守れなかった
久しぶりに、こんなにもすっきりした気分になった気がする。なんて言ったらいいんだろう。視界が鮮明というか。思考が明瞭というか。こう、何も解決してないのに全部解決した気分。逆に駄目だわこれ。
「ねぇ、イヴリン。……イヴリン?」
「なんですか?」
冷やしたハンカチで瞼を冷やしていると、どこか気まずそうなオフィーリア嬢が傍らから袖を引いてきた。何その仕草可愛らしい。見えてないけど絶対可愛い。オフィーリア嬢ってば、強くて気高くて優しくてその上に可愛いなんて世界征服でも目指してるの……?
「頬の傷、ごめんなさいね」
風圧で切れた上にオフィーリア嬢の手によって散々抉られた傷口に、彼女の細い指先がそっと触れた。ちょっとくすぐったい。血はもう出てないし、痛みもそこまでではないから、気にはしなくていいのだけれど。
……まあ、傷ができたのは、仮にも女の顔だ。オフィーリア嬢が気にするのも分からなくもない。
でも、そんな声出さなくてもいいのに。
「あとで治癒魔術でも使っておきますよ。この程度の傷なら、まあ、多分、治せるはず……です」
「貴女、治癒魔術は下手くそじゃなかったかしら?」
ぎくり。
硬直したことを誤魔化すように笑い、片手を振る。あー、見てないのに分かる。オフィーリア嬢の視線が痛い。心に突き刺さる。
「あはははは。何年前の話をしているんですか? 人間は日々進歩する生き物なんですよ?」
「治せる確信は?」
「…………失敗しても私の顔が見るに耐えないものになるだけですから」
確信なんてないです。治癒魔術に対しては相変わらず苦手意識が強くて、ちょっと。まあ、使えなくはないし、私自身の怪我を治すことに対する不安はない……のだけれど。こういう、身体に干渉する部類の魔術は、好きじゃない。だって。
――母の死に際を、思い出す。
ああ、いや。あれは、治癒魔術ではなかったけれど。それでも、魔力を注ぎ込んだその身体が壊れていく光景を私は確かに見たはずで。あの、光景は確かに。この目に焼き付いたまま離れてくれなくて。忘れていたことが嘘なのかもしれないと思うくらい、まだ。
魔力過剰による身体崩壊。治癒魔術に必要な魔力の量。理屈は理解している。頭では、分かっている。
怖い訳じゃない。これは、単なる恐怖ではない。ただ、ただ。……思い出すのだ。
私の手が、血に濡れているという事実を。思い出して、指先が震えてしまう。だから、治癒魔術は苦手。アナスタシアは血を知っているから。……苦手。それだけ。
「……陛下に治していただきなさい。貴女に治癒魔術を使わせるのは心配だわ」
そんな、救い難い弱音を口にもしていないのに。オフィーリア嬢は、ただ心配そうにそう言った。思わず苦笑する。
「レオンハルトに、こんなくだらないこと頼めませんよ」
「あら、……貴女はこれから、アナスタシアとして彼の前に立つのでしょう?」
「それは、まあ……そうですが」
「なら、陛下は貴女のために何でもするはずよ」
もう平気かな。そう思い、目を冷やすのを止める。最初の一瞬だけ、目が眩んだ。明滅する視界の中で、オフィーリア嬢は、想像通りの顔をしていた。
何でも、とは。何気ない顔でひどいことを言うなぁ。私は、その妄執をどうにかしたくて足掻いているというのに。まったくオフィーリア嬢は。
「だから、駄目なんです」
ねえ、オフィーリア嬢。
「私はね、もう、彼に悲しい思いなんてさせたくないんですよ」
あなたは、その空色の瞳で、全部見てきたはずでしょう。
「もう二度と繰り返しはしない。もう二度と、私は彼の目の前で死に絶えたりなどしない。……私が彼と向き合うのは、終わらせるためです」
あなたは真っ直ぐだから、ちゃんと歪みが見えてるはずでしょう。
「アナスタシアはもう死んだのだと。あの約束に縛られる意味なんてないのだと。私は、彼のことなんて忘れて生きていけるのだ、と。私はレオンハルトに教えないと駄目なんです、だから」
「貴女、馬鹿よね」
「しみじみ言わないでくださいよ!」
オフィーリア嬢は、毒花を食卓に飾っている光景でも見たような顔をしていた。つまり、彼女は私の常識を疑っている。なんてことだ。龍族と人間の間の溝は、やはり深――。
