泣けなかった


 いつの間にか浮かんでいた涙を指で拭い、一度強く目を閉じる。

 まったくもう、私ってば、いつまで沈んでいるんだか。……思考を切り替えろ。どうせなら建設的なことに。……え? 建設的なことって何? 魔力の放出方法とかかな。例えば。我ながら思考回路がおかしくないか。


「……時魔術で、放出するとか」


 まあ、無理だな。あれは魔道具には向かない。

 時魔術ってさ、魔力の使用量もさることながら、術式の複雑さが治癒魔術とどっこいどっこいなんだよね。だから魔道具に組み込むためにはこれも壁ほどの大きさが必要になる。そもそも時間を操って何になるんだ。私自身の時を巻き戻す……? 本当に意味ないな馬鹿か。

 どうせ放出するなら、何か役に立つような術式がいい。いや、そういう無駄なこだわりができるような段階にさえなってないんだけど。例えば、ほら。時間を巻き戻してみる、とか。……何のだよ。


「……そもそも、生き物の時を巻き戻すのは、殺すのと同義か」


 あの芋虫だって、あの後すぐに破裂して死んだし。翌日には死んでた。まあ、そういうことだろう。私自身の時間を巻き戻して、魔力の量をどうにかするのは無理。今までの発想の中で一番非現実的だ。あれ? そういう発想じゃなかったっけ。違うか。思考回路がもうめちゃくちゃだから何考えてるのかよく分からない。

 嘆息し、ベッドから降りる。頭痛で少しだけふらついた。同時に目眩がして、すぐにソファーに腰を下ろす。やだ、貧弱……。


「……いや。脆弱なのは、心の方か」


 額に手を当て、嘆息する。その手は未だ僅かに震えていた。多分、足も少し震えている。……嫌な夢を見ただけだ、と。割り切ることができれば良いものを。


「エーファ……おかあさま」


 口にしてみても、その響きの違和感に眉をひそめることしかできなかった。父、母。家族。この十回も繰り返した人生において、そう呼ぶ相手は一度もいなかったから。……いいんだけどね。今はシスターがいるし。

 シスター、か。シスターかぁ。


「……シスター、元気かなぁ」


 そういえば。手紙をまだ書いていなかったことを思い出す。……っていうか、私が手紙を書くということに不慣れだというのが露呈したというか。ほら、家族に対して手紙書いたことなんてないから。

 心配されることも、……中々なかったし。どういう対応が正解なのかいまいち掴めない。私はもう駄目だ。


 ――シスターは元気ですか。私は元気です。こちらのことは心配いりません。龍族の皆様はとても良くしてくださっています。落ち着いたら、またお手紙出しますね。


「流石にこれだけは駄目ですよねぇ」


 一周回って心配をかけてしまいそうだ。脅されて書いたと言われた方がしっくりくるような文面を眺め、机の引き出しにしまいこんだ。書くことがない、訳ではない。でも、どこまでどう書けばいいのか、が分からないのだ。


「人と関わってこなかったつけがここでくるとは」


 自分の対人能力の低さに絶望していると、とん、と扉を軽く叩く音が聞こえてきた。視線を上げる。


「ねぇ、……起きてる?」


 躊躇うような、あるいは、心配しているような声。昨日よりも、どこか沈んだ調子だ。なにかあったのかな? 私が原因かな。

 っていうか、こいつ私の部屋がどこか知ってたんだな……。私がアナスタシアだってことも知っていたし、さては監視でもしていたのか。まあいいや、とちょっとだけ首を捻りながら応える。


「いかがなさいましたか? ……ニコラス様」


 扉の向こうから、躊躇うような静寂が漂ってきた。しばらく待っていると、やがて、覚悟を決めでもしたかのように大きく息を吐く音がして。


「昨日のことを、謝りたくてね」


 そんな、想定外の言葉を運んできた。ちょっと目を瞠る。


「謝る? 一体なぜ」


 この男はなにか悪いことをしていたっけ。レオンのために警戒するのなんて当然だし、デート(?)は割と楽しかったし、謝られることなんて何もないはずだ。若干焦りつつ、言葉を重ねていく。


「むしろ、私の方こそ謝罪をしなければ。いきなり蹲ったり倒れたりなど、……許されない醜態でした」

「いや、それは醜態とかじゃなくて、僕の配慮が足りてなか――」

「私の自己認識が足りていなかったのです」


 自分を責める言葉を聞きたくなくて、遮った。勢い任せに口に出したのそれは、間違いなく本音だ。


 自己認識の欠如。あるいは、慢心か。それでも、内心ではまだ疑問が渦巻いている。あのとき、あんなにも取り乱した理由が自分でもまだわからないのだ。

 だって、外に出て歩くことができないなんて、おかしい。そんなの、大したことないだろう。視線に怯えるなんて馬鹿げている。そもそも、私みたいな化け物が外に出て恐怖するのはいつだって無辜の民だ。

 罪なき人々を苛むのは、いつだって、力のあるものだ。だけど、化け物を迫害するのは大多数の無力な民。何だこの負の連鎖……。もしかして、神様って意外と性格悪いんじゃないか。


