いなかった


 レオンの背に乗って、空を飛ぶ。風で暴れる髪を押さえながら、私は目を閉じた。風で、目が痛いから。……涙が出そうなのは、それだけが理由だ。

 この数日だけで、沢山の言葉を交わしたことを覚えている。レオンは、私の記憶が戻ることを怖がっていて、私だって事実を直視することを避けていた。そんな、歪んだ時間だったけれど。

 そこにあった幸福だけは、真実だった。……なーんて、私がそう思いたいだけですかね。


 ――はい。レオンの親友の、アナスタシアですよ。

 ――レオン、私はあなたの隣にいたい。

 ――それでも、前を向いて歩いていくしかないんです。


 ――あなたが好き。


 残酷な、幸せな時間を過ごした。きっと、あの時間だけで、私は一生分の幸せを手にしたのだ。だから、もういい。十分だ。

 終わらせよう。終わりに、しよう。アナスタシア・エヴェリナ・ダフネのかけた呪いを。愛という名の、絶望を。


(そのための、言葉は、もう考えた)


 覚悟も決めた。決意もした。だから。


(……さあ、未来を、始めましょう)




 目的地に辿り着き、レオンは着地する。着の身着のままで、みすぼらしい格好の私は、跳ねるような足取りでレオンの背から降りた。


「やっぱり、ここでしたか」


 レオンの瞳の色によく似た蒼を映し出す湖を眺め、私はそっと苦笑した。湖。いつか連れて行ってと、約束していた、場所。こんな形で来るとは思ってなかったんだけどなぁ。こんな形で、でも。嬉しいと思ってしまう私は、本当に救いようがない。

 振り返ると、レオンは、いつもの人間の姿で立ち竦んでいた。焦燥と、悲哀と、……何だろうか。悲しい色をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような表情をして、なのに、ちょっとだけ笑っているみたいに顔を歪めて。レオンは、ただ私を見ている。


「この湖については、覚えてるか?」


 まるで、本題に入るのを遅らせるように。ふと、彼は私に問い掛けた。


「覚えてますよ。ほら、龍族しか立ち入れない湖ですよね。龍の命の……終わりと弔いの場所」


 その卑怯さを受け入れて、会話を続ける。これからする話の結果によっては、こんな穏やかな会話はもうできないかもしれないから。……なんて、私も卑怯だな。


「そうだ。死に至った龍の身体はこの湖に沈められ、魂はここから世界を廻り、また産まれ落ちる」

「あの巨体をここまで運んで沈めるのも重労働ですよね」


 適当な相槌を打つと、レオンはちょっとだけ目を細めた。


「いや、死した龍は、そのままの身体で遺ることはない」

「と、言うと?」

「魂の核だけが遺されるんだ。丁度……握りこぶし程度だな。その位の大きさの、玉だけが遺る。この湖に沈めるのは、その玉だけだ」


 衝撃の事実。龍は、死んだら玉になる。死体が肉片だった私との格差がひどいな。

 なんかちょっと複雑な気分になる私を余所に、レオンは軽く笑った。いや、笑い声は軽かったけれど、その顔はひどく陰惨で。


「……だが、お前のことは、ちゃんと全部沈めることにしたんだ」

「――えっ」


 いつ私の話になったの。首を捻っていると、レオンの骨ばった手のひらが、湖を指し示す。


「なかなかに大変だったぞ。どう足掻いても肉片だったからな。最終的にはな、ベッドごと運んで、シーツごと沈めたんだ。当然、他の奴の手なんて借りなかった。……俺だけでちゃんと、弔ったよ」


 いやそんな胸を張られても困惑しかできないんですけど。湖を見ても、その湖面は凪いでいて、そこに人間の肉片が沈んでいるとは思えない美しさを讃えている。話を聞いたせいで、この湖の美しさが少し禍々しく思えてしまった。ちょっとだけ湖から距離を取る。


「いや、なんで私をここに弔ったんですか? あと、私の墓、二つもあるんですけど……そのどちらにも私の遺体が入ってないってひどいのでは」

「ひどい? 何がだ」

「空っぽの墓という存在ですね」

「安心しろ。宮殿の墓には髪を一束入れておいた」

「塔は?」

「知らん」


 ……まあいっか。諦めという名の思考放棄を行い、私はそっと溜め息を吐いた。レオンがアナスタシアをちゃんと弔えたなら、それはまあいいことなんじゃないかとも思うし。いいことかな。知らない。もう分からない。


(しかし、龍族と同じ弔い方をされてるなん、て――)


 そこまで思考して、あれ? と首を傾げた。私には、アナスタシアの記憶がある。それは確かな事実だ。そして、アナスタシア以外の記憶もあるけれど、それはさておき。

 龍族の魂は、記憶を保ったまま何度も産まれ落ちる。私の死体は、この湖に沈められた。……龍族の魂を沈めるここに。

 それは、つまり。


 私のこの記憶は、アナスタシアがそうやって弔われたことが、原因なのでは――。


(いや。今はそんなことはどうでもいい)


 思考を、意識して冷ます。レオンは、少し落ち着いた様子で私のことを見ていた。お互いに。穏やかに、夢の中みたいに幸福に言葉を交わせる時間が終わりに向かっているのだと。理解しているように。


