死んでしまった


 どれほど綺麗な言葉で飾りたてたとしても、この思いはもうどうしようもなく汚れてしまったのでしょう。幸福だった幼い頃には帰れない。無知で無邪気で無垢だった頃には戻れない。

 知っていた。分かっていた。それでも、今更に思い知った。


「――ひどい、話ですよね」


 本当に、ひどい話だ。脳内でまた繰り返す。自分に言い聞かせるように、何度も。……何がひどいのかさえもよく分からないのだけれど。

 ただ、この世界がひどく残酷なものに思えてしまってしかたがない。雨が目に入り、墓標に刻まれた文字が滲んだ。


 あの後。私が死んでから、彼等がどのようにして生きてきたのかを聞いた。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳を思い出す。ニコラスは私が思っていたよりもずっと誠実で、真剣にレオンのことを大切に思っているのだと思い知った。

 彼の語る言葉は私にとって痛くて、でも、救い難いくらいに現実だと。


「死んだくせに生きているなんて、……ひどい話」


 好きだよ、と。その一言だけで救われてくれる未来なんてどこにも存在し得ないのだ。この世界はお伽噺のように甘くない。だって、そうでしょう? この思いは、想いは、言い訳にすらならない。

 好きだった。愛していた。大切だった。だからなんだ。だから、どうした。

 幼いだけのそんな想いが、なんの理由になるというのか。


「まったく、ひどい話」


 暗い空を見上げる。重い色の雲から、雨が降っていた。

 もうずっと。空が泣きじゃくっているかのように、ひどい雨が降り注いでいる。


 そんな音さえ遠くに行ってしまったように感じて。いま雨に濡れている自分自身さえ定かではなくて。なんでこんなところに立っているのかさえ分からない。

 確かなのは、私があの時に死ぬべきだったという、あまりにも当たり前で救い難い事実だけだ。


 それでも。だとしても。

 まだ、この心臓はまだ動いている。


 だから、……もしもの話。私が『私』として今ここにあることに意味があるとしたら。それはきっと、あなたのためなのだろう、と。

 そう思いたかった。優しくて不器用で。臆病で泣き虫で。――誰よりも強い、龍の王様。

 あなたを救うために。私はここに。


(いいえ。救うだなんて、なんて傲慢)


 正しく言うのならば。あなたを解放するために、私は。


「――おい」


 聞き慣れた声が、私を呼んだ。振り返る。雨に濡れて滲む視界の中、炎のような色彩だけが鮮やかに浮かぶ。ぱち、と。誰かの瞳の中で火花が散った。怒りのように嘆きのように。いっそ、泣き出しそうな色で。

 泣きたいのはこっちだよ。泣かないけれど。


「ヴィルさん」


 私は果たして上手く笑えていたのだろうか。よく分からない。でも、口元を歪めて、目を細めたこれは笑顔のはずだ。

 雨の中私に近寄ってくるヴィルさんは、極めて不機嫌な様子だった。やだ……怖い……。私がか弱い乙女だったら悲鳴を上げて逃げ出す形相。


「何、泣いてんだよ」

「泣いてませんよ、失敬な」


 泣く権利なんてないのだから泣くはずがない。内心でそう吐き捨てつつ、頬を膨らませる。


「……そうか」


 答える声が、低い。いつもよりも一段階低い響きに、なんとなく知らない人のような気がしてしまう。知らない、誰かと接しているような違和感。


 いや。

 いいや、きっと。私がヴィルさんに違和感を持ってしまったのは、きっと。


「ねえ、私のせいだったんですか」


 唐突な話題転換についていけなかったようで、ヴィルさんは少し眉をひそめた。あー駄目だ。なんかこう、言葉が足りなかった気がする。

 でも、気持ちが逸る。聞かなければならないことが、向き合わなければならないことが。今この瞬間に、全部溢れ出てきた。


「あなたが手を汚したのは、私のせいなんですか?」


 ニコラスからは、色々な話を聞いた。それは、ほとんどがレオンについてだったけれど。少しだけ、この過保護な家族のことも聞いてしまったのだ。躊躇いながら。戸惑いながら。それでも、伝えておくべきだと思うと言って、彼は教えてくれた。

 それが、彼の誠実さの表れだと、私は理解している。


 この国が二百年も続いてきたのは、龍族の皆の献身も、レオンの頑張りもあったけれど。それだけではなくて。


「……アナ」

「私、私はね。違うんです。ヴィルさんに、そんな……何かを失ってほしかったわけじゃない。あなたの枷になりたかったわけじゃない。あなたに何かを強いるつもりなんてなかった、のに。どうして」


