痛かった
雨に濡れたのに、風邪は引かなかった。……まるで、私の体調が私に気を使ってくれてるみたいだ。そんなはずないんだけど。そんな小さなことでまた、背中を押されてしまう。
もう逃げないよ、と。口の中で呟いた。それだけ。幸せな夢の残滓は手から零れ落ちて、まるで水みたいに透明な記憶は霧散していく。ああ、そう。あれは夢だ。
もう二度と、戻れない、夢。
ふ、と。クローゼットの中の、ヴィルさんが買ってくれた服が目に入った。
今日は、この服を着ようかな、なんて。どうして思ったんだろう。自分でもよく分かんないや。
……よく考えてみると。ここで再会してから、レオンと会いたいと思ったのは初めてかもしれない。大体偶然の遭遇か彼から会いに来るかだけだったから、どこに出向けば遭遇できるのか皆目見当がつかない。
いや、私の墓標に行けば会える気もするんだけど。今日も今日とて大雨が降っているからそれはちょっと。流石に二日連続で雨に濡れるのは遠慮したい。
――と、言う訳で。
レオンの居場所を知っていそうで、私が普通に話せる相手に相談することにした。
「――陛下がどこにいるのか、ですって?」
「オフィーリア様でしたら、分かるかと思いまして」
うわぁ……。すっごい顔をされてしまった。あのオフィーリア嬢が、こんなに顔を歪めるなんて。あの、龍族なのになぜか令嬢らしさの塊であるオフィーリア嬢に、こんな顔をされるなんて! 私は一体何をしたんだ。心当たりしかない。
「あなた、ねぇ? よくもまあ普通の顔でわたくしに話しかけられるわね」
「えへへ」
「笑わないでくれるかしら。……褒めてないわ」
……なんだか、様子が変だ。オフィーリア嬢は私と友達になるのを拒絶はしたけれど、態度は割と普段と大きく剥離していなかったのに。今は、不機嫌が表に出てきてしまっている。彼女らしくない。
「本当に、……よくもまあ、平然と」
首を捻っていると、不意に。オフィーリア嬢の声のトーンが、大きく落ちた。
「オフィーリア様?」
恐る恐る話し掛けると、強く強く睨み付けられる。視線で人が殺せるなら、私は今死んだ。そんな位の強さで。
「オフィーリア嬢、ではなくて?」
吐き捨て、られた。
――って、え。今、彼女は。え? その呼び方は、あの、ええと。
「え」
「ああもう! 腹立たしい忌々しい不愉快極まりない!!」
うわぁ。オフィーリア嬢らしからぬ荒れ具合だ。どうしよう。
「お、オフィーリア様静かに!」
「誰のせいだと思っているのよ!」
騒がしいのは二人共だ。こんなところで騒いで、周りから注目されては困る。むしろ、オフィーリア嬢の言動がまずい。私が隠してきたことが全部顕になってしまう。
一度だけ深呼吸をしてから、多分引き攣っている笑顔を彼女に向ける。ああ駄目だ。壁にへばりついている羽虫を見るような目になってしまった。流石に傷つく。
「……オフィーリア嬢、すみません。あの、繊細な話になるので、部屋で話しませんか」
「構わないわ。こんなところで貴女に手を出したら、問題になるものね」
「ええぇ……脆弱な人間に暴力振るう気なんですか」
「馬鹿ね。貴女はいつから脆弱になったの?」
「産まれ落ちた瞬間からあなたよりもずっと脆弱なんですよねぇ……」
そんな、和やかとは言い難いけれど、今までとは明らかに違う距離での会話をしながら。私は自室の扉を開ける。
瞬間。
「――結界、展開」
オフィーリア嬢の、そんな呟きと共に。部屋が周りの空間から隔離される。音も振動も何もかもが、周囲から切り離されてしまったのだ。
……わあ! オフィーリア嬢ってばいつの間にそんな魔術使えるようになったんですか。肉弾戦の方が得意だったじゃないですか……。
何が何でも問い質すという気概を感じる。これは逃げられないな。逃げるつもりなんてないけど、こう……逃げ場を失った感じがひしひしとする。龍族特有の苛烈さって、あるよね。
「喧嘩する気満々ですね」
「当然でしょう!?」
「オフィーリア嬢ってば、相変わらず血気盛、ん――」
ひゅ、と。
顔のすぐ横を、拳が通っていった。風圧で、頬が少しだけ切れる。ちりりと痛みが走るけれど、それよりも、恐怖で見が竦んだ。
目の前にあるオフィーリア嬢の顔の、目が笑っていなかったから。
「それで、どうやって、口を割るべきかしら。わたくし、手加減とか尋問とか、不得手なのよね」
「……ちゃんと話しますので、殺さないでください!」
「殺さないわよ……!」
両手を上げ、降参の意を示す。実戦経験の薄いイヴリンでは、流石に勝てない。だって、オフィーリア嬢は、かなり強いのだ。レオンの次の次の次くらいに強い。陛下に一番近いのはわたくし、と言っていた通り。……女の龍の中では、一番強いのがオフィーリア嬢だ。
