笑えなかった


「レオン、あなた、実は忙しいんでしょう」


 一言一言区切って、質問ではなく確認の形でそう告げた。レオンは、素知らぬ顔で手元の書類を読んでいる。ところで。ここは私の部屋なのに、どうして自室のように寛いでるんですか。


「忙しくはない。ただ、やることがあるだけだ」

「それを世間一般では忙しいと言うのでは?」


 半眼になって見上げると、読み終わった書類を雑にまとめながら


「安心しろ、いつぞやの貴様ほどではない」


 そう呟いて、レオンは笑った。


 ……そう言われてしまうと、私としては何も反論できない。確かに、レオンは寝食も削ってないし、歩きながら書類の確認もしてないし。忙しさが頂点に達していた時の私よりはずっとマシだ。

 いや、でもどうして私の部屋で仕事してるんだこいつ。そして、なんの仕事だ。


「それに、これは俺の個人的な願いのためにやっていることだからな」


 ちょっと気になったので書類を見ようとすると、レオンは、さり気なく私の視線から書類を隠した。えぇえ……。見られたくないならここで読むな、って言いたい。すごく言いたい。


「個人的な願い?」


 視線が痛いので書類は諦めることにして、気になったところを聞き返した。個人的な……個人的な? レオンってば、そんなものあったんだ。


「ああ。……もう決めたんだ。一番大切なもののためなら、他の何を犠牲にしても構わないってな」

「何かを犠牲にしないと守れないものが一番大切って、悲しいですね」


 お前は何を言ってるんだ。とでも言いたげに、レオンは軽く眉を寄せた。しかし、直ぐに苦笑の形に顔を歪める。


「……いいや。決めてしまえば、楽なものだ」

「あら、そうですか?」

「そうだな。どちらかといえば、惑っている間が一番辛かった。――過去に帰ることは決してできないというのに、前に進むには過去が美しすぎたんだ。故に、今が永遠でないことなど理解していながら、過去に帰ることができないなど嫌というほど理解していながら、それでも都合のいい夢ばかりを追いかけていた」


 彼が何の話をしているのか、理解できない。なのに、頭の芯の部分が鈍く痛んだ。過去には帰れない。今は永遠じゃない。前に進むには、過去が美しすぎた。

 それは、……それ、は。


(私の言葉すべてが呪いになるなら、私は何も言わなければよかったのかもしれないとさえ、考えるのです)


「それでも、前を向いて歩くしかないんです」


 口をついて出た言葉は、多分、彼にとって一番言われたくないことだったのだろう。なのに、私は言葉を吐き出すことを止められなかった。頭の中に、私ではない誰かがいるかのように、思考が鈍る。


「過去は過去でしかないんですよ。後ろを振り返っても、綺麗な思い出が優しい顔をして慰めてくれるだけなんです。抉れた傷に触れても、治そうとしない限り膿んで爛れて腐り落ちるだけでしょう。だったら、優しい記憶は抱き締めるだけにして、進むしかないのに」


 レオンは多分、傷ついた顔をしていたんだと思う。ちゃんと顔を見れないから、よく分からないけど。


「お前なら、そう言うと思ったよ」


 声は、静かだった。まるで、凪いだ水面のような声だ、と思った。


「お前はいつも、正しいことを言うから。真っ直ぐに、前だけを向いて、俺を簡単に置いて行こうとするから。……きっと、忘れて前を向いて幸せになれなんてことを、平気な顔で言うんだって、分かっていた」


 水底に、重くて淀んだ何かが沈んでいるのに。水面はひどく凪いでいて、……それはきっと、恐ろしくて悲しいことにんだと思う。

 あなたは、きっと、ひとりぼっちで抱えてしまうのだ。そういう生き物だ。そういうひとだ、と。……知っている。


「――非道い奴」


 その声の冷たさに、思わず顔を上げた。瞳には、何の感情も浮かんでいない。なのに、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいて。言葉にするのなら、ああそうだ。……凄絶な色をしていると。そう、思った。


