怒った


『まず、前提として、お前には犠牲になってもらいたい』

『意識をこちらに惹きつけるんだ。そうすれば、精神に隙が生まれる』

『……お前が演説でも何でもして民衆の意識を惹きつけている間に、

『――解るな。これは、お前じゃなければ駄目なんだ』

『英雄王という存在を、もう一度だけ蘇らせなければ、すべての民衆を同時には操作できない』

『お伽噺の、……伝説の存在であるお前だけが、すべての人間にとっての希望であり心の隙に――』




 やっぱり、私では駄目だったのだろう。死んでしまった英雄の声なんて届かない。人々は、もう幻想さえ抱いていない。


 そんな、諦念よりも。

 そんな、ことよりも。


「――レオン、レオン、レオン……っ」


 倒れて、何も言わないままのあなたのことだけが、私の頭を占めていた。血が止まらない。目が開かない。どうして、どうして、どうして。あなたは強いんじゃなかったの。龍族の王でしょう。なら、どうして、倒れているの。


 視線を感じて、顔を上げた。

 民衆は私を見ている? 倒れたレオンを見ている? じゃあ、その次は?

 ひゅ、と。喉がなるのが自分でも分かった。武器を持った民衆は、きっとレオンに向かってくる。あの、得体の知れない毒が、私の想像通りの代物なら。……レオンは。


 様子を伺っている民衆を、ただ見下ろす。なにか言わなきゃいけないのに、言葉が、出て来ない。英雄を、人々の希望を演じるのは得意だったはずなのに。何も言えない。何を言えって? 私は、何を言いたかったんだっけ。もう分からない。頭が回らない。

 だって、レオンが。レオンが、こんなに、血が――。


「強欲な龍族の王が倒れた! 反旗を翻すのは今だ!」


 黙れ。


「英雄王はすでに死んでいるんだ! あれもどうせ龍だろう、恥知らずめ。そんなに人間に歯向かわれるのが怖かったのか、臆病者!!」


 黙れ黙れ。


「立ち向かえ! この、龍殺しの毒があれば、勝機は――」

「――黙れ!!!」


 もう、聞いてられなかった。レオンの手だけは離さないまま、口を開く。

 ねえ、この世界は醜いでしょう、と。誰かが脳裏で囁いた。それさえも苛立ちを掻き立てる。

 強欲な、龍? 恥知らず? 臆病者? 何を言っているのか理解ができない。したくない。ただ、腹の底でグラグラと何かが煮立って。


「――いい加減にしてくださいよ!!」


 もう、自分の感情が制御できない。ただ叫ぶ。喚く。泣くことでしか感情を表せない子供みたいに、癇癪を起こして、それでレオンが助けられる訳でもないのに。


「なんなんですか、……っどうしてレオンを傷つけるんですか!? 彼は確かに人を軽んじたかもしれません。殺された人は確かにいます。でも、でも!!」


 俺が、叶え続けるから。そう囁く声を思い出す。なんだか、すべてがひどく遣る瀬無かった。この国をよろしくね、と頼んだ私の願いが、呪いになったのなら。


「それはすべて、私のせいでしょう!!?」


 なら、私を憎めばいい。私を恨めばいい。私に武器を突き付ければいい。なのに、どこまでいってもレオンやヴィルさんみたいな、私に巻き込まれただけの龍に憎悪は向いている。私が悪いのに。私のせいなのに。

 私が、すべての過ちを始めたのに。


「私がこの国を守ってくれなんて言わなければよかった、私があんな中途半端なところでいなくならなければよかった。何か一つでも違っていれば、今のこの国の歪はどこにもなかったんです。だから、私が悪いのに、どうして!?」


 民衆は戸惑ったまま、剣を振り下ろす先を決めかねているようだった。なにそれ。私に向ければいいじゃない。レオンは悪く……いや少しは悪かったけど。ヴィルさんも悪くなくはないけど。でも、一番の悪は、私でしょ。


「逃げ出さなければよかった、現実を直視すればよかった。もっと早くにできることがあったのに、私は二百年逃げ続けたんですよ。免罪符のように愛を振り翳して、まるで何も背負うものなんてないみたいに」


 ……ああ、もう。英雄なんて、どこにもいない。いるのは、惨めで愚かで情けなくて、ただレオンが好きだと喚く私だけだ。


「……私が、悪いんです」


 ごめんなさい、と。掠れた声で呟いて、レオンの手を強く握り締める。体温が、遠い。あなたがいなくなるかもしれないのが怖い。顔を覆って、いっそ泣きたいのに、涙なんて一滴も溢れては来なかった。


「だから、もう、終わらせましょう」


 右の手を、空に掲げる。ふ、と。あの日のことを思い出した。あの日。レオンと決闘をして、私が勝った日のこと。卑怯で弱虫で残酷な私のこと。

 今は、準備なんてしてない。あの時みたいに、結界も張ってない。向ける相手は、レオンじゃない。だけど、同じ魔術を。


「【其は、終焉より零れ落ちるもの】」


 脳味噌を端から少しずつ切り刻まれていくような感覚。心臓に細かな針を一本ずつ刺していくような感覚。


「【其は、宵闇よりもなお冥きもの】」


 世界に、闇が零れ落ちた。空間を引き裂いて、どろりとした絶望が、這い出てくる。無感情にそれを眺めていた。だって、恐怖に騒ぎ立てる声も狂騒もどこか遠い世界の物事のようで。


