忘れたくなかった


「***、あなたは賢い子ねぇ」

「……優しい子ね、あなたは」

「親だって、あの不気味な髪と目を見て捨てたに違いないわ!」


「学園で一番の成績だったんだって? 鼻が高いわ」

「この孤児院の希望よ!」

「あなたがここに来てくれてよかった」


「平民の孤児ごときが、龍族のお方と謁見などできるはずがないだろう!」

「その黒髪も黒目も、どうせ自前じゃないんだろう?」

「いやぁね、英雄王様の色を偽るなんて」

「龍族と会いたい? そのために黒に染めたのか? この身の程知らずが! 恥を知れ」


「……もう、ここには置いてあげられないわ」

「やっぱり、化け物だったのよ」

「ああ、せいせいした」


 私が願った国は、こんな形をしていたのだろうか。

 私が作った未来は、こんな程度のものだったのだろうか。


 疑問は消えない。ただ、目の前の通り過ぎていく光景に、形にならない違和感と不快感を覚える。


 あの日。私が……アナスタシアが、死んだ。英雄王はもうどこにもいない。でもここに私はいる。それでは、私は誰だろう。亡霊? 生きているのに。こんなにも、こんなにも。心臓は脈を打っているのに。死んでいる。生きている?

 『私』はここにいる。でも、もう、大好きな彼等には会えない。アナスタシアじゃない私には、理由も権利もない。だったら、生きている意味なんてあるのだろうか。

 誰にも愛されない。黒い髪と黒い目は、まだ私を呪っている。


 息がしにくいな、と思った。


 優しい人が、当たり前に幸せになれる国。そのはずなのに。

 どうして、私以外の人達は笑ってるのに。私は心から笑えないんだろう。


 私は、あんなに必死になって。一体何を叶えたんだろう?


 本当に。……何かを、叶えたのだろうか?





 ……。

 ……なんだか、すごく、長い夢を見ていた気がする。瞼も身体も重くて、怠くて、何も考えられないけれど。長くて、嫌な夢を。見ていたような、そんな気が。


 そう、長い夢。嫌な夢。

 全部、夢の中に閉じ込めて。私は微睡んでいる。


「……まだ、起きないのか」


 そんな微睡みを殺すように、声がした。


「まったく。俺の体調が悪いという話じゃなかったのか。どうしてお前が寝ているんだ。この馬鹿」


 悪態をついているのに、震えていて、泣きそうな声。

 聞き慣れた、大好きな声だ。そこでようやく、私は手を握られていることに気が付いた。身体も重いし、感覚も鈍い。だけれども。気が付けた。

 ……彼の手が、震えてることにも。


 声をかけないといけない。そう思った。彼はきっと、泣き出す寸前の顔をしているだろうから。いつもみたいに、笑って、大丈夫だと伝えてあげないと。


「れ、おん……げほっ、ごほ」


 うわ喉痛っ。声の主に声をかけたはずなのに、自爆しただけみたいになってしまった。心配そうな気配がしたので気合で目を開けると、霞む視界の真ん中。泣きそうに歪んだ顔をしたレオンが、私の手を強く握りしめているのが見えた。やっぱり、あなただったんですね。


「起きたのか! ……よかった。ああほら、喉を痛めるぞ。水飲め、水」

「お手数おかけします……」


 レオンらしからぬ世話焼きっぷりにちょっと引きつつ、ありがたく水を受け取った。……ん? ちょっと待って?


「あれ? 、どうして私の部屋にいるんですか?」


 年頃の女の部屋に入るのは駄目だろ。そう言って、私室に入ることは避けていたような気がしたのだけれど。気のせいだったっけな。

 ……駄目だ。なんだか頭が重い。よく思い出せない。気のせい、かな。変なこと言ってごめんね、と口にしようとして。


「……今、なんて」


 ぎり、と。手を強く掴まれた。折れる折れる。人間の手は簡単に折れるから力加減頑張れって何度も言ったでしょ!? 顔を顰めながら、レオンがどこに引っかかったのかを考える。


「どうして私の部屋に」

「そこじゃない」

「あれ?」

「次」


 レオンがこんなに焦燥してるの、結構珍しいんじゃないかな。なんだか心配だ。この男、すーぐ自分だけで抱え込むから。


「レオン……?」

「お前、俺のことレオンって」

「あれ、十年以上そう呼んでますよね!?」


 もしかして、ぼんやりしてる記憶のどこかで大喧嘩でもしたのか? それとも、私の記憶が全部ただの妄想だったとか……? 何それ怖い。

 一人戦慄いていると、レオンもひどく動揺しているのに気が付いた。動揺、というか。なんだろう、か。この感じ。


 すごく嬉しそうな、ような……?


