10 空

 週が明けた月曜日の放課後。

 いしたきけいいちは高等部の校舎一階にある学食でダラダラと冷や汗を掻いていた。


 都会にあるお洒落なカフェみたいな店内は、期末テストの一週間前という事もあって人影は先週よりもまばらだった。適当な音楽でも流れていればまだ気が休まるのだが、こういう時に限って放送部の放課後放送局はお休み。観葉植物や調度品の配置から個室のようになっているテーブルに座り、カラカラに乾いた喉をアイスコーヒーで潤す。


「つまり、詳しくは話せないって訳だね」


 顔よりも大きなパフェをスプーンで突っつきながら、正面に座ったばやしあやは憮然と唇を尖らせた。はむっとアイスクリームを口に入れた瞬間だけ表情が和らぐのだが、すぐにまたむふーっと不機嫌そうに頬を膨らませる。事件の内容を秘密にされてご立腹という訳だ。


「話せない代わりに、経済的なアタシじゃ絶対に注文しないであろう高級パフェを奢るから、色々と水に流してくれと」

「そう言う事でございますハイ」

「……キャットちゃんから、随分と報酬をもらったんだね」

「いやー、多分あれは口止め料なんじゃねぇかと。そもそも、俺だって衝撃的過ぎて心の整理ができてねぇしよ」


 明確な記憶があるのは、商業地区マーケットの雑居ビルの一室で青い絶望ブルー・アンハッピーと会話していた時まで。おそらくは意識をのだろうが、気付いたら学生マンションの自室のベッドの上で寝ていたのは謎だった。


 玄関扉に付いているポストからは、一通の封筒が投函されていた。中に入っていたのは十万円分の紙幣と『あーしの事は秘密だにゃん♡』と書かれたメモ。考えるまでもなく差出人はキャット。今回の一件について、あのふざけたネコミミ情報屋の関与を第三者に話すなという警告文だろう。面倒な秘密を抱え込んでしまったと頭を抱えて、しばらくその場にうずくまってしまった程だ。


 これは完全な推測になるのだが、キャットは石瀧圭一を使って青い絶望ブルー・アンハッピーの秘密を探ろうとしたのではないか?


 何らかの方法を使って、青い絶望ブルー・アンハッピーか、彼女に『仕事』を与えた組織の存在を認識。彼らがしず界力活性剤アークマイムに関する事件を阻止しようと動く事を知り、なんちゃって探偵という素人を現場に送り込んだ。きな臭い裏側に殆ど関わりがなく、全く下心のない石瀧ならば、青い絶望ブルー・アンハッピーも価値のない誤差イレギュラーとして見逃す可能性があるからだ。


 そう考えれば、一般生徒に毛が生えた程度の力しか持たない石瀧に依頼した理由にも納得がいく。それに口止め料にしては多い紙幣の枚数も、青い絶望ブルー・アンハッピーの情報を買う代金だと考えれば辻褄が合ってしまう。青い絶望ブルー・アンハッピーの情報なら高く買い取ると言われているし、あながち荒唐無稽な予想という訳でもないだろう。


 ソフトクリームに刺さったビスケットを引き抜きながら、探偵事務所の経理担当はじとーっとろんに両目を細める。


「そうやってー、適当な言い訳をしてー、ケー君はまたアタシに秘密を作っていくー」

「だからこうしお詫びの気持ちを表現してるんだろ? なあ頼むから、いい加減に機嫌を直してくれよ」

「パフェ一つで解決できるとはアタシも安く見られたものだねぇ。でも、許してあげようなんて思い始めたアタシもアタシか。ケー君も酷い男だよ。惚れた女の心に付け込んで、都合良く弄ぼうとするんだから」

「被害妄想が過ぎやしねぇか……俺、そこまでクズになったつもりはねぇんだけど」


 実際の所、どこまで話していいか判断が付かないというのが本音だった。

 界力活性剤アークマイムにしても、青い絶望ブルー・アンハッピーにしても、絶対に公にはできない情報だ。然るべき機関から口止めの通達でもあると踏んでいたのだが特に何もない。気になって日曜日の昼間に雑居ビルまで行ってみても、警察によって立ち入りが禁止されていたため情報は得られなかった。


 青い絶望ブルー・アンハッピーは、これが『仕事』だと言っていた。

 ならば、界力活性剤アークマイムの一件はどこかの誰かが適切に対応してくれたのだろう。当事者であったはずなのに、今ではすっかり部外者。何かができる訳ではないとは言え、出る幕が全くないというのも少しだけさびしいと思うのは傲慢だろうか。