「……レオンハルトが、さ」


 思考しているうちにいきなり切り替わった話題についていけず、口を閉ざした。急に何だこいつ。……結構自由な性格してるんだな。


「あんな顔をしたのなんて、初めて見たんだ」

「あんな顔?」


 確かに、あんなふうに怒るのは珍しかったけれど。……いや、そこじゃないか。私が恐怖でおかしくなっていた時のことだろう。そして、私はその時の彼の顔を知らない。


「……世界に、彼と君しかいないみたいな顔だよ」


 笑っているかのような吐息を滲ませ、彼は呟いた。……へぇ。目を細め、立ち上がる。もう、頭痛はなくなっていた。思考は明瞭。感情は冷静。平気だ。

 しかし。世界に、私と、レオンしかいないような顔。かぁ。


「よく分かりませんね」

「ああ、うん。見てなかったらそうかもね」

「あなたは、私にそれを伝えて、どうしたいのですか」


 思いの外責めるような声色になって、ちょっと口元を押さえる。……八つ当たりか、みっともないな。


「僕は、レオンハルトに、幸せになってもらいたいんだ」


 少しは不快に思ってくれればいいのに、ニコラスの声はどこまでも穏やかだった。少しだけ腹立たしく思えてくる。レオンのことを大切に思ってくれるものがあって、嬉しいはずなのに。


「そして、それはきっと、君にしかできない」

「――随分と、買い被っていらっしゃるのですね」


 吐き捨てた声は、皮肉げに歪んでいた。私は一体何を怒っているんだ。いや、怒ってなんてないけど。声が怒っていた。

 実際、自分が抱いている感情が理解できない。怒りも悲しみも違うようで、……いや、どちらでもあるのかもしれないな。


「いや、買い被りじゃない。事実だよ」


 ……やだ、この男、本気で言ってる。


「僕が知るレオンハルトという龍は、極めて冷淡で、身勝手で、誰かを大切に思うなんてありえないような存在だった」

「えっ」


 …………えっと、それは誰のことですかね?

 私の知っているレオンは、偉そうで繊細な心を理解できなくて、それでも優しくて強い英雄みたいなひとなんですけど。いや、ひとではないけどね。そういう問題とは違って、その。

 ……え? 誰それ。困惑しかできない。乾いた笑みを漏らし、散々悩んだ後に一言。


「……まっさかぁ」


 まっさかぁ! 馬鹿げていると笑い飛ばしたかったのに、私の声は掠れていた。ここに来てから最初に見たレオンの目を思い出したからかもしれない。


「本当だよ。少なくとも、アナスタシアが死んでからはそうだった」


 否定が早い。

 あー、私のせいかぁ! 私が死んだせいで心を閉ざした系のあれかぁ! やめて。全部私のせいだけど心底やめて。もっと明るく楽しく生きようよ……。


「だけど、あの時。レオンハルトは蹲った君を見て、君だけを見て、泣きそうに顔を歪めたんだ」

「知らないんですか? 彼、割とよく泣きますよ」

「僕は見たことがないけど」


 私の前では、案外とよく泣くひとだった。……いや、私の前でだけは、よく泣くひとだったのかな。彼が泣き虫だって話なんて、ついぞ聞いたことがなかったから。

 私がいなくなってからは、どこで泣いていたのだろうか。そう考えると、少し、胸が苦しくなる。それに。


「……泣きそうだっただけで、泣かなかったんですよね」


 悲しいときに泣けないのは、悲しいことじゃないか。


「そうだよ、あんなに顔を歪めて、血を吐くように君の名前を叫んでも、……涙は流さなかった」


 足を進め、扉の前に立つ。一度だけ深く呼吸をしてから、そっとその表面に触れた。


「きっと、レオンハルトをちゃんと泣かせてあげられるのは、君だけだ」

「……知ってます」


 自分の声だというのに、他人のそれのように白々しい響きだ。なんだか笑えてくる。唇はきっと笑みなんて描いてないんだろうけど。


「レオンハルトは、君がここに来てから笑えるようになった。怒っていたのも、嘆いていたのも、君がいるからだ」

「知っています」


 でも、レオンが私のことを想っているのは、ただの執着じゃないか。アナスタシアという存在に対する執着で。恋でも愛でもないでしょう。こんなに淀んで歪んで擦り切れたものが、そんなに綺麗な名前で呼ばれるはずがない。

 だから、私は。私が。アナスタシアが。彼を。


(ちゃんと、幸せに、なれるように)


 傲慢だ、と脳裏で誰がが囁いた。それでよかった。


「……君がいないと、レオンハルトは、壊れてしまう」


『わたしがいたら、エーファはこわれてしまう』


 つきん、と。軽い痛みが頭に走る。頭を振って、不愉快な記憶を振り払った。


「お願いだよ、アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ」

「その名前で呼ばないでください」

「――僕等の王を、救ってあげてくれ」


 私の言葉なんて聞いてくれない。ひどいな、と思いながら。多分私は笑ったのだろう。

 救ってあげてくれ、なんてさ。……あはは。


「……この世界に救いはない」


 呟いて、おもむろに扉を開ける。ニコラスの驚きに見開かれた瞳を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと目を細め。


「だから」

「――っ!?」


 その手を掴み、部屋の中に引きずり込んだ。


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