男――足元に転がっている者を除けば、三人だけだ。

 しかし、二人組がシェリアの傍にいることでテオドールは手を出せなくなっている。


 テオドールは舌打ちをした。


 盗賊と遭遇したことよりも、御者が馬と逃げてしまったことが最悪だ。

 幸いにも、というべきか。男達は、客がテオドールだけだと勘違いしていた。それならば荷物を引き渡すことで気を引き、馬車から遠ざけようとしたのだ。

 だが、男達にシェリアの存在がばれてしまった。


「……彼女は荷物ではない」


 テオドールは地面に叩き付けた男の頭部から手を離して、ゆっくりと立ち上がった。彼の剣は、傍らに立つ中年の男が持っている。


「そりゃそうだ! こいつは上玉だもんなぁッ! 荷物どころか立派な"商品"だ!」


 げらげらと笑い声を上げた男は、シェリアの腕を更に引っ張った。

 明らかに痛がっている様子を楽しんでいる。


「オンナは楽でいいよなぁ。ガキだろうがババアだろうが、オンナってだけで役に立つんだからよ」


 下劣な笑みを浮かべた男は、明らかに怯えているシェリアに顔を近づけた。そして、傷跡のない白い肌をじっくりと眺めたあとで「値が張りそうだ」と笑う。

 髭面の男は随分と幼さを残している少女には、あまり興味がない様子だ。


「……おい。それ以上、暴れるなよ。ガキがどうなっても知らんぞ」


 傍らに立つ中年男からの忠告に、テオドールは歯噛みした。

 もう少し早く、気が付いていれば。せめて、御者が逃げてしまう前に引き留めていれば。

 あるいは、彼女だけでも逃しておくべきだった。


 いや。後悔しても意味などない。

 最善を考えなければならない。

 いいや。最善でなくとも、最悪だけは避けなければならない。

 彼女を傷つけずに助ける術は、この距離を縮めるためには――。


 テオドールは考えを巡らせながら、中年男を睨み見た。

 珍しい色合いのためか。

 男の視線は、傍らのテオドールではなくシェリアに向いている。

 つまり、武器を奪い、彼女を人質にした時点で、男はテオドールを戦力外と見なしたのだ。二人組はシェリアに気を取られている。


 三人対一人。

 ならば、相手の人数を減らすしかない。


 一拍の呼吸を挟んだテオドールが中年男に殴りかかり、強引に剣を奪い返した次の瞬間――。


「――……っ!」


 シェリアの悲鳴と同時に、深紅の火柱が立ち上がった。

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