決めてしまった
「今日は泊まっておいきなさい。部屋はそのままにしてありますし、もちろん、毎日掃除だってしてありますからね。……そちらの龍の方も、空き部屋でよろしければどうぞ」
疲れているようですね、早く休んだほうがいいですよ。そう切り出されたと思ったら、あれよあれよという間に泊まることが確定していた。……やだ、シスターったら押しが強い。そんなところも素敵……。
記憶はまだなんとなくぼんやりしているけど、部屋の場所は分かった。当然のように着いてきたヴィルさん共々部屋に入り、……出ていった日とまるで変わりない様子に、ちょっと苦笑する。
毎日掃除していた、というのは……本当みたいだ。埃一つ落ちてない。なんだったら、空を飛んできた私達のほうが汚れてる始末だ。砂埃ひっど。
「……おい、あのババァ俺に対して当たり強くねぇか」
「シスターのことをババァとか言わないでくれませんか。ヴィルさんは比べ物にならない爺でしょう」
「いってぇ……」
がん、と強めに足を踏んでおく。あと、年頃の女の子の部屋に普通に入るのはやめろ。私は別にいいけど、私以外のほとんどの人が問題だと思うから。父親に部屋に入られて平気な娘なんていない。
そういう繊細な話題をそっと飲み込んで、私はベッドの縁に腰掛けた。
「で、どうなんだ? 思い出せたか?」
「多分、大体は。まだちょっと薄らぼんやりしてますけど、……まあ、うん? 思い出そうとしたら思い出せるので、平気そうですね」
ここまで来ると、今まで思い出せなかったことの方が意味不明だ。あと、このままでは次の誕生日に死んでしまう身分としては、記憶喪失期間の空白が辛い。
なんとなく窓の外を見ると、木々が赤く染まっている。ああ、秋か。やがて冬が来て、春になって。――私は死ぬ。制限時間が刻々と迫っているのが分かった。だけど、それよりも。
「私、ヴィルさんに文句を言わなきゃいけなかったはずなんですよね」
「なんのだ」
「なんのだ……って。前回の時の会話、なんの決着もついてませんからね?」
私のために人を殺したとか。私の理想のために沢山のものが歪んだとか。そういった話は、まだなんの解決にも至っていない。
私が何もかもを忘れていたせいで、うっかり手に手を取って逃避行と洒落込んでしまったけど。それはさておき、ヴィルさんの中でアナスタシアが死んでないという問題は依然としてここにある。これは致命的。
「ああ……。アレか」
「ソレです。とは言っても。なんかこう……今はそれどころじゃない感じもしますので、一言だけ」
片膝を抱き込んで、ちょっとだけ行儀の悪い姿勢で、ヴィルさんを見上げた。赤い、赤い、何もかもを燃やし尽くすような熱が、彼の瞳の中で弾けて揺れる。
「――ヴィルさんの、うそつき」
万感の想いを込めた言葉は、彼に届いただろうか。虚を突かれたような顔をした後、ヴィルさんは緩く目を細めた。
「あなた、馬鹿ですよね。アナスタシアの死を否定するなら、私が忘れていたのは、むしろ都合が良かったはずなのに。思い出させるためにこんなところまで連れてきて、……本当に、馬鹿」
お前の味方だよ、と。柔らかに囁く声が、耳の奥深くで響く。ああ、そうだ。ヴィルさんはいつだって、私のために動いていた。あの時だって、私が望んだから本当のことを言ってくれたんだ。
馬鹿なひと。でも、優しいひと。
もういいよ。大丈夫。ちゃんと、思い出せたから。
一旦記憶を失ったせいだろうか。アナスタシアだった頃のことが、今はひどく鮮明だ。だから、ヴィルさんと二人で暮らしたあの家の温度が、昨日のことのように思い出せる。
あなたはずっと、嘘を吐いていた。
その手が血に濡れているのは、なにも、ここ二百年だけのことじゃない。それでも。……あなたが、私のために手を汚すのはもう嫌だ。もう終わらせよう。この理想も、この贖いも、この……幸福を。
「まあ、いいですよ。あなたが誰を殺していても、あなたがあなたの中の私を殺せなくても。どうせ、ヴィルさんの嘘は全部私のためなんですから。レオンのことが終わったら、叩きのめすことにしました」
「叩きのめすのかよ」
「可愛い養い子の、可愛い癇癪です。受け止めてくださいね!」
こっわ……。と、ヴィルさんは本気の声音で呟いた。おう私の癇癪がそんなに怖いか。首洗って待ってろよ。
「……なぁ、イヴ」
「なんですか? ヴィルさん」
ヴィルさんはおもむろに、しゃがみこんで、私のことを抱き締めた。体温が高い。
「俺は、お前のことが、一番大切だよ」
「知ってますよ、何を今更」
「――だから、一つだけ聞かせてくれ」
顔は見えない。声は、いつもと同じ響きだ。……だけど、なんでだろうね。ヴィルさんが、泣き出す寸前の顔をしている気が、してならない。
このひとが泣くのなんて、私と再会したあの時だけだっていうのに。
「俺と一緒に、逃げねぇか」
「逃げませんよ」
馬鹿げた提案に、端的な否定を返す。ヴィルさんはその答えを予想していたみたいに、だろうな、と呟いて笑った。
逃げる? どこに? どうして?
