軽かった


「で、提案とは?」

「ああ。それはな……」


「――はぁ!?」


 密やかに告げられた『提案』は、とんでもないものだった。レオンの頭が狂っているのかとさえ思ったし、自分の耳も疑った。けど、彼の顔は大真面目で。……本気で言っているのを理解した瞬間、もういっそ笑うしかないと思った。

 まあ。ほら。アレ。


 ……無理を通すには、無茶するしかないってことだよね。

 決意とか、覚悟とか、そういうのはもうとっくにしたんだもの。後は、愚かでも無様でも、ただ前に進むしかない。

 過去を過去にするのなら。未来を今にしなくては。





「よう、おかえり」

「あっ、人の部屋の窓を割って不法侵入を果たしたヴィルさんじゃないですか。ただいま戻りました」

「お前、俺に何か恨みでもあるのか……?」


 レオンと共に部屋に戻ると、なぜか当然のようにヴィルさんが帰りを待っていた。冷静に考えると、龍王陛下の部屋に勝手に入り込んでいるというのはまずいと思う。不敬罪が龍族にあるのかは知らないけど、そういう類のアレに当たるんじゃないの……?

 ちら、と隣に立つレオンを見上げるが、その目からは感情は読み取れない。逆に怖いわ。


「……おい、イヴ。まさかとは思うが、ヴィルフリートは」

「こいつが誰なのか、俺は知ってますよ。陛下」

「ほう?」


 ああ! ヴィルさんが喧嘩を売りに行きなさった! 声が完全に相手を小馬鹿にしている時の雰囲気だったもの。レオンは頬を引き攣らせている。え。何この状況。私はどうするべきなの……?


「なんで、誤魔化しとか嘘とかはなしにして、単刀直入に聞かせていただきたい」


 戸惑っている私のことなんて気にしていない様子で、ヴィルさんはレオンを強く見据えた。それはまるで、射殺すような強さで。


「レオンハルト龍王陛下。アンタは、こいつを守れるか?」


 レオンが、すっと目を細める。ヴィルさんは目を逸らそうとはしなかった。


「守るに決まっているだろう。俺はもう二度と、彼女を傷つけないと決めたんだ」

「なら、決して違えないでくださいよ」


 ヴィルさんの顔が、得体の知れない感情に歪む。知らない熱が、その瞳の炎を燃やしている。


「忘れないでくださいね。こいつは、名前の顔も知らない赤の他人のために、自分を切り売りできる女だ。俺の言葉も、俺の態度も、繋ぎ留める枷にさえならなかった。こいつにとっては、何よりも自分自身の価値が軽いんだ。自分の欲望とか願いよりも、誰かのための正しさに天秤が傾くんだよ」


 敬語は、もう外れていた。声は、淡々と響いているのに、グラグラと煮立つような感情が滲んでいる。

 ……っていうか待って待って。私の評価ひどくない? そして、どうしてレオンは頷いたの? 何を分かり合ってるんだお前らは。


「ああ。そうだな。彼女はいつもそうだった。どれだけ大切だと伝えても、まるで通じていないような顔で笑って自分を犠牲にする。ひどくて残酷で、悲しい奴だ」

「ねえ、そろそろ抗議してもいいですか?」

「いい子だからお前は黙っていてくれ」


 はい。なんとなく釈然とはしないものの、レオンに言われてしまったので大人しく引き下がることにした。


「――そんな、頭のおかしいガキがな。たった一つだけ譲らないものがあったんだ」


 ヴィルさんは、忌々しげに呟く。その瞳に燃えている感情の色を、私はきっと、理解していた。……理解したくなんて、なかったけど。


「レオンハルト龍王陛下。アンタのことだよ」

「…………俺?」

「ああ。アンタだ。まったくもって不愉快だがな。アナは、アンタのことだけは諦めようとしなかった」


 ヴィルさんは。いつも、この世界で一番綺麗なものを賛美するように、私のことを語るのだ。それは、どうしてだったのだろう。彼は、いつから、私に嘘を吐くようになったのだっけ。