「レオン」

「待ってくれ」


 震える声で名を呼んだ私を遮って、レオンは大きく深呼吸をした。そして、一歩だけ私に近づく。


「……なあ、話の前に。一つだけ、教えてもらってもいいか」


 彼の声は、震えてなんていなかった。だから、私は笑う。……そう、いつでも笑えるくらいに、強くなりたかったの。


「はい。何でも答えますよ」


 何でも答える。……もう、嘘は吐かない。軽い調子で吐き出した声の中に、二百年分の覚悟を込めた。


「お前は、アナスタシア……なんだよな」

「……アナスタシアだったという記憶は、あります」


 あの、波乱万丈というか躁鬱乱高下みたいな人生は、ちゃんと覚えている。だけど。


「でも、私の名前はイヴリンです」


 彼女は、もう死んだ。英雄王はもうどこにもいない。そう、彼に突き付けるのは、私の役目だ。

 大丈夫。声は震えていない。胸を張って、笑顔を見せて。今だけは、弱さなんて見せないから。


「英雄王アナスタシアは、もうずっと前に死んだから。私はアナスタシアではありません。英雄の亡霊なんかでは、ない」


 言い切った瞬間、ずっと背負っていた荷物が崩れ落ちたような気がした。代わりに、胸の奥深くに、得体の知れない重さが産まれ落ちる。

 レオンの目からは、視線を逸らさないまま。しばらくの間、耳が痛くなるほどの静寂が落ちた。


「そうか、やっぱり、お前はアナだな。お前らしくて、……腹が立つ」

 

 一瞬。

 それが、誰の声なのか分からなかった。彼がこんなにも暗くて、低くて、重い声を吐き出したことなんて、なかったから。目を瞠る。その隙を突いて、レオンは私の手を強く掴んだ。いっそ、圧し折るような強さで。


「……お前が英雄だろうが、王だろうが、亡霊だろうが、そんなことは知らないんだよ。興味ない。俺はそんなことが聞きたいんじゃない!」


 レオンの瞳は、底がないほどに深い蒼を映し出していた。この湖よりも深い、複雑な感情の入り乱れた色。目を奪われる。ただ、私を一瞬で殺せてしまう存在の美しさに、胸が震えた。


「……じゃあ、何が知りたいんですか」

「お前がアナスタシアだっていうのは、質問じゃなくて確認だ。俺が知りたいのは、本当に……一つだけなんだ」


 息を吸って、吐いて。レオンは、ちょっと不器用に笑う。瞳の奥に、沢山の感情を隠して。


「……この国で生きてきて、お前は、幸せだったか?」


 ――ああ。

 心の中で。何かが崩れ落ちて、壊れて、消えてなくっていくような気がした。笑って幸せだと告げようとして、……それが嘘になってしまう事実に、愕然とした。

 幸せだ。幸せだよ。今の私は、幸せ。ここにいる私は、幸せだって、断言できる。


 じゃあ、今までの私は?


 答えられない。どんな答えを返しても、嘘になる。イヴリンは、幸せな人間として生きてきた。石を投げられても蔑まれても目を抉られそうになっても。守ってくれる人がいたから、幸せになれた。なのに。

 イヴリン、と。そう呼ばれる前の誰かの亡霊が、喉を緩やかに締めてくる。


「――そ、んなの」


 ようやく。

 十回目の人生で、ようやく、自分の生き方を受け入れられたのに。ようやく、この記憶にも折り合いをつけて生きていけるはずだったのに。今更、なんで、そんなことを聞くの。幸せ? この国で生きてきて? 私は。

 もし今の私が死んだら、次の私はどうなるんだろう。また、産まれ落ちた自分の存在が呪われていると思いながら、地獄のような日々を耐えるの? 嫌だ。もう嫌。耐えられない。耐えたくない。


 それに。

 本当は。そんなことよりも、ずっとずっと。私は馬鹿だから、くだらないことばかりが、大切なの。

 たった一つだけが、この心の、証明だ。


「……あなたがいなかった、んです」


 笑顔が崩れる。頑張って作り上げた『強い私』が、呆気なく剥がれ落ちていく。

 もう、嘘は吐かないって決めた。だから、ここからは、全部……弱い私の、救えない本音だ。


「分からないんですよ。普通に生きていけるはずだったのに。イヴリンは、幸せになれるはずだったのに。レオンがまた私の前に現れてしまったから、言葉を交わしたから、あなたが私に向かって笑うから! ……あなたがいないと、私は自分が生きてるかどうかさえ曖昧なんだって、思い出してしまった」


 ただの執着だ。

 救えない妄執だ。

 それでも、この想いだって、きっと名付けるのならば恋だった。あなたの背中を追いかけて、いつからか歩幅を合わせてくれるようになって、あなたの手を握って歩いて。……最初から、出会った瞬間からずっと、好きだなんて。


