思い出せた


「……で、これはどこに向かってるんですか?」

「てめぇの記憶を取り戻せそうなところだ」

「具体的にはどこですか? 王都がもう見えないんですけど」

「場所は覚えてっけど、名前は忘れた」


 駄目だこの保護者。ヴィルさんの背の上で溜め息を吐き、少しだけ後ろを振り返る。

 もう、宮殿は見えない。レオンは、部屋にいない私と、窓が割れた部屋を見てどう思うだろう。泣くのだろうか。……泣きは、しないか。多分、怒るな。そう考えて、またレオンのことばかりだと自分を笑う。


「レオン、怒りますかね」

「アナ相手には怒らねぇだろ。まあ、俺は殺されるだろうがな」

「殺されても、また魂が巡ったら。……この私が、次のヴィルさんを探してあげますよ」


 笑いながらそう告げた瞬間、息を呑む音がした。世間話の延長の何に衝撃を受けたんだろう。


「探す……?」


 今私達は空を飛んでるのに、地を這うような声だった。


「え、探しちゃ駄目ですか!?」

「いや、駄目じゃ……嬉しいに決まってんだろ」


 嬉しいと思ってる奴が出す声じゃないんですよねぇ……!

 ぎり、と。暴力的な歯軋りの音がする。龍が、激情を呑み干すように、呻いた。


「だけどよ。てめぇは、レオンハルトが一番大切だろ」


 何を言ってるんだこの男。思わず白けた目を向けながら、努めて冷静に、背の鱗を一つだけ引っ張る。


「ゔゎ……いってぇ」

「私の心の方が痛いんですけど」


 ヴィルさんは何を馬鹿なことをほざいてるのか。ぎりぎりと鱗を剥ぎ取るように捻り上げながら、言葉を続ける。


「私はね、レオンハルトが世界で一番大切で、一番大好きで、愛してるんですよ。この想いは何があっても変わらないし、きっと、何もかもを忘れて生まれ変わっても、また出逢えば同じように恋をするのだと思います」


 それでも。


「だけど、ヴィルさんは、私の家族です。あの日、死ぬはずだった私を助けてくれた、私の最初の家族」


 差し伸べられた手の熱を。生きていてもいいんだと許す声を。家族になろうと笑う顔を。一つ一つ、ちゃんと、丁寧に覚えている。

 生まれて初めて、私を許してくれたひと。


 私を、アナと呼んでくれた。私と龍族の村で暮らしてくれた。顔は怖いし、態度は乱暴だし、口調は荒いけど。優しくて、大好きな。


「あなたがいないと、私は多分、簡単に道に迷うんです」


 太陽の光よりも暗い、彼の炎は。いつも、私の歩く道を照らしてくれた。国を救いたいという願いだって、ヴィルさんがいなければ叶えられなかったのだ。

 それだけじゃない。私はずっと、彼に甘えてきた。ヴィルさんの照らす道を歩いて、レオンの背を追いかけて。私は。


「探しますよ。ちゃんと、見つけます。ヴィルさんは私のお父さんなんですから、……いてくれないと嫌です」


 思いの外拗ねたような声になってしまって、口を押さえた。ヴィルさんからの反応は、ない。まあ確かに急にこんな話しされても困るだろうし。そもそも、今の私は色々と忘れてるからお前が言うなって話だよね!


「……変なことを、言いましたね。すみません」


 何もかもを思い出したら、今の私は消えるのかもしれない。ふと、そんなことが頭を過った。それでもいいかな。……いいのかな。

 でも、今伝えないと、ずっとずっと後悔する気がしてならないの。だから、言いたいことが言えたのは、よかった。


 しばらく、風の音だけを聞いていた。


 王都から程遠い、本当に小さな村が見えてきた瞬間、ヴィルさんは唐突に声を出す。


「……お父さん、か」

「今!?」


 あと、そんなにしみじみ言わなくても……。慄く私の反応なんて素知らぬ雰囲気で、龍は地上へと向かっていく。目的地はここだったのか。


「そんな綺麗な名前を付けられるような感情だったっつーなら、俺は手なんざ汚さなかった」


 忌々しげに吐き捨てる声に、聞き返そうとして。瞬間。


 私の声は、風の音に、掻き消された。




 もしも、あなたがいなければ。……私はきっと、この世界を憎んでいたことだろう。誰にも愛されなかった子供がそのまま大人になったら、きっと、この魔力は英雄になるためではなく、もっと暴力的なものになっていたはずだ。

 そんな話、したことなかったかな。多分、ずっとしないだろうな。だって、怖いもの。

 まぐれで、卑怯な手を使った上で、だとしても。私は龍族の王様に勝った。魔術の感覚は、覚えている。だから分かる。この手は、人を殺せる手だ。街を壊せる手だ。国を滅ぼせる手だ。できてしまうから、その想像が現実になるのが怖くて仕方がない。

