愛だった
地面に崩れ落ちたレオンを見下ろす。しばらくの間、何が起こったのか理解できていないような顔をしていたレオンは、やがてハッとしたように私を睨みつける。なんだ、しっかりした顔できるんじゃない。
「お前……っ。普通ここで殴るか!?」
「殴ってません。叩いたんです」
「同じだろ!」
喚き散らすレオンに向け、私は態とらしく溜め息を吐く。私だって、レオンのことを傷つけたい訳じゃない。本音を言うと、心にも身体にも傷一つつけたくない。だけど、まあ。この男は強いから、非力な私ごときの力で傷なんてつかないだろう。
そういう訳で。全力で引っ叩きました。……はい、全力で。
最初に話そうとしていたことは、もう頭から飛んだ。冷静に話し合う? アナスタシアのかけた呪いを解く? は?
今はそんなこと考えられない。思考がグラグラと煮立っているのが、自分でもよく分かる。目の前にいる彼の不甲斐なさが、ただひたすらに遣る瀬無くて、頭がおかしくなりそうだ。
だから。と、意識して皮肉気な笑みを作る。
「レオン。あなた……弱くなりましたよね」
「……は?」
「いえ。イヴリンとしての初対面あたりからなんとなく察してましたが。今はっきりと理解しました。弱いですよ、今のあなたは」
呆気にとられたような顔。その頬は、若干赤く染まっていた。そんなに強く叩いたかな? 私ごときの全力で、そんな……。
それとも、怒ってるのだろうか。なら、その方がいい。感情を剥き出しにしてくれた方が、話が早いから。怒って、喚いて、喧嘩して。そうできたら。
「何を、言って……?」
「何度でも言いますよ。レオン、あなたは弱い。最強の種、龍族の王が聞いて呆れます」
殴られた……違う。引っ叩かれた頬を擦りながら、レオンは俯く。
「そうだな」
肯定しないでよ。私が惨めになるじゃない。いっそ泣きたくなるのを堪えて、鼻で笑う。
「……ねえ。レオン。私がいつ、私みたいになってくれなんて言いました?」
私とレオンは、きっと未来永劫分かり合えない。あなたが龍で、私が人間である限り。分かり合えないから、……私はレオンみたいになれないし、レオンは私みたいになんてなれない。
っていうか私みたいなレオンってやだな。すごく嫌だ。だってそうでしょう? ちょっと後ろ向きで、割りと泣き虫で、すぐに独りで抱えてしまう考え過ぎなところもレオンの一部なのだ。
だから、……前だけを向いて、振り返らなくて、理想ばかりを追いかける存在になる必要なんてないのに。冷静に考えるとひどいな、私。何だこれ。何このとんでもない馬鹿。多分だけど、レオンが私みたいになったら、この世界が終わると思う。
「あなたが強いだけなのも。あなたが案外と後ろ向きなのも。私はちゃんと理解してますよ。あなたが言う通り、あなたには……強さしかないのかもしれません」
レオンは、かつての私が信じていたよりも、ずっと脆いのかもしれない。いつも背を追いかけるだけだったから。その顔に浮かんでいる表情は、遠くてちゃんと見えていなかったのかもしれない。あなたは本当は、私が思うよりもずっと、情けない男だったのかもしれない。
……それでも。それでも、いいよ。
だって、私は。そんなあなたが好きで、あなたの弱さも強さもひっくるめて愛しいの。
地面にへたりこんだままのレオンの前に、しゃがみ込む。そして、レオンの頬を挟み込むようにして、そっと触れた。叩いた方頬だけ、少し熱を持っていた。
「……でもね。そんなレオンだから、できることがあるはずなんです」
「無理だ。何も無い」
「なんでやる前から諦めるんですか」
情けない奴め。そう笑いかけると、レオンはますます苦しげな顔になる。
「俺は、この国が嫌いだ。大っ嫌いだ」
「知ってます」
記憶喪失だった時に聞いた。だけどそれがどうした。知ったことか。そう思う私とは裏腹に、レオンは苛立ち混じりに歯軋りをした。
「嫌いなもののために、何をしろって言うんだよ」
「あら。嫌いなもののために頑張れ、なんて言ってませんよ」
こんな国、滅べばいい。私がかつて、そう考えてしまったのも、嘘じゃない。もう滅ぼすなんてできないけれど。もしも、そう願ってしまうほどの激情が彼の中にあるなら。私が考えたそれよりもずっと深く、重く、願うような想いがあるなら。……それは、ひどく悲しいことなのではないかとも思うのだ。
そして、そう思うのが、私のせいだということが。……ほんの少しだけ嬉しいと感じてしまった自分に、軽く失望した。
「私のために、です」
……だけど。
この世界を壊すことだって片手間でできてしまうあなたが、私のことだけは殺せないと、知っているから。ああ、いっそ卑怯だと罵ればいい。狂っていると嘲ればいい。
私は、レオンが、私の願いを叶えると知っていた。
傲慢に。ただ、『家族』だと認めた私のためなら、なんでもしてくれると――理解していた。
