07 偽物の綻び

 いしたきけいいちは、ゆっくりと瞼を開けた。


 真っ先に視界に飛び込んできたのは、汚れた天井だ。

 明かりが点いておらず薄暗いが、どこかのビルの一室に転がされている事だけは分かる。物置として使われているのだろうか。部屋の端には埃を被った段ボールが乱雑に積まれ、古いホワイトボードやパイプ椅子が適当に放置されていた。


 思い出せるのは、曖昧な光景だけ。

 ラクニルの生徒ではない大男にじゅつを浴びせられ、思いっきり頭を踏まれた。そこから先の記憶がない。気絶した後、ここに拉致されてきたと考えるのが妥当だろう。


「(拉致、ね……)」


 現実味のない予想に笑いが出そうになるが、ここは商業地区マーケットの裏側――非日常の世界だ。教室で授業を受けている日常とは常識ルール価値観マナーも異なる空間。発想を根幹から切り替える必要がある。


「……っ」


 砂や汚れでざらざらとした感触の床に手を付くだけで全身に痛みが走った。ズキズキと鈍く疼く頭を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。

 窓から差し込んでいるのは月明かりだった。生暖かい風で埃が舞い、光の中でキラキラと輝いている。さかいそらを連れ出したのが夕暮れだったため、数時間は気を失っていたという事になるのだろう。


「やっと起きた」


 気怠そうな少女の声。

 窓の傍に立って、シャワーでも浴びるように夜空を眺めていたのは第二校区高等部の制服を着た女子生徒だった。


 しず

 前髪をセンターで分けた明るいセミロングに、シャープな印象を受ける端正な顔立ち。女性にしては大きめの背丈で、無駄のないスリムな身体にはストイックな性格が見て取れる。泰然自若とした雰囲気は、スーツを着ればそのまま会社員キャリアウーマンとして社会に紛れ込めそうな程に少女を大人に見せていた。


 同じ高校の先輩は、薄くネイルを施した指先に息を吹き掛けてから、


「一応は心配したのよ、そのまま目覚めなかったらどうしようって。流石に人殺しは私の力じゃ揉み消せないし、ここで私の人生は終わるのかって悩んでた」

「ここは、どこだ……?」

「私達のアジトよ。あのまま貴方とあの女を解放する訳にはいかなかったし、連れて来させたの」

「……境目は、どうした?」

「さあ? 男共が部屋に持ち帰って行ったし、今頃は連中のオモチャになってるんじゃないの? 自業自得よ、私には関係がないわ」


 新聞の政治欄でも流し読むみたいに告げると、絵野は持っていた何かを月明かりに晒した。中に赤色の液体が入った親指程度の小瓶。黄金の輝きに触れた途端、ぽわっと暖かい輝きが溢れ出してきた。


界力アーク活性剤マイム……!?」

「あら、知ってたんだ。じゃあ話が早いわね」

「本当に、お前、そんな物を――がァっ!!」


 立ち上がろうとした瞬間だった。

 雷が直撃したような衝撃が全身を走り抜ける。白黒する視界。苦痛に耐えられず、思わず仰向けに倒れてしまった。


「言い忘れてたけど、迂闊に動かない方が身のためよ。もう私のじゅつが発動してるから」

「界力、術……?」

「どうして縛られずに放置されていたと思う? その必要がないからよ。ほら、こんな風にね」


 にっこりと。

 嗜虐的に両目を細めた絵野の体から、血よりも赤い界力光ラクスが溢れ出す。悦に濡れる瞳。迷いなく、指揮棒でも振るみたいに人差し指をこちらに向けた。


 それだけで。

 背筋が反り返る程の衝撃が石瀧に直撃する。


「——がァぁぁああああああっ!?」

「『しきじゅつしき』――授業を真面目に受けていれば説明は不要よね? 折角だから答えてみましょうか、不正解なら罰ゲームね。はい、どうぞ」

「……界力術の基礎を、作り上げた『始まりの八家』……その一つである『あけみね』が、生み出した方式……手順や条件を揃える事で、おくげんに保管された『世界の記憶メモリア』を、神話や伝承という形で再現する……」


 じゅつとは、『おくげん』と呼ばれる空間に保管された『世界の記憶メモリア』を再現する技術だ。そのための基礎となる八つの理論体系を『方式』と呼び、カイじゅつは方式を基にして術式を構築していく事になる。