責任も、重圧も、もうどこにもない。あるのは、レオンへの想いと、過去への贖罪のみだ。なら、逃げる場所なんてどこにもない。私は、私の心からだけは逃げられない。逃げてはいけない。
「……私、ただいまって、言いましたね。なのに……帰ってきた感じが、しないんです」
そういえば。ふ、と思いだした事実を、呟く。
「おかしいなぁ。ここに、いつか帰ってくるんだって、ずっと思っていたのに」
ここに帰ってきた途端に、レオンのところに戻りたくなった。ここ数日、溺れ死ぬような幸福に曝されていたせいだろうか。レオンの隣にいたい。話がしたい。声が聞きたい。――笑顔が、みたい。
これはもう、感情じゃなくて衝動だ。
「私の帰るところは、もう、ここじゃない」
逃げ出す先も、どこにもない。だから、戻ろう。あの宮殿へ。あの部屋へ。……レオンの、ところに。
「てめぇはいつもそうだな」
「何がですか」
「いっっっつも。俺が何かしてやりたくても、勝手に覚悟を決めやがる」
そうかな……。ああ、そうかもしれない。ヴィルさんにはよく相談してたけど、いつも、答えを貰う前に私は決めてしまっていた。
国を救うことも。村を出ていくことも。暴虐王を殺すことも。レオンに告白するこ――これできてないや。まあいい。とにかく、全部全部、私は勝手に決めてきた。そして、今も。私は勝手に覚悟を決めてしまった。
「だって、失敗したら慰めてくれるでしょう」
それだけでいい。私は、私の決断の責任を他者に預けない。だって、これは、私が考えて決めたことなのだから。
「ヴィルさんは、私が頼ったらズブズブ頼らせてくるので。このくらいでいいんですよ」
その分、私が何もかも駄目にしてしまったら、その時は叱ってほしい。そして、慰めてほしい。それだけ。私は、ヴィルさんのことを、何があっても変わらない居場所だと認識し続けるから。
その手が血に濡れていても。
私のために、その手を汚しても。
何も変わらない。私を助けてくれた手のひらの温度は、ずっと同じだから。
「シスターと、ちゃんと話をしてみます。そしたら、また……王都に帰ります」
あなたと一緒に。レオンのところに。
そう告げると、私を抱き締めている腕がちょっと震えた。その背に手を回して、私は小さく笑う。
初めて会ったときは、しがみつくような形になったのに。……初めて知った。十五歳のイヴリンでも、ちゃんと背中に手を回せるんだ。
私よりもずっと大人で、ずっと大きい存在だと思っていたのにね。
しばらくして、私はシスターのところに向かうことにした。
「じゃあ、アレです。ちゃんと客室の方に向かってくださいね。私を迎えに来たときと同じ部屋ですよ。覚えてますね? 地図描かなくて平気ですか? やっぱり案内した方が――」
「――平気だからさっさと向かいやがれ!」
そんな会話を繰り広げた後のこと。私は、シスターの自室の前で立ち往生していた。いや、だって、ほら。
……手紙の返事を数カ月書いてなかったこととか。突然帰った来たと思ったら記憶喪失だったとか。シスターの視点で見ると、私がかなりひどい有様だということに気がついてしまったのだ。
真面目に、これはまずくないかな。私が宮殿で虐待を受けていたとか思われてないよね? 大丈夫だよね? シスターっては結構な心配性だからなぁ。
「……あ! いぶおねーちゃんだぁ!」
とかなんとか考え込んでいた私の耳に、懐かしい声が届いた。声のした方を向くと、小さな子供……女の子が、無邪気な笑みを浮かべてこっちに駆けてきているのが見える。愛らしい娘だ。
