英雄王と呼ばれていた


 目の前には、いつだって未来がある。

 それは、希望に満ちてなどはいないかもしれない。みっともなく傷ついて、誰かを傷つけて、ボロボロになって歩いていかなければならないのかもしれない。

 いつか、遠い未来で。……私はこの選択を、ひどく後悔するのかもしれない。


 それでも、いい。

 構わない、と。前を向いた。その未来が果てしなさすぎて、目が眩みそうだけど。この手のひらに感じる体温が、私をここに繋ぎ止める。これは覚悟だろうか。諦念だろうか。それとも、……それとも。何でもいいや、と私は笑った。

 今、私の隣にあなたがいるのなら。何も怖いものなんてないんだと。





 鏡には、綺麗に化粧を施した少女の姿が映っている。……誰だこれ。いや、私か。そんな自問自答を、何度繰り返したことだろう。

 化粧だけではない。髪型は、普段の漉いただけの物とは違う、丁寧に複雑に結われている。また、ドレスだって、結局はレオンの懇願を断り切れずにやたらめったら高級な……豪華なのに品がよくて嫌味がない。そんな、黒いのに暗くはないという素敵な品だ。素敵なんですよね、本当に。

 ちなみに、値段を思い出すだけで吐きそうなので、あまり考えたくはない。この一着だけで平凡な村人の人生が何個買えるんだとか、考えない。考えるな、私……っ。


「――よし、完璧よ! イヴ!」


 ちょっとだけ死んだ目で鏡を見ていると、背後から喝采が上がった。振り返ると、リア嬢が満足そうな笑みを浮かべている。その後ろでは、他の龍族の女性たちが、きゃいきゃいと感想を言い合っていた。どうやら、長い戦いという名の、私の身支度が終わったらしい。


「ありがとうございます、リア嬢……!」


 お礼を言い、改めて自分の姿を見る。……うん! やっぱり、誰だよこれ。この……何。別人みたいっていうか、最早詐欺じゃない? いつもの、どこか煤けた感じの田舎娘はどこに行ったの。


「ええ、本当に大変だったわ。貴女ってば、素材はいいのに色々と無頓着なんだもの。……でも、今日だけは」

「はい。今日だけは……頑張ります」


 拳を握って宣言すると、リア嬢はなんかちょっと呆れたように目を細めた。彼女から、溜め息に成りきらないような深さの吐息が吐き出される。


「そんなに怖い顔をしないの。もっと幸せそうに笑いなさい」

「え、いえ……だって」

「貴女は、これから誰よりも幸せになるのよ」


 これから。誰よりも、幸せに。そう告げるリア嬢の声は、どこまでも澄んでいた。私はちょっとだけ虚をつかれた思いで、瞬きをする。

 幸せに、なる。

 諦めていたはずの、未来だった。レオンの隣にいることを。龍族の皆とまた暮らすことを。私は、その権利ごと放棄して逃げ出したはずなのに。今ここにいる、という現実が嘘みたいで、頬を抓りたい気持ちになる。いや、しないよ。化粧が落ちるし。でも。


「……不安?」

「いえ、ただ……なんだか夢みたいで」


 不安、とはまた違う感情だ。なんだかふわふわしていて、足元が覚束ない感じ。長い、長い夢の中にいるみたいだ。……もしも夢だったら、どうしよう。それだけは、怖いかもしれない。

 レオンが、本当はまだ、悲しいままだったら。これが、死の縁に瀕したアナスタシアの見ている夢だったら。そう考えると、途方もない恐怖に晒されたような気分になる。


「現実だよ」


 そんな私のことを見透かしたように、穏やかな声がくだらない憂いを否定した。いつの間に入って来ていたんだろうこの男は。久方ぶりに会うニコラスの顔を見て、首を捻る。


「……そんな不審そうな目で見ないでよ。ちゃんとノックはしたんだから」

「ノックをすれば入っていいというものではございませんわ!」


 もっと言ってリア嬢。心の中で応援するものの、威嚇するリア嬢にもニコラスはどこ吹く風だった。


「レオンハルトの前で君と話すのは自殺行為だからね。ちょっとだけ、時間を貰いたくて」


 まあ、ニコラスにはとても……本っ当にとてもお世話になったから。話くらい、いくらでもしますよ。リア嬢を宥めつつ、彼の前に立つ。やっぱり、前よりもずっと落ち着いた、というか……。何か、嬉しそうな雰囲気だ。まあ、理由は分かる。

