伝えられなかった


 扉を開ける。鍵は、かかっていなかった。なんて不用心な。


(……ああ、私の部屋だ)


 部屋の中を見て、一瞬。時間が巻き戻ったような錯覚に陥った。それほどまでに、何も変わっていなかった。おっかしい、なぁ。笑おうとして、でも、顔は強張ったまま動いてくれない。だって、笑えない。

 ここは。この、時が止まってしまったかのような部屋は。アナスタシアが、英雄王が、死ぬ直前まで過ごした部屋だ。

 そこに、ポツリと落ちた染みのように。たったひとつ、時間の経過を示しているかのように。黒い髪の、黒い服の、綺麗な男のひとがいた。ああそうだ。


 あなたが、いる。


 それだけで高鳴る心臓を、また会えただけで歓喜するこの心のうちを、レオンは知らなくていい。知らせるつもりもない。


(不毛ですね)


 苦笑した。その時、こちらを見ることもしないままの彼が眉を顰める。アナスタシアには絶対に向けなかった威圧感に、押し潰されそうになる。でも、逃げない。


「――誰だ」

「私です」

「……は?」


 ちゃんと笑えてるかな。ちゃんと、彼の顔を見れてるかな。気になるのはそんなことだけで。でも、彼が私を見るその顔が、珍しく本気で呆気に取られていたから、軽く声を上げて笑う。


「なんて顔してるんですか、レオンハルトってば」

「いや、え……は? おま、貴様、何。どうしてここに」

「話したいことがあって、来ました」

「……そ、うか。そう、か? そうなのか。話、話な」


 こんなに混乱したレオンを見るのは初めてかもしれない。今から突き付ける内容のことを考えると、なんだか可哀想に思えてきた。龍王陛下、ただの人間である私に振り回され過ぎでは……?


「そう、大事な話です。…………って、あれ」


 さて、どうやって切り出そうか。そう考えて、視線を真っ直ぐ彼に向ける。その瞬間、気がついた。

 レオン、なんだか顔色が悪くない?


「レオンハルト、体調でも悪いんですか?」

「……いや。そんなことはないが」

「いや嘘ですよねそれ。完っ全に顔色悪いですよ、また夜ふかししたんですか? それとも、変なものでも食べました? はたまた、怖い夢でも?」

「お前は俺を何だと思っているんだ……?」


 世界で一番強い、龍王陛下であらせられると思っていますが。それとは別に、私の大好きなたったひとりでもある。


「そんなのはどうでもいいんです。……本当に顔色悪いですよ、ちょっと一休みしたらどうですか?」


 流石に、私も体調の悪い男を追い詰める趣味はない。話の切り出し方が分からないから先延ばしにしたいのではなくて。単に。


「大事な話があるんじゃなかったのか」

「楽しい話ではないので、あなたが万全のときでいいですよ」

「……そうか」


 単に。心配だから。


「なんだか女性物の感じがする天蓋付きの大きな寝台もありますし、さっさと横になってはいかがですか?」

「……眠るのが、もったいない」

「子供ですか」


 憮然とした声に、ちょっとだけ呆れる。

 そういえば、案外と子供じみたところもあったっけな。負けず嫌いで、偉そうで、すぐに取り乱す。彼は、そんなところもあった。主に私の前で。……私の前ではそういう弱さというか、素を。

 さらけ出していてくれたのだと。自惚れてもいいだろうか。


「だって、お前が、俺を避けていたから」

「ああ、それはまあすみませんでした」

「誠意の欠片も感じられんな」

「まあまあ、申し訳なかったとは思っていますよ」


 しかし。口調が完全に素だ。いつもの偉そうな感じがどこかへ行ってしまっている。……これ、もしかして、思ったよりも具合が悪そう? 龍族が病気になるなんて聞いたことないけど。


「だが」


 指先でつついただけで崩れてしまいそうな笑顔を浮かべて、レオンは私の目を見つめた。ああ。深い、深い。海の青。

 その瞳に見つめられるだけで、溺れてしまいそうになる。いっそ、溺れ死んでしまえたならいいのかも、なんて。


 ――馬鹿なことを。


「また、お前と話せるのは嬉しいよ」

「それは何よりです」

「いつぞやの何かがきっかけで、随分と避けられていたからな」

「……あの時、私が言ったこと。気にしないでくださいね」

「どの時だ? 忘れたな」

「じゃあ、思い出さないで」


 あなたが幸せならそれでいい。もう、この美しい龍を、私は手放せる。だってそうでしょう? 手を引かれないと歩けない子供じゃないから。あなたの背中を追いかけないと前が向けない子供じゃないから。

