重かった


 夢を。

 途方もなく、長い夢を、見ていた。


 空を見上げると、真円の月が私を見下ろしている。月。夜の女神のお伽噺。誰かの声。

 ああそうだ。夢の中で、誰かが私を嗤っていた。なのに。なのに!


「……どうして、思い出せないんですかね」


 忘れてしまったけれど、とても大切な夢だった気がしてならない。霧に浮かぶ月のような記憶を必死に手繰り寄せようとしても、何も掴めないまま、やがて夢の残滓さえも霧散していった。

 誰かが、意識さえもしていない思考の裏側で泣いている気がしてならないのに。私の知らない記憶が、誰かの傷になっている気がしてしかたがないのに。

 思い出せない自分に腹が立つ。そうして苛立ちに歯噛みしても、何も好転はしないまま。月だけが、緩やかに傾きを変えていった。


 ……これはもう無理だな。嘆息し、レオンの顔を見る。完全に眠りこけている顔は無防備で、頑張れば倒せそうな気になってくる。まあ無理だけども。


「レオン」


 よく見ると、目の下に隈があった。何を思い悩んでいるのだろう。聞きたいのに、その中核に自分がいるような気がして躊躇してしまう。弱いな、と笑おうとして、上手く笑顔が作れない自分に気が付いた。


「……レオン」


 助けて、と言えばよかったのだろうか。本当に自分のものかも曖昧な思考の縁、そんなことが浮かんで消えた。

 救い難い人生が、私の後ろに広がっている。誰も救えない物語が、英雄と呼ばれた女の先に広がっていた。それは、誰の罪だろうか。それは、誰かの罪なのだろうか。


「好きですよ、レオン」


 ほとんど吐息みたいな声を、彼には聞こえないように零した。そんな愚かな私を、月だけが見下ろしている。


(今は、起きているあなたには言えないけれど)


 すべてが曖昧で、何が真実かも定かでなくて、足場はぐらついている。こんな状況では、あの日にするはずだった愛の告白なんてできるはずがない。

 だけど。

 今の自分が、もしも、継ぎ接ぎだらけの嘘でできているとしても。


「あなたが好き」


 これだけは、本当だから。

 これだけは、許してください。


 英雄でない私には、王様でもない私には、レオンが好きだってことしかないの。他には何も持ってないの。この記憶が嘘かもしれなくても。今の私が嘘かもしれなくても。

 あなたが好きだという想いだけは、本当だと。

 そう、信じさせて。


 あなたと私しかいない、閉じた世界の中で。懇願するように、目を閉じる。

 ――今度は、夢なんて見なかった。





「お前は、怒らないよな」


 今更何を言い出すんだこの男は。朝食の果物を口に押し込みながら、私は渋面を作った。っていうか、少なくともこれは食事中にする話じゃないよね。これだから気遣いのできない男は。


「今、ちょっとムカついてますけど?」

「ほら、それだ」

「どれですか」


 ちゃんと口の中のものを飲み込んでから文句を言うと、即座に言い返される。なに。どれ。


「純粋な怒りっていうのは、もっとどうしようもないもののはずだろ? だけど、お前は先に理性で判断してるんだ」

「えっ、それ今する話ですか?」


 もっと真面目な雰囲気の時に話しませんか? こんな……こんな、美味しい朝食を食べながらのんびりしてる時に話すこと? 

 眉を顰める私を余所に、レオンは言葉を続けていく。あーはいはい。あなたはそういう方ですよね。嫌というほど知ってる。


「俺は時々、お前が無性に遠く思えるよ」


 羨望のような。憧憬のような。しかし、どこか薄暗い声で、レオンはそう零す。

 私はただ苦笑して、ひらりと片手を振った。


「私からしてみれば、レオンの方が遠いんですけどね」

「……そうだろうな」

「私は人間ですからね」


 だって彼は、龍の王様で、神様に一番近い存在で、国なんて三秒で滅ぼせる男。生き物としての格が違うし、他にも色々と――遠い。

 どこをどう見てとっても、私と彼が釣り合うところなんて一つだってない。けれど、レオンは私のことを親友だと呼んでくれる。同胞だと認めてくれた。身内だと、家族だと、許してくれた。


「だがな、覚えておいてくれ。アナ」


 私のものと同色の、闇を溶かしたような髪が揺れる。


「お前はいつだって正しく在ろうと意識しているが」


 不意に、甘い香りが鼻をくすぐった。ああ、何だっけ。この香り、私はよく知ってるはずなのに。


「俺は、お前が正しくなくても、愚かな選択をしても、ひどい過ちを犯しても、アナがアナならそれでいいんだ。お前はいつも正しくて、前だけを見ているから、停滞した時間に慣れきった俺達には眩しすぎるけど。……お前が、ちゃんと楽しく笑って生きていられるなら、それだけでいい」

