ゆるしたかった


「――って。オフィーリア嬢、痛い痛い! なんでまた人の傷口を抉るんですか!? 趣味!?」

「なんかもう腹立たしいやら苛々するやら忌々しいやら悲しいやらで貴女の顔を一度原型を留めないくらいにぐちゃぐちゃにしてやりたい気分なのよ」

「一息で言い切った……!」


 駄目だ、シリアスが続いてくれない。オフィーリア嬢は、ひどく寄る辺なさ気な顔をしながらも、断固として私の顔を離さなかった。なんなら力は強くなっていく。さっきから、私の頭蓋骨の寿命が縮まっている気がするんですよね……。

 しばらくして、オフィーリア嬢の手が下ろされる。ひりつく頬を擦っていると、溜め息の音が聞こえた。そんなに呆れられるようなこと言ったかな。言ったかも。


(でも、全部、本当のことだ)


 だから、言い訳も誤魔化しもしない。オフィーリア嬢にこれ以上の嘘は、吐かない。誠意なんかじゃなくて、もっと惨めったらしい感情でそう決める。


「……貴女、馬鹿よね」


 不意に。

 ひどく優しい声が、私のことを罵った。

 何を言われたのかが一瞬理解できなくて、ただ瞬きをする。馬鹿、ともう一度呟いて、彼女は目を細めた。


「いいえ。馬鹿なのはわたくし達なのかしら」


 龍族が、神に最も近しい種族だったということを思い出す。オフィーリア嬢は、人間を超えた存在の静謐さで呟いて、私から一歩だけ離れていった。


「わたくしね、最近、面白い本を見つけたのよ」

「…………え?」

「……え、何。本が何なのか、もしかして知らないの?」

「い、え。知っています、けど」


 話の方向性が、分からない。困惑しきりの私に向け、オフィーリア嬢は、なんだかよく分からない顔をして見せた。怒ってもいない。嘆いてもいない。でも、嬉しそうでも楽しそうでもない。無色透明な、顔。

 何かを思い出している時の、遠い目をしながら。彼女は語り続ける。


「人間の国に来て、初めて読んだのよ。ああいった物語の本は。龍族の村には、ほら。……歴史書とかしかなかったでしょう? だから、人間が書き記す空想の物語を読んで、すごく面白いと思ったの。ああ、よかったら、今度貸してあげるわね。絶対貴女も気に入ると思うの」


 何を、言っているのだろう。

 彼女は、何を伝えようとしているのだろう。


「それからね、美味しいジェラートのお店を見つけたのよ。人間は凄いわね。魔術をお菓子作りに使うなんて発想、初めてだった。すごく、驚いたわ」

「――オフィーリア、じょう?」

「あと、そうね。以前、人間の魔術師と話す機会があったのよ。この結界も、そこで教えてもらったわ。他にも色々な魔術を教えてもらったし、こちらの技術も教えたのよ」

「なんの、何の話をしているんですか。あなたは何が言いたいんですか」


 今度は、私が彼女から離れる番だった。唇が震えている。心臓の音が、耳元で鳴り響いているみたいだ。頭が痛い。呼吸が、荒くなる。

 オフィーリア嬢は、微笑んでいた。

 寂しそうに。苦しそうに。穏やかに。


 過ぎ去っていったものを、慈しむように。

 ただ、微笑んでいた。


「ねえ、アナスタシア」


 ああ、そんな声で名前を呼ばないで。もう、アナスタシアは死んでしまったの。もうどこにもいないの。もう、私はその名前で呼ばれる私を許せないの。

 死んでしまった、愚かな女のことなんて、呼ばないで。眩む頭が、そう思考する。どれだけ愛されても何も返せなかった。どれだけ愛しても、何も与えられなかった。そんな、馬鹿な私のことなんて。


 オフィーリア嬢みたいな、強いひとには、理解できない。


「貴女の、お陰なのよ」


 ――だから。

 何を言っているのか、一瞬、理解ができなかった。


「オフィーリア、嬢?」

「ああ、もう、馬鹿。本当に馬鹿ね。貴女もわたくしも、大馬鹿者よ」


 開いた二歩分の距離を今度は一息で詰め、オフィーリア嬢は私の手を握り締めた。ひどく弱い、縋るような強さで。その手が震えているのに気が付いた私は、もうどうしたらいいのか分からなかった。

 分からな、かった。


「貴女は、何も悪くなどなかったのに」


 この国を守って。人間のことを、愛してあげて。

 ……人間は弱いから。間違えるから。その道が過ちに通じると思ったら、止めてあげて。

 我が儘なだけの願いに、傲慢なだけの祈りに、罪がなかったなんて誰が言えるというの。そう、思うのに。


「貴女が残した願いは、優しいものだったじゃない。誰かの不幸なんて望んではいなかったじゃない。貴女が願った未来は、幸せなものだったじゃない。……貴女は、いつだって、わたくし達に選択肢をくれていたじゃない!!」


