幸せだった!


 いつか嗅いだものと同じ、花の匂いがした。……ああ、花が、咲いている。春の訪れを知らせるみたいに、とでも言えばいいのだろうか。私にとっては春の訪れだけれど、花にとってはただ咲いているだけかもしれない。

 それでも、花は咲く。季節は巡る。春が過ぎ、夏が終わり、秋が眠って冬に至り――また。春は、来る。


「――やったぁ!!」


 そして、私の誕生日も。



 さて。目を覚ました瞬間に快哉を叫んだこの私。何を隠そう、本日で十五歳になりました。何度でもいう。十五歳! に! なれたのです! 喜んでもいいですよね!

 死なずに今日を迎えられたこと。生きて明日を迎えられること。確かに、理屈の上ではいけるはずだとは思っていたけれど。実際に今日を迎えてみると、案外と自分が不安に思っていたことに気が付いた。でもまあもういいや。生きてる生きてる。わぁい!


 寝台の上で跳ねて喜ぶ私の横。普通に眠っていた我が夫が、のそのそと起き出してくるのが見えた。


「……おはよう、イヴ」


 寝起きの、ちょっとだけあどけない顔が、私のことを見つけてゆるっゆるに緩む。最近になって気が付いたけれど、寝起きのレオンは普段よりもずっと表情が豊かだ。そういうことを一つ一つ見つけるたびに好きが大きくなっていくから、私はもう駄目かもしれない。レオンが好きすぎて駄目だ。


「ねえ、レオン。……私、生きてます」


 何も知らない人が聞いたら眉をひそめるだろう言葉。だけど、レオンはそれを聞いて、ようやく頭が覚醒したように目を見開いた。


「――生きて、いる」

「はい。……はい! 今日の朝を迎えられました。十五歳を越えました! 私は」


 言葉は、最後まで言い切れなかった。勢いをつけて私に抱き着いてきたレオンに、寝台へと叩き戻されたから。ちょっと首がガクンってした。


「っ、ちょっと、――」

「悪い。……わる、い。イヴ」


 文句の一つでも言ってやろうと、彼の顔を見た瞬間。私は何も言えなくなった。はらはらと、冬の夜に降る静かな雨のように、彼の瞳から雫が降りてくる。……なんだか、私も泣きそうになった。


 春が来た。私は十五歳になった。それでも、まだ生きている。

 明日も、明後日も、その先もずっと。

 ――もう、短い期限の命に、怯えなくていい。


「……っ、ああ、よかった」


 あなたが泣く。世界中の幸せに掻き集めたみたいな笑顔で、涙を流している。この光景を、私はきっと一生忘れないのだろう。

 私を簡単に殺せる腕が、たったひとつの宝物を守るように私を抱き締めていた。私もその背に手を回し、そっと、彼から顔が見えないように隠す。変ですよね、幸せなのに、泣きそうなの。


「……私、なりたいものがあるんです」


 唐突な宣言を、レオンは静かに聞いている。ああ、どうか。


「歳を取って、シスターみたいに綺麗なお婆さんに、なりたいんです」


 叶えばいい。叶えたい。叶えよう。……未来のいつかで、イヴリンは必ず死ぬけれど。

 その未来の果てで、また巡り合う。歳を取ってお婆ちゃんになって、死んでしまっても。また、生まれ落ちた私は、あなたを探しに行く。何度でも、繰り返し。

 そう願う私に、レオンは苦笑のような吐息を漏らした。


「……気が長い話だな」

「龍であるあなたにとっては、そうでもないでしょう」

「いいや。お前と一緒にいると、人間にでもなった気分になるんだ」


 かつては一瞬だったはずの百年が、長く感じるんだ、と。レオンは呟く。馬鹿なひと。と、私は彼の肩に顔を強く押し付けた。


「……これから、もっと長く一緒にいるんです」

「ああ、そう……だな」

「私がいつまで、この記憶と魂のままの……ちゃんとした私でいられるかは分かりません。それでも」


 アナスタシアが死んでからの二百年を塗り替えるように。これからの百年ニ百年が、今までのどんな時よりも幸せなものになるように。

 願う。祈る。それだけじゃなくて……叶えると。


「私は、これからの全部をレオンと一緒にいたいから」


 レオンから身体をちょっとだけ離して微笑む。もう、涙は出ない。幸せで泣くよりも、彼と一緒に笑いたいから。

 しゃら、と。手首で腕飾りが音を立てる。私の生命維持のための、魔道具だ。……龍族のように、自力で体内魔力を大気中に放出、循環できるようになれたならよかったんだけど。まあ世の中はそんなに甘くなくて。っていうか、今までやったことのない魔力の操作とかそんな数カ月で出来るようになるはずありませんし。……でも、これから、頑張ればいい。


「俺も、俺のこれからの永遠をお前に捧げるよ」


 永遠なんてどこにもなくても。

 絶対に幸せになれるなんて保証がなくても。


「……そういえば、やり残していたことがありましたね」

「突然なんだ」

「ほら、デートですよデート! 屋台の美味しいものを食べ歩くんです」


 私とレオンの結婚宣言から今までずっと、なんやかんやでかなり忙しかったから。そういう、当たり前の恋人みたいなことなんてできていないのだ。ずっと一緒にはいるけれども。まだ足りない。それに。


「それから、ボードゲームをしましょう。レオンってば、勝ち越しはずるいって言ってましたよね。……私の部屋に、まだありましたし。今度やりますよ。また私が勝ちますけど!」


 レオンは、何かを思い出したように目を瞠る。


「あとは、ピクニックです。湖まで行って、穏やかな時間を過ごして、私が作ったお弁当を食べるんです」


 これは。

 あなたの後悔だ。私の心残りだ。……そう。叶わないはずだった、心残り。

 それを、一つ一つ数えていく。叶えるために、口にする。叶えるために。いや、違う。もう、できるんだ。明日でも、その次の日でもいい。私は生きていて、あなたはここにいて、……何でもできる。だから。


「……楽しみだな」

「でしょう!」


 レオンは、やっぱり少しだけ泣きそうに顔を歪めて。私は、満面の笑みを浮かべて。

 これからの人生のことを、語り合った。


 二人で一緒にいる、沢山の未来を。




 ――ああ、なんて幸せな人生だったの! と、

 いつかの私が笑えますように。それを見送るあなたが、悲しみだけで泣きませんように。

 そんな希望を抱えて、私は今日も。

 ……英雄王と呼ばれていた私は今日も、あなたの隣にいて幸せだと笑えている。

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英雄王と呼ばれた彼女は龍と踊りたくない とと @pico

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