 壊そうと思えば、壊せる。

 憎しみを抱いたら、きっと、私はこの国を壊すのだ。

 嫌だ。そんなの、駄目だ。

 あの男と一緒には、なりたくない。


 私は何も憎まない。怒らない。恨まない。心を深く深く沈めてしまえ。

 だって、私は何も壊したくないの。




「――イヴ! 帰ってきたのですね」


 私に声を掛けてきたのは、品のいい老婦人だった。格好から察するに、聖職者なのだろう。服装も髪型も整っている。全体的に、綺麗な歳のとり方をした人だ、という印象が強い。

 ……と、つらつら考えたが。それとは関係なく、多分、イヴというのは私のことだろう。そう呼ばれたし、それに。


 ――妙に、腑に落ちる。

 私はこの人のことを知っていて、そう呼ばれるのが心地よかったのだと。忘れてしまった記憶のどこかが、叫んでいるように。


「え、ぇと……。ただいま?」


 だけど。

 この曖昧な感覚の他は、やはり、思い出せない。頭に霧でもかかってるみたいに、輪郭がぼやけたままだ。正直、かなり腹立たしい。一番肝心なところは知っているはずなのに、私の記憶だけが繋がってくれない。


「イヴ……? どうかなさいましたか? なにか、様子が――」

「――申し訳ない。ご婦人よ、少々込み入った話になる。中に入れて頂いてもよろしいだろうか」


 そこでようやく、老婦人はヴィルさんの存在に気が付いたらしい。私に向けていたものとは違う、どこか棘のある視線を向け、老婦人は穏やかに微笑んだ。

 何か、暗い感情を隠す時の、表情だった。


「分かりました。どうぞ、お入りください。……ほら、イヴ。おかえりなさい」


 そう言って指し示されたのは、教会だ。新しくも古くもない、普通の建物。ありふれた、神様を称えるための場。なのに。

 胸が掻き毟られている錯覚を覚えるほど、懐かしくてしかたがなかった。

 私はここを知っている。私は、彼女を知っている。



 それでも、思い出せない。



「記憶喪失、ですか」


 うまく説明ができない私の変わりに、ヴィルさんは丁寧に今の状況を偽ってくれた。記憶を失って、手掛かりを探すためにここに来たこと。私の頭の中が本当にまっさらなこと。……知られては困る事実は伏せ、厳格な騎士のような振る舞いで。


「……申し訳無い。これは、こちらの不手際だ。謝罪を申し上げ――」

「――必要ありません」


 老婦人は、ヴィルさんの謝罪をピシャリと叩き落とした。空気が重い。何が怖いって、彼女がヴィルさんのことをほとんど見ていない点だよ。ずっと私のこと見てる。怖い怖い怖い。

 向こうにとっては親しい相手かもしれないけど、今の私にとっては他人だってことを思い出してほしい。


「記憶を失うほど、怖い目に合ったのですよね」


 ……とは、思うのに。

 柔らかく私の手を握る暖かさに、そんな考えは霧散してしまった。ようやく、老婦人の顔をちゃんと見る。

 ああ。なんて、優しい目で私を見るのだろう。こんな優しい瞳、私は知らない。こんな。まるで。

 ――母親、みたいな、温度は。


「あの、……ごめんなさい。私、何も思い出せなくて。あなたの名前も、私の名前も、分からなくて」


 お母さん、と。そう呼ぶ相手がいなかったことを覚えている。エーファは、母親だったけど、お母さんなんて呼べなかった。龍族の皆だって、家族だとは思えたけれど、そんな呼び方はしなかった。だから。

 知らない。こんな、慈しむみたいな優しさは。


 知らないはずなのに。

 知らなかったはず、なのに。


 どうしてこんなに、胸が詰まるの。


「構いませんよ。……そうですね。では、もう一度自己紹介をしましょう。私の名前は、ナターシャ。皆からは、シスターと呼ばれています」


 ――あなたの名前は、イヴリン。祝福された命の子。どうか、あなたの人生が、幸福で満ちていますように。


 不意、に。

 耳の奥深くで、彼女の声がしたような気がした。音としてではなく、魂の奥深くから響くように。

 知っている。思い出した。私の、名前、は。


「……イヴリン?」


 震える声で、呟いた。目の前の老婦人が、――シスターが、目を見開く。そうだ。そうだった。私の名前はイヴリンだ。彼女がそう名付けてくれたじゃないか。なんで忘れていたんだ。こんな、大事なことを。


「私の、名前は。イヴリンです」


 この命の名は、アナスタシアではない。きっぱりと、そう断言するように。あるいは、縋り付くなにかの影を踏み潰すように。私はもう一度宣言した。過去が揺らぐ。記憶が滲む。

 視界の端で、ヴィルさんが、泣き出しそうに笑っていた。

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