 贖え、と。脳裏で幼い子供の声がした。


「分かった。イヴリン」


 そんな声さえ掻き消すほどに、あなたの声だけを聞いていたかった。


「しょうがないから、眠るまでここにいてあげますよ」

「起きるまで、じゃ駄目か?」

「往々にして。多くを望むと、すべてを失うものですよ。……でも、私は優しいので、叶えてあげます」


 レオンは、いつもの格好のまま、寝台に横になる。横の椅子に腰掛けると、甘い花の香りが花をくすぐった。……ああ、レオンの匂いだ。

 私の部屋と変わらないように見えるのに、匂いだけは変わってしまっている。自室の匂いじゃない。その事実に、ちょっとだけ寂しく思ったのは。――きっと、気のせいだ。


「眠るまで、何の話をいたしましょうか」

「……お前の話がいい」

「私の?」


 そうだ。そう頷く顔はどこか幼かった。


「何でもいいんだ。好きな食べ物とか、嫌いな季節とか、そういう。下らないことが、聞きたい」

「難しいですね」

「……そうだろうな」


 でも、好きな人の要望だ。しかも、多分、彼の我が儘を聞けるのはこれで最後になる。なら、聞き入れたい。


「ええ、と。そうですね」


 そういえば、この椅子は。私が死んだあの時、レオンが座っていたもの、なんじゃ。そして、レオンが横になっている寝台は、私の最期の。

 まるで逆の位置に収まって、こんなにも穏やかな時間を、これで最後になると思いながら過ごす。


(……ままならないことばかり)


「甘いもの」

「ん?」

「甘いものが、好きです」

「……そうか。俺も、嫌いじゃない」


 どうでもいいことを考えるな。……もうどうにもならないことなんて、考えるな。


「それから、季節……。ああそうだ。私、春があまり好きじゃないんですよね」

「それは、どうして」


(理由なんて、分かりきっている)


 死んだのは春だった。産まれ落ちたのも春だった。死にゆくのは春ばかりだ。誕生日も、春ばかりだ。嫌な思い出が、春に集約されていて。

 繰り返す度に、あの穏やかな陽気が嫌になっていく。咲く花の鮮やかさが、腹立たしくなっていく。そんなこと思いたくないのに。


「春の温かさは」


 それに。あなたとの別れの季節も、春だった。


「優しすぎて、寂しくなるんです」


 春になる度に、思い出す。私はどこまでいっても一人ぼっちだと。私は結局、自分自身さえもが信じられないのだと。自分の惨めさが、醜さが、浮き彫りになるようで。


「だから、嫌い」


 微笑んで、呟いた。レオンは、どうやら眠気が強くなっているようで、瞬きの回数が増えている。そうそう。寝物語みたいに、話半分に聞いてね。


「……奇遇、だな」

「はい?」

「俺も、春は……好きじゃない」


 レオンは瞳を閉じた。人智を超えた美しさを誇るそのかんばせは、こうして見るとよくできた彫刻のようにも見える。

 なのに、彼の声はいつだって、他のどんな音よりも鮮明に耳に届く。


「春になる度に、あの日のことを思い出す。次の約束もな、してたんだ。湖に連れて行って、二人で買い食いして、ボードゲームで戦って。そういうのを、ようやくできるようになる頃だった。英雄王なんて呼び名から解放されて、ただのアナとして生きていける未来が目の前にあったはずなんだ。アイツ、あと三十年くらい生きるって言ってたくせに、たったの三日で」

