嘘にしたくなかった


(味方だという言葉は信じられるのに、どうしてこんなにも遠いのでしょう)


 濡れた身体を引き摺って、部屋まで戻る。なんだか頭が痛かった。もう、何も考えたくない。今は何も考えられない。

 ヴィルさんを、どうして問い質してしまったのだろう。私はヴィルさんのことは後にしようと思っていたのに。もっと、向き合うのに適した時期があると思っていたのに。

 でも。

 私のせいで彼が人を殺したという事実が。重すぎて苦しすぎて一人では抱え切れなかった。まあ、それを本人に向けてしまう辺り、私は頭が悪いのだ。

 救えないくらいに、愚かな女。


『俺は、アナが一番可愛いんだ』


 赤い、紅い龍の姿を覚えている。彼と飛んだ空の青さを覚えている。どこまででも行ける気がしていた。帰る場所がどれだけ遠くなっても、平気だと思っていた。

 あの日。

 アナスタシアが、母を殺し塔を追われ死の寸前にいた、あの時。あの森で。


 あなたは私に手を差し伸べた。

 私はあなたの手を取った。


『てめぇみたいな子供が、どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだよ!?』


 やさしいひと。……いいえ、私にだけ優しい龍。

 家族のように愛していると言った。あなたの想いは、それほどまでに重かったのですか。私以外の誰かを殺しても、構わないくらいに。そうやって整えられたこの国の有り様が、私のためのものであるのだと。

 その事実が、どうしようもなく、苦しい。


 眠る支度を整えて、まだ暗くなりきらないうちから寝台に潜り込む。瞼の向こうの薄暗闇は、帳を下ろしたように優しい色だった。




 ――夢を、見る。

 もう二度と帰らない日々の、夢を。 


「ねえ、レオン。あなたってもしかして暇なんですか?」

「失礼にも程がある」


 前王がいなくなり、私が王になってからは、苦難の連続だったことを覚えている。ほとんどの人々は暴虐王がいなくなったことを単純に喜んでいたのだが、極僅かな、利を貪ることが許されていた者達。……周辺の貴族や官僚については頭を抱えるばかりだった。

 何を隠そうあの男、国を悪くするような人間にばかり良い地位を与えていたのだ。官僚とか特にそう。欲深くて人のことを考えなくて頭が悪い人間の屑みたいな奴等ばっかりだった。

 ……理由は解っている。だけどそれにしてもひどい。暴虐王の奴、この国を嫌いすぎだろ。内側からも国を崩壊させようしていたその弛まぬ努力はすごいと思いますよ。ええ。

 でもそういうのは止めろ。後釜が、……が大変だったから。


 あの日々。ガタガタだった国の足場を固め、無能どころか害悪でしかない輩の首を職業的な意味で狩り、有能な若手を育て前王に追放された官僚を呼び戻した、過労死半歩手前だった日々。何度か倒れたし、周りからは休むように口を酸っぱくして言われていた日々。

 まだ、龍族を住まわせる手筈は整っていなかったけれど、レオンは毎日のように王宮まで会いに来てくれていた。


「いや、だってですね。村からここまで毎日って……」

「唯一無二の友に会うことよりも優先する用がないだけだ」

「暇なんですねぇ」

「貴様が村にいないと、どうもやる気が起きん」

「この暇龍め……」


 私の忙しさを分けてあげたいくらいだ。書類を処理しながら、頭の容量を割かずにレオンを会話をする。


「貴様、顔色が悪いな。ちゃんと寝ているのか?」

「寝る暇がないんですよ。……今が正念場なんですから、私が休むわけにはいきません」


 だって、信用できる人なんていない。この、跳梁跋扈する王宮では、少しでも隙を見せたら引き摺り下ろされてしまう。私がやらないといけない。誰も信じられない。ああ、せめて、少しでも仕事を任せることができる相手がいれば――。


「手伝えることは、ないのか」


 思わず、手が止まった。顔を上げて、なぜか少しだけ泣きそうな顔をしているレオンの顔を見て。私はちょっとだけ頬を綻ばせた。


「……いくらでもありますよ。でも、きっと、駄目です」


 胸を張ってあなたの隣に立てるようになりたい。そう言ったら、笑われてしまうだろうか。多分、怒られちゃうんだろうな。だったら、そんなことは言えない。


「これは、人間の領分なんですよ」


 レオンの眉間にぐぐっと皺ができる。それを見て、私はまた笑った。


「我は、頼りにならぬか」

「ちょっと困るくらい頼りになりますよ。でも、頼りすぎると……私が駄目になっちゃいますから」


 レオンはとても強いから。多分、私がどれだけ寄りかかっても、気にはしないのだと思う。頼っても、縋っても、応えてくれるに違いない。……気にしているのは、私の方だ。いつだって私だけ。

