我儘を言った


「手紙は、届いていましたか」

「はい。……お返事、しなくてすみません。なんだか、上手くまとまらなくて」


 しょぼくれる私を見て、シスターはちょっと困ったみたいに笑った。


「……本当のことを言うとですね。あなたの元に手紙が届いてないんじゃないかと、あなたが手紙を書けないほどひどい扱いを受けているんじゃないか、と。心配していたんですよ」

「ごめんなさい! 手紙を書くのに慣れてなくて、どんなことを書いたらいいのか分からなくて、……そのまま、こんなに経ってしまって」


 私の親不孝者め。頭を抱えていると、シスターはホットミルクを差し出してくれた。あ、これ。私が使ってたマグカップだ。


「記憶を失うほど、辛いことがあったんですか?」

「いえ、大概自業自得でしたね」

「あらあら。それでは、向こうでの暮らしはどうだったんですか?」


 問い掛けられて、少し考える。……駄目だ。まだ、記憶が少しだけぼんやりしてる。でも、そう、だなぁ。


「……楽しかったです」


 もう二度と戻らないはずの幸福が、目の前にあるみたいだった。それだけではなくて。愛されて慈しまれて守られていた、ここでの穏やかな暮らしも幸せだったけれど。

 きっと、私の心は、レオンのところにあったんだと思う。それがはっきりと分かった。今までの人生ではずっと、透明なのに分厚い膜を通した世界に生きているような感覚があったのだ。それが、取り払われた。

 レオンがそこにいて。ヴィルさんが私を見守っていて。ヒューと魔術について語って。オフィーリア嬢が彼女らしく生きていて。……私がそこにいる。


 呼吸が、鼓動が、この心が。私は生きているんだと、叫んでいるような感覚だった。ああ、私は生きていた。私は亡霊かもしれないけど。それでも。

 アナスタシアを殺すように、私は生きたいと思った。


「よかった。……あなたがひどい目にあってなくて、よかった」


 シスターは、薄っすらと目に涙を溜めながら、安堵の息を吐いた。そこまで心配させていたとなると、流石に良心が痛む。胸が痛い。


「シスターは、龍族がお嫌いですか?」

「そうですね。あなたを迎えに来た方の前で、そのようなことは言えませんでしたけど」

「……どうして?」


 問うと、シスターは一瞬だけ動揺を顕にした。しかし、直ぐに取り繕ったように笑みを作る。やっぱり、教えてくれないか。そう、諦めかけた時。


「……私には、昔ね。愛する人がいたんですよ」


 ――シスターは、淡々と話し始めた。私からすると、かなり衝撃的な内容を。目を瞠り、何も言えない私に向け、シスターは優しく微笑む。やはり、見慣れた温度の笑みだった。

 だから、シスターの声の静かさだけが、耳慣れない。

 出してくれたホットミルクに口をつける。私が夜眠れない時。私が、悪夢を見て泣きついた時。いつも作ってくれたホットミルクの味だ。ほんの少しの蜂蜜と、香辛料を加えたホットミルク。私は、何度教えてもらっても、その味を再現できなかったっけ。


「私がただの孤児だった頃。この村の長の子だったはずの彼はね、よく……この教会に遊びに来ていたんです。同じくらいの歳の子供は私と彼くらいでしたから。すぐに仲良くなって、恋をして、……でも。彼は、王都の学園に行ってしまいました」


 学園は、無償で誰もが知識を得られる場所だ。大人子供関係なく在籍可能。私が作った制度の一つ、だけれど……今となってはどんな変化をしているのかは定かじゃない。


「王都で彼が見たのはね。龍の持つ強大な力に恐れを持ちながらも、反抗できない王族貴族と。ただ表面的な幸福の光景だけをなぞるだけのような、人々の暮らしでした」


 それは誰の理想だ。それは、誰のせいで存在している歪みだ。……しっかりしろ、イヴリン。嘆くな。悲しむな。シスターが語っているのは、多分、本当のことだ。だから、前を向け。


「この国の在り方は間違ってる、と言ったあの人はね。イヴ。龍によって殺されたんですよ」


 甘いはずの、味が、ひどく苦く感じる。シスターの笑みに、昏い色が落ちる。


「龍は、人を簡単に殺します」


 そうかもしれない。私は、そっと頷いた。オフィーリア嬢は、人間との関わりを楽しんでいるけれど。それでも、彼等にとって人間が、弱くてちっぽけで脆い存在なのには変わりない。

 ――ヴィルさんは、私のために人を殺せる。レオンもきっと、私のために殺せる。殺せなくて、忘れられなくて、苦しいのは……私のことだけだ。


 それは、きっと、とても残酷なことなのだと思う。人間にとっても。龍にとっても。この国の歪さが、そのに凝縮されているから。


「あなたを連れて行かれた時、私は本当に、心臓が引き裂かれるような心持ちでした。どれだけ、引き留めたかったでしょう。どれだけ、あの龍を追い払いたかったでしょう。でもね、イヴ。そんなことは無駄なんです。人間よりもずっと強いあの存在は、私が抵抗したらきっと、うるさい羽虫を殺すように、私もあなたも……っ」


