第4話 この胸の痛みは何だろう

「まぁとにかく、そのエビやくの眼鏡は諦めろよ。その梧桐先輩がどう思ってるのかは知らねぇけどさ、眼鏡の方は本気かもしれねぇし」

「うう……ううう……」


 最後の一枚を手に取って、それをまじまじと見つめる。

 バレンタインや、誰かの誕生日に幾度となく作っては、残りを押し付けられてきたクッキーだ。だけど例えば勉強に行き詰まった時にも差し入れとして持ってきてくれたこともある。受験の時なんかが特にそうだった。

 

「なぁ、これってさ、何のために作ったんだ?」


 姉ちゃんの目の前でそのクッキーを振る。そのくりくりとした丸い目がそれに注目したのを確認してから、ぱくりと食べた。


「何のためにって言われるとなぁ。特に何のためとかないよ。ようとお話するのにあったら良いかなって思ったし、私も食べたかったし、それに作ってる時はこう……こっちに集中出来るし……」

「成る程ね。わかったわかった」


 何かの漫画でも見たことがある。料理をする時は悩んでたこととか忘れられるんだー、とかそういうの。

 だから姉ちゃんは、俺と話すのに、とか、自分も食べたかった、とは言うものの、結局、そいつのことを考えたくなかったからこれを作ったのだろう。


 じくり、と胸が痒くなる。Tシャツの上から掻いても、何だか治まらない。ここじゃないんだろうか。確かにじくじくと痛痒いのに。


「どしたの? 痒いの?」

「うん。何だろ。変な出来物でもあんのかな。それとも虫に食われたかな」

「見せてごらん、シャツまくって」

「うえぇ。良いって。子どもじゃねぇんだから、自分で見るし」

「良いから。薬塗ってあげるから。ほら、早く! 立って!」

「へいへい……」


 ぺらり、とシャツをまくる。

 汗臭くないだろうか、という点が気になる。俺達男子高生という生き物は、悲しいかな、汗の臭いとお友達らしい。クラスの女子が言ってた。だから俺の友人の中にも女子に気遣って制汗スプレーやら汗拭きシートやらを常備しているやつもいる。

 しかしそうやって小まめにケアしているやつほどモテない。たまたまかもしれないけど。何だよ、お前ら結局キャーキャー言うのって部活で汗まみれになってる武原とか神崎とかなんじゃん。あいつらなんてそんなレモンの香りとかしねぇぞ。頭から水をジャージャーかぶってタオルで拭いてるだけじゃねぇか。


 結局のところ、彼女らにとって臭いなんてものは、そりゃ減点対象にはなるんだろうけど、かといって致命的な欠点になるわけでもなかったのだ。要は、そいつのことが好きならそんなのは些末な問題だし、何とも思ってないやつなら不快なだけ、というか。


「ねぇ、どこ? どこも赤くなってないよ?」

「まじ? おかしいな。左のさぁ……、ここ、この辺」


 とんとん、とその箇所を指差す。左胸、心臓のところと言えば良いだろうか。


 その部分に、ひたり、と姉ちゃんの指先が触れた。くすぐったさで、というのか、おかしな声が出そうになって、ぐっとこらえる。


「なぁんもなってないよ? 赤いポチっとかないし、腫れてもないし。陽がさっき掻いたあとがあるくらい」

「そっか。そんじゃ服の方に毛でもついてたかな」

「あぁ、髪切った時とかちくちくするもんね。あるある」

「そんな感じだろ。そういやこないだ髪切った時にこれ着てったかも」

「ちゃんと洗いなさいよねぇ」

「洗ってるよ、母ちゃんが」

「もう高校生なんだから、自分で洗うの!」

「そういう姉ちゃんだっておばさんに洗ってもらってる癖に」


 意地悪な顔でそう返す。

 知ってるんだぜ、俺は。へへん。

 

「し、下着は自分で洗ってるもん!」

「下着だけじゃんか」

「何よ! 陽は自分のパンツすら洗わない癖に!」


 ちくしょう、言ったな。しかし事実ではある。


「よしわかった。そこまで言うなら、今日から俺は自分のパンツは自分で洗う」

「よろしい」


 偉そうにふんぞり返っているその得意気な顔が何だか腹立たしい。


「――あ、そっか」


 そこで気が付いた。


「どうしたの?」

「いや、ほら、こないだブラジャー飛んできたじゃん。そういうわけか。姉ちゃんが干したから飛んできたんだな、へたくそ」

「ちょ!」

「でもあれから飛んでこねぇってことは、学習したわけだ。偉い偉い」


 皿とカップをシンクへと運ぶ。せっかくだからちゃっちゃと洗っちまうか、とスポンジに洗剤をつけた。


 はて、やけに後ろが静かだ。

 そう思いながら振り向くと、姉ちゃんはテーブルの上に突っ伏していた。ぺたりと頬をつけ、恨めしそうにこちらを睨んでいる。


「何だよ」

「よりによって、何であれ見たのよぉ」

「あれって何」

「もっちウサコ」

「もっちウサコ……ああ、あのブラジャーな」


 そうか、そんな名前だったな、何かだらんとした、暑さで溶けてるみたいな顔のウサギだ。クラスでも、女子のストラップやらスマホカバーやらでよく見かける。


「あのねぇ! ああいうのは、あれだけだから!」

「ああそう」

「ああそう、って、陽が言ったんじゃん!」

「はぁ?」

「もっと色気のあるやつにしろって、言ったもん!」

「あー、言ったな。いや、言ったけどさ」

「すっごいのもあるんだから!」

「何、すっごいのって。紐?」

「ひっ……?! 馬鹿! 紐なんかでどうにか出来るわけないでしょ!」

「いや、紐っていうのは……まぁ良いや」


 何だかよくわからない話になって来たなと思いながら、レバーを上げ、水を出す。泡をきれいに落としてから、洗い終えた食器を水切りかごの中に伏せた。



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