 死んでしまった『私』の願いが呪いになるのなら、今生きている私はどうすればいいのだろう。

 俯く私の耳に、ぎりと歯ぎしりの音が届く。そして、重く息を吐くのが聞こえた。


「違う」


 掠れた、でも明瞭な否定の言葉。ああ。それが本当だと信じきれない自分が申し訳ない。でも。彼の吐く言葉には、優しい隠し事が多すぎたの。


「違うんだ。……それは、アナのせいなんかじゃなくて」


 腕を掴まれた。ヴィルさんの手は、熱い。……いや、私の体温が低いのか。焼け付くような熱さを感じるのに、心の奥底では相反した冷たさを孕むようで。ぐるぐると、熱が渦を巻く。

 心臓が、いたい。


「俺が、殺したのは」


 だって、冷たく俯瞰する誰かが心の奥底で囁くのだ。ヴィルさんが手を汚したのは、お前のせいだと。アナスタシアのせいだと。


「……ただ、俺は」


 彼は手を汚した。彼は人を殺した。彼は。私の大切な家族は。私のせいで。話を聞いてから、ずっと、ぐるぐると胸の中に不快感が渦巻いている。

 彼は一瞬だけ目を強く閉じて、すぐに再び開いた。その、炎の色をした瞳の中に、相反する薄暗い色が灯っているのを確かに見た。


「なあ、アナ」


 雨粒が、ヴィルさんの顔を撫でては地面に落ちていく。まるで、泣いてるみたいだ。そう思った。

 空が、このひとの代わりに、泣いてあげているみたいだ。


「お前が願ったのは、優しい奴が、正しい奴が、……どこにでもいるような善人が、犠牲にならなくていい未来だっただろ」

「……そうですね。ええ、そうでした」

「なら、いらないじゃねぇか。人を殺せる人間も人から奪って平気な人間も善意を食い物にするような奴も。平和に続いてる国に争いを持ち込む奴も。……お前の願いを食い潰すような、奴らなんて」


 ぎり、と。掴んでいる手に力が入った。少しだけ顔をしかめる。ヴィルさんってば相変わらず力加減がちょっぴり下手くそだな。

 なんて、思考を逸らすのは現実逃避か。もういい加減、そんなことをしていていい時期は終わったのに。


「お前の理想には、いらねぇだろ」


 馬鹿なことを言うひとだ。そう考えて、笑った。

 多分、ひどく不格好で、情けない顔になったんだろうな。って、そんな気がする。私の顔を見たヴィルさんは苦しそうに顔を歪めて、まだ何か言いたげに口を開いた。それを遮るために、息を吸う。


「だから、殺したんですか」


 ニコラスに聞いた話。この二百年弱の話。私が死んでから歪んだもの。歪んで、欠けて、停滞した理想に閉じてしまった国の話。


「この国を侵略しようとした隣国の兵士を、命じた王を。この国の在り方を元に戻そうとした貴族を。この国を変えたいと願った無辜の民を。……ヴィルさんは、殺したんですね」


 今ここにある私の理想通りの国の下には、きっと、たくさんの死体が埋まっているのだろう。屍の上に立っている。遺体の上で笑っている。棺の上で踊っている。

 分かりきっていたことだ。それでいて、目を逸らしていたことだ。

 だって、こんなにも時間が経ったくせに何も変わらないなんて有り得ないんだから。そこには必ず歪があるはずだった。無理矢理に変化を押さえつけ続ける、歪。それは、今、確かに私の目の前にある。


「――ああ、そうだよ」


 肯定の声は、ひどく柔らかだった。何の会話をしていたのか分からなくなりそうなくらい、穏やかな声。

 嘘を吐かなかったのが優しさなのか。嘘を吐いてほしかったのか。それすら分からなくて、思考が眩む。


 ただ何となく、本当になんとなくなんだけれど。忘れていてくれればよかったのに、なんてことを考えた。

 アナスタシアの理想なんて、忘れてくれればよかったのに、と。


(……なんて、頼んだのは私でしたね)


 この国をよろしく、と。彼等に懇願したのは、私だった。忘れないで、繋ぎ続けて、ずっとずっと守り抜いてと。優しさに漬け込んで、彼等を縛り付けたのは私だ。


「なあ、イヴ。この国は綺麗だろ」

「……はい」


 誰かさんの理想みたいに、綺麗な国。表面だけを眺めれば、幸せなだけの国。


「……これはお前の願った国、なんだ」


 誰かさんの、理想と夢を詰め込んだ宝箱みたいな国。


「いつも一生懸命で、ひたむきで、前だけを向いていた。俺の、馬鹿で阿呆で頭のおかしい可愛い養い子の、数少ない我儘だったんだよ。叶えてやりてぇじゃねぇか。最後の我儘だったんだよ、叶えねぇと、駄目だろ」

