2. (deux)
「お嬢さん、一人?」
携帯を鞄にしまうと、隣の座席の老婦人が話しかけてきた。
「はい。しかも、実は初めてなんです」
突然のことで面食らったけれど、意外にもすらすらと喋ることができた。
「あらそうなの。いい街よ、パリは」
口調やシワの感じから、六十代半ばくらいだろうか。服装は落ち着いているけれどいい素材のもので、鞄も当然のように高級ブランドの本革。だけど、全く嫌味がない。
「あの、パリにはお詳しいんですか?」
「ええ。昔はそこの旦那と住んでいたのよ」
ふと見ると、彼女の隣に白人の老いた男性が座っており、興味津々な様子で見られている。どういう過去だったかは分からないけれど、とりあえず納得してみせた。
「一人旅だなんて、海外旅行にはよく行くのかしら?」
「あの、それなんですけど」
初めてなんです、と伝えると、あらまあ、と老婦人は大げさに驚いてみせた。隣の旦那さんにも伝えると、彼は目を見開いて驚く仕草を見せた。
「どうしても、行きたかったんです。それで、勢い余って。ちょっと、バカだったかなって、今さら後悔してるんですけど」
こんな所でほのぼのと知らない老婦人とお話してるだなんて、本当に何してるんだろう、と自己嫌悪も混じってくる。そもそも一週間の仕事で疲れ果てている状態。というより、本来は明日の土曜日だって仕事をしないと間に合わないはずなのに、投げ出してきてしまったのだ。
「若さの勢いっていうのは、大事よ」
老婦人は、穏やかな目で見つめてくる。
「若いときの衝動に蓋をすることは、注がれたばかりの葡萄酒の薫りを楽しまないようなものよ」
しゅぽん、と脳内でコルクの弾ける音がした。
「何かの名言、ですか」
「さあねえ」
彼女は旦那さんを横目でちらりと見た。日本語をあまり解していないのか、彼はなんとなく微笑んでいたが、なるほどね、と私は頷いた。
「素敵な出会いに満ちた場所よ。どうか、良い出来事があらんことを」
そう言って、彼女はアイマスクと耳栓を装着した。私も目を閉じて、舌の上に漂う、上品なワインのようにしっとりとした風味に浸ってみる。
既に、素敵な出来事が起こってしまいましたよ、マダム。
☆☆☆
私は、人間不信に陥っていた。
就職活動に失敗し、なんとか入った会社で配属されたのは、女性が少ない部署だった。
時代遅れのセクハラ紛いの発言ばかりの男性や、逆に体育会系男性と同じ勢いで仕事を振ってくる上司にも、応えていた。土日出勤で趣味ができなくなったことも、しんどかった。
だけど一番辛かったのは、同じ部屋の女性陣からはみ出し者にされたこと。
部署も違う彼女たちは、ほとんど真面目に仕事をしていなかった。それなのに、ミスの多い私を陰であざ笑っていて、書類の不備にもネチネチと言ってきて、なぜか仕事を押し付けられたこともある。きっと、カモとなる女の新人が他にいなかったから。
でも、ある男性の先輩だけは違った。
私に気遣って、私のミスも優しくカバーしてくれて、私が注意されているとやんわりと周りを諌めてくれた。土日出勤の日には一緒にご飯も行ってくれたし、愚痴も黙って聞いてくれた。
本当にいい人で、気持ちが、なんというかぽろっとしてしまうには充分すぎた。
ある日、給湯室の近くでひそやかな話し声が聞こえた。また私のことだろうか、と物陰で耳をそばだてていると、あの男性の先輩の声が聞こえた。
気になってそっと顔を覗かせると、彼は私の同期の女子とキスをしていた。
彼女は、やめてくださいよ、と言いながら、まんざらでもなさそうにしていた。
そして彼は、私といるときには絶対に見せないような、とろんと甘ったるい笑みを浮かべていた。
ああ、そうなのか。私に構っていたのは、ポイントを貯めるためだったんだな。
もう誰も信じられない。
私は、ひとりきりで仕事をするようになった。
夜の東京のオフィス街を歩きながら、何度同じ涙を流して、同じ溜め息を漏らしたことだろう。
口元からこぼれた私の夢のかけらのような物が、せめて星にでもなってくれたら救いようがあるのに、淀んだ都会の空には一つも星が煌めかない。
せいぜい辺りの街灯に吸収されて、私と同じような社畜たちの帰路を仄かに照らす明かりにしかならない。
夜の中に埋没する日々が、続いていく。
オフィスの窓から見える夜の世界に、吸い込まれようかと思った。
終電の目もくらむようなヘッドライトに、吸い込ませてもらおうかと思った。
そんなある日、私は夢を見た。
どこか知らない街角に、私は立っていた。よく晴れた日だ。
周りにいるのは、スーツとハットを身に着けた男性、爽やかな白やピンクのドレスを着た女性、舞台上で陽気に演奏する男性たち。すました顔でダンスをしたり、愛の言葉を囁き合ったり、パイプを美味しそうに吹かせていたり、頬を赤らめて見つめ合ったり。
目を覚ました私の目から、気持ちが悪いほどに涙がこぼれ落ちていた。
壊れた信号機のようにチカチカした脳内、部品の取れた蛇口のように水が溢れる両目、傷ついたレコードみたいに不規則な嗚咽をこぼす口。
昔見た絵だ、と気付いたのだ。
初めて一人で東京に来た日に、美術館で見た絵だと。
あのときまでは、美術なんて、正直興味もなかった。
大学三年生のとき、あの日東京に行ったのは友人と別の用事があったからだけど、時間を潰せそうな場所として近くの美術館を訪ねた。暑い夏の日で、なんだか涼めそうだと思ったのもある。
美術館なんて地元のこじんまりとした所しか知らなくて、あまりに高い天井と広い空間に、私は東京の本気を垣間見ていた。
次にチケットの値段にも目玉が飛び出そうになったけど、珍しい企画展をやっているということで、せっかくだからと奮発した。名前くらいは知っている画家だったから、見ておいて損はないのだろう、という程度の心持ちで。
真っ暗な空間に入ると、一つの壁に一枚ずつ大きな絵がかかっている。平日の昼間なのにそこそこ客入りはあるようで、みな熱心に鑑賞していたけれど、ピンと来なかった私は足早に、
行こうとして、正面に堂々と飾られていた絵に魅入られてしまった。
ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」。
鮮やかで賑やかな昼の光景と、スポットライトの漏れた光に映る暗い壁が上手く調和している。
私はしばらくその場から動けなかった。
人間の表情も、木々も、飾り付けも全てがリアリティに溢れていて、観れば観るほど鳥肌が立ってくる。
絵に興奮を覚えるなど、初めてで、衝撃的な経験だった。以降、私は趣味の一つに「美術館」を加えることになるくらいに。
夢を見た私は、だから、最後に、と思った。
壊れてしまう前にまたあの絵に会いに行こうと、とっくに壊れている頭で思った。
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