 シスターは、頭を抱えてしまった。その顔が、ひどい罪を犯した時の色によく似ていて、私は息を呑む。ああ、シスター! 私の知る誰よりも、母の温かさを持っている人。

 あなたの葛藤も、あなたの罪悪も、私に抱えることはできない。だって。


「私は、龍族のことが、好きですよ」


 私はきっと、初めて、あなたのことを否定する。


「……どうして?」

「シスターの大切な人を殺したことは、許せません。償うべきだとは思います。でも。それでも」


 あの、村での暮らしを忘れられない。ヴィルさんのことも、レオンのことも、ヒューのことも、オフィーリア嬢のことも。他の皆の、ことも。

 打ち捨てられて、死ぬはずだった私を生かして、育ててくれたのは……龍族の皆だった。この国を救えたのは、彼等の協力のおかげだった。

 あの日々は、優しくて、穏やかで、私の思い出の一番深いところにある。記憶を失った時でさえ、私はアナスタシアだった頃のことだけは忘れなかった。結局、私にとって一番大切なのは、あの過去なのだ。救い難い。と、脳裏で誰かが嘲笑う。それでも、よかった。私は私を愚かだと思いながらも、この想いだけは捨てられないのだ。


「……シスター、聞いてもらっても、いいですか」


 もう、嘘は吐かない。そう決めて、私は声を絞り出した。シスターは、ただ私を見ている。その瞳は、私の言葉を聞いてもなお、温かさに満ちていた。


「私、恋をしていたんです」

「……はい」

「許されない恋でした。忘れるべき恋でした。もう、とうに死んでしまったはずの、恋でした」


 これはきっと、懺悔だ。シスターがシスターだからって、私は何をしているんだろう。そうは思うけど。それでも、私はこれをシスターに伝えないといけない。


「私のたった一つの恋は、あの、強いくせに弱い……黒の龍に捧げてしまったんです。私はこれから、私の恋のために、愛するたったひとりのために。この家を、捨てます」


 あなたが憎む存在を愛する私を、許してくれと。そうして、あなたの愛さえも裏切る私を赦してくれと。傲慢に、強欲に、口にした。

 シスターの顔を、うまく見ることができない。


「……そう。そうなんですね」


 声からは、なんの感情も伺えなかった。そうして、俯いたままの私の頭に、そっと手が置かれる。

 そのまま、まるで、私が幼い子供みたいに。シスターは、私の頭を撫でた。私は顔を丸めた紙みたいにぐしゃぐしゃにする。泣き出したい気持ちでいっぱいなのに、泣けない。こんなところで、泣いている場合ではない。だけど、ああ。シスターのこの手は。体温は。


「あなたはずっと、いつも、どこか遠くを見ていましたね」


 何よりも雄弁な、赦しだった。


「私は、あなたが何を抱えているのかは分かりません。龍のことだって、きっと、嫌いなままでしょう。ですけどね、イヴ。愛しい愛しい、祝福された命の子」

「……はい」

「あなたは、とても優しい子です。いつも、他の子のことを気にかけて、自分のことは後回しで。誰よりもよく働いて、よく笑って、いつも元気で明るくて。自分が怪我をして痛いときも、自分の怪我を心配する人のことを心配する、ちょっとだけずれてるけど、優しい子で」


 シスターの声が、泣きそうに震える。


「だから、あなたがあなた自身のための我が儘を言うのは、初めて」


 顔を上げる。シスターは、少しだけ泣きそうに。でも、とても嬉しそうに、微笑んでいた。


「よかった。イヴは、自分のやりたいことを見つけられたんですね」

「……いいんです、か」

「あなたが自分の人生を歩けるのなら、それよりも嬉しいことはありません」


 亡霊のように生きてきた。平穏な日々は、私にとって優しかったけれど、過去は幸福な悪夢として私を苛み続けた。結局、私は過去を過去にできないまま、全部引き摺って前に進もうとしている。

 この重みさえも愛しいなんて、本当に馬鹿な話だ。


「……シスター。私、龍族が人間を殺さないような未来を作ります。この国の在り方を正す、なんて大きなことは言えませんが。それでも、……もう二度と、シスターみたいな思いは誰にもさせたくありません」


 そのためには、アナスタシアの掛けた呪いを解かなければ。そして、龍族が人間を支配するのではなく、互いが協力して暮らしていけるように――って。

 いや、だから私にそんな権利なんてないんだよ! 私は孤児! 片田舎の、孤児! 何も持ってないただの子供!

 ……でも、レオンなら。レオンに、アナスタシアの理想を叶えることを、止めさせれば。ヴィルさんにも、こう……力づくででも止めるようにすれば。どうにか……なる? ならない? 無理かな。いける?


「イヴ。それなら、急いだ方がいいですよ」

「え」

「……昔の伝から聞いたのですが。近いうちに、王都で、反乱が起きます」

「シスターは何でそんなこと知ってるんですか……!?」


 いやそんなことを聞いてる場合じゃない。そして、今日大人しく泊まっていく場合でもない。シスターに言いたいことも言ったし、もうヴィルさんと向こうに戻らないと。

 慌てて扉に向かう私に向け、シスターはそっと声を掛ける。


「あなたが何を愛しても、何を望んでも、どんな罪を犯しても。あなたは可愛い私の子供ですよ。だから、……望むままに、進みなさい」

「はい、ありがとうございますシスター! あと、夕ご飯は準備しなくていいって伝えておいてくださいね!」


 一度だけ振り返って、笑みを見せる。その後は、もう……振り返りはしなかった。

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