08 青い絶望
薄暗い物置部屋の中。
「(……鼻歌?)」
閉まったままの扉の向こうから漏れてきた旋律には聞き覚えがあった。『ソラ』——ラクニルで無類の人気を誇る正体不明の歌手『バインド』が動画サイトで公開している曲だ。
「(有り得ない。一体、誰が……?)」
この古いビルは組織が管理しているアジトの一つ。
勢い良く両目を見開いた自称探偵は、ギラついた眼光をこちらに向けて興奮気味に叫ぶ。
「
室内で不快に反響する声が鼓膜を引っ掻いて苛立った。口を閉じさせるために
がちゃり、と。
ドアノブが回る。
ゆっくりと開いていく扉。廊下の暗闇から浮かび上がってきたのは、華奢な人影だった。
磨かれた刃ような鋭い雰囲気に、わずかでも向けられれば凍り付きそうになる冷たい眼差し。ただそこに立っているだけなのに、空間の全てを掌握されたと錯覚してしまいそうになる。小柄な体格にも関わらず目を離せなくなる圧倒的な存在感は、絵柄が全然違うのに無理やり一枚のイラストに切り貼りしたみたいな異質さを感じさせた。
最も異彩を放つのは、
「
そう直感したのに、何故か確信が持てない。
顔のラインを隠す程度の黒髪ショートカットに、幼さを残した品のある顔立ち。違いと言えば
おそらく、原因はその空気感。
雪降る深夜よりも静寂で、新月の夜空よりも
少女は暗闇から歩み出すと、顎先を少し上げて蔑みの眼差しを向けた。
「よお」
チェロやコントラバスといった弦楽器を想起させる低い声。少女らしい可憐さも内包したその響きには、聞く者を震え上がらせる静かな圧が満ちていた。
「オマエが、ここのリーダーって事でいいのか?」
「貴女、誰なの……?」
「質問に質問で返すなよ、会話が進まないだろ? ま、オマエが何であろうがオレには関係ないんだけどさ」
ふわり、と。
見えない翼で羽ばたいたように、
「(青色の
「(……雰囲気に騙される所だった)」
冷や汗が頬を伝う。
「(
凄絶な笑みを浮かべて歩き出した蒼い少女に対し、一歩も引かずに立ち向かう。
得体の知れない恐怖はあるが、境目に何かできるとは思えなかった。
すでに室内は
相手が戦闘に慣れた界術師なら話も変わってきただろう。
「(――勝った!)」
無様に床に倒れた乱入者の姿を想像して、思わず頬が持ち上がった。
だが。
「
境目は吐き捨てるように言って、軽く右手を横に振る。そのまま自宅に帰って来たみたいな気軽さで室内に踏み入った。
「どう、して……?」
発動しない。
ただ右手を振られただけなのに、『ランデクスの裁判』が効果を発揮しない。
「(意味が分からない……さっきまでは問題なく発動してたはずでしょっ!)」
落ち着いた足取りで近づいてくる蒼い少女の口許に刻まれているのは、血も凍る冷徹な笑み。こつん、と足音が反響する度に、タコ糸で心臓が引き絞られる気分になった。
舌打ちしながらも、咄嗟に
「だから、意味がないんだって」
頭上にある蜘蛛の巣でも払うみたいな気軽さで、蒼い少女が右手を振り上げる。見えない糸でも切る動作。たったそれだけで、精密に組み上げたはずの術式が全く反応しなくなってしまう。
「なんで……どうして術式が発動しない! 貴女、一体何なのよっ!!」
「オレに名前はないよ。正体を定義できるだけの情報は残っていないからな。今は『ソラ』って名前を借りてるけど、オマエ達にはもう一つの名前の方が伝わりやすいんじゃないか?」
「もう一つの、名前……?」
「
言葉遣いは乱暴なのに、何故か気品を感じさせる声で告げた。
「オレはさ、変なクスリとかオマエの事には興味がないんだ。どうなろうが知ったこっちゃないね。ただ、許せないんだよ――オレの空に羽虫が飛んでる事がさあ!」
壮大な
「だから、オレが翼を絶つ。飛び方を知らない愚か者に、空の高さを教えてやるよ」
「ふざ、けないでっ!!」
奥歯を強く噛んで、ぎゅっと拳を握る。
「
ランデクスの裁判の礎になっているのは、とある伝承。