「ああ、ああ! そうだな。そうだよな。何も間違ってない!」

「うっわぁ、急に元気になりましたね」


 控えめに言ってドン引きである。

 頭がおかしくなったのは私じゃなくてレオンなのではないだろうか。顔を引くつかせる私に気付いているのか否か、レオンは弾んだ様子で言葉を続ける。


「悪いな、お前が怪我をして混乱してたんだよ。……


 背筋を。

 何か、冷たいものが這い上がってきたような感覚がした。気のせいでしょ。だってほら。レオンの目は、いつもと同じ深い青色を湛えて――いや。本当に?

 この海色は、こんなにも淀んでいただろうか。

 彼の髪は、もっと艷やかではなかっただろうか。

 私を捕らえるように握り締める手は、もっと、力強くは――。


「お前は、俺を庇って怪我をしたんだよ。しかも、刃にはご丁寧に毒まで塗ってあった。……ぴくりとも動かなくて、血が溢れ出てきて、顔は青ざめていて。本当に。死ぬかと、思ったんだ」


 ――ああ。まあ、そんなことはどうでもいいか。

 あなたがここにいて、私が生きていて、会話をしている。それより大事なことなんて、今は何もない。そんな気がする。変なの。二人で話すのなんて、当たり前のことのはず、……なのにね。

 どうしてだろうね。今のこの瞬間が、奇跡みたいだって思ってしまうの。


 泣きそうに歪んだ顔を見て、私は思わず手を伸ばす。


「心配させちゃったんですね。ごめんなさい」

「……頭を撫でるな。小童が」

「こ、小童!?」


 とんでもない言い草だな!?

 ……まあ、でも。単なる照れ隠しだというのは、分かってる。顔赤いし。手は振り払われてないし。

 なでなで。


「……レオン。治癒魔術とか使いました?」

「毒を盛られていたんだ。使わないと死んでたな」

「いや、そっちじゃなくて。今、今!」


 目が覚めた瞬間の怠さとかが掻き消えたんですよ。胡乱に見上げると、レオンはそっと綺麗な笑みを浮かべてみせた。


「……知らんな」

「はい嘘!」


 本気で騙す気があるのかってくらい分かりやすく嘘。


「何も言わずに治そうとするのは駄目ですよ。私だって、レオンの負担になりたい訳じゃないんですから」

「ああ、悪い。……だが、そうか。治癒魔術でも戻らない、となると……」

「? ……レオン、何をぶつくさ言って――」


 思わず、言葉を途切れさせてしまった。息を呑む音が自分の喉から発せられたのにも気づかず、ただ彼の顔を凝視する。


 ……なんて顔をしているのだろう。この、男は。

 この世界全部の幸福を手に入れたような。そのくせ、それが一瞬でなくなることを理解しているかのような。歓喜と絶望をごちゃまぜにしたような、歪んだ表情。

 笑み。ともすれば、そうとも呼べるのかもしれない。だけど、私はそんな単純な表情ではないと確信していた。ああ、彼らしくない。そう思うと同時に、私は彼のことをどれだけ理解しているのだろうかとも疑問が浮かんだ。

 龍は、千年以上を生きるという。その上、死んだ後でさえその記憶を持ち越して次の生に向かう。死など存在しないかのように。私達が当然のように享受する終わりなど、在りはしないかのように。


 本当には、分かり合えない。私には、彼のことを理解できない。そう突き付けられたような感覚に、少しの間だけ目を閉じる。


 ――それでも。


「レオン、こっちを見てください」


 私が英雄王になったのは、彼の隣にいるためだ。

 理解できなくても。分かり合えなくても。隣にいて一緒に歩くことはできるはずでしょう。


「あなたの目の前にいる、私を見て」


 遠くに行ってしまわないで。そう希うように、彼の手を握り締めた。ようやく、視線がちゃんと噛み合う。彼の目に浮かんだ昏い色は、まだ薄れないけれど。


「アナ」

「はい。あなたの親友のアナスタシアですよ」

「……アナ」

「大丈夫。大丈夫ですよ、レオン。ちゃんと私はここにいますからね」


 言葉を重ねる度に、彼は目に涙を浮かべていった。それが、一粒零れ落ちた瞬間に、決壊する。待って。……待って!