「(……結局、俺は何もできなかったよな)」


 キャットから依頼されていたしずの調査は、情報こそ仕入れられたものの当人が行方不明では意味がない。後でキャットに確認するつもりだが、知った所でできる事はないだろう。助けに入ったさかいそらそらも囮捜査の途中であり、結果的に余計な手出しをしただけだった。


 あの時、あの場所に、自分は必要ではなかった。

 世界にとっての『何者』でもなく、結末に介入できる存在ではなかった。


「どしたのケー君、なんか機嫌が良さそうだけど?」

「……そんな風に見えるのか?」

「うん。なんかすっごく嬉しそうだよ」

「そっか……でも、そうなのかもしんねぇな」


 散々な結果だったが、得たモノはあった。


「そう言えば、まだ小林にお礼を言ってなかったな」

「お礼?」

「ありがとう。小林が俺を認めてくれたおかげで、俺は前に進めるだけの自信を手に入れられた。これだけはちゃんと伝えておかねぇとって思ってたんだ」

「え、なになにケー君が急にデレた!? もしかしてフラグが立った!? やっと、やっとだよ! 今までの苦労が報われる瞬間が来たよ!!」


 きゃーっと両手を頬に当てて首をブンブンと横に振るう。いちいち訂正するのが面倒になって、一人で盛り上がっているが放っておく事にした。


「(あの一歩。境目を助けようと踏み出した小さな一歩は、今回の一件の確かな成果だ)」


 記憶に焼き付いている『赤色』は、やっぱり眩しくて、途方に暮れる程に遠い。だけど、今はその距離に絶望していない。漠然と前に進むのではなく、しっかり自分の現在地を受け入れて、少しずつでも歩き出せるようになったから。


 まだ『本物』になれなくてもいい。

 今は『贋作レプリカ』になれれば、それでいい。


 きっとこれからも、『あの人』の真似をして探偵なんて胡散臭い商売をしていれば色々な騒動に巻き込まれるのだろう。その時に後悔のない選択を繰り返していけばいい。そうすれば、いつかは絶対に憧れの背中に追い付ける。今はそう実感できるようになった。


 道のりは長い。

 まだ歩き出したばかりだ。


 そう思いながらコーヒーを飲もうとしてグラスを持ち上げた瞬間――


「……っ!?」


 目線を上げた先にいた人影を見て、思わず声を失ってしまった。


 顔のラインを隠す程度の黒髪ショートカットに、猫みたいにしなやかで小柄な体。縁のない眼鏡が幼い顔に知的さを加えている。茫洋とした黒い瞳に、透き通った水のように清らかな空気感。美術館に飾られている像よりも整った容姿からは、氷で創られた野花みたいに儚い印象を受けた。

 

さかいそら!? どうして、ここに……」

「どうしては酷いですね。もう一人のわたくしから言われたでしょう? またお会いしましょうと」


 くすっ、と白魚のような指を添えて淡い色の唇を綻ばせた。

 何気ない仕草なのに、名家のお嬢様が社交界で披露するような品格を感じる。それは青い絶望ブルー・アンハッピーとは別の意味で周囲の景色に溶け込めておらず、無意識に視線が惹き付けられる異彩さを放っていた。


 死に損ないの神様と自己紹介した青い絶望ブルー・アンハッピーが、最もヤバいと表現した正真正銘の『本物』。底の深さを測ろうとしても、逆に闇に飲み込まれそうな恐怖に苛まれる。こちらに近づいてこられるだけで、正体不明の圧力に心臓が圧迫されてしまった。


「……一体、何をしに来たんだ?」

「探偵をしているとソラから聞いていましたので、早速様子を見に来ました。お願いしたい事もありましたし」


 内側に秘めたモノからは想像できない程に人懐っこい笑みを浮かべて、境目は控えめな胸の前で両手を組む。


「圭一さん、わたくしを探偵事務所の一員にしてくださらないかしら?」

「は、はあっ!?」

わたくし達は同類です、方向性は正反対ですけれどね。ですから、いお友達になれると思うのです。圭一さんもソラの力は知っていますし、悪い話ではないと思いますけれど?」

「ちょ、ちょっと待ったあーーーっ!!」


 スプーンを口に加えたまま呆然と固まっていた小林が、バンッとテーブルを叩いて立ち上がった。欲しいオモチャを前にした子どもみたいに両目をキラキラとさせる境目へズンズン近づいて行って仁王立ち。びしっ、と鼻っ面に人差し指を突き付ける。


