馬鹿だった


 夢を見ている。

 浅い、夢を見る。


『出鱈目ですね、本当に』


 魔術とは。己が内にある魔力を術式もしくは呪文を用いて変換し、世界を書き換える術である。

 ……なんて難しく言ったが、結局のところ単純で。自分の身体の中にある魔力を使って、火とか水、あるいは時間とか人の肉体。『この世界』に在るものを創り出したり操ったり、壊したり直したりといった干渉を行うこと。それが魔術だ。


 ええと、学園ではどう教えてたっけな。万物は魔力を帯びていて、風も雨も人も獣も、この世界に普遍的に存在する魔力に影響されて生きている。

 この世界に満ちている魔力と体内に保有している魔力は厳密には違うもので、……ってこんなのどうでもいいか。なんで今更学園での復習をしなきゃいけないんだ。

 顕現しうる事象は保有する魔力の量によって変化する。簡単な魔術……例えば、火や水を生み出すようなものは、大概誰でも使うことができた。逆に、治癒術や時間操作みたいな難しいものは、人一人の力では行使できないのが常識である。それどころか、百人以上の命を犠牲にしても行使できないとすら言われている。


『……まさか、本当に、時を操るだなんて』


 男と幼い子供が、狭く暗い湿った部屋で二人、沢山の本の山の中で向かい合っていた。『今の私』は、その光景を俯瞰している。

 ああ、嫌な夢だ。そう思った。幼い子供は、黒い髪と黒い目で。男は、黒い瞳と銀色の髪の。――ああ、嫌な夢。


 これは、私の記憶。私の過去。

 アナスタシア・エヴェリナ・ダフネの、罪の記憶。


『ああ、素晴らしい。本当に素晴らしいですよ、アナスタシア! 流石はわたしの子供です』


 手の中には、緑色のうねうねとした芋虫が這い回っていた。先程まで蝶々だったものだ。対象物の時間を操る魔術というのは、途方もない魔力が必要らしくって。私一人の持つ魔力だけで行使できたというのは、本当に、すごいこと。

 ……恐ろしいこと、だったのだろう。今の私はそれを知っている。普通の人間掻き集めても百人はいるんでしょ? こわ……。いっそ無邪気に褒め称えるこの男の頭がおかしいと、それだけでもう分かる。


『対象物の時間を巻き戻す……しかも、物ではなくて生き物を、だなんて』


 恍惚。今の私なら、その表情にそう名前をつけるだろう。過去の私は、ただ気持ち悪いとだけ思ったけれど。


『……? これは、すごいこと、です?』

『ええ、ええ! 本当に素晴らしいことです』


 男の称賛には価値を感じなかった。というか、この男は私が何をしても褒め称えてきたから。なんなら生きてるだけで褒めてきたから。呼吸の代わりに褒めてます? って感じに。

 だから、私にとって大切だったのは、そんなことじゃなくて。


『じゃあ、エーファも、ほめてくれますか』


 男の顔から感情が剥がれ落ちた。

 私にとって大切だったのは、きっと、エーファ――私の母親のことだった。銀色の長い髪、琥珀色の澄んだ瞳。きっと万人が美しいと称賛するだろう彼女が、私は大嫌いで憎たらしくて大好きだった。


『……ええ、それがどういったことなのか理解できたなら、きっとね』


 そんな、彼女は、――この男にとって何だったのだろう。私は今でも分からないし、知りたくもないと思っている。




 褒めてほしかった。

 頭を撫でてほしかった。

 ああでも、本当は。そんなの無理だって分かってたから。一つだけ、本当に願ったのは一つだけ。


(名前を呼んでほしかっただけ)


 そんな細やかな願いさえ、この世界は。




『エーファ、エーファ』

『……? あら、あらあら。今日は随分と元気なのね。アル』

『……だから、わたしはアナスタシアですってば』


 名前を訂正するも、彼女はぼんやりとした微笑みを浮かべたままだ。……知っている。これが、いつものことだった。私の母――エーファは、産み落とした自分の娘を見た瞬間に、気を違ってしまったらしい。

 まあ、気持ちは分かる。自分が十月十日大切に育ててきたものがこんな化け物だったら、発狂するわな。あの時よりも幾分か冷静にそう事実を認識し、少しの哀れみと共に彼女を見上げる。


『? あなたはアルでしょう? アルフレッド』


 私の名前も。私の存在も。この世界の全部を正しく認識できなくなった、可哀想な人。いいや、それとも、何もかもを拒絶して生きるのは幸いなのか。現実がそこにないのなら、幸せな夢を見ていられるのなら、それは。


