押し殺した
「び、っ……くりした」
心臓の付近を押さえながら、ニコラスは顔を青くさせている。ごめん、勢いでつい。ところで、それって女の子の部屋に引きずり込まれた反応じゃないね? 猛獣の檻に入った反応だね? 別にいいんだけどさ。
「申し訳ございません、ゆっくりとお話をしたくなったので、つい」
「つい、で部屋に引きずり込まないでよ……。あと腕力凄すぎない? 君って本当に人間の女の子?」
くっそ失礼だなこいつ。……まあ、言いたいことは分かるけれど。
「身体強化の魔術ですよ。魔力の密度を一時的に高め……まあいいや。とにかく、一瞬の爆発力だけならば龍をも上回ると自負しております」
「こっわ……。実際に負けたし、本当に怖……」
伊達や酔狂で化け物だなんて大仰に呼ばれてる訳ではない。魔力の量が多いだけじゃなくて、その使い方もそれなりに……こう。まあ、熟練しているというか。魔術を使いこなすか死ぬかみたいな感じだったのでね。そりゃそれなりの使い手にはなるわ。強くならなければ死んでたし。
「それで、先程のお話ですが。……前提として、私としては、レオンハルトの幸せを最優先にしたいと考えております。故に当然、私にできることなら何でもしますよ」
そう言い切ると、ニコラスは明らかに表情を強張らせた。おい、何だその反応は。
「え、っと……。それなら、僕を部屋に引きずり込んだ意味はない、よね?」
「はい、その通り。その上で、私は、あなたにお願いしたいことがあるんですよ」
「……お手柔らかにお願い」
何故か後ずさる彼を見つめながら、にっこりと笑みを貼り付ける。
「――アナスタシアが死んでからのことを、教えていただきたいのです」
この世界に救いはない。救われない。救いをもたらす神などいない。いなかった。いてたまるか。そんなもの、世界が認めても私だけは認めない。
だったら、せめて。
「私は、向き合わなければならないから」
正しいとか間違ってるとか、もうどうでもいいよ。だって、生まれてきたことこそが間違いなんだから、これ以上どうやったって正せやしない。正すことはできない。
こんなにも罪で汚れた両手では何も救えない気がするけどね。それでも、私はレオンのことが好きだから。
あの強いひとの背中を、ずっと、追いかけて生きていたの。
あの優しいひとの手に引かれて、歩いていたかったの。
もう叶わない夢なら、せめて、その亡骸だけ優しく弔って。
「あなたが見てきたこの国を、彼等を、……レオンのことを、教えてください」
「僕に聞く必要はないんじゃないかな? 他の誰かとか」
ある種当然の問いかけかもしれないが、首を横に振る。私がここに来てからちゃんと話した人数分かってる? ヴィルさんとレオンとオフィーリア嬢とヒューとニコラス。うわ五人しかいない。しかも今ちゃんと話せるのはヴィルさんとヒューとこいつだけ。……うん、他は無理。
「いえ、あなた以外に聞くのは難しいです」
「でも、ほら。あの死にが――いや、ヴィルフリートさんなんか、仲いいんじゃ」
ん? ヴィルさんの名前の前に、何か言いかけたか? 少し疑問は残るが、後で問い詰めることにして今は放っておこう。なんか面倒くさい話の気がするし。ヴィルさんのことについては後日じっくりと考える予定だから。今はヴィルさんの不穏については一つ残らず放り投げる。
「ヴィルフリート様は、私にとって不都合な情報はくれませんよ」
「え、そうなの?」
「はい。……私のこと、無力な子供だと思ってるんですから」
だから、私のために私に隠し事をするという選択肢を選ぶのだ。全く困ったひとだ。ヴィルさんはそういうところだよ。そういう、ところ、だよ。
「絶対に、私が傷つくような言葉は、くれない」
ちょっとでも傷をつけたら、そのまま擦り切れて私がなくなるとでも思っているのかもしれない。そう考えると何だか笑えてきた。イヴリンとして会ってから余計に心配性なんだよなぁ、あのひと。
……いや、昔から、かもしれないけど。昔とは質が違う気がする。昔はもっと放任してたような。今放任してないかって聞かれると微妙だけど。なんなんだろう。違和感が、ずっと。
「……ああうん、そっか。関わり合いになりたくないからそこは聞かなかったことにしていい?」
「いやぁ、素直ですね! 全然構いませんよ!」
こいつ、もう私に対して気を使う気がさらっさらないんだなぁ。一周回って感心しつつ、笑顔で頷いた。詳しい話をする義理もないしそれはそれで。