 ベッドの縁に腰掛けながら、私はただ会話の流れを見守っている。私には何も言えない。言う権利がない。私の話なのに、私だけ蚊帳の外だ。


「レオンハルトを笑わせたい。から始まったんだ。他の何にも執着なんざしなかったのに、アンタのことだけは特別扱い。そして、自覚的か無自覚かは知らないが、アンタのことだけは、疎まれても諦めはしなかった。……ひたむきに、一途に、ずっとな」


 羨ましいよ、と。ヴィルさんは呟いた。その声の響きだけは寂しげで、私はちょっと目を瞠る。


「あの、自分自身を憎むように世界を愛した子供が、俺には一番可愛かった。いつも前だけを見て、自分の後ろに落ちている自分が流した血なんて見えていないド阿呆な子供が、世界で一番大切で大事で愛しかった。……だがな。アナにとって、俺は一番じゃなかったんだよ。いや、それだけならいい。俺はアナが幸せなら、それだけでよかったんだ。なのに」


 抜き味の剣を突きつけるような声だった。なのに、何かに絶望したようにヴィルさんは表情を崩れさせる。


「……俺がどれだけこいつを愛しても、こいつは自分自身を愛さない」


 それが世界で一番の悲劇みたいだとでも言うように、ヴィルさんは吐き捨てた。レオンの唇が震える。何を言おうとしたのか分からないまま、ヴィルさんに遮られてしまったけれど。


「静かな絶望が、ずっとこいつの心の奥底で燻っていたんだ。解るんだよ。俺も同じだから。俺だってずっと。自分が嫌いで、憎くて、いつ死んでもいい奴なんだと思っていたから。解るんだ。こいつは、根本的に自分の価値を信じていない。世界で一番無価値な存在が自分だと、無意識に盲信している」


 ヴィルさんの言葉を、ぼんやりと聞いていた。そうだね。……そうですよ。私は私のことが嫌い。私はエーファを殺した私を許さない。贖え、と。夢の中で、幼いアナスタシアが繰り返す。

 この手は血に濡れているのだと。人殺しの化け物のくせに、何を幸せになろうとしているのかと。


 私が、そう、思考している。


 レオンは、静かにヴィルさんを見ていた。穏やかな青の瞳で、彼の絶望を見据えていた。

 やがて、レオンは躊躇い混じりに口を開く。


「――貴様は、彼女のことを愛しているのか」

「ああ、そうだな。……この世界で一番、愛している」


 ヴィルさんの声に、どろりとした何かが零れ落ちた。目を逸らしていた、深くて暗くて濁ってしまった愛着が、色を変えていく。


「家族として?」 

「は」


 吐息のようなそれはきっと、笑い声だったのだと思う。確信が持てないのは、ヴィルさんの顔が全然笑っていなかったからだ。


「……そんなの、俺が知りてぇよ」


 彼が、その想いを嘘で塗り固めたのは。……きっと、私のためだ。


「最初は、ただ、可愛かった。そして、一緒にいて、家族みたいに暮らして。……ああ、確かに、家族であれたらいいって思ってたんだよ。嘘じゃねぇ。あの頃の俺は、確かに、アナと親子になりたかった」

「今は、違うと言いたいのか」

「……ああ。これは多分、そういう、綺麗な愛じゃねぇよ」


 そう呟いたヴィルさんの視線が、私を貫く。その、愛執とか執着とか絶望とか、沢山の重い感情を詰め込んで壊れそうな瞳を見つめて。

 私は、何ができたのだろう。私に、何ができるのだろう。分からない。分からないけど、……でも。

 ヴィルさんは、私の、一番最初の家族だから。


「誰が不幸になっても。何が壊れても。……この世界が滅んでも。たったひとりの、俺の可愛い養い子が幸せだって笑えるなら、それだけでいい」


 私は、ベッドの縁から降りる。


「きっと、これを人間は狂気と呼ぶだろうな。あるいは、信仰とでも定義されるか? んなことはもう、どうだっていい。ただ、俺はてめぇだけが大事なんだ」


 ヴィルさんに一歩、近づいた。


「恋なんざじゃねぇよ。なんなら、愛でもねぇ。この世界と天秤にかけても絶対的に重いのがてめぇだっていう、それだけだ。……俺の世界なんだ。俺の生きている意味なんだ。俺の命も心も未来も、アナにやるから。欲しいものがあれば何でも手に入れて、願う形があるなら国だって変えてみせる。邪魔なものは全部壊して、お前の理想にそぐわないゴミは処分して、綺麗で優しいお前のための国だって作ってみせるから」