「――っ」


 私の理想。夢。幼い子供の、空っぽな希望。


「だからな。ここにあるのは、お前の理想通りの、お前のためだけの国だ、アナ」


 この、救い難いくらいに私に対してだけ優しい事実を、どう受け止めればよかったのだろう。ヴィルさんの、ぐらぐらと煮立つような熱を奥底に隠した瞳を見つめ、考える。

 この国で、何の罪もない人たちが、ただ平穏で平和で優しい日々を享受してくれるような未来が欲しかった。それが間違っていたとは思いたくない。そこから間違えていたとしたら、私は私の行いすべてを否定しなくてはならなくなる。

 でも。それは。


 それは、やっぱり。


「それはつまり」


 ヴィルさんの手を、振り解く。確かな意思を持って。明確な、決別の意を持って。


 聞きたいことがあった。

 聞いたら、もう戻れないと分かっていた。過去を過去にするには、戻れない方が都合がいいから。


 真実が欲しかった。

 未来に行くための、手がかりが欲しかった。ずっと昔に捨ててしまった明日を、今日にするために。


 私は、『彼等の中に生きている』アナスタシアを殺したかった。


 私は、『私では殺せなかった』アナを死なせたかった。


「私のせい、って。ことでしょう?」


 心臓の裏側で、帰る場所をなくした子供が泣いている。

 父親だと慕っていた相手が、知らない誰かに変わってしまったような寄る辺なさに。幼い誰かが泣いている。


 その声が聞こえない振りをするように、強く強く拳を握りしめた。それでも顔には笑みを浮かべ、ただいつもの調子を心がける。


「私にとってだけ都合が良くて、私にとってだけ優しくて、私が望まなかった醜さは淘汰される、そんな……狂った国を作るために」


 好きですよ、レオン。


 そう、当たり前みたいな顔をして言える未来がどこかにあったら良かったのに。なんの罪もなく。なんのわだかまりもなく。何一つとして犠牲も重荷も存在しない、ただのふたりとして。

 幸福に過ごすことのできる未来が。


「ヴィルさんも、ヒューも、レオンも、皆皆皆」


 そんなもの、どこにもないよ。

 ない。ない。ない。有り得ない。もう、願えない。


 だって、優しい未来を願うには、かけた呪いが重すぎた。


「――わたしの、せいで」


 視界がぐらつく。思考が歪む。吐き気がする。思わず口元に手を当てると、妙に慣れた鉄錆の臭いがした。血だ。手を強く握りすぎて、流血したのだろう。


「なぁ、アナ」


 その、名前を呼ぶ声の響きに、私はもう何も言えなくなった。世界で一番綺麗なものを賛美するような声だったから。彼らしくない、声だったから。


「俺は、お前が一等大事だよ」


 そんな言葉、聞きたくない。駄々をこねる子供みたいに、首を横に振る。ヴィルさんは、やっぱり、しかたないなぁみたいな顔で笑っていた。

 喘ぐように、何度か拙い呼吸をした後。私は震える口を開く。


「アナスタシアはもう死んだのに?」

「馬鹿だな、てめぇは。……生きてるじゃねぇか」

「……死にましたよ」


 ああ、そうか。そうだったのか。ようやく理解した。ようやく気が付いた。


 ヴィルさんは、今になってもまだ、アナスタシアの死を受け入れてなどいないのだ。口先ではイヴと呼びながらも、彼はアナしか見ていない。だから、アナスタシアの理想通りの国を続けていくことに腐心している。

 邪魔なものを消して、必要ないものを排除して、何度も何度も手を汚して。


 ――雑草を刈って花壇を整えるように、私の理想を。


「今ここにいるのは、てめぇだろ。アナ」

「私はイヴリンですよ」


 殺さなきゃ。そう思った。


「アナスタシアは死にました。死んだんです。死者は蘇らない」

「アナだった頃を覚えてるんだろ? 何も記憶を失ってないんだろ? なら、お前はやっぱり、アナだ」

「私の名前は、もう、イヴリンなんです」


 終わらせなきゃ。


「英雄王アナスタシアは、もうどこにもいない。いるのは、亡霊の私だけです」


 でも、どうしたらいいんだろう。どうしたら、彼に伝わるんだろう。アナスタシアだったことを受け入れてくれて嬉しかったのに、私はもうアナスタシアじゃないんだって、どうしたら伝わるの。