「――陛下から逃げられるなんて、本気で思っているの?」
なんか思っていたのと違う言葉を続けられ、首を捻る。
「え、えぇえ? だって、レオンハルトですよ?」
「そう、陛下よ。貴女が愛してやまない、貴女を愛してやまない陛下」
そう聞くと美しい両思いみたいだな。事実とは若干異なる表現に顔を顰めると、オフィーリア嬢は私よりもずっとひどく顔を顰めてみせた。何この空間。
「貴女が一番よく理解しているはずだわ。……彼は、恐ろしい方なのよ」
「……そうですね」
アナスタシアの願いのために、この国を二百年間も平穏に保ち続けた。その手腕もだが、アナスタシアに対する執念が恐ろしい。執着心が強いのかな。龍族特有の愛の重さだと思っていたけど。レオンは飛び抜けてる感じ、するよね。
怖い。恐い。……あなたが私のことを、ずっと、永遠に抱え続けることが。私があなたの心を、ずっとずっと、未来永劫縛り続けることが。恐ろしい。
鎖を解いて。呪いを解いて。あなたはもう前を見てもいいのだと。あなたは、私なんかに縛られなくてもいいのだと。優しくて、綺麗で、正しい言葉で伝えてあげたい。そうしないと、いけない。
だって、あなたはずっと苦しんできたんだから。
「それでも、私は。レオンハルトのことを解放してあげたいって、思うんです」
ちゃんと、アナスタシアは、彼とお別れできるだろうか。そう、できたとして。
彼は、悲しむだろうか。また、泣くのだろうか。泣くかもしれない。……泣くのなら、いっそ大声を上げて泣いてくれればいい。泣いて泣いて泣き疲れたら、少しは何かが軽くなるかもしれないから。
なんて、私は思うのだけれど。オフィーリア嬢はどうやら私の思考が起きに召さない様子。額に手を当てて、呆れ顔で、彼女はそっと嘆息した。
「やっぱり、理解できてないのね」
「えっ」
「陛下は、貴女が本当にアナスタシアの記憶を持っていて、ここまで何も変わってないなんて知ったら、きっと……」
……。
えっ何。そこで言葉を途切れさせないで。怖い怖い。オフィーリア嬢はレオンハルトがどうすると思ってるの? ちょっと顔色悪いけど何想像してるの? え?
「お、オフィーリア嬢……?」
「………………まあ、貴女がアナスタシアなら、平気よね」
「その沈黙は何を示しているんですか!? ちょっと、目を逸らさないでください! オフィーリア嬢、オフィーリア嬢!?」
「ほら、陛下がどこにいらっしゃるか教えてあげるから、そんなに興奮しないの」
「いや興奮もしますよ! こっちを見てくださいオフィーリア嬢ってば! ねえ、私はどうされるんですか!?」
乾いた笑い声を上げ、オフィーリア嬢は私の疑問を拒んだ。ちょっと、ねえちょっと。私まだ死にたくないんですけど。
狼狽していると、不意に。彼女が、私の手を握り締めた。
「……ねえ、アナスタシア」
「はい?」
その声が、あまりにも静かだったから。さっきまでの会話が嘘みたいに、空気が色を変える。ああ、嫌だな。オフィーリア嬢には、ちゃんと、真っ直ぐに立っていてもらいたいのに。
今は、揺らいでいる。
不安そうに、寂しそうに、悲しそうに。
彼女は、震える声を落とした。
「陛下の居場所を教える、条件があるわ」
「何ですか?」
「約束を頂戴」
何でもいいの、と彼女は微笑む。やっぱり、どこか寂しそうに。
「これから先の約束が、ほしいの。何でもいいのよ、本当に、何でも。小さいことでいいの、すぐ先の未来でいいの、だから、お願い」
諦めたような笑みを、見て。私は反射的に手を握り返す。この細くて白くて華奢な手が、本当は。私の手なんて軽く握りつぶせることも、風圧で頬が切れるどころか、風圧だけで建物一戸壊せることも。私はよく知っている。
「……オフィーリア嬢」
「今日お別れしても、まだ貴女と会えるって、確証がほしい」
「……あ、した」
だから、本当はね。
「明日、一緒に、お菓子でも食べましょう」
どうしたら、あなた達の強さに報いることができるのかなんて、全く分からないままなの。
「お茶とか飲んで。二人で、昔みたいにお喋りして、下らないことを言い合って笑って、……それで」
拙い言葉を、オフィーリア嬢は静かに待っていてくれている。それで。それで?