 もう一歩。


「俺の知らないどこかででもいいから。ただ、幸せだって笑っていてくれよ……っ」

「ヴィルさんってば、馬鹿ですね」


 あなたが泣きそうに見えてならなかった。だから、涙なんて浮かんでさえいないその目元を指ですくう。


「馬鹿、ってなぁ……」

「だって、言ったじゃないですか。私はね、ヴィルさんに何かを失ってほしくなんてないんですよ」


 それに。と、私は笑って続ける。視界の端で、レオンが呆れたように額に手を当てるのが見えた。


「私は今、結構幸せなんですよ」


 ヴィルさんは、ぽかんとした顔をする。何、変な顔をして。そんなに私ってば、変なことを言った?


「しあわせ?」

「はい。困ったことに、幸せなんです」


 結局。私個人の幸福っていうのは、国なんていう大きなものには左右されない。レオンが隣にいてくれるだけで。ついでに、彼が笑ったり怒ったり泣いたり彼らしく振る舞ってて。なおかつ、私のことが好きだって言ってくれる。それだけでいいのだ。

 それだけで、溺れちゃいそうなくらいに幸福なの。こんなに幸せでいいのかな。って、苦しくなるくらいに。


「だから、もういいんですよ」

「俺はもういらない、って?」

「違います。ヴィルさんも幸せにならなきゃ駄目だってことですよ!」


 明日に行こう。今度こそ。アナスタシアが死んだ、それでも私がここにいる未来に。

 笑って、怒って、泣いて、また笑って。そんなふうに、一緒に生きていたい。


「私はもう十分に幸せだから、あなたが独りで傷つかないで」


 固く握られた拳を、その上から柔く包み込む。


「私のための優しい嘘なんて、もういりません。私はようやく、私自身のことを認めてあげられるような気がしてるんです。大嫌いな、憎たらしいアナスタシアのことも。ちょっとは、好きになれるかもしれない」


 それは、未来の話だ。もう二度と戻らない過去ではない。そうだ。明日のことを、話したかった。あなたと、アナスタシアじゃない私でも。……家族みたいに。当たり前に、側にいるように。


「……幸せ、に。なれるのか?」

「私は幸せになるつもりでいますけど」


 私のとぼけた言葉に、ヴィルさんは顔を盛大に歪める。あ、ヴィルさんが泣きそう。


「また、てめぇは、俺のいないところで勝手に覚悟を決めやがる」

「そんな私は嫌いですか?」

「――世界で一番愛しいよ」


 ヴィルさんの瞳から、一滴だけ、涙が零れ落ちた。それきり、時間が止まったように、ヴィルさんは動かなくなる。それを見て、私はまた笑った。




 私は私が嫌いだった。今でも、好きにはなれないままだ。だけど、嫌でも思い知らされるの。レオンの言葉に。ヴィルさんの態度に。シスターの温度に。私は、愛されているのだと。突きつけられて、だから、呑み込んだ。

 もういいよ、アナスタシア。あなたは十分に贖ったよ。誰かに、そう言ってほしかった。私は私を許してもいいのだと、赦されたかった。

 でも、もう終わり。

 私は、前を向かなきゃいけない。愛されているのだと理解しなければならない。私は。私を憎むのを、やめたい。


 そうして、また、幸せだって笑えるように。

 ただ、祈るのだ。




 ヴィルさんは、反乱に対して別の方面から対策を講じるらしい。そう言って、部屋を後にした。その横顔がなんだかすっきりしたように見えたから、私としてはもう万々歳。やったね。