「私は、人間と龍族が仲良く暮らせる明日が欲しい。未来のいつかで、必ず私はいなくなるけれど。それが、希望に満ちた終わりであって欲しいと、思うんです」
今度は、ただ利用するのではなく。この国のために、と縋って頼るばかりではなく。あなた達の、献身に報いたい。龍族の皆が、眩いほどに変化に満ちた、停滞も退屈もない日々を送れるように。
種族の垣根を越えて。いつか。恐怖も、畏怖も、薄れていくように。
「――俺に何ができるって言うんだ」
私の一方的かつ独善的な願いを聞いて、レオンは顔を上げた。その、迷いながらも前を向こうとする声に、私は力強く返す。
「レオンにできないことなんて何もありませんよ」
一瞬、レオンは、あどけないくらいにきょとんとした顔をした。何を言われているのか分からないとでもいいたげな表情。それが、じわじわと呆れたみたいな笑顔に変わる。それは。……しばらくぶりに見た、本当に穏やかなだけの顔だった。
「俺なら、世界すらも変えられるって?」
何も言わず、ただ頷く。そしたら、レオンは顔を覆って盛大に溜め息を吐いた。
「ああ、くそ。俺は、これからもこうして……お前に踊らされるんだろうな」
「あら、人間風情に踊らされるんですか?」
「馬鹿言え。人間じゃなくて、お前だよ。アナ――いや。イヴ」
私の手の上に、レオンはそっと手を重ねる。昔、私を引っ張ってくれた手のひらと同じ温度だった。
「また、何度だって、お前が俺を未来に連れて行くんだ」
力強い声に、私はちょっと泣きそうになる。ああ。ここにいるのは、レオンだ。アナスタシアが見ていた、あの真っ直ぐで強くて気高い、龍族の王レオンハルト。昔のままの、強いあなただ。
ずっとずっと、あなたに恋をしている。
強いあなたに。弱いあなたに。ここにいるあなたに、また、恋をする。
それはきっと、永遠に。
「私も同じですよ。あなただけが、私に前を向く勇気をくれる」
そう言って、笑った。
世界に二人きりみたいに、静かな湖辺で。
未来を始めるように、笑いあった。
「……お前、言ったよな。俺がいない世界に幸せなんてなかったって」
しばらくの沈黙の後、レオンはちょっとこわごわと呟いた。それにただ首肯する。改めて言われるとすごく恥ずかしいこと言いましたね私。これは最早、ただの告白では……?
レオンには、顔を赤くすればいいのか青くすればいいのか分からず、妙な顔をする私など見えていないみたいだ。彼は周りなど見えていない必死な様子で、言葉を探す素振りを続けている。
「なら、提案がある。人間と龍族が仲良く暮らせる未来、の……ために」
「へえ。何か思いついたんですか?」
「お前はもしかしたら、怒るかもしれないけどな」
私が怒るような方法? 訝しむ私を余所に、レオンは小さく微笑む。何かひどい覚悟を、決めたような顔だった。
「……俺は、お前のことが好きだよ」
世界における絶対的な定義を教える時のような、迷いのない声。私の耳を打ったその響きに、ただ息を呑んだ。違う。こんな、こんなの……望んでない。だってそうでしょう?
それは。……きっと、執着とか。妄執とか。そういう、美しい過去を抱き締めるだけの、綺麗じゃない感情で。恋とか愛とか、優しくて美しい名前をつけるべきではない、想いで。私が抱き続けてきたこれと同じ、醜いもの。
だから。……だから。
「それは、誰のことですか」
凪いだ声に聞こえるように意識して、静かに問い掛けた。
「二百年前にあなたの隣にいた、アナスタシアのことですか。あなたに時の流れと思い出の優しさを教えた、イヴリンのことですか。……あなたがいう『私』というのは、一体誰ですか?」
残酷な質問をしている、と思う。一言一言を口にする度に、私自身の心にも鋭い刃が突き刺さっていく。でも、これだけは、聞かなければならない。
過去を、精算するのだ。今度こそ。今こそ。あなたと向き合える、今。ここて。……アナスタシアを終わらせよう。
「答えて、レオン。……レオンハルト龍王陛下」
あなたの瞳の青が、あなたの髪の黒が、あなたを形作るすべてが、……ずっと愛しかった。愛していた。そんな美しい名前で呼べる感情ではなくても、定義するのなら、どうしようもなくこの想いは愛だった。
遠くて強くて気高いあなたが、それでも割りと泣き虫で後ろ向きで弱いあなたが。私がいないどこかででも、笑って生きていてくれれば、それだけでよかったはずなのに。
――死んだはずの、誰かの心が、ただ叫んでいる。
あなたが好きだと。隣にいたいのだと。本当は、ずっとずっと叫んでいた。
あなたのためなら死んでもいいと思うほどのこの激情を、あなたはきっと知らないのだろう。それでいい。知らなくていい。だって、私は、あなたの傷になりたい訳でも。あなたの悲しい過去になりたい訳でも。……あなたを呪いたい訳でも、ないのだから。
レオンは、一歩、私に近づいた。瞳の青が、底など見通せない深さで揺れている。一刹那。泣くのを堪えるみたいな、震える吐息が聞こえて。