 ああ、畜生。

 私にはもう。アナスタシアがかけた呪いの解き方が、分からない。


「てめぇは、やっぱり、阿呆だな」


 過去は、今もなお、ここにある。


「――ヴィルさんは、あんな理想なんて叶えようとしなくてもよかった。この国が腐敗しようがどうなろうが、気にしなくてもよかった。私が言ったら駄目かもしれませんが、……こんなことになるくらいなら、私はあなたに何も望まなければよかったのかもしれませんね」

「そんなわけねぇだろ。俺はアナの願いを叶えてやらねぇと」


 解り合えない。その事実に愕然とした。

 ヴィルさんは、私の味方で。私の家族で。だけど、だけど。


「でも、アナスタシアは死んだんです!」


 この龍は、こんなにも昏い炎を瞳に宿していただろうか。この龍は、こんなにも澱んだ熱を持った声をしていただろうか。記憶の中にいるあなたと、今ここにいる彼が重ならない。像が、ぶれる。

 アナスタシアが死んで、何かが決定的に壊れてしまったのだと。私に突き付けるように。


「しん、だんですよ」


 二百年、よりもちょっと少ないくらい。その時間は、彼の傷を癒やしてはくれなかった。癒やされなかった、治らなかった傷は、膿んで爛れて元の形には戻らない。


「そうだな。だけどよ」


 心に、可逆性は存在しない。

 ああ、私のためにいくらでも血を浴びることができる、炎の龍。


「俺は、アナが死んだ瞬間を見てねぇんだよ」


 私はきっと、あなたの想いを見くびっていた。


「実感なんて湧くはずあるか。……死んだ? アイツが? あの、いつも無駄に一生懸命で馬鹿みたいに必死で誰よりもひたむきに生きていた、アイツが? んなわけねぇだろ。死ぬはずがない。あの輝きが、そんなに簡単に失われていいもののはずがない。いつだって、アイツは誰よりも鮮烈に生きていたんだから、死ぬはずがない」


 歪んだ、しかし確かな熱を湛えた瞳を虚ろに向けたまま、ヴィルさんは私の頬に手を伸ばした。熱い。苦しい。振り払えない。


「――何よりも、だ。あんな肉片が、俺の可愛いアナなわけ、ねぇだろ」


 やっぱり、ヴィルさんは嘘吐きだ。イヴリンとして再開してから、ずっとずっと。丁寧に確実に、こんな歪みを隠していたなんて。

 なんだか、いっそ笑えてきた。自分の鈍感さと、愚かさに。何が家族だ。馬鹿みたい。この優しいひとが、こんなになるまで気が付かないなんて。


「悪質な嘘だと、思いたかったんだよ。アナは生きている。死んでるはずがない。だったら、俺はアナの願いを違えちゃなんねぇだろ。どこかにいるアイツが、悲しくないように。辛くないように。寂しくないように。一人ぼっちで、泣いてしまわないように。どこかにいるアイツを見つけられるように、騎士なんていう窮屈な立場は捨てて」


 この世界の何もかもに絶望していた、黒髪黒目の子供を覚えている。

 可愛げのない子供を拾い上げて育ててくれた、真っ赤な龍を覚えている。

 あの、深い深い闇の中で。いつ死んでも構わないほどに何も持っていない私のことを救ってくれた、鮮烈な赤。暴力的なまでの優しさで、目の前を拓けさせてくれた、私の家族。

 始まりはきっとあなただった。あの愛おしい村での暮らしは、貴方がくれたものだった。


「……だって、認められるわけねぇんだよ。認められるわけが、ねぇ。だって、なぁ?」


 ああ、龍が、泣いている。


「アナは、もっと、幸せになるべきだっただろ……!」


 あなたが、泣いている。


 ざあざあと。雨が降り注ぐ墓の前で。私はもう何も言えなかった。何かを言う権利さえ、失っていた。

 頬に触れた手が離れていく。激情を通り過ぎて、ただがらんどうになってしまったように、彼から感情が抜け落ちていく。


「――この日々が続く限り。この国がアナの理想である限り。俺達は、あのか弱い同胞を忘れないで済む」


 ああ、陸地で溺れてしまったかのよう。息が上手くできない私に、ヴィルさんは空っぽな優しい声で囁いた。


「俺は、お前の味方だよ。アナ」


 死んでしまった英雄が、まるでまだここにいるみたいに。

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