勝てないし、戦う気もない。そんな弱虫な私は、空気を変えるように一度咳払いをして、笑みを貼り付ける。
「えっと、そうですね。まずは、改めて挨拶から」
ヴィルさんが買ってくれた服の裾を軽くつまみ、片足を緩やかに下げ、丁寧な礼をする。そう、まるで、どこぞの令嬢やお姫様のように。完璧で文句のつけようがない、礼を。
「――再びこうしてお目にかかることができ、心より嬉しく思います。オフィーリア嬢」
「ええ、こちらこそ。また会えて心から嬉しいわ」
声が冷たい。でも、これは私が悪いから。背筋をしゃんと伸ばして、でも、胸を張り過ぎずに。視線は穏やかに、でも、確かな意志を瞳に宿して。
……かつて、アナスタシアが、オフィーリア嬢に叩き込まれた礼儀作法を心掛ける。それが、私が彼女に示すことができるたった一つの誠意。
「アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ。黄泉の国より舞い戻って参りました」
そして。
彼女の『友達』だった私にできる、唯一だ。
「…………そう」
その一言に、どれだけの想いが籠もっていたのか。私には分からない。遺された側の気持ちは、分からない。だけれども。
オフィーリア嬢は、確かに、笑っていた。
「そう、そうなのね。貴女は、本当に、あの子なのね。アナスタシア、なのね?」
「ずっと黙っていてごめんなさい」
「……駄目よ。許さないわ」
言葉の内容とは裏腹に、ひどく穏やかな声が耳に届く。いつだって、晴れ渡る空のようだった彼女の瞳は、複雑な感情を宿してもなお真っ直ぐに私を射抜いている。
ああ、強いな。
そう考えては、息が苦しくなった。私にはレオンの隣にいていい理由なんてもう無いのに、彼女は理由も権利も持っている。悔しい、のだろうか。悲しい、のだろうか。……これは、嫉妬が何かなのだろうか。
自分の感情さえもう分からないけれど、彼女の強さは、私には眩しすぎる。
「嘘吐き」
「……はい」
「待ってたのよ。ずっと、ずっと。貴女、帰ってくるって言ってたじゃない。約束するって言ったわよね」
「はい」
「約束を破っておいて、今更何? どうして今になって現れたの? どうして、何も教えてくれなかったの? どうして」
当然の、疑問だ。だけれども。私には、本当のことが言えなかった。臆病だったから。弱かったから。……人間と龍族の違いが、大きすぎたから。
「どうして、死んだのよ……!?」
泣き出してしまわぬように、私は微笑んだ。そうでもしないと、情けない弱音が口をついて出てしまいそうだった。だって、オフィーリア嬢の言葉はいつも真っ直ぐで、鋭くて、痛い。
……痛い。
「約束を、破ってしまって、ごめんなさい」
「ええそうよ。わたくし、怒っているの」
「今になって、ここに来て。しかも、本当のことを黙っていてごめんなさい」
「……ええ、そうね。でも、わたくし、謝罪が欲しいわけではないの」
空は、遠い。あの青は世界を覆うのに、手を伸ばしてもちっとも届かないのだ。彼女の瞳だって、同じだ。目の前にあるのに。すぐ側にいるのに。いつだって、私の手なんて届かないくらいの高みにいる。
「ねえ、アナスタシア」
強くて気高くて綺麗で優雅な。……アナスタシアの、友達。
「どうして、貴女は死んでしまったの?」
あなたにはきっと、人間の弱さなんて理解できない。いつも迷ってばかりで、真っ直ぐ前を向いているように見えても心の中で後悔ばかりしていて、もう過ぎ去った美しいものばかりを抱き締めるような。弱くて情けなくて惨めな私のことなんて分かるはずがない。
……解ってたまるか。
「人間だからです」
「知っているわ」
「弱かったから、です」
「解っているわ」
「……黒髪黒目、だったからですよ」
アナスタシアは結局、アナスタシア自身の人生を歩くことなんてできなかったのだ。龍族の村から出た瞬間、責任とか立場とか英雄という十字とかが背に降り掛かってきた。
帰りたかった。約束を守りたかった。帰りたかった。英雄なんかになりたくなかった。
そんな、後悔ばかりしている。何回死んでも変わらない。ずっとずっと、アナスタシアのことばかり思い出す。
そんな私の、伏せた視線を前に向き直させるように。オフィーリア嬢は、私の頬をむんずと掴んだ。頬にできた小さな傷に彼女の手が当たって、軽く痛んだ。血が、オフィーリア嬢の白い手を赤く汚す。
「そんなことを、聞いているわけではないわ」
なのに、彼女はただ私を見ていた。
「ねえ、アナスタシアは、どうして死んだのよ。……どうして」
「ですから、それは」
尚も言い訳を重ねようとする私を、裁くように。
「どうして、貴女は、アナスタシアを殺そうとするのよ!」
――オフィーリア嬢は、『私』だけを見ていた。