「でも、いいんだ。構わない。俺は、お前のそういう……正しくてひどくて傲慢で意地っ張りで独善的なところも、お前らしくていいと思うから」

「もしかして、レオンは私が何を言われても傷つかないとでも思ってるんですかね?」

「いいや。だが、俺の言葉でお前が傷ついてくれればいいとは、たまに思う」

「ひどい」


 レオンは、笑っている。嘘を吐くときのお手本のようなものでもなく、普段の不器用なものでもない、色で。


「だって、不公平じゃないか」

「不公平?」


 触れたら壊れそうな声が、不可解なことを呟いた。思わず聞き返すと、レオンは私の頬に触れる。脆くて、すぐに崩れる硝子細工でも触れるかのような、柔らかさで。


「俺はお前のことでしか傷つかないのに、お前は俺以外のことでばかり傷を負うなんて」


 不公平だ、と。彼は甘やかすような声で吐き捨てた。






(私は一体、何を忘れているんですかね)


 彼が読んでいた書類は持ち去られてしまったし、部屋から出ようにも鍵どころか結界で隔離されていて身動きが取れない。部屋の本棚には本が沢山あるけれど、大体が既に読んだものだし。つまり、やることが、ない。

 そんなこんなで、私は自分の消えた記憶を紐解こうと鋭意努力していた。


 英雄王が必要なくなったなら、私の記憶よりも相当に時間が経っているはずだ。それなのに、この空白を埋める手立てが、私の頭の中にはさっぱり存在しない。


(いなくなった。置いて行く。傷ついた。過去ばかりが美しい。進むことができない)


 ヒントは、レオン本人の手によって散りばめられているけれど。うまくそこから先に思考が繋げられない。何だろう、この違和感は。

 まるで、前提としている条件が違うかのように。

 まるで、私が当然としている何かがすでに壊れているかのように。


 違和感が、主張してくる。何かが間違っているのだと。すでに、大切なものが決定的に歪んでしまっているのだと。突きつけて、くる。


 目が覚めてから、私はレオンしか見ていない。レオン以外の、ひと達は、どこにいるのだろう。城にいたはずの使用人たちは? 次代の王となるはずだったあの子は? どこにいる? ……生きている?


(……駄目だ。勝手に最悪の事態を考えて落ち込むな。しっかりしろ、アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ。愚かならば愚かなりに思考しろ。思考を止めるな、情報を見落とすな、――すべてを疑え)


 深呼吸と共に、思考が冷えていく。瞳を閉じて、視覚情報を遮断する。余計なものは、今は捨てる。愛も、恋も、祈りも、嘆きも。今は必要ない。

 レオンが部屋にいない今。私にできるのは。


(相当の時間が経っていることは、本の劣化具合からも確定と見ていい。具体的には解らないけれど、一年や二年ではない。……下手したら、十年二十年? いや、それ以上? だというのに、。まるで、歳など取っていない――いやむしろ、若返っているかのように)


 どれだけ、何を隠されても。いつか、彼が私を憎んでも。彼が私に何をしても。きっと、私はレオンのことが好きだ。


(鏡がないのは、私の姿を見せたくないから? 反射しない窓を見ても、私が私の姿を把握することを避けたいのは自明だ。それはなぜ。……恐らく、先程の疑問の解はここにある。しかし、自分の姿をみることは今はできない。鏡が見たいと言えば、私が何かに感づいていることがバレてしまう)


 それは、刷り込みとか。憧れが肥大化しただけだとか。初恋を引き摺っているだけだとか。何も知らない人は、そう言うかもしれないけれど。


(レオンを、傷つけたくは、ない)


 だって、彼は、ずっとずっと傷ついてきたはずでしょう? 私のせいで、ずっと、嘆き続けてきたのでしょう?


(――レオンは。私のことでしか傷つかないと、言った)


 それなら、レオンが今焦燥しているのは。レオンが今苦しんでいるのは。間違いなく己のせいなのだと、私は理解しなければならない。だって、きっと。


(なら、きっと、癒せるのも私だけだ)


 そう思いたいだけかもしれない。なんて、考えてちょっと笑った。上手く笑えなかった。


(ねえ、レオン。好きですよ。きっと、ずっとずっと、永遠に)


 笑え、なかった。


(今は言えないけれど。あなたのことだけが、特別に好き)


 隠し事を暴いて。優しい嘘を殺して。あなたの願いが叶ったなら。

 いつか、私は、あなたの隣で笑えるようになるのだろうか。


 幼い頃は簡単に描けた理想の未来がもうぼやけて見えなくなってしまっていることに、気が付きたくなんてなかったのに。

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