 ……まあいいや。いいよ。もう終わった話なんだから。


『エーファ、……あなた、おなか……おおきくなってきましたね?』


 幼い私は、それ以上聞きたくないと言わんばかりに話を逸らした。それに違和感を覚えることなく、エーファはおっとりと首を傾げる。


『あら、太っちゃったのかしら?』

『……ちがいますよ。あかちゃんがなかにいるんです』


 苦々しい声。子供が話す声とは思えないほど、苦しげな声。やっぱりエーファはそれに気づかず、微笑んだままだ。


『? ふふ、おかしいの。赤ちゃんはね、命の女神様の遣いが連れてきてくれるのよ? お腹の中なんかにいるわけがないでしょう』

『……は、はは。そうでしたね』


 ――見たくない。見ていられない。そう思った。


 ああ、くそ。嫌な夢だ。嫌な過去だ。覚えているから、思い出したから、もう見たくない。目を瞑りたいのに、目を逸らしたいのに、この夢は何も私の思い通りになってくれない。何でだよ。夢だって私の脳が作り出しているんだから、私の思い通りになってくれてもいいじゃないか。

 夢くらい。私の願う通りになってくれても、いいじゃないか。


『エーファ』


 子供とは思えないくらい静かな、膿んだ、暗い声。耳を塞いだ。なのに、音は勝手に耳に入ってくる。


『なぁに?』

『わたしね、わたしみたいな、かなしいおもいなんて、もうだれにもしてほしくないんですよ』


 やめて。やめて。


 大丈夫。きっとうまくいく。なんて、幼い私はそう信じていた。愚かで無知だった『アナスタシア』は、盲目的に信じていた。


『エーファ、エーファ。もしも、わたしがちゃんとできたら、ほめてくださいね』


 だって、知らなかったから。


『……? ええ、いいわよ』


 だって、知らなかった、から。


『わたしが、エーファを、たすけてあげますからね』


 自分が生まれたことでエーファが壊れたことを知っていた。孕んだものが、私と同じような化け物だと知っていた。次に同じことがあったなら、エーファが完全に壊れてしまうだろうと知っていた。

 救いたかった。助けたかった。それだけだったのに、私は覚えたての『魔術』で、エーファの身体の時間を巻き戻した。だって。だって!


 彼女がほとんど魔力を持たないなんて、知らなかったから!


 子供の手が伸びる笑顔が歪む女の膨れた腹が崩れて顔が恐怖に歪んで血が肉が溢れて零れて、……そして。


 命が潰れる、音がした。


 何よりも何よりも。安堵した自分自身が許せない。これでもう、自分と同じ化け物が産み落とされることはなくなったと。エーファが壊れなくてよかったと。そう、安堵した自分が。

 琥珀色の瞳が、淀んで、暗くなって。そして。――そして。


 ひゅ、と、喉が鳴った。息を吸い込んで、目を閉じて、頭を抱えて蹲る。何も見たくない聞きたくない思い出したくなんかなかった!

 この世界に救いは、ない。



「――止めて!!」



 ――そこでようやく、目が覚めた。悲鳴じみた自分の声が脳裏で反響して、頭が痛む。喉も痛い。


 震える手で口元に手を当てた。気持ち悪い。吐きそうだ。昨日の夕ご飯が喉元までせり上がってきたのを、懸命に堪える。今吐いちゃ駄目だ。いや、いつだって結構駄目だけど。ベッドの上は駄目。……お手洗いまでは堪えよう。

 そう思うのに、身体が動かなかった。ベッドの上から動けない。身体がひどく震えて、言うことを聞いてくれない。

 ああ、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 人殺しのくせに。

 自分の親を殺したくせに。

 化け物のくせに。

 どうして、幸せになれるなんて、思ったの。


 その、自惚れが、気持ち悪い。


「……は、ははっ。あはは、ふ、っふふふ、ふはっ」


 何がおかしいのかなんて分からないけれど、勝手に笑いは込み上げてきた。愉快なんかじゃない。楽しくなんかない。だけど、笑わなければ。


「ふふふ。ねぇ、私、願掛けしてたんですよ」


 だって、嘘でも笑ってたら、本当になるはずだから。ね?


「エーファが、私の名前を呼んでくれたら、私もエーファをお母様って呼ぶって」


 子供じみた妄想だ。都合のいいだけの空想だ。それでも、幼い私の願いなんてものは、結局それだけでしかなかった。叶わなかったけどね。叶う前に自分で壊しちゃったけどね。


「――あはは」


 馬鹿みたい。


「は、はは」


 馬鹿、みたい。


「……っは」


 馬鹿だなぁ。


「あーあ」


 幸せになんかなっちゃ駄目だったのにね。

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