強く。気高く。綺麗に。真っ直ぐに。
ただ、断罪するような強さで。
「貴女が人間だとかそういうのはこの際どうだっていいわ。今わたくしが聞きたいのは、たった一つよ」
彼女の言葉は、私の心臓に鋭い刃を突き立てる。私の弱さを、彼女は許してくれない。昔からそうだった。彼女に『勝ってしまった』あの瞬間から、……オフィーリア嬢はきっと、私に何か幻想でも見ているのだ。
「どうして、貴女が、……貴女自身が、アナスタシアの存在を消したがるの?」
……そして、ようやく。
どうして、オフィーリア嬢が私のことを知ったのかに気が付いた。
「もしかしてなんですけれど。昨日、私の墓にいました?」
「一応言っておくけれど、謝らないわよ」
強気に細められた視線の意は、肯定だ。これで分かった。昨日の私は本当にひどく動揺していたのだろう。あんな、誰に聞かれるとも分からない場所であんな会話をするなんて。そして、オフィーリア嬢に聞かれてしまうなん、て――。
「――聞いたのは、オフィーリア嬢だけですか!?」
そこまで思考して、自分の行動の危うさに気が付く。オフィーリア嬢はまあ、いい。よくないけれどいい。それよりも、……もしもあの会話をレオンに聞かれていたとしたら。
(ああ、私の馬鹿。阿呆。間抜け。だからヴィルさんにいつも怒られるんですよ……!)
それは、非常にまずい。というか、まずいどころじゃない。何もかもがぶち壊しになってしまう。
顔色を悪くする私に向け、オフィーリア嬢は心底呆れた目を向けた。
「……わたくしだけよ。というか、貴女、全く気がついていなかったのね」
「平和ボケと罵ってください」
「平和ボケにも程があるのではないかしら」
怒っていても私の要望をそのまま聞いてくれる、そんなオフィーリア嬢が好きです。
「で、わたくしの質問には答えてくださらないの?」
「あ、えっと――痛い痛い痛い! 傷口に爪を立てないでくださ……っいたぁ!」
「大体、貴女の澄まし顔は気に食わないのよ。もっと楽しそうに笑いなさい。もっと脳天気な顔をしていなさい」
「今は痛みで引きつってるんですけど!?」
「あらごめんあそばせ」
突然怒りが爆発するなぁ。涙目で目の前の顔を睨み付けながら、嘆息する。
……どうして。
どうして、私は、アナスタシアを殺したいのかって。
「私は、龍族の皆が大好きです」
ずっと、あの村に帰りたかった。私のせいで、もうどこにもない。あの村に。
「だから、アナスタシアがかけた呪いが。――私が彼等に願った全てが、龍族の皆を人間の国に縛り付けているのなら、解放しなければならない」
ずっと、誰もが幸せになれる未来を望んでいた。幼い夢物語で、愚かなだけの理想で、あり得ない未来を、馬鹿みたいに必死になりながら叶えようとしていた。
「好きなんですよ。愛しているんです。身内になれたから、……こんな私の、家族だって言ってくれたから」
この国は、きっと、いつか滅んでしまう。
龍族との契約も。私が作り上げた体制も。二百年の時を経て、古いものになってしまった。だから、私が彼等を解放しても、そうしなくても。近いうちに、全ては破綻してしまうのだろう。
「だから、もう、いいんです」
それに。あなた達の永遠を、私の有限の命で縛り付けるなんて、もう嫌だ。
「私のことなんて忘れて、幸せになって、ほしいんです」
それが例え、誰も望んでいないことだとしても。
死者の願いを叶え続けるなんて、墓場の下にある理想を叶え続けるなんて、間違っているから。……私が、その間違いを始めたのだから。
「ねえ、オフィーリア嬢」
終わらせるのも、私でなければならない。
あなたのことが、大好きだった。
あなた達のことを、愛していた。
でも、もう過去形ですね。その感情は、アナスタシアにだけ許されたものだから。もう亡霊でしかない私には、あなた達が、この国を捨ててもいいのだという事実しか伝えられない。
だって、死んだの。
英雄王は、死んだの。
「――人間は、弱いんですよ」
もしもの未来を、夢想する。
私がアナスタシアだと皆に伝えて、受け入れられて、また楽しく愉快に穏やかに過ごす、未来を。
そこで、私はレオンに好きだと伝えて。万が一でも同じ想いを返してもらえて。二人で仲良く、末永く暮らしても。
――私は結局、置いて逝く。
また、あなたを泣かせるのが怖いなんて。臆病だな、と。私は自嘲するように微笑んだ。オフィーリア嬢は、顔をひどく歪めて……なんだか、一人ぼっちで取り残された子供のような表情をする。
彼女の方がずっと歳上なのに、変なの。そう考えて、今度は、声を上げて笑った。
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