「……あんまり、甘やかさないでくださいよ」

「お前が自分自身を甘やかさないんだ。その分、俺が甘くして何が悪い」


 ああそうだ。思い出した。

 これは、花の、香りだ。


「私は、私に甘いですよ」


 白い花。龍族の村にだけ咲く花。あなたが私にくれた、一番最初の贈り物。

 記憶の深いところに根付いた、優しい記憶を手繰り寄せて。抱き締める。


「本当は、もっと正しい人になりたかった」


 あの花の花言葉のように、ただあなたのためだけに祈ることができればよかったのだろうか。無為な思考が頭を過り、すぐに消える。

 何も犠牲にせずに、何も壊さずに、誰にも頼らずにこの国を救えるような強さが欲しかった。悲しい思いなんて誰にもさせず、苦しいことなんて何もないような国を作れるような、賢さが欲しかった。

 強くて賢くて、正しい人になりたかった。

 全部、過去形だ。


「……そう考えても、自分を変えようとさえしない。今の幸福に甘んじて、真実に手を伸ばすことさえしない。そんな自分の弱さを認めながらも、正そうとはしない。正しくなどない人間ですよ、私は」

「だから、お前は英雄なんだろうな」

「私の話聞いてました?」


 しみじみと呟くレオンに向け、即座に突っ込みを返す。


「聞いていた。……だが、俺はな。お前の言う弱さこそが強さだと思うんだよ」

「は?」


 訝しむ私を見て、レオンは笑う。見慣れた、軽く目を細めるだけの表情で。


「強いだけの強さに意味も罪もないように。きっと、弱いだけの弱さにも罪なんてないんだ」


 懐かしい言葉を、口にした。……そんなのは。昔の、幼い私の、何も知らない戯言だ。なのに、どうしてレオンは、こんなにも愛おしげに語るのだろう。


「だから、お前は弱いけど。きっと、それを知ってるから、それこそがお前の強さであるが故に。……英雄などと呼ばれるようになってしまったんだろうな」

「レオンは難しいことを言いますね」

「安心しろ、お前も相当だ」


 笑わないで。優しくしないで。許さないで。……まるで、私のことを世界で一番大切な女の子だって思ってるみたいな顔、しないでよ。

 沢山のみっともない弱音が、吐き出せずに胃の底に落ちていく。強い? 私のどこが? いつだって弱くて、惨めで、情けなくて。

 ――あなたに頼らないと、何も救えないような、人間風情が?


「私だけではきっと、この国は救えませんでした」


 あの、真闇の瞳を思い出す。この世界の何もかもを憎んでいた、あの男の最期を思い出す。アレは私だ、と気が付いたのは、王様と呼ばれるようになってからで。冠の重さに押し潰されような毎日の中、救ったはずのすべてが私を恐れている現実に、喉が緩やかに締め付けられるような感覚がして。

 この世界は醜いのだという、言葉の意味は。私の脳髄の奥深くの所で納得と共に刻み付けられた。でも。


 それでも愛したよ。

 それでも愛しいよ。

 ちゃんと守るから。明日も明後日もその次も十年先も百年先も。この国が、優しい人が当たり前に幸せになれる国になるように。祈るのは、もう、大好きなたったひとりのためではなくなってしまったけれど。


「お前が一人でこの国を救えるほど強くて逞しくて賢くても、俺はお前の手助けをした。お前一人に背負わせる荷など、一つたりともないんだ」

「……レオンは、優しいですからね」

「いいや。優しくなどはない。お前のために何かがしたかっただけだ。……現に」


 思考がぐらつく。頭を軽く押さえる私を穏やかに見つめて、レオンは呟いた。


「俺は、本当は、お前にこんな国なんて……救ってほしくはなかった」


 穏やかに、なのに、血を吐くような声で。


「……あはは。なにそれ」


 馬鹿げたことを言うものだから、私は笑ってしまった。きっと、笑顔などとは程歪んだ表情になったのだろうけど。笑う。嗤った。


「……今更だな」

「今更ですよ」


 そんな未来があれば、よかったのにね。私は、英雄王なんて名前では呼ばれない、本当にただのアナスタシアで。あなたも、龍族の王様なんかじゃないレオンハルトで。そうして、何も持ってない、何も背負ってない二人として出逢えていたなら。