「黙って聞いていれば勝手な事を! てか貴女は一体誰なんだいっ!!」

さかいそらと申します。先日、圭一さんに危ない所を助けていただいたのです。探偵をされているとお聞きしましたので、お礼も兼ねて是非ともお手伝いしたいと思いまして」

「お礼なんて必要ないよ! ケー君なんかに気を遣う必要はないね!」

「おい小林、お前さらっと酷い事を……」

「シャァラアアアップ! ケー君も酷いよ、アタシっていうヒロインがいるのに新しい子を連れてくるんだから!! ハーレム反対ダメ絶対! 立ち上がれ労働者、雇用者の横暴を許すな!!」

「安心してくださいあやさん。わたくし、組織の先輩に対する礼儀は弁えているつもりです」

「ほおう? なら、その礼儀とやらを態度で示してもらおうか」

「はい。では、これを差し上げます」

「こ、ここ、ここここここれはっっ!!」


 境目が持っていた紙袋から取り出したCDケースを見た瞬間、小林は目の色を変えて飛び上がる。ガバッ!! と目にも止まらぬ早さでCDケースを奪い取ると、お宝を発掘した考古学者みたいに天へと掲げた。


「バインドのCD! しかも活動初期に参加した即売会で三十枚しか作成されていない幻の逸品だよ! オークションに出品されたら十万円はするって噂されてるお宝!! い、いいの本当にもらっても!? 絶対に返さないよっ!!」

「問題ありません。実はわたくし、ちょっとした関係者なんです。もしわたくしの事を認めてくださるのでしたら、これからも色々と融通させていただきますよ」

「採用っ! ケー君この子は即採用っ! 今この瞬間から空ちゃんはアタシ達の仲間だ!」

「……ちょろい」

「得をする時に得をするのが経済的な判断なのだよ!」

「まあ、丸く収まってくれたみたいで一安心だよ」


 呆れ混じりに溜息を吐いてから、真剣な表情を浮かべて境目に向き直った。


「俺も特に反対する理由はねぇよ、一緒に活動してくれるってなら大歓迎さ。事務所って程でもねぇ弱小集団だが、それなりに危ない橋を渡る事もある。だから、ソラの力が必要になる時もあるはずだ。……ただ、正式に加入を認める前に一ついいか?」

「はい、何でしょう? 何でも申し付けてください」

「俺とアンタが同類って、方向性が正反対って、どういう意味なんだ? それだけ教えて欲しい」

「ああ、そんな事ですか。てっきりメイド服を着てアレコレ命令されるのかと思いましたよ。趣味だと仰っていましたし」

「……ケー君、初対面の女性に何を言ってるの?」

「冗談だよ、真に受けるな。場を和ませるために口にしたウィットに富んだジョークさ」

「メイド服が好きなのは本当なくせに」


 小林にゴミを見る目を向けられるが、口笛を吹く真似をして視線を逸らす事しかできない。そんな様子を見ていた境目が、クスクスと上品に口許を小さく振るわせた。


「圭一さん、同類とは言葉通りの意味ですよ。わたくしは圭一さんと正反対の目標を持っているのですから」

「正反対の、目標?」

「はい。わたくし、『普通』の女の子になりたいのです」


 鈴を鳴らしたみたいな可憐な声で告げた。


「『本物』に憧れる『偽物』の貴方と、『普通』に憧れる『特別』な私。ほら、根っこは同じで方向性だけが正反対でしょ? なかなか会えないのですよ、貴方みたいな人には。貴方と一緒にいれば、わたくしは何かを得られる気がするのです」

「言いたい事は分かったけど、俺が君に何かをしてあげられる保証なんてねぇぞ」

「問題ありません、ただ一緒にいてくれるだけで良いのです。それに――」


 嬉しそうに微笑んだ境目は、ほんの少しだけ眼鏡を下にずらした。


 青。

 天穹そらよりも広く、海よりも深い、蒼い光芒が溢れ出す。


 両目に浮かぶ青金剛石ブルーダイアモンドと表現するべき芸術品の名は、ゆいしにひとみ

 刹那の輝きでも、その瞳から途轍もない神秘を感じ取るには充分だった。


「せめて『贋作レプリカ』くらいにはなりたい。その結論に辿り着いた貴方との繋がりには、無限の可能性が秘められているのですから」


 すっと、さかいそらは柔らかそうな手をこちらに差し出してきた。


「これから宜しくお願いしますね、贋作レプリカさん」

「ああ、こちらこそ」


 そう言って。

 いしたきけいいちは、そらに手を伸ばした。

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