 結局、私とレオンが落ち着くところに落ち着いたことが嬉しいのだろう。そして、レオンの幸せを喜ばれるのは、私にとっても嬉しいことだ。


「レオンは嫉妬深いですからねぇ」

「そうだね。……そう、彼はもう、堂々と嫉妬もできるようになったんだよ」

「はい。そうですね」

「君が、レオンハルトとの未来を選んでくれたからだ」


 ありがとう、と。ニコラスは、本当に心からの笑顔を浮かべて、そう言った。


「君に、お礼が言いたかったんだ」

「あなたに感謝される筋合いはありませんよ」


 真摯な声を、軽く切り捨てる。


「私が、選んだんです」


 この未来を。

 レオンの隣にいる、ことを。

 そう言い切ると、ニコラスはちょっとだけ眩しそうな顔をした。


「……そっか。じゃあ、僕から言うことも何もないね」

「いえ。大切な言葉を一つ忘れてますよ」


 何を言ってるんだ彼は。嘆息し、私は指を一本立てる。いいですか、よく聞いてくださいね。自分に言い聞かせるような心持ちで、口を開く。


「今日は、とてもおめでたい日なんです」

「……ああ、そっか」


 要領を得ない一言で理解してもらえたようで何より。にっこりと笑うと、ニコラスも似たような顔をした。


「――結婚おめでとう、イヴリン」

「はい、ありがとうございます。ニコラス様」

「君達の前途に幸多からんことを。光の龍たる僕から、祝福を贈らせてもらうよ」


 なんて、言葉を残して。ニコラスは部屋を出ていった。


「……貴女達、案外と仲がいいのね」

「そんなことありません! リア嬢の方が私と仲良しです」


 何か呆然としたようなリア嬢の言葉を、私は即座に否定した。いやいや。ニコラスと私は仲良くなんかないですよ。あの男は単にレオンが好きなだけで。私もレオンが好きだから、そこが共通してるだけで。……? これもしかして仲良くなれるんじゃ……。

 まあ、仲良くはなりたくないから別にいいけど。これからも程々の距離感で関わっていきたい。レオンのことが好きな想いは私のほうが強いからな……! 忘れるなよ……!


「そうね。……ああ、もうこんな時間」


 苦笑気味な肯定の後、リア嬢はふと呟いた。こんな時間。……ああ、本当だ。


「わたくしは、先に会場で待っているわね。直に陛下がいらっしゃるから、ドレスを乱したり髪飾りを取ったり化粧を落としたりしないのよ?」

「リア嬢は私を何歳児だとお思いで……?」


 注意事項が完全に幼児に向けるそれだった。いや、まあ、うん。龍族から見ると、私は子供なんだろうけども。そこまで? え、そこまで信用ならないの? 私。

 ぐるぐると考え込んでいるうちに、リア嬢は部屋を出ていってしまった。


 他の龍達も、もういない。


 静かな部屋に、着飾った私一人だ。……そういえば、一人になるのは随分と久しぶりだなぁ。軟禁されてた頃以来か。記憶を取り戻した後は、もうずっとレオンやらヴィルさんやらが側にいたし。

 一人。


 独りぼっちだった、幼いアナスタシアのことを思い出す。誰にも愛されなかった痩せぎすの子供の、小さな願いを思い出す。

 ――家族を、家族と呼びたい。

 家族が、ほしかったのだ。一番最初の願いは、あまりにも単純で明快で救い難いものだった。だけど、血の繋がった家族をこの手で殺め、龍族の皆を家族だと思えるようになっても、すぐに死んでしまったから。……あんな、昔の願いは、もう忘れていたはずなのに。


 結婚を、したら。

 私は、名実ともに、レオンの家族になる。


(レオンの、お嫁さん、に――)


 そう考えた瞬間。

 突沸したように、顔に熱が集まった。お嫁さん。家族。夫婦。……ようやく、だろうか。実感が湧いてくる。私は、レオンの家族になるんだと。選んで、家族になれるんだと。ずっとふわふわして、地に足がついていなかったのに。急に、すべてのことが現実味を増してきた。

 顔が熱い。なんだかすごく恥ずかしい。


 えっ。これからレオンがここに来るんだよね。着飾った私の姿を、見るんだよね。何でだろう。落ち着かない。そわそわと、鏡に映る自分も落ち着きがない。

 今更に自覚した。今更に、……実感した。


 家族になる。

 結婚の、約束。


 世界一、幸せに。


「――イヴ」


 幸せすぎて泣きたくなる。そんな感情を、思い知った。

 私の名前を呼ぶ、その声だけで。心臓が歓喜に震えるの。いつだって、私はあなたが隣にいるだけで、世界一幸せな人間になれる。これから、ずっと。


「レオン」


 いつも黒い服を着ているけれど、そのどれとも雰囲気が違う格好だった。いつもの格好が、喪に服する際の暗い雰囲気なら。今の彼は、まるで――明るい月が照らす、優しい夜のようで。

 月が昇るのは、夜が寂しくないように。ならば、もう寂しくはない。月のない夜は、もう終わり。


「……綺麗だ」

「レオンも、世界一格好いいですよ」


 泣きそうになるのを堪えて、微笑む。そして、差し出された彼の手を取った。自然に、まるで、そうするのが当たり前みたいに。


「行こう、イヴ」

「ええ。行きましょう、レオン!」


 きっとこれから。

 私達の前には、沢山の困難が、後悔が……待ち受けているのだろう。

 それでもいい。

 困難以上の幸福が。後悔以上の喜びが。きっと、あるはずだから。


 さようなら、英雄王。

 さようなら、――私のことを憎んでいた、私。


 いつか、私のこの傲慢は、罪は、裁かれる日が来るのかもしれない。いつか、龍族の犯した過ちは、裁かれる日が来るのかもしれない。

 それでも。


「これからは、ずっと一緒にいましょうね!」


 もう二度と、この手だけは離さない。


 そう決めて、私達は、龍族と人間の入り混じった大広間へと踏み出した。

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