「――お前だよ」
レオンは、夜が明ける前に吹く風の音みたいな声で、囁いた。
「アナスタシアでも。イヴリンでも。他のどんな名前でも構わない。そう言ってきただろ。何度言えば伝わるんだ。俺は、お前が大切なんだよ。……だって、同じなんだ」
その声は段々と強さを増していく。瞳に、怒りにも似た鮮烈な色が滲んでいく。
「確かに、名前は違うかもしれない。顔や形は変わったかもしれない。俺の知らないどこかで、俺の知らない傷を作ったのかもしれない。だけど、お前はお前だろ? 俺のことを怖がりもせず、笑って話し掛ける。俺がどんな存在かを理解した上で、他の奴と同じように適当に扱う。普通に笑って、普通に怒って、普通に触れて、話して、隣にいてくれる。そんなの、……お前だけだ」
お前だけだよ。そう繰り返して、レオンは私を抱き締めた。砂糖菓子に触れる時だってもっと力を込めるだろう、みたいな力加減で。
「……死者は、蘇りません」
「知ってる。だから、俺は、再び巡り合ったお前に恋をしたんだ。死んだアナスタシアだけじゃない。初対面だった、イヴリンにも。また恋をした」
なんだそれ。彼には見えていないはずの顔を、ぐしゃぐしゃにして笑う。笑えてるかな。これは、どんな顔だろう。自分でも見えてないからもう分かんないや。
「私は、いつか必ず、死にますよ」
「それなら、今度はちゃんとお前を探し出すさ。記憶なんてなくても。黒髪黒目でなくなっていても。お前の魂を追いかけて、見つけ出す」
「今までの私は見逃してきたのに?」
「……それは許せ。アナの死を受け入れられなかった俺が、弱かったんだ。だが、今は違う」
あなたの涙を、死なないでくれと縋る声を、再会したときの昏い瞳を思い出した。
レオンの言葉を信じたいのに。あなたの語る、私にとってひどく都合のいい優しい言葉を、信じたいのに。過去が緩やかに私の首を絞める。大嫌いな自分のことだけは、信じられないから。あなたの言葉まで嘘に聞こえてしまう。
私は弱いよ。あなたのことを責める権利なんてないくらい、弱くて情けない。だから、まだ、あなたの背に手は回せない。
「違う? 何が、ですか。私が死んだら、またあなたは泣くのでしょう? 嘆くのでしょう? その心の時間を止めて、過去に縋って、また思い出ばかりを大切にして立ち止まるんでしょう!?」
なんて醜い女。なんて愚かな人間。あなたを傷つけることばかりが恐ろしいのに、どんな選択をしても、結局はあなたを呪ってばかりだ。
なのに、レオンはただ、私を抱き締める力を強くする。
「――そうだな。いつか、過去の幻想でしかないお前に縋って、俺は停滞した時を過ごすのかもしれない。そうして、お前がいない世界を呪って、いつかこの世界さえも滅ぼしてしまうかもな」
肯定は、ひどく穏やかだった。
私は少しだけ混乱する。残酷なことを言ったはずなのに、レオンの声がほんのちょっと、嬉しそうだったから。
「でも。今ここに、俺の隣にお前がいるなら……それが永遠でなくても構わないんだ」
――でも、今はここにいます。
――私はあなたの隣にいたい。
アナスタシアが無邪気に語る声が、脳裏に響いた。ああ、くそ。最初にそう言ったのは、私じゃないか。なら、彼のその想いは、拒めない。……本当のことは、もうバレてしまっているんだから。
「好きだよ。名前も顔も形もどうでもいい。いっそ、俺のことを憎んでいても嫌いでも、構わない。今ここにいるお前のことだけが、世界でたった一つだけ、愛しいんだ」
もしも、世界がいつか終わるなら、それが今この瞬間だったらいいのに。……今、私がそう思ったことを、どうかあなたは知らないままでいてくれればいい。あなたが好きなんだって、それだけを抱えて私がここまで来たってことを。あなたは知らなくてもいい。
泣きたいのか笑いたいのか怒りたいのかさえも分からない、ぐしゃぐしゃの感情のまま。私はレオンの背に手を回した。
「きっと、後悔しますよ」
「後悔してうじうじしていたら、お前がまた前を向かせてくれるんだろ?」
「……ばぁか」
永遠なんて妄想は、信じていない。今この瞬間の選択を、未来でまた後悔するとは理解している。なのに、……なのに。馬鹿だなぁ。レオンも私も、とんでもない大馬鹿だ。
「お前が、今ここにいてくれるなら、馬鹿でいい」
何も解決なんてしてないよ。未来はきっと残酷だよ。後悔するなんて分かりきってるよ。なのに、いいの? 本当に、それでいい? 甘い言葉に惑わされて、ただ流されてるだけじゃないの?
問い掛ける声が、鼓動の音を邪魔してくる。それを振り払うように、私は笑った。
――もしも、また生まれ変わったら。今度は、逃げないで彼に会いに来る。
そうできたら。私は少しだけでも、私のことが好きになれるかもしれない。
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