「ちょ、ま……っ待って!」

「アナ、アナ、アナ……!!」

「大号泣じゃないですかぁ……! ああもう、ほら、服で涙を拭かない! 仮にも龍王様でしょう!?」

「アナぁ……!」

「人の名前連呼して泣かないでくださいよ!」


 アナ、アナと何度も何度も私のことを呼びながら、レオンはひたすらに泣きじゃくる。そのあんまりな姿を見て、私はちょっと引きながら苦笑した。


「……はい。あなたの親友の、アナはここです」


 一体。この曖昧な記憶の中で、私は彼に何をしでかしたんだろう。疑問は尽きない。それに、彼の態度に対する不審もある。

 ……でも、レオンはレオンだから。


「レオンってば、相変わらず泣き虫ですね」

「……そんなことを言うのは、アナだけだ」

「私の前でだけ泣き虫なんだって考えると、なんだか嬉しいですね」

「そんなことを言うのも、アナだけだ」


 海の色をした瞳が、涙と一緒に融けてしまいそう。なんて考えるほどに、涙が零れ落ちていく。


「お前だけだ」

「あらまあ、それは嬉しいことを」

「お前だけ、だったんだよ」


 声に、何か重い感情が滲む。いや、レオンはだいたい重いんだけど。龍族特有のアレ。愛が重いアレ。かと、思ったんだけど。なんだろう。

 それとは、違う気がした。

 もっと深くて。もっと重苦しくて。もっとどうしようもない。棺の上で花束を燃やすような、救い難い何かが含まれているような気がした。


「俺が弱くてもいいと言ったのは。俺が泣き虫でも許してくれたのは。俺が情けなくても、側にいると言ってくれたのは。……俺の強さを、ただ強いだけだと笑ったのは」

「レオンは誰よりも強いですし、レオンは情けなくなんてないですし、……泣こうが喚こうが情緒が安定してなかろうが。レオンと私が親友なのには関係なくないですか」

「そうだな。でも、お前がいないと」

「いますけど?」


 首を捻ると、レオンは何か眩しいものを見たように目を細めた。


「……そうだな。お前、どこまで覚えてる?」

「あ、やっぱり何か忘れてるんですね!」

「色々とな。で、どこまで?」


 そんな真剣に聞かれるほど大事なことなのか。……まあ、私もレオンの記憶が吹っ飛んだら慌てるけどね。レオンはそこまで慌ててない、みたいなのに。何をそんなに……怖がってるんだろう。


「えっと。……人間の寿命が短いって話したせいで気まずくなって湖に行けなかったこと、と。人間の間で流行ってるボードゲームをレオンに教えて、私が勝ったことと。あと、……? 次の国王を誰にするかは、もう決めたはずで……。で、ようやく一段落ついて、休めるってなって……?」


 そこまで、だ。

 レオンと出掛けたのが確か、昨日か、一昨日か。それくらいだったような気がする。そこは曖昧。でも、何があったのかとかは何となく覚えてるはず、かな。


「え、えぇと……。それから」


 そこから先を思い出そうとしても、頭に靄がかかったみたいに何も思い浮かばない。うんうんと唸りながら頭を抱えるけど、……駄目だ。何も思い出せない。昔のことは鮮明なのに、最近のことがてんで駄目。この歳で痴呆? そんな馬鹿な。毒のせいに決まってる。


「……なるほど。


 私の様子を見下ろしながら。レオンは、噛み締めるようにそう呟いた。


「どのくらい何を忘れてるんですか、私ってば」

「大したことは忘れてないな。よかったよかった」

「仕事のこととか全然なんですけど、これはいいんですかね!?」

「もう働かなくていいんだ。気にするな」


 さらっと衝撃的な事実が暴露されたんですけど……?

 実はお前無職な! 宣言を受け、額に手を当てる。え、英雄王もういらないんだ? 私何もしなくていいんだ!?


「……いいんですか?」

「いいんだよ。人間と龍族の協力関係は築かれた。この国は平和になったし、暴走した権力で不幸になる者はいない。お前の役割はもう終わったんだ」


 落ち着いた声で、言い聞かせられる。

 なんだか小さな子供になった気分で、私は寝台に潜り込んだ。


「……そっかぁ」


 もういい。もういらない。もう必要ない。

 役割は、終わった。


(それは、大したことじゃあ、ないのかな)


 彼が言うなら、そうなのかもしれないけれど。私だって、ほとんど終わって平和になった国を歩いたのだけれど。

 まだ、先があるはずだった。

 もっと、龍族との間のことは、慎重に進めるはずだったのに。


(でも、レオンが言うなら、そうなのでしょうね)


 彼は、嘘なんて吐いてなかった。態度と声と目で分かる。彼の言葉には一片の偽りも含まれていなかった。ならば、そういうことなのだろう。

 私が失った、記憶の中で。

 ……英雄王なんて存在は、もう必要なくなったのだ。ずっと望んでた未来がいきなり手に入って、なんか時間を飛び越してしまった気分。そして頭が痛い。


 ――頭が、痛い。

 まるで、とても大切なことを、忘れてるみたいに。


「だから、安心して休んでろ。俺が側についててやるから」


 夜の帳を下ろすような声で、レオンはそう囁いた。


「……ふふ。レオンが優しい」

「何を言ってるんだお前は。俺はいつだって、お前には優しいだろ」

「そうですね。でも、こんなに分かりやすく優しいのは、珍しくて」

「怪我人相手に厳しくすることもないしな」


 何を忘れているのだろう。

 こんなに幸せなのに、私の心には何が引っかかっているんだろう。


 分からなくて、苦しくて。私はもう一度目を閉じた。部屋の中には、私とレオンだけ。まるで世界に二人きりみたいに、静かな空間。

 ほんのちょっとだけ。

 嗅ぎ慣れた血の臭いがしたことなど、きっと、気のせいだ。

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