「いっそ笑ってください。私だって、自分がこんなに弱い人間だなんて知りたくなかった。だけど、……ですけど!」


 私を死なせなかったのは、ヴィルさんで。

 私に命をくれたのは。私に人生をくれたのは。私に、前に進む力をくれたのは。――レオンだった。

 もう、この恋は、私の心臓の一番深くて大事なところから離れはしない。永遠の恋だ、なんて言ってしまうと、大袈裟かもしれないけれど。永遠じゃなくても、これは……二百年分の恋だから。


「あなたがいない人生に、幸せなんてなかったんですよ!」


 ぐらぐらの声で、そう叫んだ。馬鹿だと笑えばいい。これが私の本音だし。嘘偽りない弱さの発露だ。

 私の手を掴んでいるレオンの力が緩む。それに気が付いて、私は逆にレオンの腕を掴んだ。何。私がこんなこと言い出すとは思わなかった? 随分と買い被ってくれたんだね。


「……ねえ、これで満足ですか? アナスタシアの理想も、あなたが紡いだこの国も、私を幸せにはしてくれなかった。それで――」

「――なら、滅ぼすか」


 ……今なんつったお前。脳味噌に直接氷水をぶっかけられたように、一気に思考が冷静になる。

 レオンは、ひどく真剣な顔をしていた。ああ、本気だ。この男は、私が幸せになれないなら、と。この国を滅ぼそうとしている。


「お前を傷つけるものも、お前にとってどうでもいいものも、壊せばいい。……この国がお前の願った形じゃないなら、もう必要ないだろ?」


 ……非常にまずい事態だ。

 そもそも、私がレオンと話をしようと思ったのは、反乱が起こると知ったからで。人間と龍族が仲良くなれる未来が欲しくて。だから、滅ぼされても困るなぁ。大いに困る。っていうかやめろ。やめて。


「必要です」


 きっぱりと、馬鹿げた提案を切り捨てた。レオンはなんだか訝しむように眉を寄せる。どっちかというと、私がそういう顔をする側だと思うんですよね。


「なぜだ?」

「私ね、この国が好きなんですよ」


 確かに、この国は歪んだ。私の理想を形にして、それを保ち続けるだけの在り方は、狂っている。それでも。

 それでも、優しくされたのは、嘘じゃないの。

 ずっと、世界に呪われていると思っていた。そんな黒い髪と目の私でも、愛してくれる人はいたのだ。悲しい記憶は沢山ある。虐げられて、恐れられて、傷つけられて疎まれた。だけど、……それだけじゃなかったのも、きっと本当だ。

 シスターのおかげで、そう思えた。

 ようやく、そう思えるようになった。


「迫害されていたというのに、か?」

「それでも」

「幸せではなかったというのに?」

「……ええ、そうです」


 微笑んで、私はレオンの手を離す。


「本音を言いますとね。いっそ滅べばいいと思ったこともありましたよ」

「過去形だな」

「色々思い出したので、もうそんなことは思えなくって」


 アナスタシアは、この国を愛していた。イヴリンは、この国が好きだ。もう何も、責任なんてないけれど。もう、この両手で救えるものなんて何もないけれど。それでも。記憶だけはここにあるから。


「確かにこの国は歪んでしまったけれど、最初の願いだけは間違っていないはずなんです」


 皆が幸せになれる国。優しい人が、当たり前に報われる国。龍族と人間が、仲良く暮らせる国。

 幼い理想でも、その願いは、きっと正しいはずだから。


「滅ぼせない。壊せない。歪んだままにはしておけない。……私は、馬鹿だから。きっと、これは都合のいい妄想で、子供じみた理想なんだろうなって思うんですけど」


 未来が、欲しかった。

 停滞した時間を進めて、アナスタシアのかけた呪いを解いて、この国が優しい方向に変わっていけるような。明日が、今日よりもいい日になるって、信じられるような未来が。


「龍族が、人間を殺さないで、大きな力で抑え付けないで、仲良く暮らせる明日は作れませんか?」


 私の馬鹿げた理想を聞いて、レオンは、誰もいない森の中に放り出された子供みたいな顔になる。そして、耳が痛くなるほどの静寂が落ちる。


「……無理だ」


 しばらくの沈黙の後。感情という感情をこそげ落としたような、声がした。


「俺は、知らない。何も殺さず、何も壊さずに、お前の願いを叶える方法なんて……分からない」


 それは。レオンハルトという男らしからぬ、弱音だった。いっそ泣いてくれればいいと思うのに、彼はこういう時ばかり泣いてくれない。ただ、がらんどうな声が響いていく。


「俺にはそれしかない。俺には『強さ』しかない。それを除いて、お前のために何ができるんだ。お前を傷つけるものを排除して。お前の望まないものを壊して。……それ以外の、方法なんて、知らないんだ」


 レオンの表情が、崩れる。怒ってるのか悲しんでるのか、苦しいのか恐れてるのか。全部の負の感情を、まぜこぜにして。それでも、表に出し切れない。泣くのが下手くそな子供みたいな、顔だ。


「俺は、お前みたいにはなれない――っ!?」


 ――その言葉を聞いた瞬間。衝動のまま、私はレオンの頬を引っ叩いた。

 勢いを殺し切れず、レオンは地面に崩れ落ちる。それを見下ろして、私はただ、笑った。

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