「正解、よくできました」


 軽く手を叩きながら近づいてきた絵野は、罠に掛かった野生動物に向けるような眼で石瀧を見下ろした。


「この部屋はね、全てが私の『術式領域』内。だから貴方が何をしたって無意味よ。ただ指を向けるだけでいいんだから。引き金に指を掛けるよりも早いでしょ?」

「それが……お前の術式の『条件』か?」

「ええ、そうね。どうする、術式の裏を掻いて一矢報いてみる?」

「遠慮しておくよ。俺はロクに界力術が使えねぇからな、裏を掻いた所で反撃されて床に転がるのがオチだ」


 身体強化マスクルを使って飛び掛かる事も考えたが、成功率は限りなくゼロに近い。指を向けられる方が早いだろうし、仮に飛び掛かれたとしてもその後が続かない。女性に馬乗りになって気絶するまで殴り続けられるほど石瀧の理性は飛んでいなかった。


 ちらり、と内開きの扉に視線を向ける。

 起き上がって部屋を飛び出るまで数秒は掛かるだろう。よっぽど大きな隙でもなければ脱出は不可能。怪しい反応をすればすぐに界力術を浴びせられるため、何かキッカケを作ろうにも迂闊に動けない。


「(クソッタレ、まるで蜘蛛クモの巣に捕まったムシじゃねぇか)」


 内心で毒突きながら、横に立つ絵野を睨み付けた。逆光のせいで表情は良く見えないが、ねばいた光を放つ瞳が酷薄に見下ろしている事だけはハッキリと理解できる。


「一つだけ答えてちょうだい。それ以外の言葉は聞きたくない」


 だんっ!! と。

 右足の革靴ローファーで、石瀧の胸板を踏み付ける。


「――がはァッ!? ごほ、げほっ……ご、はァ……っ」

「質問にさえ答えてくれれば、取り敢えず楽にはしてあげる。返事は?」

「……い、いいねぇ、興奮してきたよ。美少女に踏まれるなんてご褒美――あがっ!?」


 赤い輝きを纏った指先が向けられる。違法改造されたスタンガンを押さえつけられたような激痛で意識が飛びかけた。冗談ではなく視界が点滅し始める。


「どうして、今日この場所に来たの? 貴方みたいな一般生徒に勘付かれるようなヘマはしてない。つまり、情報を流した誰かがいるはずなのよ。それは誰?」

「……あば、ごほっ……げほっ」

「偶然こんな場所にいたってのはナシよ。ここは商業地区マーケットでも生徒の立ち入らない危険な奥地。興味本位でも立ち入ろうとはしないはずなんだし」


 ギリリィ……ッ、と万力を締めるように革靴ローファーに込められる体重が増えていった。胸が圧迫されて息苦しい。ぜひゅぅ、ふひぃ、と酸素を求めて呼吸がどんどん荒くなっていく。


「(チク、ショー……やっぱりキャットの頼みなんか聞くんじゃなかった……っ!)」


 別に義理立てするような関係ではないし、教えようと考えたが止めた。あのふざけた情報屋を説明したところで信じてもらえるとは思えない。下手な言い訳をしていると判断されて界力術を食らう結末が見えている。


「(……存在自体が抑止力になるなんて、どんな奴だよクソッタレ)」


 しゃの掛かる頭を必死に回しながら、震える唇をゆっくり動かす。


「……俺が、自分で調べたんだよ」

「嘘を吐くのは止めて、また痛い目を見たいの?」

「見くびるなよ、これでも俺は探偵なんだ。情報収集に関しちゃそこそこ自信があるぜ。俺は身体強化マスクルで『聴力』と『視力』を強化できるからな、それでアンタの情報を盗み取ったんだよ」

「……、」


 酷薄な眼差しはそのままで、形の良い眉に思案の色が浮かび上がる。自分の言動や行動を思い返して、失態を洗い出しているのだろう。


「情報は簡単に集まったよ、何せみんな君の事を心配してたからな。何か危ない事件に巻き込まれてるんじゃねぇのか、困っているなら手を貸したい、相談して欲しい……すげぇよアンタ、ここまで人に好かれているヤツを初めて見たぜ」


 嗄れた声で、言葉を紡いでいく。


「だから分かんねぇんだよ……アンタみたいなの良い人間が、こんな掃き溜めみたいな世界に関わってる理由が。何があった? どうして、こんな裏側の世界に関わっちまったんだ?」

「理由なんて、私が一番知りたいわよ……っ」


 歯軋りした絵野は、俯くと同時に右足に掛ける体重を増やした。あばら骨が軋み、石瀧の喉の奥から苦痛が漏れ出す。


「終わりなのよ、一度でも失敗したら。どれだけの積み重ねがあったとしても全てが一瞬で紙屑になるの。私は悪くない……悪くないのに、ただ巻き込まれただけなのに! 誰も助けてくれなかった……世界は残酷なんだって良く分かった!!」