「……そんなに話して、いいんですか」


 聞いていられなかった。聞きたくなかった。彼の声も、遮る私の声も、どこか虚ろで。まるで、土の下に向かって話してるみたいだと思った。


「いいんだよ。お前なら」


 優しい声。なのに、虚ろな声。私のことなんて見ていない、ずっと遠い過去のことばかり想っているような声。

 この、龍に。こんな声を出させたのは、私だ。


「……私、ね。あなたが、春の花を穏やかに見ることができる未来が来たらいいなって、思うんですよ」


 願望を口にする。そうしたら、いつか叶うんじゃないかって思ったから。

 なのに、レオンは困ったように眉を顰める。


「何千年経っても、俺はアナのことを忘れない」

「忘れなくていいと思いますよ」


 忘れられたい、訳じゃない。というか、この男は記憶力がいいから、多分無理だ。


「お前は、忘れるべきだと言うかと……思っていた」

「忘れられるなら、忘れるべきだとは思います。だけど」


 あの日々が。この未来が。もしも、あなた達の停滞した日々を変えることができた先の、優しい明日ならば。もしも、龍族にとって、楽しい今が続いているならば。


「……きっと。忘れなくても、過去は過去になるはずなんですよ」


 いつか。アナスタシアの亡霊さえもが死に絶えた未来で。

 いつか、この国の在り方が大きく変化した先で。


「思い出を、生々しい傷としてではなく語れるように。死者の願いばかりを追いかけるのではなく、未来を見て生きていけるように。そういうふうに、なるんです」


 そんな身勝手な願いが叶うんじゃないか、なんて。希望論かもしれないけどね。


「……ただの理想だって。あなたは笑うかもしれませんが」


 レオンは、いつの間にか、目を完全に閉じてしまっていた。その、どこか幼い寝顔に笑みを零し。


「ね、レオンハ――っ!」


 ――殺気を、感じた。

 肌を突き刺すようなそれに気が付けたのは、アナスタシアだった頃の『感覚』のお陰だった。椅子から立ち、辺りに視線を這わす。クローゼット? 違う。天井? 違う。扉? 違う。


 どこ。誰。どうして。狙いはレオン? 今の私を狙う者なんていないはずだから、レオンに決まっている。龍族の王様。この国の実質の支配者。殺される理由なんて、いくらでも思い浮かぶ。だけど。


(――それだけは、許さない)


 脆弱な人間の身分でも、何もできない片田舎の孤児の身分でも。私はそう断ずる。龍族を巻き込んだのは、人間である私で。気配の主は、恐らく人間で。……こちらの事情に巻き込んでおきながら、蔑ろにするその罪深さを。

 私は許さない。私が、許さない。だから。


 気配はどこにある? 探せ。見つけろ。


 視線を巡らせた先。影が見えた。動きが早くて、気配も薄くて、足音も匂いもしない。だけど、光を反射した刃が、鈍く煌めいて――。


「――レオン、危ない!!」


 咄嗟、に。


「……? なに。ねむれと言ったのは、おま――」


 咄嗟に、彼を庇ったのは。どうしてだろう。私よりもずっと強くて。こんな刃なんて命を脅かすものにはならなくて。それどころか、傷なんてつかないだろう彼を。どうして、庇ったんだろう。

 どうして、私はいつだって、考えずに動いてしまうんだろう。馬鹿だなぁ。オフィーリア嬢にも言われたけど。私はやっぱり、馬鹿だ。


「…………いゔ、りん?」


 音が遠い。

 身体が冷たいのに、刃を受けた背中だけが嫌に熱い。


「おい、おい。どうしたんだ。どうして、血、が。しっかりしろ、おい。……おい!!」


 レオンの声だけが、聞こえている。ああ、泣かないで。私は平気なの。平気、だよ。大丈夫。

 そう伝えたいのに、声が出ない。


「……っ!! き、っさまぁああ!!!」


 あの時と、同じみたいだ。

 痛くて、熱くて、苦しくて、冷たくて。でも、全部全部、遠くなっていく。世界が遠ざかっていく。違うか。遠くなっているのは、私だ。


 ……ああ。

 もっと、優しいお別れを、伝えたかったのになぁ。


 視界が闇に閉ざされる。

 その向こうで、降り続いていた雨が、嵐に変わっていくのを。

 ぼんやりと、遠い感覚で。察して、いた。




「……死なせない」


「お前だけは、死なせない」


「お前を傷つけたものは、許さない」


「お前を傷つけるものなんて、必要ない」


「なあ、好きだよ」


「多分。お前が思ってるよりも、ずっと。本当に、好きだよ」


「だから」


「少しだけ、待っていてくれ。ちゃんと、消しておくから。お前が傷つかなくていい、優しい世界を、あげるから」


「――お前にとって、優しくないものは。もういらない」

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