3. (trois)
早朝のシャルル・ド・ゴール空港に降り立ち、老夫婦と別れると、カフェでパンとコーヒーの朝食をとった。
パンの本場のクロワッサン、と少しはそわそわしていたけど、甘くて美味しいとはいえまあクロワッサンだな、という何とも言えない感想を持った。
そして周囲に気を配りながら、こそこそと薬を飲む。
周りに黄色人種が一人も見えなくて、どうせ薬の名前を見ても誰も読めないじゃないか、とは分かっているけれど。
私は心療内科に通院している。つまり、そういう薬だ。
先月から通い始めたところで、会社では内緒にしている。薬だって人目の付かない所で飲むようにしている。
遠慮や
パリ市内へ出る方法はいくつかあるみたいだけれど、私は電車を選択した。ホームに思ったより人がいないのは気がかりだけど、安くて速いのが一番だ。
路線図だけは確保した。市内の乗り換えは複雑そうだけれど、東京暮らしを舐めるな、とほくそ笑んでいた。
電車が地上に出てしばらく経った頃、周囲に広がる光景に唖然とした。
線路上や近辺にあるあらゆる壁という壁、電気系統の何かや陸橋や民家の外壁や、それらの全てがスプレーによる汚いラクガキで埋め尽くされていた。
日本の都会で見るようなラクガキと似ているとは言え、その量と、エネルギーが比べ物にならない。
微かに残っていた眠気なんて吹き飛び、駅ごとに乗り込んでくる黒人や浅黒い顔の人物が全て訳アリに見えて、私はリュックサックをぎゅっと抱きかかえた。失礼だよ、と思いつつも、何かあってからでは遅い、と警戒心が最大まで高まる。
あの老婦人たちはどうやって市内へ向かったのだろう。本当に、この街に素敵な出会いなんてあるのだろうか。
不安がって俯いていたけれど、ふと、右側前方に小高い丘が見えてきて顔を上げた。
息を呑んだ。
頂上で、純白の、少しエキゾチックな雰囲気のある建物が、朝日を浴びて佇んでいる。
さすがに知っている。サクレ・クール、モンマルトルの丘の象徴だ。
そして、モンマルトルはムーラン・ド・ラ・ギャレットがあった場所。
ああ、ここは確かにパリの街なんだ。
まるでドラマのアバンタイトルのように姿を見せたサクレ・クールが、やがて周
囲の石造りの建物に隠されて、電車はパリ北駅へと入場する。
私は少し希望を取り戻していた。きっとここから、素敵な旅が始まる。
☆☆☆
はずだった。
パリ北駅で乗り換えて市内中心部へ向かうつもりが、駅の中で迷ってしまった。
地上にも地下にも驚くほど人が多い。どこからこんなに、と思ったけれど、どうやらここはパリ市内のターミナルの一つで、ヨーロッパの各地と繋がる玄関口でもあるらしいのだ。
人波なんて新宿や渋谷で慣れているけれど、周りの人がほぼ全て背の高い外国人となると話が違う。道を聞ける自信がないし、聞いてもお金を騙し取られるかもしれない。ひったくりに遭うかもしれないし、性犯罪なんかもあるかもしれない。
ここは外国で、私は一人なのだ。
なんで、私は、こんな所にいるのだろう。
パリに出かけていなければ、会社へ出勤して、ほとんど人のいないオフィスに一人でモニターを見つめて、お弁当を食べながら資料の誤字脱字を確認して。
何をしても地獄じゃないか。
私が目指したはずの世界は、どこまで行っても地獄なのだ。
涙をなんとかこらえてうろうろしていると、浅黒い顔の小さい男の子が駆け寄ってきて、何か声をかけてきた。
物乞いか押し売りだろうか、そんな風に警戒していると、母親らしき人が彼の手を取った。彼女からJapanese? と言われて、私は何度も頷いた。
「もしかして迷子ですか?」
英語でそういうニュアンスのことを言われた。私はバカの一つ覚えみたいにうんうんと首を縦に振る。
「行き先は?」
「オルセー美術館、だからB線で南、だと思うんですけど」
たどたどしい英語で言ったが、通じたようで、彼女は表情を渋くした。
「サン・ミッシェルで乗り換えるつもりかしら? あそこ、今は工事中なの。着いてきて」
先を行く彼女に着いていくべきか、やっぱり何か騙されているのか、迷いに迷ったが、もし本当に工事中なら本格的にどうすればいいか分からない。
もうどうでもいいや。フル回転していた思考が止まり、私は彼女に全てを委ねることにした。
薄暗い地下通路を長々と歩く。
彼女は色々話しかけてくれる。元はシンガポールにいた。数年前から夫のビジネスに付き添ってパリで暮らしている。途中まで方向が一緒だ。そんなことを言われても、口ではなんとでも言える。私は最小限の返事だけをした。
このままどこか地下組織のアジトに放り込まれて、人身売買されてもおかしくはない。
子供がきょろきょろと屈託なく道行く人々を見ているのだけが、心の癒やしだ。
結局拉致監禁なんてされることもなく、私たちは駅のホームに降り立った。駅名が違う、と思って調べてみると、一応パリ北駅の乗換駅らしい。
「オルセー美術館はここから行けるわよ」
彼女が私の見ていた地図を指差す。確かに途中で乗り換えればその駅へ出られる。「オルセー美術館駅」ではないけれど、充分近そうだというのは理解できる。
「あの、ありがとうございます」
今さらになって私は礼を告げる。なんて失礼な観光客だったんだろう、と私は自分を恥じたが、彼女は優しく微笑んで首を横に振る。
「女の子にパリ北駅は危ないから。私も初めて来たとき、鞄を盗まれそうになったわ」
「実は、ちょっと、怖かったです」
「泣きそうになってたわよ」
彼女がおどけた感じで泣く仕草をするのを見せる。子供もそれを真似して、私は気恥ずかしく笑った。
電車内には、真っ白な顔の女性も、赤ら顔のおじさんも、インテリ風な黒人男性も、中国系に見えるカップルも、色んな人がいて、私はつい物珍しく眺めてしまう。
「パリには色んな人がいるし、色んな文化があるわ。空港からは電車で来たんでしょ?」
「はい」
「いっぱい落書きがあったと思うけど、たぶん、あれすらも一つの文化なのよ」
いや公共の福祉に反しているのでは、と思ったけれど、適切な英語が出てこない。
だけど、じわじわと私は理解していく。
印象派の絵画だって、元々は貧しい画家たちの必死の努力で今の地位まで高まったらしいじゃないか。びっしりと隙間なく埋め尽くされた落書き。ああいうエネルギーに溢れた所から、次の何かが生まれたって、おかしくはない。
飛行機で会った老婦人の言葉。今また、実感を持って蘇ってくる。
素敵な出会いに満ちた街よ。
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