「……次に会う時は、私のこと、イヴって呼んでください」
ああ、やっぱりちょっと強欲かな。
そう思って。多分、すごく不細工に。私は笑った。
「そういう約束は、どうですか」
「――ありがとう、イヴリン」
小指を絡めて、幼い子供のように約束を交わす。オフィーリア嬢の笑い方がいつもよりもずっと幼かったから、私は少しだけまた泣きたくなった。
今度は、破らないから。ちゃんと守るから。許してね。
「約束よ、また明日ね」
――約束しましょう。貴女がここに帰ってきたら、その時は。
不意、に。
随分と昔。守れなかった約束を、思い出した。友達だった彼女と、なんてことない、いつもの会話の中で交わした約束を。
「はい。約束です」
棺と共に埋もれてしまったそれを、私はもう掘り返さない。
ただ、ほんの少しだけ。
「また明日。オフィーリア嬢」
もう彼女のことを友達とは呼べないな、とだけ思った。
(あの男、アナスタシアへの執着心が高じて頭がおかしくなっているのかもしれませんね)
そして、レオンの居場所を聞き出した私は、その場所に向かっていた。なんとなく頭が痛い気がする。多分だけど、レオンが悪い。
私がただのイヴリンならば、その場所を聞いても理解できなかった。でも、アナスタシアの記憶と照らし合わせると、緩やかな絶望と共に腑に落ちる。
(……私の、部屋にいるなんて)
もっと言うと、元々アナスタシアの部屋だった一室を、レオンの自室として使用しているらしい。いや嘘でしょ。こんな悪趣味な嘘、吐きませんわ。そんな会話を繰り広げた結果、私はかつての自室に向かっている。正直胃が痛い。
だって。あの部屋は、私が死んだ部屋だ。そこを自室にしている? 頭がおかしいんじゃないの?
そんな疑問は湧き出したまま消えずに残っている。アナスタシアの死のせいで歪んでしまったにしても、行き過ぎだ。
だけれども。
……懐かしい、見慣れた光景に目を向けながら。ニコラスの言葉を思い出す。
――アナスタシアが死んでから、レオンハルトは、アナスタシアがいた頃から何も変わらないようにすることに執心していた。
彼が幸せになれない国なら、必要ない。
――まるで、何か一つでも変わってしまったら、思い出まで嘘になるとでも思い込んでいるように。
百人いて、百人全員が幸せになれる世界なんて、もう望むのは諦めた。
――レオンハルトは、きっと、あの日から一歩も動けていないんだ。
叶わない願いなんて五万とあるし、そのうちの一つとして遺体と一緒に埋葬してしまえ。
――君が英雄王だろうが、ただの孤児だろうが、そういうのはどうでもいいよ。僕には関係ない。
ただ、優しい人が。普通に生きて平穏に暮らして、そうして当たり前に幸せな人生を歩んでくれたなら。
――ただ、それでも。君が、彼のことを好きだと言ったから。
ただ、この国が。
――お願いだよ。アナスタシア・エヴェリナ・ダフネの亡霊。
あなたが生きている、この世界が。
――彼を、許してあげてくれ。
ほんの少しだけ、優しかったらいいなって。今は、そう思う。
「――だから、お別れをしましょう」
呟いて、懐かしい豪奢な扉に手を掛けた。ああ、神様。信じてもいない神様。もしも、こんな私の祈りが届くのなら、お願いです。
「ね、レオン」
あのひとが。もう、苦しまなくていい明日を、ください。
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