「あと、話すのはいいんだけど。……一つだけ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「昨日の夜、の。あの場所でさ」
そこまで聞いて、表情が抜け落ちたのが自分でも分かった。……見られていたのか。いや、私がアナスタシアだと知っていたこと、私とヴィルさんの仲の良さを知っていたこと。冷静に考えると、そうか。
……監視でもされていたんだろうな。おそらくは、ここに来てからずっと。私は龍族の気配を読むことがほとんどできないから、近くにいられたとしても分からないし。
まあいいや。監視されていたことについて思うところはない。この男はレオンハルトのことを優先している。彼の幸せのため、というのは私との利害は一致している。ならば、警戒を引き上げる必要もないだろう。
……もしも。この男が、私にとって不都合な情報をレオンにもたらすとしても。それはレオンのためだ。なら、私は。
――まあ、構わないか。そこまで思考してから、笑顔を作り直す。ニコラスはなにか奇妙なものを見るような目で私を見ていた。心なしか距離も開いている。
「墓のことですか? 英雄王のお手製ですよ、 ちょっと歪なのはご愛嬌ってことで」
「いや、そうじゃなくて。……君の心について聞きたい」
「心?」
私の情緒不安定っぷりが聞きたいのか。悪趣味な男だ。笑顔の下で軽く眉をひそめ、続きを待つ。
「気持ちが分かる、ってどういうこと?」
そっちか。そして、聞かれちゃってたかぁ。軽く苦笑し、手をひらりと振る。
あの墓の前で語った言葉に、多くの意味はない。だって、あの場所はもう死んだのだ。だから、……全部、ただの、戯言だ。それでも聞きたいというのなら、やぶさかでもないが。
「……長い話になるので、要だけ言いますが」
今なら。あなたの気持ちも少しは分かります。ねえ、アルフレッド。なんて。
……やっぱり、女の子は男親に似るんでしょうね。
記憶を巡らせる。長らく忘れていたはずの昔の記憶は、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に映し出された。
『生まれてきたことこそが過ちだなどと、一体誰が言えるのでしょうか』
薄暗い部屋。重い足枷。散らばった本。遠い窓から見える月。閉じたその世界の中、私に話しかけてくる人など、アルフレッドかエーファだけだった。世話をしているはずの使用人はいつも怯えたように視線を逸らし、口を閉ざしたままで。
……陰口だけは鮮明に聞こえてきたけれど。扉の向こう、幼い子供には理解できないだろうと高をくくった、悪意の塊は。いつもいつも、耳を塞いでも、届いてきた。
魔術について教わって、アルフレッドの言葉を聞いて。……あの頃、私はきっと、『暴虐王』と呼ばれた彼の素顔の最も近くにいた。頭を撫でる死人のような手も。淀んで濁って殺意や憎悪に似た冷たい色に染まった黒い瞳も。エーファと同じ銀色の髪も。……近くにあった。近かった。親子のように、なんて言葉は似合わないかな。
だって。あの男がこの世界を憎んでいたのだと、私は知っている。
「彼の目は、黒かったんです」
それだけだ。それだけで、世界はあまりにも残酷な姿を見せてきたのだろう。想像には難くない。目の色だけが異質。それ以外は何も普通の人とは変わらないのに、化け物のように扱ったのだ。私みたいに、途方もない魔力なんてなかったのに。
語る声に淀みはなく。言い聞かせる声は穏やかで。だけど、その闇を煮詰めたような瞳の色だけははっきりと覚えている。
『いいですか、アナスタシア。あなたは選ばれた存在なんですよ』
私達だけが正しくて、世界が間違っている。彼はそう言った。彼だけはそう言った。
私の存在を過ちだと断ずる世界の中、最初に私を認めたのは彼だったと、私は知っている。そうだ。不都合なことに、知っていた。彼は私に対してだけはきっと、優しかったのだ。頭を撫で、褒め、知識を与える。あの塔の中での暮らしは歪で、淀んでいて、沢山の罪の上にあって。死体が重なってできたようなもので。
でも、私はそれに生かされていた。彼は彼なりに私を大切にしていたのだと、本当は、分かっている。
「世界は、見る人によって形を変える。ならば、彼にとっての世界はきっと、地獄だったのでしょうね」
――エーファのことが嫌いですか。
――いいえ、愛していましたよ。