神であるランデクスの不興を買った人々が、彼の目の前で己の罪を懺悔して許しを乞う事になった。だが、罪を受け入れる人はほんのわずか。保身の為に言い訳をして、他人の悪口を言って、貢ぎ物で買収しようとする。最終的に少しでも嘘をついた人間は天罰を与えられ、真摯に罪を告発して祈りを捧げた者だけが許された。正直者は得をして、嘘吐きは痛い目を見るという教訓話だ。
何歩か後退しながらも、室内に作り出した『儀式場』の構成を確認した。
「(ベースとなる神話は『トゥーリス』、対象の神は『ランデクス』。主方位は北東、壁面には緑色で
儀式術式とは、手順や条件を満たす事で、記憶次元に保管された
訓練を積めば
「(室内に成立させた『儀式場』と新術式の
これが、
現代社会に溶け込んだ異能の科学。
「(供物は『罪の告白』、
血が通ったみたいに
「余裕そうにしていられるのも今だけよ、
好戦的に頬を持ち上げて、夏服のスカートのポケットに手を入れる。目的は緑色に輝く小さな
「――主よ、汝に罪を告白します」
両手を組んで、
それが術式発動の引き金になった。
ばぁぢばぢぃぃッ!! と。
思わず耳を塞ぎたくなる高音が弾け飛ぶ。
まるで、雷。
空中に留まった緑色の
「……は?」
いない。
目の前から、少女の姿が消えている。
「(手応えはなかった、命中した訳じゃない……ならどうして!?)」
辺りを見回してみても蒼い少女の姿は見つけられない。それどころか気配すら消失してる。残っているのは不思議そうな顔でこちらを眺めている石瀧だけだ。
黒く焦げ付いた床の跡からはうっすらと煙が立ち上っている。先程みたいに術式自体が発動しなかった訳ではない証拠。躱されたのは確かだが、それで跡形もなく消え去ってしまうのはどういう理屈だ?
「大した威力だな。
「っっっ!?」
唐突に。
目と鼻の先に、端正な少女の顔が出現した。
極大の驚愕で思考が吹っ飛ぶ。
瞬きをした刹那に映像を視界に差し込まれたとしか思えない。まるとずっとここに居たと言わんばかりの登場に全身が強張った。咄嗟に一歩後退るのが精一杯だ。
「想像力を働かせろよ。ただ手を伸ばすだけじゃ、空には届かないぜ」
とん、と。
蒼い少女の指先が、軽く眉間に触れる。
途端、鈍器で殴られたような衝撃が脳に炸裂した。
「がァッ!?」
弾かれたみたいに目線が上を向き、そのまま尻餅を付いてしまう。いつの間にか部屋の端まで後退していたせいで背中が硬いコンクリートの壁に当たった。
何をされたのか。全く理解できない。
蒼い少女は、ただ腕を振って、散歩でも始める気軽さで、こちらに歩いて来ているだけ。複雑な術式を展開しておらず、また剣や銃といった分かりやすい武器も使っていない。何よりも最低
折れそうになる心を奮わせて、スカートのポケットから緑色の
「――主よ、汝に罪を……え?」
しかし、
儀式場と
翼をもがれて、大地に堕ちた一羽の鳥。
何故か、そんなイメージが唐突に脳裏を過った。
「これで、終わりか?」
頭上の窓から差し込む月明かりを浴びて、中性的な少女が見下ろしてきた。
「一体、何をしたの……?」
「
当たり前の常識を告げるみたいな口調で言った。
「オレの
「……
「この世界はさ、色んなモノが繋がってできているんだ。人、国、文化……例を挙げれば切りがないんだけど、オレにはそれが光の連なりになって
だけど、蒼い少女の顔が、刃のような鋭さを帯びた。
「オマエの光は醜い。必死に足掻いて、縋って、しがみ付こうとしてるからか、ただ眩しいだけで品がないんだ。邪魔なんだよ、オレの空に濁った光は必要ない。飛び方を知らないのなら、大人しく地面に這い蹲っておけ」
しゃがみ込むと、何の躊躇もなく首筋へと小さな手を伸ばしてきた。
「まさか、貴女は
「今更遅いよ、すでにオマエの翼は折れている」
そして。
青い
「墜ちろ三下、オマエに空を飛ぶ資格はない」
まるでスイッチを切ったみたいに。
意識が、黒く染まった。
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