 幸せなだけの未来を、夢見ていた。人間と龍族の違いなんて忘れて、ただ仲良くなれたらいいと理想を抱いていた。その愚かさを、その無知を、その……傲慢さを。


「貴女は、わたくし達にとって、いつだって希望だったのよ」


 許されて、いたのだろうか。

 許されても、いいのだろうか。


「変わらない日々に膿んでいたわ。終わらない永遠に飽いていたわ。それなのに、何かを変える強さも勇気もなく、あの村に閉じこもっていたわ」


 私が遺したものは、ただの呪いではなかったのだと。

 私が願った未来は、彼等を縛り付けるだけのものではなかったのだと。


「――そんな、わたくし達に。突然現れた、弱くてちっぽけでひたむきで愚かな貴女が、くれたのよ」


 そう、信じても、よかったのだろうか。


「物語を読んで、珍しい食べ物を食べて、人間と衒いなく話をできる今を! 彩りに溢れて、変化に満ちて、飽きることのない未来を! 希望を! ――人間である貴女がわたくし達にくれたのよ……っ」


 オフィーリア嬢の声が、詰まる。その、いつもとは全然違う、感情的で震えた声が。どうしてか、とてもとても美しい響きに聞こえてならなかった。言祝ぎのように。福音のように。私の中に凝っていた何かを、溶かすように。だって。


(……オフィーリア嬢は、嘘なんて、言わない)


 だから、彼女が必死になって伝えてくれているこの言葉たちは紛れもなく真実のはずで。でも、ああ。


(二百年。私は、皆を縛り付けていたのでしょう?)


 私がずっと抱えていた罪悪感は、捨ててもいいのだと。彼女らしからぬ痛切さで、彼女らしい真っ直ぐさで、オフィーリア嬢は私に伝えてくれる。

 今、は。龍族が過ごしている今は。本当にいいものなのだろうか。私が願った未来は、私にとってだけ都合がいい未来ではなくて、龍族の皆にとっても優しい今であってくれるのだろうか。

 もし、そうならば。

 ――そうなら、ば。


 視界が、滲んでいく。息がうまくできない。けれど、決して、嫌な感じではなかった。涙腺が壊れてしまったように、制御ができない涙を溢れさせながら。それでも、多分、私の顔は下手くそに笑っていたのだと思う。

 床に崩れ落ちる。握られているのとは反対の手で顔を覆って、零れ落ちていく雫を拭い続ける。


「……っね、ぇ。オフィー、リア、じょう」


 いいのかな。

 私は、私を許しても、いいのかな。


「この、国は。いい国、ですか……?」

「ええ、とても」


 ああ。

 それなら、よかった。

 顔を上げる。オフィーリア嬢は、私と視線を合わせるように地面に膝をついていた。……行儀が悪いのに、まったく。


「……ああ。わたくし、最初に言うべきことがあったのね。貴女が貴女だと分かったのなら。問い詰めるよりも、怒るよりも、先に」

「……っな、んで……ひっ。すか?」

「泣くか喋るかどちらかになさい、はしたない」


 こんな状況でも、小言は忘れないんですね。呆れたように目を細めながらも、オフィーリア嬢は穏やかに言葉を落としていく。ああ、そうだ。思い出した。

 彼女は、私のことを、妹のようなものだと言ってくれていたのだ。そんなことさえ、ずっと、忘れていた。

 忘れて、いた。思い出せた。


「――ありがとう。沢山、沢山頑張ってくれたのね」


 不思議。ずっと、昔のことを思い出すのが怖かったのに。今は、温かいものが胸に満ちている。


「ずっと、大変だったはずなのに。助けられなくて、ごめんなさいね」


 涙と一緒に、ずっと抱えていた何か昏くて重くて悲しいものが流れ落ちて、その代わりに、ずっと忘れていた何かが溢れ出てくるように。


「でも。それでおしまい」


 ぎゅっと、オフィーリア嬢が私の身体を抱き締める。


「この国の未来も、龍族の未来も、もう貴女が背負わなければならないものではないの」


 それは、慰めのためなんかではなく。ましてや、私の弱さの肯定でもない。強い強い、背を押すような抱擁で。


「アナスタシア――いいえ。イヴ」

「……っは、い」

「貴女は、賢く見えてとんでもない馬鹿なのだから。余計なことは考えなくていいのよ」

「はい……?」

「ただ、貴女は。……昔みたいに無鉄砲に、無邪気に、無計画に」


 オフィーリア嬢の視点で見た私って、どういう人間だったんだろうか。認められていたはずなのに散々な評価に、思わず真顔になる。涙も引っ込んだ。


「――貴女の、やりたいようにしなさいな」


 彼女の、その言葉は。

 優しさでも、慰めでも、何でもなく。ただ私のことを思ってくれている。それはきっと、許しだった。

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