「【今ここに、我は望む。彼方より生まれいづる死が、この世界を覆わんとすることを】」


 頭が痛い。胸が痛い。でも、それよりもただ、心臓よりも深い部分が苦しくて仕方がない。


「展開、せ――」


 だって、あなたが、傷ついた。

 こんな国に、価値はない。


「――やめろ、アナ」

「…………ぇ」


 声と共に、視界に見慣れた手が映り込む。次に、右の手を強く掴まれた。目を瞠る。レオンは、顔色を悪くしながらも、しっかりと目を開いて私のことを見ていた。


「レオン」

「貴様、何を考えて……いるんだ、馬鹿。この、国を、滅ぼしたくはないと、言っただろ」

「レオン」

「その、魔術は。……この国どころか、世界さえ、巻き込むぞ。この身に受けた、我が言う。間違いない」

「レオン……っ」

「おい、我の話を聞い――っ」


 よかった。生きてた。ただ安堵して、その身体に抱きつく。ちゃんと温かい。体温がある。生きてる。自分の身体がひどく震えているのに気が付いて、ちょっとだけ苦笑した。


「生きて、るんですね」

「軽率に我を殺すな」

「すみません。だって、血が沢山出て、いて。目が開かなくて。それに、龍殺しの毒って……」


 もう怪我なんてなかったみたいに立ち上がり、レオンは狂乱する民衆に視線を向ける。ぱた、と。地面にまた血が落ちたけれど。それきり。


「魔力を掻き乱す類の毒物だな。貴様が一度受けた故、対策は講じてあった。……それに、俺が気を失っていると思わせている間に、こちらの魔術も展開しておきたかったんだ」

「……先に言ってくださいよ」

「悪い。あそこまで取り乱すとは思っていなかった」


 冷静に考えると、私がすごく馬鹿みたいじゃないですか。いや死んではないと思ってたけど。それでも、レオンが傷付けられたと考えたら、もうちょっと……理性がですね。感情的になると頭が働かなくなるのは、私の欠点だ。


「……お前も、怒るんだな」

「知らなかったんですか? レオンのことだと、私の沸点は低いんですよ」


 呆然と呟いたレオンに向け、ちょっと笑う。知らなかったんですかね。

 割りと英雄王すぐキレるから。レオンは、何か私が怒らない聖人のような女だと思ってる節があったけど。自分のことには無関心なだけで、レオンとかシスターとかヴィルさんとか。大切なひとが害されたら、すぐ怒るから。癇癪起こして国滅ぼす魔術を放つ英雄王って考えると、ひどいな。

 でも、仕方がない。


「だって、好きなんです」


 あなたが、好きなの。

 二百年分の想いを込めて伝えた言葉は、レオンの耳にどう届いたのだろう。分からないけれど、彼は柔らかく目を細めて、微笑んだ。


「好きなひと……ひと? まあいいや。とにかく、レオンが傷付けられたんだから。それはもう怒りますよ。怒髪天ってやつです。国の一つや二つ、滅ぼせます」

「……目の前で滅びそうになってた時は、どうしようかと」

「あ、もうやりませんよ。こんな危ない魔術、人に向けるものじゃありませんからね!」

「俺はその魔術を向けられた記憶があるんだが……?」


 まあまあ。どうどう。訝しむような目を向けてくるレオンからそっと視線を逸らしつつ、ついでに話も逸らすことにした。


「で、えっと。……この状況、どうします?」

「さあ、どうする?」

「何でそんなに軽いんですか……!?」

「お前は珍しく重々しいな」


 私とレオンの間には緊張感の欠片もないが、状況は逼迫している。私も龍族の味方だと思われている今、私の言葉も届かないし。なんなら私も死ぬな? これ。もしかして、来世で頑張るしかない……?


「……なあ、お前は」

「はい!? 遺書は私の部屋にありますけど!?」

「死を覚悟するな。……そうじゃなくて、ほら」


 レオンは、手のひらを民衆の方に向けた。何。もしかしてもう手詰まり? 見たくない気持ちを押さえつけて、視線をそちらに向ける。


「……って、え?」


 ……民衆は。

 武器を下ろして、私達のことを見守っていた。


「――龍王に、あんな口を聞けるなんて」

「本当に英雄王なんだな……っ!」

「しかも、龍王が彼女のことを庇ったということ、は」


 ざわめきが、ようやく耳に入ってくる。戸惑いも大きいけれど、決して私達に対して悪意を向けていない、声。


「英雄王の、再来だ……!!」


 ……。

 自分の身体を見下ろす。血と、埃にまみれていた。それでも、豪奢なドレスときらびやかな髪飾りと装飾品。ああ、そうだ。


「いや、でも、何か今俺たちのこと殺そうとしてなかったか……?」

「ばっか! 見りゃ分かるだろ! あの二人はアレだよアレ!」

「ああ、なるほど。……だから、人間と龍族が仲良くなれるようにって」


 それでも、私はちゃんと、前を向ける。


「レオン。ちょっと、馬鹿げた提案があるんですけど、いいですか?」

「……お前が馬鹿げたとか言い出すと、怖いな」

「ありがとうございます。では言いますね」

「お前、耳悪くなった? それとも俺のことを無視してるのか?」


 手を繋ぎ直す。今度こそ、離さないように。離れないように。


「――私と、結婚しましょう」


 永遠に、刻みつけるように。


 私は、レオンに口づけた。

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