 そして、私とレオンは、先刻の『提案』のため準備を行なっていた。


「――アナスタシアの服まで取っておいたとは、流石ですね! 執念を感じます」

「褒めるなら最後まで褒めろ。おい、引くな。距離を取るな!」


 鏡台は、別の部屋に移動していただけらしい。全身が映る鏡を見ながら、春よりも自分の背が伸びていたことに気がついた。アナスタシアは背がそこまで高くなかったから、今の私と体格がそこまで変わらない。服も、少しだけ裾と袖を直せば、着られそうだ。

 ……っていうか、これ、二百年前の分じゃないな? 増えてる増えてる。思わず、レオンの顔をまじまじと見てしまった。あ、綺麗な顔。これなら、女装も似合うか……?


「あなた、女物の服を着る趣味とかありましたっけ?」

「……誤解だ。おい、誤解だからな!? だから距離を取るなよ!?」

「いや、だって……この服、何なんですか? アナスタシアは衣装持ちではなかったから、こんなに沢山の服は持ってませんでしたよ? 覚えてるんですからね!」


 あと、慌てられると余計に怪しい。じっとりと彼の顔を見上げると、ゆっくり視線が逸らされていく。怪しいにも程があるんですよねぇ。


「聞いても、引かないか?」

「現時点で引いてるので問題はないです」

「……」


 いいから言え。ほら、早く。そう、視線で訴えかける。沈黙するほど私からの疑いが深くなっていくからね、これ。


「…………アナに。似合いそうだなって、思――」

「――すみません引きました」

「宣言が早い」


 死んだ人間に着せる服を選ばれても困る。死者へと供える花くらいならまあいいけど、流石に無駄金でしょ。あと怖い。女物の服を見て、アナスタシアの寸法を完全に把握して購入して部屋のクローゼットにしまうその一連の流れがもう怖い。執念深いとかそういう次元じゃない。もしかしてあなたの脳内にアナスタシアさん住んでます? って感じ。


「……レオンハルト龍王陛下におかれましては、相変わらず、実に執念深くあらせられるようで。ああ、卑賤な私には御心が理解できず……申し訳ございません」

「やめろ、心の距離を取るな!!」


 じゃれあいながら、服を選んでいく。また、髪飾りなどの装飾品も。鏡を見ながら、ああじゃないこうじゃないこれがいいあれがいい、と。まるで、昔に戻ったみたいに、二人で意見を交わしあった。


 そして。


「――外が、騒がしいな」


 ふ、と。何かに気が付いたように、レオンが顔を上げる。鏡に映る自分の姿を確認していた私も、レオンに習って耳を澄ませた。……なるほど。風が吹いている。割れた後の窓が、ちゃんと修繕されてないんだな。つまり。


「何も聞こえませんけど?」

「俺には聞こえたんだよ。お前、聴力そこまで良くなかったんだな」

「種族差ですね。龍と比べられても困りますよ」


 言いながら、適当に補修された跡のある窓に近づく。外。遠く。大通りに、沢山の人が集まっているのが見えた。あれって、まさか。


「反乱、ですね」


 もうすぐ、とは言っていたけれど。ここまで早いとは思っていなかった。いつもよりも早く脈打つ鼓動を鎮めるように胸元で手を握り締め、深呼吸をする。……大丈夫。こういう大博打は、得意だ。


「ああ、お前の出番だ」

「あなたの出番でもありますよ」


 私の手を自然に解き、レオンはそっと手を繋いできた。手を繋いで歩くなんて、昔みたい。……いや、違うか。

 これから、私達は、それを当たり前にするんだ。


「行きましょう。レオン、……願う未来を、今日にするために」


 胸を張って。背筋を伸ばして。感情を覆い隠す穏やかな笑みを浮かべて。黒い髪と、黒い目の私は、冠を頭に載せた。たった二人の戴冠式。なんちゃってね。


 力強く頷いたレオンと共に、外に向かう。

 空は、雲ひとつない、晴れだった。

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