たった一度だけの、そんな問答を思い出した。思い出しても、意味なんて感じないが。墓の下にいる『二人』だって、きっと、その魂だけは救われてくれる。と、そう信じられる気がした。まあ、多分気のせいだろう。人間は、死んだらそこで終わりだ。
「だから、分かるんです」
こんな世界、滅べばいいと。彼は言った。だから、暴虐王の行動はすべてこの世界への復讐だ。自分を虐げた世界への? 違う。自分を産んだ世界への、復讐。そうなのだと理解した。あのとき、私が王宮に戻ったとき、迎え入れた彼の顔を見て。
「分かっちゃったんです」
こんな国、滅べばいい。今の私はそんな思考をしてしまっている。
「この世界は、あまりにも醜いのだと言っていた、あの言葉の意味を」
この世界を形作る多くの人間は、強さを認められるほど強くはない。英雄王、アナスタシア。私が英雄だったから、彼等は黒い髪と目を認めただけで。世界はその姿を変えなどしない。私は化け物だ。龍族の皆がそれを否定しても。私がそれを嘆いても。変わらない。
……私だって、もしかしたら、ヴィルさんに拾われなければ。この世界を。
(――権力も、身に余る力も、人を狂わせますからね)
だから、初めから強大な力を持つ彼等に、私は望んだのだ。この国を守ってほしいと。この国を、人の傲慢から、狂気から、暴力から。守ってくれ、と。約束した。
その約束が、今日この日に至ってもまだ、彼らを縛り付けている。だったら、この国を壊してしまえば、守る約束だってなくなるんじゃないかって。縛り付ける何もかもがなくなるんじゃないかって。……ひどいことを考えている。
(でも、全部私が始めたことだから、私が終わらせないといけない)
どうせこの手は血に濡れているのだ。これ以上汚れても、何も変わらない。
「……まあ、私はそう思うだけですが」
「君、の」
語り終わった私を、ニコラスは妙な表情で見つめていた。恐れのような、困惑のような。――憐憫のような、目で。
憐れまれるのは、あまり好きではないけれど。
それは仕方ないことかもしれない。私の考えがどうだとしても、私の過去は憐憫に値するものだ。心優しい人が聞いたら涙を浮かべ同情するような、そんな。
「……君自身の望みって、なんなの?」
おや。予想外の質問が飛び出してきて、目を瞠る。
「私、自身の……ですか」
レオンに幸せになってほしい。ヴィルさんにも、ヒューにも、オフィーリア嬢にも。皆、アナスタシアのことなんて忘れて幸せになれたらいい、って思う。それだけだ。もう、それだけ。
口にすると陳腐になりそうなそれを、一言にまとめる。
「龍族を、……昔の家族を、アナスタシアから解放したいですね」
「違う。……君の語る理想は、どれも誰かのためでしかない。レオンハルトのため、龍族のため、とかじゃなくて。――君が、本当に、望んでいるのは何?」
そんなことを言われても。……そんなことを言われても。私が、私自身の、幸せのためになんて。赦されない。許されない。だから、私は。
「……私の、願い、は」
思い浮かんだのは、ずっと昔の、龍族の村で過ごした日々だった。未来のことに不安なんてなくて、穏やかな日々が続いていくと、無条件に信じていた頃。……私が、ダフネという国の窮状を知る前の暮らし。
「君? どうしたの?」
レオンと、また、一緒にいたい。
ヴィルさんと、家族になりたい。
ヒューと魔術の研究をして、オフィーリア嬢と友達になって。……ここで、また。昔、みたいに。
「……あ」
気がついた。
「ああ、そっかぁ」
自分という存在の底の浅さと、願望の浅ましさ。そして、未だに抱え続けているみっともない理想に。
「イヴリン、どうかし――」
「――私の望みは、レオンが幸せになることですよ」
彼の言葉を遮り、浮かんだ何かを殺すように笑う。大丈夫。大丈夫。ほら、まだ、笑えるから。
私は幸せになっちゃ駄目だ。だから、忘れろ。
「それだけです」
だって、私は、レオンがどこかで笑ってくれるなら、それだけで満足なんだから。
その隣に私がいる必要も、意味も、価値もない。
理由が、見つからない。
「だから、私が死んでからのこと、教えてくださいね。私達の望みって、多分、まったく同じなんですから」
もう、これ以上の問答は無用だ。そう判断した私を、やはり憐れむような目で見つめ、ニコラスは悲しそうに笑った。それを見て、私も笑みを深める。
窓の外からは、雨が降る音が聞こえ始めていた。
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