……あの子は。確か、メリッサだ。大丈夫。覚えている。
そう自分に言い聞かせて、努めて穏やかに見えるように微笑みかける。
「転ばないように気を付けてね、メリッサ」
「ころばないよー! もうね、メリッサはね、よんさいのおねーさんになったんだもん!」
とてとて、と私の元まで駆けてきた女の子は、にぱっと愛らしい笑みを私に向けてくれた。しゃがみこんで視線を合わせる。……そうだ。『ここ』から出ないようにしてからの暮らしは、本当に穏やかだった。
メリッサは、私の黒髪も黒目も恐れない。それは、この教会が、この髪と目の特異性を教えないからだ。それでも、日々は穏やかで。弟妹……と、呼んでいいのかはよく分かんないけど。年下の子たちは、私のことを慕ってくれていた。可愛い。
「そっかぁ。メリッサはもうお姉さんなんだね。イヴお姉ちゃん、メリッサの誕生日にいられなくてごめんね」
「いいよ! えっとね。ちょっとだけさみしかったけどね。メリッサ、いぶおねーちゃんに、いってらっしゃいっていえなかったから、ちょっとないちゃったけどね。でも、いぶおねーちゃんは、とってもだいじなおしごとしてたんでしょ? わかってるから、へーきだよ」
「……そう、だね。メリッサは強いなぁ。頑張ったんだね、偉いね」
頭を撫でると、メリッサはほっぺたを赤くして破顔した。
「やったぁ。いぶおねーちゃんにほめてもらっちゃった」
かっわいい。何この娘、花の女神の愛し子か何か?
「あ! そうだ。わすれてた」
「うん? なぁに?」
頭を撫でる手は止めず、問いかける。メリッサは、ちょっとだけ照れ臭そうな顔をして。
「おかえりなさい、おねーちゃん」
と、言った。
思わず、手が止まる。一度だけ、浅く呼吸をして、笑顔を貼り付け直した。
「ただいま、メリッサ」
この会話は、最後になるかもしれない。もう、次に出て行ったら、今度はもうただいまとは言えなくなるかもしれない。
そんなことを考えても、私は取り繕うのだ。
なんて、浅ましい。
「――イヴ、メリー。いつまで部屋の前で戯れているんですか?」
「あ、そうだった! しすたー、しすたー、おきゃくさんのゆうごはんってどうしたらいいの?」
ああ、なるほど。それが聞きたくてシスターの部屋まで来ていたのか。納得して頷く私とは裏腹に、シスターは冷たい目で返答した。
「残飯でも食べさせておきなさい」
「わかった!」
「分からないで!?」
シスター……? シスター!?
「シスター、熱でもあるんですか!? それともストレス? ああ、そんな……っ。私の大好きなシスターがこんなことを言うなんて!」
「イヴ、落ち着いてください、イヴ。冗談です」
「じょーだんなの? だったら、どうするの?」
「私達と同じものでいいですよ」
「わかったー!」
メリッサは来た時と同じようにぱたぱたと戻って行った。ああ、うん。最悪食べさせなくても死なないから、別にいいんだけどね。
「冗談ではありませんでしたね。シスター」
「……イヴ、部屋にどうぞ」
「話を逸らさないでください」
シスターは、いつものように微笑んでいた。その笑顔のまま、何かを憎むように、言葉を落とす。
「私、龍は嫌いなんですよ」
……。
ここから出て行くという宣言のために来たはずが、なんだか変な流れになって来た気がする。頭を抱えたくなる気持ちを抑えて、私はそっと苦笑した。
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