「私だって、本当は、英雄にも王様にもなりたくなんてなかったのに」


 ――なんて、考えても意味はない。


 守るための手段は、これしかなかった。きっと、もし過去をやり直せても、私は今ここにいるはずだ。ああでも。やっぱり、もっと賢い人間だったら、もっと正しい方法を見つけられたのかな。もう遅いけど。


 龍族の平穏を守りたかった。結局私が壊したくせに。

 この国の明日を守りたかった。化け物のくせに、そう願った。

 それが本当に、何も失わずに叶うなら。私はこんなものにはなりたくなかったのに。


「……ああ、そうか」


 醜悪な本音を聞いて、レオンは得心がいったように呟く。思わず俯いた。その口からどんな言葉が出てくるかが怖くて、レオンがどんな顔をしているのかが怖くて。


「やはり、お前は強かったんだな」


 ……だから。

 何を言われてるのか、よく分からなかった。


「……レオン、さては耳が遠くなりました? もうそんな歳?」

「俺だって傷つくんだが」

「いやだって。えぇ……? 私、今、割りと最悪な言動をした気がするんですけど」

「老齢を心配され、耳が遠くなったのか聞かれたのは初めてだな。最悪の気分と言っても過言ではない」

「いやそこではなく。……ああそんな目で見ないでくださいよごめんなさい! レオンはちゃんと若々しくて格好良くて素敵ですから! 安心してください!!」


 駄目だ。真面目な雰囲気が続かない。まあ、大体私のせいなんだけども。二、三割くらいはレオンのせいでもあると思う。

 強かったんだな、って何? 今の発言ちゃんと聞いた上でその言動できるなら、レオンの頭がおかしい説が急激に勢力を強めるんだけど。


「……まったく。お前と話しているといつもこれだ」

「いいじゃありませんか。私達らしくて」

「そうだな。さて、話は戻すが」


 さくっと話の方向を修正するレオンの頬は、少し綻んでいた。私もちょっと嬉しくて、頬が緩む。

 ……なんで、こんないつもの会話が懐かしく思えるのか、なんて。その疑問の解は、もう私の背後まで迫っているのだろう。


「お前は、やりたくないことだというのに、自分の責任として背負い続けただろ」

「……実際、私の責任ですよ」

「お前は役割を押し付けられただけだと、こんなことやりたくなかったと、他の人間を憎むことができた。暴虐王を殺した瞬間に、行方を眩ましてもよかったはずだ。だが、お前はそうはしなかった」


 憎む。逃げる。実行しなかっただけで、その選択肢は常に頭の中にあった。調子よく私を英雄として掲げる人々に、思うところがなかった訳でもない。


「お前は、怒らないよな」

「最初の話に戻りましたね」

「ああ。……お前には、怒る権利があったのにな」


 権利。呆気にとられた気持ちで繰り返す。怒る、権利が。私にあったのだろうか。よく分からない。守りたかったのも救いたかったのも、私の我が儘が根底にあるというのに。


「お前一人に押し付ける弱さを、お前一人が必死にならないと何も守れないこの世界を、……怒っても、よかったはずなんだ」


 英雄なんて必要ない世界なら。

 王様が一人ぼっちで背負わなくてもいい世界なら。


「……私は完璧な存在でも、お伽噺の英雄のような人間でもないと。言っても……よかったんですかね」


 人々が私を見る瞳には、幻想があった。期待があった。……恐怖があった。

 私を英雄と呼んだ人間の誰が、私の弱さを知ってるんだろう。押し付けられる希望の大きさが私の重石になっている事実を、誰が知っていたんだろう。


 英雄王アナスタシア・エヴェリナ・ダフネが、ただの人間だってことを。きっと、誰もが忘れてしまった。知らなかった。だから、私は自分の役割を終わらせるために必死になって動き続けた。


「いいよ」


 だけど。あなたは覚えていてくれた。

 毎日のように会いに来てくれて、不器用にだけど心配してくれて、私が弱いことを許してくれた。


「というか、むしろ言え。お前が弱音を吐いてくれないと、いつ助ければいいのかさえ分からない」

「……助けてくれるんですか? くだらない弱音でも、どうしようもないことでも、もう終わったことでも」

「助けたいし、守りたい。お前が幸せだって笑える未来だけが、俺の願いだ」


 だけ、って。

 やっぱり、愛が重いなぁ。


「レオン」


 重かった、なぁ。


「ありがとう」


 どんなに優しい言葉をもらっても。どんなに嬉しいことを言われても。

 私の目の前に横たわる『終わり』が、溺れることを許してはくれない。


 だから、笑った。


 いつか、全部の嘘を、まっさらにするために。

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