「……『リスト』、か?」

「そうよ、あの忌々しいふざけた名簿のせいで私の人生は滅茶苦茶になった! 人生の敗北者ってヤツよ。ラクニルと契約しなければ、今頃は警察にでも捕まって少年院にでもぶち込まれていたでしょうね」


 リスト。

 罪を揉み消す、成績を書き換える、お金を工面する……などなど、ラクニルと取引をした生徒が登録される兵隊帳だ。彼らは取引の内容の応じた任務を与えられ、ラクニルのために働く事を強要される。結果を示せば重宝されるし、使えないと判断されれば用済みとして処分される厳しい環境で。


「でもね、気付いたのよ」


 そう言って、敗北者は歪に笑った。唇の端は片方だけが吊り上がり、大きく見開いた瞳には海に漏れ出した重油みたいに濁った光を浮かんでいる。


「誰も助けてくれないのなら、私が戦うしかないんだって。下を向いていても始まらない。のし上がるためには立ち上がるしかないの。私には界力術の才能があった。知識と技能を得られる環境も手に入れたし、あとは努力次第で何とでもできたのよ」


 界力術の才能があるという判断は、何も自惚うぬぼれではない。


 界力光ラクスの色は、すいたいの能力によって変化する。界術師の間では『実力カラー』と呼ばれる概念であり、お互いの力量差を測る評価基準になっていた。

 実力カラーの色は、青、緑、黄、橙、赤、紫、黒、の順で出力が上がっていく。橙色の実力カラーに達すれば界術師と一人前とされるが、到達できるのは上位30%だけ。殆どの界術師が緑か黄までの実力カラーで成長が止まってしまう。


 そんな中で、絵野の実力カラーは赤色だ。界術師全体で見ても一割しか到達できない高ランク。術式や戦闘についての知識と技術を身に付ければ、充分に裏社会でも通用できるだけの素養を持っているという訳だ。


「もう引き返せない所まで来たのなら、それがどれだけ地獄だとしても、前に進むしかないの。この世界で生きていくと決めて、それだけの『覚悟』をした。結果として、私は地位を手に入れた。捨て駒として使われるその他大勢の一人じゃない、世界にとって価値のある『特別』になれたのよ」

「特別……?」

「そうよ。だから、こんなつまらないミスで全てを失う訳にはいかないの。もっと、もっと、私は先に行きたい。惨めな想いをしたのなら、相応の報酬を貰わないと割に合わないんだから」

「……そうかい、なら俺から言える事は一つだけだ」


 不思議と、恐怖や不安が薄れていた。

 凄まじい速度で熱が冷めていき、冷静さを取り戻していく。圧倒的に不利な状況にいる事を忘れたように、石瀧の言葉に力が宿った。


「今すぐにこの件から手を引いた方が良い。どれだけ代償を払ったとしても、裏側から抜け出してゼロからやり直すべきだ」

「はあ? 命乞いのつもり? それとも私を説得したいとか?」

「違ぇよ、純粋な善意からの忠告だ。アンタは近い内に必ず取り返しの付かねぇ失敗をする。いいか、必ずだ。先になんて行けねぇよ。積み上げてきたモンを失って、更に深い地獄に叩き落とされるだけだ」

「か、勝手な事を言わないで! 根拠のない妄想で私を――」

「根拠ならあるよ。アンタは俺と同じ『偽物』だからだ」


 これが、失望の正体。

 対峙していた敵の器が、どれだけ小さかったのか気付いてしまったのだ。


「努力? 自分が戦う? 覚悟が違う? 悪いが見当違いだ。『本物』はな、そんな事をイチイチ考えなくてもそこに立ってるんだよ。本人の意志とは関係なく勝手に先に進んじまうんだよ。俺やアンタみたいな『偽物』は、力がねぇクセに感覚だけが狂ってる半端者は、本当にクソみたいな連中に踏み台にされて終わるだけだ!」

「黙れ! 貴方に私の何が分かるっていうのよ!!」

「がはっ!!」


 強烈な苦痛が脳を貫いた。高圧電流が通るケーブルが直接肌に触れたような衝撃。手足が痙攣し、意識が飛びそうになる。


 それでも。


「……確かに、俺はアンタの事を知らねぇよ……だけどなあっ!」


 強く拳を握って、無理やり言葉を紡ぐ。


「アンタの友達の想いは、一体どうなるんだよ!!」

「っ!!」

「知らねぇとは言わせねぇぞ。アンタがどれだけ心配されてて、大切に思われているかを! 心優しくて、みんなから頼られる人気者……どれだけ誤魔化してもそれがアンタの本質だ。何も感じずに、裏側の世界で非道に手を染められるほど壊れちゃいねぇはずだぜ。口じゃ何とでも言えるだろうがなあ!」