 あなたの強さを、私の弱さの言い訳にしたくない。それに。


「駄目になってもいい、と言っても。貴様は聞き入れぬか」

「面目次第もございません。私は、こう見えて少々頑固でして」

「知っている」


 あなたが強くても、それがあなたに縋る理由にはならないの。きっと、私が弱音を吐いても許してくれるって、知ってるけど。

 私ね、強くなりたかった。あなたの隣に立っても見劣りしないような強いひとになりたかった。誰よりも強い、龍族の王様。英雄にでもなれば、ちゃんとあなたの隣に立てる気がしていた。


 そうして。この国が、あなたにとって住みやすいところになったら、ずっと一緒にいられるのかな。

 その未来が手に入ったら、私はようやく、あなたに好きだって言えるのかな。……言いたいな。伝えたい。私がどれだけ、あなたに救われてきたのかを。


「もうちょっと。もうちょっとだけ、待ってください。きっと、もうすぐ来るはずなんです。私が必死にならなくてもよくて、民が明日に怯えなくてもよくて、優しい人が当たり前に報われる国になる日が」

「もうすぐ、か」

「はい。レオンからするといつも同じように書類を見てるように感じるかもしれませんけど、着実に前には進んでおりますからね! ……ね!」

「……そうか」

「もうすぐなんですよ。ねえ、レオン。私の役目は、もうすぐ終わるんです」


 希望を語る。未来に夢を見る。龍族と人間が手を取り合うことができる明日が来ますように、と。恐怖や畏怖に支配された価値観をぶっ壊して、当たり前のように共に暮らすことができる未来が来たらいい、と。

 相変わらず頭の足りない私は、無邪気に願っていた。


「そうしたら、そうですね」


 レオンの、骨ばった手を握る。どこまでも人間と同じ姿形なのに、どこまでいっても人間とは交わらない生き物の、手を。強く、離れないように。……握り締めた。

 そして、レオンの、深い深い青い瞳を見つめて。


「全部終わったら。……あなたが昔言っていた、湖に行きましょう。二人で城下町に遊びにも行きたいです。それから、ボードゲームを新しく買ったので、対戦しましょう」

「ああ、分かった。約束だ」

「はい、約束です」


 約束を、する。

 ……約束を、していた。


「それに、龍族の村にも一度帰りたいですね。そうだ! 龍族の村に帰ったら、人間の国に移住する意志のある方々の数を把握しないと。数が分かったら、土地と建物を新しく作って――」

「――また仕事を増やすのか」


 希望に満ちた未来を語る私に向かい、レオンは渋い顔を見せる。まあ、うん。はい。確かに、またやることは増えますけどね?


「こちらは、レオンにも手伝ってもらいますよ」

「………………なら、いい」

「そもそもの話をいたしますが。龍族関連については、レオンがいてくれないと話になりませんからね。そりゃあもうたくさん手伝ってもらいますし頼りにしますし扱き使いますよ」

「おい最後」


 軽口を叩きながら、笑い合う。こんなふうにして、私達は小さな小さな約束を、幾度となく重ねていった。平和になったら。全部終わったら。やりたいことが溢れてやまなかったから。


 

 ――なんて、これは夢だ。もう終わった話。もう過ぎ去ってしまった記憶。


 あの瞬間。私は、あなたと重ねたすべての約束を嘘にした。

 湖にも行けなかったし、龍族の村には帰れなかったし、レオンを扱き使うことはできなかった。

 告白だって、できなかった。


「ねえ、レオン」


 夢を見ている。


「全部終わったら、あなたに伝えたいことがあるんです」


 ……夢を、見ていた。


「――ああ。俺もだよ」


 幸せで、幸せで。いっそ泣きたくなるくらい愛おしい日々を、夢に見ていた。でも。


「アナに、伝えたいことがあるんだ」


 あなたの隣に立つための権利は、もうどこにも存在なんてしないから。

 あなたの隣にいてもいい理由は、もう全部なくしてしまったから。


 だから、もう終わらせよう。

 閉じ込めた優しい記憶ごと、あなたへの想いを葬ろう。墓場の下の棺に入っていた死体みたいに、いつか跡形もなくなってくれたならいい。だから。だから。



 レオンに、本当のことを、話さないといけない。


 今度こそ、アナスタシアを本当に終わらせるために。

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