「違う、そんな事ないっ! 私はこの世界で生きていくって決めて、それで——」

「正直になれよ半端者! だったら答えてみろ! 日陰で生きていくって決めた奴が、どうして今も未練がましく学校に通ってんだよ!!」


 言葉に詰まった絵野の眉に動揺が走る。被っていた仮面に亀裂が入って剥がれ落ちたように、みるみる顔が青ざめていく。


「本心じゃ普通に楽しく学校生活を送りたいって思ってんじゃねぇのかよ!! 中途半端なんだよ、アンタの覚悟は! 確かに積み重ねてきたモンはあるのかもしれねぇ……だけど、アンタの心を支えているのは『自信』じゃなくて『自惚うぬぼれ』だ! 完全なる自己満足! 歩いた振りをして、何かを得た気になって、無理やり不安を打ち消そうとする!! ふざけんな、本当は全く先になんか進んでねぇクセに見ないようにしてるだけじゃねぇかっ!!」

「黙れ――黙れ黙れ黙れっ!!」


 金切り声を迸らせた『偽物』が、腕を大きく振って石瀧の言葉を遮った。赤い液体が入った小瓶を勢い良く石瀧の眼前に突き付ける。


「綺麗なだけの正論で私を語らないでよ部外者が! 私が! 一体! どんな理不尽に苦しめられてきて、どれだけのモノを犠牲にしてきたのかも知らないクセに!! いいわ、そこまで言うなら遠慮はしない……貴方も私と同じ地獄に叩き落としてやるっ!!」

「まさか、界力活性剤アークマイムを……っ!?」

「これがどんなクスリか説明は要らないでしょ! 無理やり飲ませて、二度と引き返せない闇の底まで引き摺り込んでやるのよ!!」


 小瓶を手前まで引き寄せて、コルク栓を抜くために両手に力を入れた。


 その瞬間。


「っ!!」


 石瀧が動く。

 咄嗟に身体強化マスクルを発動。瞬時にすいたいが熱を帯びて視界にスパークが飛ぶ。全身から青い輝きを撒き散らしながら、必死の想いで絵野が持つ小瓶に手を伸ばした。


 驚愕に固まる絵野が、片足を持ち上げられてバランスを崩す。


「(あの小瓶さえ叩き落せば——っ!!)」


 隙ができて、この部屋から脱出できる可能性が生まれる。渾身の力を振り絞って体を起こし、辛うじて指先が小瓶に触れ——


 ばずんっ!! と。

 何度目になるか分からない衝撃が、石瀧の脳天を直撃した。体の芯が直接揺さ振られて、意識とは関係なく全身から力が抜ける。


「驚いた、まさか抵抗してくるなんて」

「どう、して……指は、向けられてねぇのに……?」

「呆れたわ、この程度の知識と経験しかないなんて。私の術式は、授業で習うお遊びとは違って、本気で敵と戦う事を想定して構築してあるのよ。指を向けられなかったら即不発なんて分かりやすい弱点をそのままにしておく訳ないでしょ? 、覚えていないの?」


 嘆息気味にセミロングの髪を払った絵野が、再び石瀧の胸板を踏み付けた。邪悪に染まった笑みを浮かべながら、小瓶を見せつけるみたいに軽く振る。月明かりを受けて、赤い液体が淡い光に包まれていた。


「(……まずい、本当にまずい……このままじゃ、俺は……)」


 万策が尽きた。

 度重なる衝撃で意識が掠れて、次の一手を考えられない。


 だけど。

 そんな絶体絶命な状況に置かれて。


「――はっ!」


 思わず、笑みを浮かべてしまった。


 旋律が聞こえたから。

 扉の向こうから次第に近づいてくるには聞き覚えがあった。


「どうしちゃったの? 追い詰められて壊れちゃった?」

「いんや、俺は正常だよ。ただ情けなくなったのさ。息巻いて飛び出して行ったのに、最後は誰かに頼る事しかできねぇんだから」

「何を、言ってるの……?」

「アンタも知ってるよな、ネットの歌姫『バインド』。曲名は『ソラ』――あいつが好きな歌だ」


 怪訝そうに眉を曇らせた絵野が、何かに気付いたのか、ゆっくり視線を扉に向ける。


「(こいつは何の確証もねぇ願望だ。俺の弱い心が見せた希望的観測に過ぎねぇ)」


 だけど、敢えて自信満々に告げてやろう。

 全財産を賭け金として差し出す勝負師ギャンブラーのような気分で。


青い絶望ブルー・アンハッピーがやって来るぜ――彼女は空をよごす者を決してゆるさねぇからなあっ!!」


 そして。

 扉が、開いた。

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